|
医悪性リンパ腫とドイツへ(1)
2000年01月16日(日)
朝は、昨日遅かったので、10時10分に起きました。
ボケっとテレビを見ていて、11時20分まで過ごしました。
顔を洗って昼食を食べて、12時半にスーパーに行って、歯磨き粉、コーヒー、髭剃り、1000円のセカンド時計を買って、会社に入りました。たばこを買って、家に帰ってコップとお茶と、筆ペンを包み、最後のチェックをしたら、15時半。コーヒーを少しだけ飲んで、仏壇にお参り。近年で初めて私のことを見守って欲しいとのお願いをしてしまいました。勿論、今回お世話になる多くの人への感謝も報告しました。
15時37分に家を出て、駅に着くと15時59分発の列車が掲示板に載っていません。いつからか、15時43分に変更になっているようです。目的の電車は出たあとです。幸いに16時12分に臨時の季節列車の大阪行きが走っているとの事です。新大阪ではるかに乗り換えて、19時前に関西空港に入ったでしょうか、C型コンセントプラグを買って、夕食を食べて、コーヒーを飲んで、空港にあるホテルの部屋に21時に入りました。明日は8時15分にこの部屋を出る予定です。風呂に入ってホテルのお茶を飲んで今11時52分です。明日はドイツに出発します。もちろん私一人で行けるはずがありません、大阪からは今回何もかもお世話になっている人とすでに同行しています。私にはまったく英語は話せませんし、それはドイツ語も同じです。
皆さん、ありがとうございます。
今の時点では詳細は何もわかりませんし、当然その予測もできませんが、感謝申し上げます。
おやすみなさい。
悪性リンパ腫とドイツへ(2)
2000年01月17日(月) ボン1日目
関西空港8時18分。ホテルの内線で目が覚めた。
ホテルのベッド脇にある目覚ましの設定が出来ていなかったとしか思えない。朝寝は家庭での休日モードそのままです。慌てて顔も洗わずに下に降りた。チェックアウトをして、旅行社のカウンターに着いたのが8時35分。コーヒーを飲んで、ドイツマルクに両替を30万円して、えっ、ユーロ?、そんなもん知らん。空港税を払って、所持品検査を通って、出入国管理を通って出た所で、カメラのフィルムを買って、搭乗時間が迫っていたので、せかされて乗り込んだらすぐに10時12分関空発フランクフルト行きは出発しました。
飛行機の中では、すぐに食事が出て、焼き鳥ご飯がおいしかった。機上でドイツでの昼の12時47分が日本で夜の8時48分。なんのこっちゃわかりません。到着まで11時間ほどかかったはずですが、食事の後すぐに機内の電気が消えたので、その当たりから時間の感覚がおかしくなっていった。今日は昼間が18時間ある計算になります。うなぎの食事が出てしばらくするとフランクフルト着。往復航空券は、88000円。
11時間後は、日本時間では21時12分ですが、現地時間では13時12分です。団体客が多かったのか、荷物受け取りカウンターにほとんど人はなし。私一人では、受け取りカウンターに行くのに非常な苦労をしたと思います。というよりもわからなかっただろうというべきか、変です。飛行機の中のあれだけの人が消えてしまった。しかし、今回は観光旅行ではないのでそういうことには興味を持たない。意識しないことに決めています。飛行場ビルの中で、コーヒーを飲んで、ロングディスタンスレイルウェーと書かれた英語案内の表示に沿って歩き乗車口の上の階の喫煙場所でタバコを吸って時間をつぶし、15時57分の電車に乗りました。軽く書いていますが、私にそんなことが一人でできるはずはなく、ただ最同行していただいたA氏の後を必死になって追っただけです。この飛行場にある鉄道も、前もって日本で指定席券の購入をしていたために、便名と時間がわかっていたから出来た事で、それがないとさすがのこのA氏でも相当しんどかったはずと思います。電車は、例の洋画にある6人部屋の個室がずらっと並んでいる列車で、その部屋には3人乗られていました。黒服の人はまるでゴッホを絵に書いたような人、もう一人は科学者か、というそのまま映画のワンシーンに使えそうなメンバーでした。
17時37分ボン着28番列車の263号車、85と86番の座席でした。なんのことだかどこがボンなのかまるでわかりません。喫煙席です。ドイツでは時流に乗らず喫煙者が多いらしい。17時37分ボン着は分かっていましたから、その前に準備をしていると2分前に放送がありました。勿論その放送の意味は何もかりません。その中にボンという単語があったことさえ聞き取れませんでした。17時37分ボンに着きました。話が違う、鉄道の時間の優秀さは日本だけと聞いたこともありますが、へえぇ、ここでも定時に着くんですね。フランクフルトかボンか、どこかで6度の外気温表示がありました。
