戦前の国会に当たる帝国議会は、皇族や華族などの特権階級、富裕層、高級官僚や学者などのエリート層を代表する貴族院と、一般臣民を一応代表する衆議院の二院で構成されていた(帝国憲法33条)。
そのうち、貴族院は貴族院令(明治22年勅令第11号)の規定により、皇族議員、華族議員(公・侯・伯・子・男爵議員)、および勅任議員(勅選議員や多額納税者議員など)で組織した(憲法34条)。
貴族院は衆議院と異なって解散がなく、皇族議員や公侯爵議員および勅選議員のように終身議員が存在したり、改選される議員も任期が7年と長く、その選挙も一部の層の互選によるなど、極めて恒久性や保守性の強い制度であった。戦前においても改革やその廃止が主張されていたが、結局、昭和22年5月の日本国憲法施行に伴って廃止されるまで存続し、憲法改正審議にも参画した。
なお、貴族院議員の一覧は、皇族議員(全51名)、公爵議員(全49名)、侯爵議員(全99名)、伯爵議員(全75名)、子爵議員、男爵議員、勅選議員、帝国学士院会員議員(全9名)、多額納税者議員、朝鮮・台湾勅選議員(全10名)の10に分け、それぞれ別のページに掲載。
帝国議会の召集や議長、歳費、会議等は議院法(明治22年法律第2号)で定められていた。
議会の召集は、まず召集の詔書が渙発(かんぱつ:発せられること)ののち、一定日に議会が召集されて両院が成立すると、貴衆両院議長がそれぞれ政府に通知し、さらに政府はこの旨を宮内省に通知する。国務大臣が副署したうえ、帝国議会の開会を命ぜられる詔書が渙発され、宮内大臣が宮内省告示をもって、某月某日に開院式を行わせられる旨を告示する。
常会(現在でいう通常国会)の会期は12月下旬からの3ヶ月である。開院式は貴族院本会議場で天皇陛下御臨席のもと開かれ、内閣総理大臣が勅語書を奉り、陛下がこれを御朗読になり、貴族院議長が勅語書を拝受して式は終了する。戦前は英国と同様に皇居(当時は「宮城」)から馬車で向われた(第二公式鹵簿)。一方、閉院式には陛下は御臨席にならず、諸員起立の中、勅語書を内閣総理大臣が捧読して終了する。
現在、議場を引き継いだ参議院においても、戦前と同じく天皇陛下御臨席のもと、衆参の全議員と内閣総理大臣および国務大臣が出席し、加えて現在では最高裁判所長官も参列する。まず衆議院議長が式辞を述べ、その後、天皇陛下のお言葉があり、衆院議長がお言葉書を拝受することになっていて、男子の服装はモーニング、女子はアフタヌーンドレスか白襟紋付と決まっている(一応、平服でも差し支えない)。なお、戦後、貴族院が参議院に変わったのではなく、新憲法制定により貴族院は廃止され、新たに参議院を設置したもので、両者は全く関係がない。
そのほかに臨時会および衆院解散後の特別会があった。当然ながら参議院のような緊急集会はない(帝国憲法8条に緊急勅令の制度があったので必要ない)。
貴族院は午前10時から午後4時まで会議を開いた(衆院は午後1時から6時)。法律案の審議は三読会制によった。まず、第一読会では内閣(提出者)の趣旨説明と質疑応答が行われ、委員に付託される。委員の審議終了後に、第一読会の続きを開いて報告を行い、討論のうえ、第二読会開会の可否を問う。開かないことに決まれば廃案となる。第二読会では逐条審議を行い、修正の動議を提出できる。第二読会の3日後に第三読会を開き、議案について可否を決する。
貴族院議長および副議長は、議院の意思によらず、内閣の輔弼により勅任する。任期は7年だが、選挙によって選出された議員の場合はその任期の間となる。
