
明治2年6月17日、太政官達により公卿諸侯の称を廃して、改めて「華族」と称されることとなり、領地等を離れて東京に住むことが義務づけられた。明治17年7月7日、華族授爵ノ詔勅が下され、従来からの華族と維新以来の国家の功労者(新華族)に公侯伯子男の五爵を授けた。陞爵を除くと、華族制度廃止までに、1016名が叙爵の栄誉を賜った。
華族については、華族令(明治40年皇室令第2号)により規定され、有爵者たる戸主とその家族が華族であり、次男以下が分家すれば平民となる。故高橋是清首相は自身が子爵であったが、衆議院議員に立候補するに当たって、分家して平民となった例もある。なお、30歳以上になると、公侯爵は全員が自動的に貴族院議員となり、伯子男爵は選挙で一部が議員となった。
日本国憲法の公布・施行により、華族制度は王公族、朝鮮貴族の制度とともに廃止され、憲法14条2項は「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」と定めている。
なお、有爵者(公爵・侯爵・伯爵)の一覧は別のページに掲載。
- 公 爵 親王諸王より臣位に列せられた者、旧摂家、徳川宗家、国家に偉功ある者
- 侯 爵 旧清華家、徳川旧御三家、旧大藩知事すなわち現米15万石以上、旧琉球藩主、国家に勲功ある者
- 伯 爵 大納言まで宣任の例が多い旧堂上(一回でも中納言から大納言へ間を置かずに昇任したことのある家)、徳川旧御三卿、旧中藩知事すなわち現米5万石以上、国家に勲功ある者
- 子 爵 一新前(慶応3年10月15日の大政奉還前)に家を起こした旧堂上、旧小藩知事すなわち現米5万石未満、一新前に諸侯であった家、国家に勲功ある者
- 男 爵 一新後に華族に列せられた者、国家に勲功ある者
●公家
公家の場合、摂家は公爵、清華家は侯爵、大臣家以下のうち大納言までは伯爵、その他を子爵、庶流(分家)は男爵とした。三条実美は清華家、岩倉具定(岩倉具視の子)は羽林家であったが、ともに維新の功労者であり国家に偉功があると認められ公爵となった。西園寺公望は当初侯爵であったが、ベルサイユ条約締結の功績により公爵となった。
○公爵
- 摂家(せっけ)……摂政・関白になりうる最高の家柄
- 近衛、九条、二条、一条、鷹司の5家
○侯爵
- 清華家(せいがけ)……太政大臣・左大臣・右大臣・大将になりうるが摂政・関白を兼ねることができない
- 転法輪三条(三条)、今出川、大炊御門、花山院、徳大寺、西園寺、久我、醍醐、広幡の9家
○伯爵・子爵
伯爵には、大臣家および平堂上家のうち、「大納言まで宣任の例が多い」ものがなり、それ以外は子爵とされた。羽林家が必ずしも伯爵になっていないことに注意されたい。
- 大臣家(だいじんけ)……太政大臣になりうるが大将を兼ねることができない
- 中院、正親町三条(のち嵯峨)、三条西の3家
- 羽林家(うりんけ)……近衛中将・少将を兼ね、大中納言・参議になりうる
- 岩倉、四辻、清水谷、正親町、姉小路、滋野井、小倉、中御門、西大路、山科、園、難波、冷泉、藪、庭田、綾小路、中山、飛鳥井、阿野、橋本、持明院、水無瀬、白川、鷲尾、四条、油小路など
- 名家(めいか)……羽林家の下、諸大夫の上に位置し、弁官蔵人衆を兼ね、例外的に大納言になりうる
- 甘露寺、日野、広橋、烏丸、竹屋、葉室、梅小路、交野、勘解由小路、勧修寺など
- 半家(はんか)……上記のいずれでもない家
- 沢、西洞院、土御門、五辻、錦小路、五条、富小路、錦織など
●武家
武家の場合、国主(国持)大名であるか否かや、江戸城における殿席といった江戸時代の格式は当然一切顧慮されず、戊辰戦争の後の租税収入額(朝敵藩の処分後のもので、「草高」(生産量)ではなく「物成」(租税収入)であることに注意)の多寡によって大中小藩に分けたものを爵位の決定に援用した。維新に際して朝廷側に多大の貢献をしたものには当然厚く、鹿児島(薩摩)藩主と山口(長州)藩主は当然に公爵、鹿児島藩の島津久光は特に一家創立を許され、藩主忠義とは別に華族に列せられて公爵を授かっている。その一方で、「朝敵」であった徳川家への優遇に注意されたい。