ようやく今回の目的地であるドイツはボンに着きました。
ここBONでは今小雨が降っています。 電車を降りて、そこからすぐに改札なしで外に出てしまいます。外に出てしまうのはおかしい。でもその通りです。社内で車掌さんのチェックが一度あっただけです。ここボンでもフランクフルトでも乗る電車の前まで何の改札もなくそのまま行けるのです。駅舎の所で待ちかけるとS女子が来てくれました。私は彼女に始めて出会うのですがスマートな女性で安心しました。
駅舎でコーヒーを飲んで、A氏とS女子は久しぶりの出会いを喜び、タクシーでホテルに行きチェックイン。
Hotel Florin eine gute adresse,
in Bonn−Beuel
Oeibergweg 17(beuel−suウムラウトd・53227 bonn
T0228 97560−0
f0228 46179−4
部屋に入って少し休んでからタクシーで夕食に。ホテルのフロントで聞いた店の名をタクシーに伝えてその小さなレストランでステーキを食べました。S女子はデンマーク人ですがドイツ語も話せます。彼女がタクシーもレストランでもその対応をしました。歯の痛みはこの時にはほとんどなく、普通の料理はほとんど食べれていたようです。帰りもタクシーでホテルに帰り落ち着いてから、S女史に持ってきたプレゼントをA氏からは日本の竹の塀と生け花立て、私からは昔風の子供の着物の柄の付いた赤い漆塗り状のお菓子入れと緑茶のティーパックと筆ペン、その後荷物を若干整理して、ベッドはツインなのですが、ダブルのベッドにマットを二つ置いた物。一つをはずして床に移動しました。
部屋にお湯がないので、お茶もコーヒーも出来ません。A氏の後で12時から風呂に入りました。風呂から出るとA氏はすでに寝ておられました。持病の関係からでしょうか、汗がなかなかとまりません。1時半頃には眠れたとおもいます。
ここはすでにドイツのBON。来てしまった。私は持病である悪性リンパ腫の治療にきたのです。これだけはしつこくいっておきますが、私はドイツ語はもちろん英語もまるで話せません。すべてはA氏のおかげです。それで、今日は1日目?、2日目? 時差の関係があってわけがわかりませんが、とりあえずBONは今が1日目です。
悪性リンパ腫とドイツへ(3)
2000年01月 縁が縁をつなぎあわせていく先はドイツ。
何故そうなったのですか?
少しだけ、ドイツのジャンカークリニックで仕事をされているDr.Sheefを訪ねていくことになった経緯をお伝えします。
すべてはA氏の段取りでした。A氏に私は特に仕事の上で、あるいは私事でも言葉でいいあらわせないほどお世話になっています。海外への渡航経験の多いA氏には、日常的にメイルでやり取りされるお仲間が海外にもおられます。そんな中にヨーロッパのヒーラーであるS女史がおられました。彼女はハワイにも事務所をお持ちです。A氏は彼女に私の持病のことを話されていました。それからしばらくしてS女史はハワイでの友人であるB氏が実は悪性リンパ腫であったことを知られたのです。B氏はアメリカでオンコロジスト(化学療法士)の仕事をされていましたが、自らがT細胞型の悪性リンパ腫になられたのです。それは悪性リンパ腫で不幸な結果になられたヨルダンのフセイン国王の知らせが届いた直後でした。B氏は悪性リンパ腫患者に抗がん剤を処方することが自分の仕事でした。難しい病気であるという事実はわかり過ぎるほど彼にはわかっていました。悪性リンパ腫の中でも細かな分類を自分に当てはめればより絶望的になります。自分が専門としてきた化学療法だけではフセイン国王と同じ道を歩むだけだ。それで彼自身が自分のために情報を探し回ってたどりついた先がドイツのDr.Dr.Sheefだったのです。
Dr.Sheefは、B氏にいいました。
「君の体の60%はリンパ腫に侵されている。君も、現状の標準的な化学療法による治療に甘んじてフセインのようになるかね。」
その一言は、専門家であるB氏にとって十分なものでした。彼はSheefに身をゆだねることにしたのです。
化学療法を使わずに、歩けなかった体も1週間の入院で歩いて退院するまでになりました。彼は退院し外来での治療を終えた後、化学療法士から身を引きハワイでのヒーリングセンターに勤務したのです。そんな時に、Dr.Sheefがハワイで講演をしました。ちょうどその時ハワイ事務所に来ていたS女史はB氏の誘いでその講演を聞く機会を得たのです。Dr.SheefとS女子と初めての出会いでした。実は彼女も自らががん患者です。すい臓がんです。Dr.SheefならMr.S.Kを治せる。そう思った彼女は強くA氏にMr.S.KをDr.Sheefの所に連れて行って受診するように進めたのでした。