議長の歳費は7500円(大正9年改正前は5000円。以下同じ)、副議長は4500円(3000円)、議員は3000円(2000円)であった(議院法19条)。昭和9年の官吏減俸以前と比べると、議長は内閣総理大臣の12000円は言うに及ばず、国務大臣の8000円より少なく、議員に至っては若手官僚程度であり、現在との違いに驚かされる。ちなみに、国会議員の歳費は一般職の国家公務員の最高給料額より少なくない額(国会法35条)とされ、具体的には、議長が内閣総理大臣の俸給月額に相当する金額となり、以下、副議長が国務大臣に、議員が政務次官に相当する額となっている(国会議員の歳費、旅費及び手当等に関する法律1条)。
同様に宮中席次においても決して高くなかった。議長は席次第12で枢密院副議長や陸海軍大将より下であり、副議長は第20(第2階)で各省次官より下、議員は第39(第4階)で各省課長より一つ上の程度であった。紆余曲折あって格上げされたのは昭和20年12月のことであり、議長を国務大臣の次の第6に、副議長を第12(改正前の議長と同じ)に、議員を第23に繰り上げた。現在では、国会議員は公選による職であるため、相当に高い席次を与えることになっており、通例、議長は三権の長として内閣総理大臣と最高裁判所長官の間に位置するとされる。
※歴代の貴族院議長
爵位は最終的に確定した最高位のものを掲載。
- 伊藤博文(公爵) 第1回通常会 明治23年10月24日就任
- 蜂須賀茂韶(侯爵) 第2回通常会ないし第9回通常会 明治24年7月20日就任
- 近衛篤麿(公爵) 第10回通常会ないし第18回特別会 明治29年10月3日就任
- 徳川家達(公爵) 第19回通常会ないし第64回通常会 明治36年12月4日就任
- 近衛文麿(公爵) 第65回通常会ないし第70回通常会 昭和8年6月9日就任
- 松平頼寿(伯爵) 第71回特別会ないし第85回臨時会 昭和12年6月17日就任
- 徳川圀順(公爵) 第86回通常会ないし第89回臨時会 昭和19年10月11日就任
- 徳川家正(公爵) 第90回臨時会ないし第92回通常会 昭和21年6月19日就任
※歴代の貴族院副議長
- 東久世通禧(伯爵) 第1回通常会 明治23年10月24日就任
- 細川潤次郎(男爵) 第2回通常会ないし第4回通常会 明治24年7月20日就任
- 西園寺公望(公爵) 第5回通常会ないし第6回特別会 明治26年11月25日就任
- 黒田長成(侯爵) 第7回臨時会ないし第47回臨時会 明治27年10月6日就任
- 蜂須賀正韶(侯爵) 第48回通常会ないし第58回特別会 大正13年1月16日就任
- 近衛文麿(公爵) 第59回通常会ないし第64回通常会 昭和6年1月16日就任
- 松平頼寿(伯爵) 第65回通常会ないし第70回通常会 昭和8年6月9日就任
- 佐々木行忠(侯爵) 第71回特別会ないし第85回臨時会 昭和12年6月17日就任
- 酒井忠正(伯爵) 第86回通常会ないし第89回臨時会 昭和19年10月11日就任
- 徳川宗敬(伯爵) 第90回臨時会ないし第92回通常会 昭和21年6月19日就任
貴族院議員は、上述の通り、大きく分けて皇族議員・華族議員・勅任議員の3種からなる。帝国議会は、第1次山県内閣における第1回通常会(明治23年)から、第1次吉田内閣における第92回通常会(昭和21年)まで開かれ、貴族院議員の総数は当初の250名から概ね400名程度で推移した。最後の貴族院議員は、第92議会停会当時373名であった。
なお、各議員の氏名・経歴等は、カテゴリー別の議員一覧をご参照のこと。
- 皇族議員
皇族男子は、成年(皇太子・皇太孫は18年、その他の皇族は20年)に達すると終身の貴族院議員となる(貴族院令2条)。これは各宮家の当主に限らず、男子はすべて自動的に議員となるので、例えば伏見宮家の場合、大正6年の段階で貞愛親王・博恭王・邦芳王・博義王が御在任だった。当然ながら定数はなく、少ない時で10名、多い時で19名であった。