以下は実際に叙爵された例である。石高は明治2年当時の表高(叙爵基準となった現米高でないことに注意)、爵位は最終的に確定したものである。
○公爵=徳川宗家、国家に偉功ある者
徳川家達 将軍家 駿河府中藩 70万石 徳川篤敬 御三家 常陸水戸藩 35万石 徳川慶喜 十五代将軍 島津忠義 大藩知事 薩摩鹿児島藩 72万9千石 国持 島津久光 鹿児島別家 毛利元徳 大藩知事 周防山口藩 36万9千石 国持 ○侯爵=徳川旧御三家、旧大藩知事(現高15万石以上)、国家に勲功ある者
徳川義礼 御三家 尾張名古屋藩 61万9千石 徳川茂承 御三家 紀伊和歌山藩 55万5千石 前田利嗣 大藩知事 加賀金沢藩 102万5千石 国持 細川護久 大藩知事 肥後熊本藩 54万石 国持 黒田長成 大藩知事 筑前福岡藩 52万石 国持 浅野長勲 大藩知事 安芸広島藩 42万6千石 国持 鍋島直大 大藩知事 肥前佐賀藩 35万7千石 国持 池田輝知 大藩知事 因幡鳥取藩 32万石 国持 松平茂昭 中藩知事 越前福井藩 32万石 国持 伯爵から陞爵 池田章政 大藩知事 備前岡山藩 31万5千石 国持 蜂須賀茂韶 大藩知事 阿波徳島藩 25万7千石 国持 佐竹義堯 大藩知事 出羽秋田藩 20万5千石 国持 山内豊範 大藩知事 土佐高知藩 20万2千石 国持 伊達宗徳 中藩知事 伊予宇和島藩 10万石 伯爵から陞爵 ○伯爵=旧中藩知事(現高5万石以上)、国家に勲功ある者
徳川篤守 御三卿 清水家 徳川達孝 御三卿 田安家 徳川達道 御三卿 一橋家 藤堂高潔 中藩知事 伊勢津藩 32万3千石 国持 伊達宗基 中藩知事 陸奥仙台藩 28万石 国持 井伊直憲 中藩知事 近江彦根藩 25万石 有馬頼万 中藩知事 筑後久留米藩 21万石 国持 松平直亮 中藩知事 出雲松江藩 18万6千石 国持 松平基則 中藩知事 上野前橋藩 17万石 柳沢保申 中藩知事 大和郡山藩 15万1千石 国持 酒井忠興 中藩知事 播磨姫路藩 15万石 小笠原忠忱 中藩知事 豊前小倉藩 15万石 久松定謨 中藩知事 伊予松山藩 15万石 上杉茂憲 中藩知事 出羽米沢藩 14万石 国持 南部利恭 中藩知事 陸奥盛岡藩 13万石 松平頼聡 中藩知事 讃岐高松藩 12万石 酒井忠篤 中藩知事 出羽庄内藩 12万石 阿部正桓 中藩知事 備後福山藩 11万石 堀田正倫 中藩知事 下総佐倉藩 11万石 立花寛治 中藩知事 筑後柳河藩 10万9千石 酒井忠道 中藩知事 若狭小浜藩 10万3千石 津軽承昭 中藩知事 陸奥弘前藩 10万石 溝口直正 中藩知事 新発田藩 10万石 前田利同 中藩知事 越中富山藩 10万石 戸田氏共 中藩知事 美濃大垣藩 10万石 奥平昌邁 中藩知事 豊前中津藩 10万石 真田幸民 中藩知事 信濃松代藩 10万石 子爵から陞爵 中川久成 中藩知事 豊後岡藩 7万石 松浦詮 小藩知事 肥前平戸藩 6万1千石 宗重正 小藩知事 対馬府中藩 5万2千石 国持 亀井茲明 中藩知事 石見津和野藩 4万3千石 大村純雄 中藩知事 肥前大村藩 2万7千石 子爵から陞爵 島津忠亮 中藩知事 日向佐土原藩 2万7千石 子爵から陞爵 大給恒 中藩知事 信濃龍岡藩 1万6千石 子爵から陞爵
華族に列せられ爵位を授与される者は、爵親授式に臨んだ。式次第は、まず宮内大臣、宗秩寮総裁侍立のもと、式部長官のご先導により天皇陛下がお出ましになり、侍従長、侍従武官長以下がこれに従う。拝爵者が御前に参進すると、「某を華族に列し何爵を授ける」旨の勅語を賜り、宮内大臣が宗秩寮高等官の捧ずる爵記を授け終了する。
このあと、拝爵者は宮中三殿の一つである賢所の大前に参拝、皇祖の神霊に奉対し、仰いで盛旨をつつしみ益々忠誠を尽くし、永く皇室の尊厳を扶翼することを誓い、誓書を奉捧する。
華族には、以下の特権があった。
- 貴族院議員たる特権