この話しの半分は、私がドイツに行ってから聞かされたものです。そこまで知らずに私は、生まれて初めてヨーロッパの地を踏んだのでした。1月のドイツの昼は短い、コートのえりを立てて歩く人に、うしろから夕闇が迫ってきます。そんな寒く長い冬を過ごす為のエネルギー補給でしょうか、本当に彼らはよく食べます。レストランでの1人前の多いこと。小さなホテルのテーブルにもろうそくの灯がよく合います。揺らぐ炎があたたかい。
悪性リンパ腫とドイツへ(4)
2000年01月18日(火) ボン2日目
今日も小雨です。昨日よりも寒い。
7時半に起きました。髭をそって顔を洗って9時過ぎだったと思います。S女史がドアをノックして来て朝食を食べに行きました。
食事の後、私の病気の打ち合わせをして10時半。タクシーを呼んで外に出ました。ジャンカークリニックを確認して写真に取りました。ジャンカークリニックのすぐそばに小さなホテルがありました。ここの方が町にも近く圧倒的に便利です。部屋の空きを確認して明後日からの予約をしてボンの町に昼食に出ました。
15時半、ジャンカークリニックに入りました。Dr.Sheefの待合室には、40歳前後でしょうか、髪の毛のまったくない女性もおられて最初は男性なのか女性なのか迷いました。他にも3〜4人の患者さんがおられました。今日はDr.Sheefに初めての面会です。
ジャンカークリニックでは、総合受付はありますが、通常の患者は直接担当医の部屋の受付に行くようです。15時45分にその待合室に入りました。奥の受付で少し待つようにいわれました。ここはレントゲンを開発したレントゲンの弟子が始めたクリニックでDr.sheefは勤務医です。そのお父さんは、外科医の免許を持たなかったようですが、非常に腕がよく、戦後囚人相手に限ってその手にメスを持つことを許されたようです。そんな家で、Dr.Sheefは10歳の頃から医師への勉強を自然に始めたとの事でした。
16時、待合室で待つ私たちの前を通られたDr.Sheefは、足が悪いようで少し前かがみに、目が輝いているように見えましたが、隣のおじいちゃんといった感じでした。前を歩いて行かれ、3mほど離れられた所で、“にっぽん”との声がDrから発せられるのを聞きました。
16時20分にシスターが来られました。B氏が“困ったことがあったらシスターになんでも相談して下さい。”といい、事実S女史からシスターに依頼をすることで今回私たちが初日から泊まっていたホテルはシスターが予約をしてくれていたのです。やさしいお母さんといった雰囲気で東洋人に近い顔つき、終末期他、心の乱れる人への話し相手を中心に院内でボランティアをされているそうです。このあと私の順番が来て、初めての受診が始まりDr.と20分前後話しをさせていただきました。
10人の医者がいれば、10通りの治療をするというものだ。
彼らは自分の専門にあった治療法を使う理由だけを探そうとする。
何故、患者の全体像を見ようとしないのか、それが見れないのか。
私が仕事の同僚、医者仲間にいいたいのはこの言葉に尽きます。
あなたの場合は、お母さん(原発部位)から広がった物ではなく同時多発性の物だろう。マザーアンドチルドレンではない。
ヨーロッパで一番の専門家が明日、あなたの体中からリンパ腫を探します。
私は、抗がん剤は何もかも嫌いだが、時にはその患者に1回は使います。
B氏は体の60%はガン細胞、あとの40%が自分の体だった。そんな彼が今も生きています。だからMr.S.K、あなたはもっともっとその病気は軽い。なんら問題はありません。ここには、もっともっとひどい状態の人がいくらでも来ます。
多くの病院では患者にCHOPをやるたびに、その後の治療方法がなくなって行く、そして、その副作用でますます体をだめにしていく。そんな治療方法ではだめだと私は世界にいい続けている。私はそこの壁に張っている地図に、差してあるピンの場所だけその講演をした(世界数十個所、日本にも数カ所、ほぼ全世界、ドイツ国内数十個所)。そこに張ってある写真はアインシュタインのお孫さんですが、彼女も私の患者です。
Drから質問がありました。
発熱はありますか?
血圧は高いですか?
かゆみはありますか?
政府の官僚制や、医学界の閉鎖性の問題によって自由な研究は出来にくい状態にあります。その点、ドイツはまだ開けていると彼はいいました。
ハワイでDr.Sheefに会ったS女史に薦められたA氏は、直接Dr.Sheefの勤務先に海外電話をかけたのでした。Dr.Sheefプリーズと言ったA氏に、
I am on the telephon.