ただし、臣籍降下が予定されている場合を除くほか、皇族男子は満18年で陸海軍の軍人となることが決まっていたので、出席されないのが通例であり、貴族院規則4条で「皇族ノ議席ハ議員ノ首班ニ置キ其ノ席次ハ宮中ノ列次ニ依ル」とされたが、貴族院全時代を通じて議席につかれた例は一度もなかった。なお、歳費はない。
- 公・侯爵議員
公爵および侯爵も皇族と同じく、満30歳になると自動的に終身の議員となる(貴族院令3条)。大正14年の四次改正(大正14年勅令第174号)で当初25歳だった年齢を引き上げるとともに、勅許を得て議員辞職ができるようになった。これは批判の多かった貴族院をより強固にし、「慎重・熟練・耐久の気風を代表する分子を網羅する」ためとされた。なお、皇族議員同様、歳費も定数もなく(実際は9名から19名)、現役の陸海軍の軍人の場合には出席しなかった。
- 伯・子・男爵議員
伯爵、子爵および男爵は、満30歳に達したとき、同じ爵位を有する者のうちで互選により、7年の任期で貴族院議員となった(貴族院令3条および4条)。公・侯爵議員と同じく大正14年に30歳に引き上げられた。伯・子・男爵議員の定数は、当初、各爵位を有する者の総数の5分の1を超えない範囲とされた(具体的には第1回帝国議会開院式当時、伯爵14名・子爵70名・男爵20名であった)。
その後の有爵者の増加に対応して、明治38年の一次改正(明治38年勅令第58号)により、三爵あわせた議員数の上限を143と制限し、各爵位を有する者の総数に比例して配分することとなった(改正を議決した第21回帝国議会開院式当時、伯爵17名・子爵70名・男爵56名)。そして明治42年の二次改正(明治42年勅令第92号)で、各爵ごとに上限を決めることとし、伯爵17名・子爵70名・男爵63名を上限とした。さらには、大正7年の三次改正(大正7年勅令第22号)で、伯爵20名・子爵73名・男爵73名と増員した。
しかし、大正14年の四次改正で、各爵の定数を1割減じ、年齢を25歳から30歳に引き上げ、伯爵18名・子爵66名・男爵66名の合計150名の定数が確定した。
伯・子・男爵議員の選挙は、貴族院伯子男爵議員選挙規則(明治22年勅令第78号)により、連記・記名投票制で行われた。投票は同規則9条により、7月10日東京において行われた(第1回は明治23年、その後7年ごとに計8回実施された)。
- 勅選議員
国家に勲労ある者や学識のある満30歳以上の男子の中から勅任する議員をいう(貴族院令5条)。任期は終身で、大正14年に身体または精神の衰弱により職務に堪えない場合の規定が盛り込まれた。
貴族院令7条により、多額納税者議員とあわせて、定数は有爵議員を超えない範囲とされたが(第1議会開院式当時、61名)、のちに伯・子・男爵議員の増加に伴い、均衡上、明治38年に上限を125名と定めた。
勅選議員は、内閣の輔弼により天皇が任命する。ほとんどが元高級官僚で、ほかに財界人や大学教授などから任命され、「天皇機関説」事件で問題となった美濃部達吉法学博士も、この勅選議員であった。昭和20年に朝鮮・台湾勅選議員を設けたが、それ以前に勅選議員の枠で朝鮮人が勅任された例もあった。
- 帝国学士院会員議員
大正14年に貴族院の質的充実のため、日本のアカデミーである帝国学士院の会員で満30歳以上の男子の中から4名を互選によって選び勅任することになった(貴族院令1条5号)。任期は7年で、貴族院帝国学士院会員議員互選規則(大正14年勅令第233号)により選出し、計9名が活躍した。
- 多額納税者議員
土地または商工業により多額の直接国税(地租・所得税・営業収益税)を納める満30歳以上の男子のうち、一定数の者が互選人資格を有する。貴族院多額納税者議員互選規則(旧令、明治22年勅令第79号)・貴族院多額納税者議員互選規則(新令、大正14年勅令第234号)により、その中から互選された者を勅任する(貴族院令6条)。任期は7年である。選挙は各地方長官が管理し、無記名・単記式で行い、伯・子・男爵議員の場合のような投票の委託はできなかった。