公爵および侯爵は、満30歳に達したとき終身の貴族院議員となる(貴族院令3条)。選挙等の手続は一切なく、当然に議席を得る。しかし、皇族男子の議員と同様、歳費はなく、現役の陸海軍軍人である公侯爵は出席しないのが例であった。
伯爵、子爵および男爵は、満30歳に達したとき、同じ爵位を有する者のうちで互選により、7年の任期で貴族院議員となる(貴族院令3条および4条)。定員は、伯爵18名、子爵66名、男爵66名であった。貴族院伯子男爵議員選挙規則(明治22年勅令第78号)により、連記・記名投票制で選挙した。
- 華族の特権に関する条規の諮詢を受けること
貴族院は、華族の特権に関して、陛下の諮詢に応え議決すると定められていた(貴族院令8条)。
- 家憲を定めうる特権
有爵者は、法律、命令および華族に関する規程の範囲内において、宮内大臣の認可を経て家憲を定めることができた。この家憲は一般のものとは異なり、法的拘束力を有し、裁判所もこれをもとに裁判しなければならない性質のものである。
- 世襲財産の設定
有爵者は、華族世襲財産法(明治19年勅令第34号)により、家格を維持するために必要な世襲財産を設定することができた。
- 就学の特権
華族の子弟は、華族就学規則(明治39年宮内省達第2号)により学習院または女子学習院に入学させることができた。当時の学習院は、現在のように一学校法人ではなく、学習院官制という法律に基づいて設置された国家の機関であり、宮内省が管轄していた。
華族には、以下の礼遇を賜った。
- 皇族と御結婚の資格
「勅旨により特に認許された華族」(旧皇室典範39条)、あるいは「特に定めた華族の女子」(皇室親族令(明治43年皇室令第3号)7条)は、皇族と御結婚する資格があった。皇族の御結婚相手が、皇族に限ると範囲が狭すぎるということで、華族も範囲に含めたものの、維新の功労者などを大量に授爵したため、言わば「氏素性の分からない」華族も存在するという反対論にあい、勅旨により特に認めた華族に限ることとなった。明文はないが、旧五摂家、旧清華家、旧徳川宗家、旧徳川御三家等を予定しており、実際、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)は一条公爵家御出身、貞明皇后(大正天皇の皇后)は九条公爵家御出身である。
- 宮中の儀礼に参列すること
有爵者は御大礼をはじめ宮中の御祭儀に参列することができた。宮中席次により、公爵は第16、侯爵は第22、伯爵は第28、子爵は第31、男爵は第36の席次が与えられた。
- 位階を授けられること
有爵者は、位階令(大正15年勅令第325号)2条により、その爵位に応じて相当の位に叙せられた。
- 襲爵
当該華族の当主が死亡または隠居等をしたときは、家督相続人(男子のみ)が宮内大臣に相続する旨の届出により、勅許を経て襲爵の辞令書が交付された。ただし、届出は相続人またはその法定代理人が相続の開始を知った時から6ヶ月以内に、あるいは相続開始の時から3年以内に行わなければならない。従って、この期間内に届出をしないことにより、爵位を放棄することができた。
皇族や華族に関しては宮内省の宗秩寮が管轄した。華族の懲戒や重要事項について宮内大臣の諮問に応ずるため、、枢密顧問官3名、宮内勅任官4名、有爵者5名(公・侯・伯・子・男爵各1名ずつ)を宮内大臣の奏請により勅命された審議官で構成する、宗秩寮審議会が置かれていた。
華族を懲戒する場合、華族の族称の除去、華族の礼遇の停止または禁止、爵位返上の処分があった。また一定の原因により華族の礼遇をうけることができなくなったり、爵位を喪失することもある(華族令7条、20条ないし27条)。華族令の懲戒に当たらない場合は、華族戒飭令(明治44年皇室令第6号)による譴責または戒飭があった。
(参考文献) 「増補皇室事典」(井原頼明著、冨山房、昭和13年)312頁ないし315頁、329頁。「事典昭和戦前期の日本」(百瀬孝著、吉川弘文館、平成2年)241頁ないし244頁。