その教えられた番号は病院の代表番号ではなく、Dr.Sheefの机にある彼の専用電話の番号だったのです。
“今、あなたが治ることに疑う余地はありません。”
とのDrの声を聞いたS女史はすぐに私の頬にキスをしました。
肌の色、国、貧富の別なくその門を開いた人すべてを彼は見ている。
モノクロナールが重要ですと博士はいいました。これは、今進みつつある抗体の事ではなく、みんなが本来持っている免疫システムの事を言っているようです。
駅舎でコーヒーを飲んで、3人でジャンカークリニックの結果報告会をして夕食用のパンを買い、タクシーで18時過ぎにホテルに帰りました。
今、21時10分。お茶を入れてくれたS女史が部屋に帰りました。
最大のお世話になっているA氏、S女史、私の3人でのボン生活が始まっています。
悪性リンパ腫とドイツへ(5)
2000年01月19日(水) ボン3日目
6時50分起床。
7時30分朝食、8時10分タクシーで病院へ。
運転手がいうには、ジャンカークリニックは新規に別の場所で建築中とのこと。今はボンの駅から歩いて3分、非常に便利なところなのですが、
8:47
LABOR と、表示のある病院の2階の部屋で採血5本分。若干の検査機器が動いており、4人から5人の職員がいた。採血を終えて、手を下げていたら、あげておくように注意を受けた。わからん、ボディランゲージも限界でぶすっとした顔で私の腕を取って上にあげられてその意味がわかりました。
9:05
40歳前後の女性に、ウルトラサウンド(超音波)を受けました。Drへの待合室の横の部屋で、最初私一人だったために言葉に困った。すぐにA氏が入ってきてくれて英語で助けてくれた。ここでも英語はほぼ通じるようですが私はその英語もだめ。超音波は両脇の下と頚部のみでした。私が気が付いていたしこりのある場所である左頚部を、的確に超音波で探し当てました。脇の下にも出ているようです。
9:28
1階の別の待合室で待ちました。待合室には5人の先客患者さんがおられます。先に受診を終えられた人は順番待ちをしている患者さんみんなに声をかけてから出て行かれm、あす。これはホテル内での朝食の時も同じでした。明らかに抗がん剤の副作用と思える髪の毛の薄い50前後の入院患者らしき女性もおられました。
10:20
40歳前後の男性に、腹部の超音波検査を受けました。肝臓と横からの心臓周辺(脾臓か?)とみぞおちから下へ。チェックをされたので見つけられたかと思ったのですが、そこにはなかったようです。ソケイ部への超音波は今回はありませんでした。
10時50分にここまで終了しました。
今日はこれ以降午前中の予定はないようなのでクリニックを出て食事に出ました。ボンの駅周辺は繁華街になっています。そこを歩いて上海酒飯に行き昼食。再度12時35分に病院に入りました。
13:25
Dr.Sheefに検査結果を踏まえて話しを聞きました。
今日は悔やまれます、だって私は何も英語が話せないのです。目の前で非常に重要な話しをDr.がしていると思います。以下はA氏とS女史があとで訳してくれた、今日の話しのほんの一部です。話しの前後は入れ替わっているかもしれません。
“モノクローム、エンターボディー”
29歳の男性でした。この写真を見てください。肺ガンがほぼ治りました。6日間の治療でした。私が長旅で疲れており治療に絶えられるかどうか心配。まだもう一つ私がこの場所で得られる物への確信が持てないようなので、私を元気付けるためにDr.はその話しをされたようです。
今、食欲はありますか?
食べれますか?
体は正直だから隠せない。病気が進めば食事も出来なくなる。
ヨーロッパでNo1の検査をしたのですが、下腹部には何も病変が見つかりません。(ソケイ部への超音波はなかったが?)
金曜日の10時に、再度下腹部の確認をしたい。
上腹部にだけ出ている物(2期のことか?)ならまったく問題はない。
下腹部にあれば(3期のことか)、治療方法が異なります。
あなたの体内から、すべてのガン細胞をなくして日本に帰したい。
しかし、どうしても体内に残るかもしれない可能性については、残念ながら保証できず、神様に委ねるしか方法はありません。
30年前にガン治療をして、今も体内にガン細胞を残したまま子供を育てた人もいます。
ドアの向こうに怒り狂った雄牛がいることが分かっています。あなたがドアを開けるのなら、怒り狂ったその雄牛を刀を抜いて殺すしかありません。それができれば、その後はいつでもそのドアの向こうを見ることが出来ます。しかし、それをするなら事前にその雄牛の事をよく調べることが重要です。内臓に入っていないこと(4期の確認だったのか、言葉がわからない.)を再度確認するしかありません。金曜日の10時に調べます。
処方箋を明日から書きます。(明日から治療を始めますの意味か?)