貴族院令制定当初は、北海道、沖縄県および小笠原諸島を除き、各府県における多額納税者15名の中から1名を互選することになっていた。定数は勅選議員とあわせ有爵議員を超えない範囲とされ、ほぼ45名程度であった。なお、北海道と沖縄については、「貴族院令並貴族院伯子男爵議員選挙規則及貴族院多額納税者議員互選規則施行ノ詔書」により、適用が除外されていたが、大正7年の改正で加えられた(貴族院多額納税者議員互選規則及明治二十七年勅令第五十七号貴族院多額納税者議員ノ補闕選挙ニ関スル件ヲ北海道及沖縄県ニ施行スルノ件)。
その後、大正14年の改正において、多額納税者100名の中から1名、あるいは200名の中から2名を互選することになり、上限を66名と確定した。さらに、昭和20年4月の五次改正(昭和20年勅令第193号)で、東京都設置に伴い「府県」を「都府県」とし、樺太からの1名を加え67名となった(実際には終戦となり選挙は未実施)。しかし、同8月にポツダム宣言を受諾し樺太の統治権を失ったため、昭和21年の六次改正(昭和21年勅令第350号)において1名減員した。
多額納税者議員に関しては百瀬孝氏の研究に詳しい。『事典昭和戦前期の日本』(吉川弘文館、平成2年)は当文庫でもかなり参考にさせて頂いている名著だが、同39頁に互選人資格について詳述されている。利子や配当、給与などにより税金を納める者は含まれないので、自己の事業を株式などで証券化した資本家は意識的に排除されたという。従って、実際の納税額の多寡と互選人資格とは関連性が薄い。
- 朝鮮・台湾勅選議員
朝鮮および台湾の在住民の政治的処遇のため、終戦間際の昭和20年にこれらの地域からも選出することにした(貴族院令1条7号)。朝鮮または台湾に在住する満30歳以上の男子で、名望の高い者を勅任する。任期は7年で、10名が勅任された(朝鮮7名・台湾3名)。樺太の場合と同じく、朝鮮および台湾の統治権喪失により、昭和21年廃止された。
帝国議会の権限は、内閣や各省の責任に属する国務一般にわたるものの、国務大臣の責任に属しない皇室に関する事項および軍統帥事項には及ばなかった。協賛を要しない大権事項には、軍の統帥(帝国憲法11条)、軍の編制・常備兵額の決定(12条)、宣戦講和・条約締結(13条)、戒厳の布告(14条)、官吏の任免(10条)、栄典の授与(15条)、恩赦(16条)、憲法改正の発議(73条)などがあり、議会の召集・開会・閉会・停会・衆院解散(7条)、ならびに臨時会の会期決定(43条2項)にも及ばないものとされた。
権限としては立法や予算といったほか、戦前特有のものとして緊急勅令の承認があった。また、貴族院は華族の特権に関する条規について天皇の諮詢に応じる権限があり(貴族院令8条)、貴族院令の改正自体も貴族院の議決を要した(通常の勅令は議会の議決を要しない)。
恒久性や保守性を期待される貴族院議員にも党派性はあり、政党という形はとらないものの会派が存在した。この院内会派は昭和15年10月に大政翼賛会が成立し、貴衆両院議員が大政翼賛会議会局に所属したのちも存続し、昭和19年の段階で、研究会・公正会・火曜会などがあった。
そのうち、研究会は貴族院最大の会派であり、そもそも明治23年に子爵議員の政策研究会として発足したもので、子爵議員を互選する選挙母体の尚友会を通じて議員となると研究会に入会する仕組みであったという。昭和17年の翼賛選挙後、同5月に翼賛政治会が結成され、研究会会員は全員が創立発起人となり入会したが、会派そのものは貴族院廃止の時まで残った。