私には放射線をもっとも有効に使う力があります。
それは私にしか出来ません。
Dr.は、各種自分で開発した治療方法については、自分自身の体ですべて実験を行ってこられたようです。
Dr.Sheefにお土産。A氏から扇子と歌麿の絵の入った風呂敷きと私からミニチュアの時計が入った屏風を渡すと、ことの他喜んでいただいた。
14時10分終了
病院を出ていつもの駅舎の喫茶で話し、夕食のパンを買って、15時過ぎにタクシーで帰ったと思います。回りを片づけて、フロッピーの整理をして18時でした。18時過ぎにフロッピーの整理をしながらA氏のパソコンの先に電話をつないで、発信音を確認すると音が何もしない。と、なんとイギリスのMSNに接続してインターネットが使え出しました。私はS女史が貸してくれたマビカのFDをパソコンに取り込んで、フロッピーを5枚サービスしてS女史に返しました。今、ここまで書いて19時です。ようやく、UKのMSN経由でA氏のメイルが取り込めました。A氏は、150通ほどメイルが来ているといっていました。この日記のDr.Sheefの今日と昨日の言葉を書いて23時に風呂に入って寝ました。
悪性リンパ腫とドイツへ(6)
2000年01月20日(木) ボン4日目
6時50分に起きたとき、A氏は顔を洗っておられました。今日の朝は、ドイツ初日から泊まっていたこのホテルをチェックアウトして、ジャンカークリニックのほとんど隣のホテルに移ります。荷物を整理して8時40分にこのホテルを出てタクシーでその新しく泊まるホテルに行き、荷物だけ先に置かせていただきました。そして9時10分にジャンカークリニックに入りました。
9時15分
その担当女性は中国系の顔をしていましたが、胸部のレントゲンを何とか私一人で撮りました。当たり前ですね、レントゲンは照射の時には本人しかその部屋におれません。といってもこれが大変、スーハースーハーで何とかわかったような、そういえば普通は胸のレントゲン写真を入院時とか数多くとりますが、
「はい、吸ってー、少し吐いてそこで息をとめる。」
こんなドイツ語私にわかるはずがありません。
ボディランゲージも限界です。なんせ私の頭はすでにパニック状態ですから、日本でレントゲンをとる時にどうするかなんていう理路整然とした思考はぶっ飛んでいます。そこにドイツ語と英語の話せるS女史登場。エアーとか、インとか私にもわかるはずと彼女が思う英単語を並べていったんだろうなあ、もうそれも忘れてしまいました。極度に精神的なパニックに落ちいっている間の出来事は、一瞬一瞬即ぶっ飛んでいきます。
疲れました。
Can you speak English
とか、聞かれましたが、それも答えに窮しました。なんせただ今パニック真っ最中でしたから、もういやです。
9時30分
胸部レントゲンを終わって、待合室でそのまま待って、10時にDr.の話しを聞いて10時半にホテルに帰りました。11時過ぎまで朝食を食べる部屋でコーヒーを飲んで、明日10時からCTスキャンの予定らしいです。ということは、胸のレントゲンだけで今日は終わりでしょうか、
モノクロナールantiCD20を私は2年前から使っています。
胸部レントゲンは問題ありません。
(この写真はひょっとしたら今も私の自宅にあるかもしれません、まんまるい脾臓のCTとか、)
血液検査も問題はありません。
そけい部の調査は明日やります。
抗癌剤だけの治療では、抗癌剤の使用から再発までの時間は、だんだんと短くなっていくだけです。
レディエーション・アナボリックステロイドを同時に使います。
すべての細胞はタンパク質を要求しています。
普通の細胞はそれを取り込みますが、ガン細胞にはその受容器がありません。だからその処置をした後で微量の放射線を与えることが非常に有効な結果となります。
顔がリンパ腫でむくれ上がったパリスも、同様に“完治”しました。
あなたは脊髄には過去入り込んでいない、肺にもない。
ここでは、そのあなたの状態は非常に軽症の部類に入ります。
最初は、今回治療に関して時間のないあなたには、飲み薬を持ち帰らせるつもりでした。しかし、それはDr.がOKを出すまで飲み続けなければならない。でないと、何の意味もない。しかし、その事は簡単なようで非常に難しい。それを今回するかどうかは今の時点では決められない。
S女史は、Drの年齢を、80歳に見えるけれども70歳前ではないかという。自分で、自分の体を使って各種の治療実験を続けてきた為に、Dr.の体はあまりよくない。事実脊髄にも問題が発生しており普通に歩ける状態ではない。
Dr.Sheefの一番弟子がニューヨークにいる。(中国系か?)
B氏は2300人のガン患者を抗がん剤で不幸な結果に追いやってきた。B氏は、今はハワイで各種ヒーリングを取り込んだヒーリングセンターをやっているが、博士の考えを一人でも多くの人に伝えたいと、博士をハワイに呼び、講演会をした。B氏はインデアンの薬草から何から、ガンに有効な抗がん剤に変わりうる物を捜し求めていた、そしてDr.Sheefに体の60%がリンパ腫の状態を助けられた。B氏は、その後S女史と知り合い、彼女に、物理的な抗がん効果で先進的な研究実践活動を続けるDr.Sheefをあなたに助けてもらえないかと話した。しかし、彼女はドルフィンも太陽もないボン行きについてはかたくなにそれを拒んだ。そして、そんな彼女もついに自分が関わり会った人の流れの中で、ボンに行かざる得ない状態に自らを追い込むしかなくなってしまった。
ホテルにチェックインをして部屋に入り、14時に昼食を食べに外に出て行き、16時過ぎまでレストランにいたでしょうか、A氏とS女史は非常に長話をされていました。A氏が横を向かれていた時か、S女史は私に
―――ラーフ――― と、言いましたが、
(難しそうな顔をしないで笑いなさい、笑顔は重要よ、か、)
(そう、その笑顔よ、なのか、)
(―――わかるはずはありません。彼女も英語は本職ではないのです。―――)
駅舎でパンを買って、17時にホテルに帰ってきました。
悪性リンパ腫とドイツへ(7)
2000年01月21日(金) ボン5日目
雨は降りませんが、曇っています。
寒さは、昨日よりはましでしょうか。
今日は、移ってきたジャンカークリニックの隣りのホテルでA氏とツインの部屋に泊まっています。8時半に起きました。A氏を起こそうかどうしようかと思いながら9時半になりました。先に下に降りて私だけで朝食を始めました。それはS女史が朝食を終えられたところでした。
10時5分に病院の待合室に入りました。
10時15分に2階の待合室から下に降りました。先日腹部の超音波を撮った所です。4人待たれていたと思います。何かわかりませんが、10分?かけてゆっくり飲んで下さいと言われて、薄い薬液700ccを飲みました。
10時半、静脈注射のための血液のルートを手の甲から取り、過去のCTの経験、アレルギーの可否を聞かれて、その書類にサインし、ルートのためだけで、何も薬は入れていません。眼鏡をかけた女医さんです。
10時45分から11時15分まで腹部のCTを取りました。
吸って、吐いて、止めて、吐いてがやはりわからずに、S女史に助けてもらいましたがその1サイクルがなかなかなじめませんでした。担当者も困ったと思います。その後いったんホテルに帰って11時半から12時半まで、ホテルのロビーでコーヒーを飲みました。
昨夜の話題はS女史の現在の環境から、過去についての話しでしたが、今は主に子供の事などです。家族の写真を見せあいました。S女史は今の程度の私の病気の状態なら自分で十分治せるといいました。
12時半から14時までS女史のヒーリングを受けました。A氏からもらったヒーリングのテープをパソコンから流しています。香水の入るくらいの小さな入れ物に入れられた物が10種類くらいあったでしょうか。好きな色を3種類選んでくださいとのこと。最初に選びたい色で似たような色があったので迷いましたが、選ぶと最初に選んだ色はドルフィンカラーとの事。次に裏返しにされたカードから選んだものは、ハートのマークが付いていていい物だよといわれました。香水?をかがされてからもう一つ選んだカードには、ハッピーとエンジョイと書かれた小さな鳥の絵がありました。それからはベッドに横になって目を閉じてされるがままになっていました。アロマセラピーでしょうか、複数の種類の香水か何かを使われています。私の体に布をかぶせて、たぶんその上にドルフィンの置物を置かれています。ひざ、手のひじ、胸、肩を握られて、足の裏を揉まれました。ヒーリングの影響かベッドで横になった為かわかりませんが少し暖かくなってきました。貰った液体を、朝夜両そけい部と両脇の下、両首に付けるようにいわれました。S女史が描いた絵の中から1枚選べとのことなので、ドルフィン等の絵の中から始めてみた優しそうなその絵を選びました。その後は15時までぼけっとしていて、お茶を入れて15時半に内線でA氏に呼ばれるまで、窓を開けてぼけっとしていました。
今ここに書き込んでいるのは23時28分です。ここに来てから風呂から出た時に腰から下がかなり痒くなっています。国内にいた最後の金曜日頃からずっと便秘です。取りあえず今から風呂に入ります。風呂から上がって痒いかどうかが楽しみです。
今23時57分。風呂から上がって家に電話をした所です。自宅では何も変わったことはないようです。便が出ていないので下剤を飲みました。1錠と20滴です。
今日の出来事の追加です。
15時10分に再度病院に行きました。待合室には10人前後です。16時10分くらいから16時25分くらいまででしょうか、Dr.の話しを聞きました。
CT画像に付いて1枚1枚上から順番に説明を受けましたが、勿論その話される意味は私にはわかりません。
ストマックの中にリンパ腫がある可能性がある。見てわかるように非常に胃が鮮明に写っています。ここで多分S女史が説明をしたはず。朝の9時半にパンとジュースとコーヒーを飲んで、CT写真がその1時間後、胃がもっとも活動している状態の時です。今日がCTだとの確信が持てず、クリニックの説明も十分でなかったためにミスりました。
オーバートリートメントの形跡がある。
ここで、Dr.SheefはDr.シュミットを呼ばれて同席させました。
Spleenが少し腫れている。(?)
タバコを吸っていますか? 血管が縮んでいます。タバコの為に、血管の外壁にカルシュームが溜まっていると思います。タバコは止めたほうがよろしい。
骨髄への注射は痛いが、このクリニックの近くに一人だけ痛くない注射の出来るDrがいます。(この後、――シェフ―― と言って電話をしたのはそのドクターにでしょうか?)
アイゼンハワー大統領が受けた記念すべき薬を骨髄にインジェクションする事を、明日から始めます。(この意味は論理的におかしい、訳の間違いかもしれません。)
CTは、内臓にリンパ腫があるかどうかを調べたものです。
内臓の中を見るために造影剤も入れました。
ソケイ部のリンパ腫は右のほうが大きい。
明日その治療を受けたら、すぐに晩飯晩飯と言うように根本的にバイタリティの大きさが変わってきます。
免疫システムを明日から強化します。(4日間、Dr.SheefはアナボリックステロイドをB氏に続け、6日目には退院させた。)
この後、Dr.Sheefは、“ディナー、ディナー”と、言って退席した。
その後ホテルのロビーでコーヒーを飲んで、A氏はS女史からDr.の話されたこと(ドイツ語)の通訳を受けたが、意味の伝わりがもう一つのようです。当然、私にはS女史が英語に訳されたそのことのほとんどがわかりません。
ただ一つ言えることは、Drシェフは今回の治療に自信を持っているという事です。治療がいつ終わるかはまだわかりません。
ボンにも日本レストランがありました。
MIYAKO bornkeimerstr74
53111 BN(Nordstadt)
TEL 63 66 37
KAMIJO Michaelplatz 6
53177BW(BGO−City)
TEL 35 79 42
19時前でしょうか、日本料理店のMIYAKOに行きました。タクシーで5分とかからなかったと思います。でも、何故か日本語のわかる人は誰も店にいません。わけがわかりませんがおいしかったです。
そこからタクシーで、帰りにコンビニに寄って飲み物とワインを買い、ホテルに帰ったのが21時前後だと思いますが、S女史から夕食時にいろんな話しを聞きましたが、その多くは思い出せないかもしれません。
日本人レストランでの夕食時の話し。
Take care
あなたはわかっていない。もっとあなた自身を大事にして下さい。
(何からこの話しになって、その結果はどうだっかを思い出せない。この話しが今夜のすべてだったと思うのだが、)
それが出来れば、もっと幅を広げる事が出来ます。
今書いている時に思ったのですが、何故彼女がボンのステーションの書店で、日本人がドイツ語で書いた“霊気”の本を見つけたのか?そんな本がベストセラーとはとても思えない。禅の話し。
S女史はデンマークで一度、ハワイでは何度かUFOを目撃しその内一度はジャーナリストに電話をかけてその現場に来させてユーホーの目撃に立ち会わせた。また彼女は12歳の時にイタリアで2年間過ごしたことがある。あなたのお父さんやお母さんのトラウマを解決するために、この言葉を必ず、一日に一度言って下さい。
私は、あなたのその重要な問題を解決できます。
K******** forgive you.
With love end
Release you from my life.
Dr.Sheefはビールが大好き、アル中に近い。ドイツにはそんな人が多いようです。
フロリダのシャークは、獰猛です。地中海は非常に寒くドルフィンはいません。ハワイのシャークは、非常に優しく親切なのです。
何故か眠る気になりません。
横になって、インターネットから取り出してプリントアウトをして持ってきた、白血病、アメリカ闘病記を読んでみます。今1時22分です。2時半無性に痒みが出てきました。退院以来かもしれません。結局寝たのは3時半頃だったと思います。
悪性リンパ腫とドイツへ(8)
2000年01月22日(土) ボン6日目
起きたのは9時20分です。
A氏から朝食の誘いの内線がありました。そして朝食でパンを食べかけて気がつきました。疲れからでしょうか、右の上歯の最奥が以前からぐらついていたのですが、そのぐらつきがひどく痛みが出てパンが食べられません。10時過ぎに朝食を終えて、部屋に上がりトイレに行きました。下剤が効きました。若干片づけをしてもう11時50分です。12時には病院に行く予定です。病院にでかけたのですがその途中でトイレに行こうかどうしようか迷い、そのまま下に降りましたが下剤が効いています、再度部屋のトイレに戻りました。今日2回目のトイレです。
12時20分に病院に入りました。
今日は土曜日で病院は休みです。玄関の受付というよりも守衛室前の入り口だけはあいていました。外来に患者さんは誰もいません。それでもそこで待っていると少しずつ患者さんが増えていきます。ホテルで顔を見かけていた人も一人ここに来られています。13時半過ぎにドクターが来られました。他にはDrも看護婦も誰もいません。
14時でしょうか、
最初に診療を受けました。筋肉増強剤(アナボリックステロイド)の筋肉注射をお尻に受けました。ちまたで噂があるようなのですが、Dr.がノーベル賞を受けられる事を希望します。何といっても、Dr.自身にお尻に2cc前後の筋肉注射を受けたただ一人の日本人になる可能性がありますから。このアナボリックステロイドは、筋肉増強剤で、若干Dr.Sheefが組成成分の混合の割合を変えていると聞きました。
アナボリックステロイドを西ドイツのアデナウワー首相に注射した事から、アデナウワー記念注射と呼んでいる。
あなたの細胞は、数多いCHOPによってかなり傷められています。それを、このアナボリックステロイドで再生します。今回は、1日1回、3回を予定しています。
Dr.の部屋に入るなり、
“元気になったかね?”
と、言われた。すかさずS女史が、
“何もまだしてもらっていないよ。”
Dr.は、
“ああ、そうだったか。”
“じゃ、打とう。”
これで、今日は終わりました。
14時半にホテルに帰ってきてS女史は買い物に、私は若干部屋を片づけて歯が痛いので、何もせずに横になっていて、17時に起きてパソコンを見たり、A氏から預かったB氏の文章をパソコンに打ち込んでいました。A氏の東南アジアでのお知り合いの親戚の人がこのボンに住んでおられて、その人たちが私たちに会いにこのホテルに来られてタクシーで食事に出ました。その前に外出から帰ってきこられたS女史から歯の痛み止め薬のプレゼントをいただきました。ありがとう。
昨日も行った日本食レストランに行き、寿司やすき焼きなどを食べました。私はその店におられる一部の店員さんを日本人と思っていたのですが、ほとんどがベトナム出身のようです。そこで注文した刺し身も今日初めてお出会いした東南アジア出身のC氏が食べてみればおいしかった様子。すき焼きも気に入られたようです。でも、少し量が多かったか、ドギバギと、カウンターにいいに行きました、持ち帰りの事らしいのですが、するとその店のサイゴン出身の板さんに、“べんとう”と、日本語でいわれ笑ってしまいました。今私の近くにおられる今日始めてお出会いした3人の人は、そのみんながここではジャンカークリニックが有名であるといっておられました、勿論ここボンで乗ったタクシーの運転手さんはみんな知っていました。でもクリニックの建物自体はそんなに大きくはありません。外科もあると思うのですが、まだその場所やDr.を確認できていません。
21時前後にホテルにまっすぐ帰りました。
S女史は膵臓がんの7年目です。彼女が講演をしている時、その多くの人がその事を信じてくれません。すい臓がんは一般的に非常に難しい病気といわれているからです。彼女は、私に多くの水を飲むようにといいました。
今でも、彼女は毎日4リットルあまりの水を飲んでいるといいます。抗がん剤をいれた後には大量の水分を入れて、その成分を早く体外に出す必要がある事は私も知っています。彼女の話しはそれを意識した話しのようですが、それとは別に大量の水分補給を彼女はすすめています。
“この話しは、これが最後よ。”
と彼女がいったその意味はわかりません。
2時まで、FAXの文面をパソコンに打ち込んで2時半に寝ました。
悪性リンパ腫とドイツへ(9)
2000年01月23日(日) ボン7日目
A氏は日本人で日常会話レベルでの英語が話せます。
S女史はデンマークのヒーラーで、デンマーク語、英語、ドイツ語、イタリア語が話せます。フランス語のことは聞き忘れました。
Dr.は英語も話せますが、病院ではドイツ語で話しをされています。
私は日本語が話せます。――おれはにっぽんじんだ。――
今日は9時半過ぎに起きました。9時45分に下に降りて食事。
S女史から11時までヒーリングサウンドの講習を受けていました。もう一つ、どうすればチャクラを開いた後で同じサウンドでチャクラをクローズするのかがわかりません。部屋に上がって、少しB氏からのFAXをパソコンに打ち込みました。
12時55分に昼食をとらずにクリニックに行きました。
14時にDr.が来られて、首と脇のリンパを触診された後で初めて隣の診察室でソケイ部の触診をされました。そのあとかなりな時間A氏とS女史とDr.が部屋で話されていました。今日は早く寝て体を休ませる必要があります。
High gladeはそのすべての腫瘍細胞を殺せる。
しかし、Low gladeは寝ているふりをしているものもあるのですべてを殺せない時もある。
明後日、骨髄の検査(マルク)をします。結果が出てその中にリンフォーマがあればもう少しここにいる必要があります。
動脈の中にカルシュームが溜まり壁になっています。タバコを止めなさい。
脾臓がかなり腫れています。
普通脾臓は三日月型をしているのですが、今のあなたは丸くなっています。
(CTを受けた日の朝、朝食を食べたのでその影響が出ている可能性もある。)
明日は9時に来て下さい。
10月3日のニューヨークタイムスの1面を見ておいて下さい。
そこに私の治療方法が載っています。私の安価でがんに対する有効な治療があるのに、それを採用せずに抗がん剤治療をしている事実に対して任意保険の適用は認めない。と保険会社が判断した。そしてそのことが裁判になった。その記事がそこにでています。
私はどうしたらいいのかわからず、新しい患者さんが入ってこられて話されていたので、診察室から出て帰りかけると、呼び止められました。やはり今日も注射があったようです。別の医師がアナボリックステロイドを昨日と反対側の臀部に筋肉注射してくれました。
ホテルに帰ってロビーで少し話して、クリニックで一緒だったかなりしんどそうで心配なおばさんもこのホテルに帰ってこられました。今日クリニックで2歳前後の男のお子さんを連れたご夫婦はアメリカのノースカロライナから、昨日はハワイから来られていた患者さんがあったようです。
昨日お出会いした東南アジアからここに来られたC氏にベンツで迎えに来ていただきました。そのC氏の同郷の女性N女史がボンにあるその国の領事館に勤めておられるのですが、その弟さんと私が今回のすべてをお世話になっている日本人のA氏との間に交流があるのです。
寄らせていただいたのはN女史のアパートでした。
アパートの外からボタンを押して、奥さんが部屋から玄関のセキュリティのボタンを押して開けられたのでしょうか、中に入ってエレベーターで部屋の階まで上がりました。
ケーキを焼いていただいていました。
コーヒーを飲んでしばらくするとディナーが始まり、中華のはるまきを食べて、ワインを出していただいて、ハンバーグステーキ、春雨風のヌードルに野菜炒めを合わせたもの、ブタと焼き鳥の串、えびを炒めたもの、マンゴスチンとアイスクリームとキウイのごちそうでした。テーブルにはローソクの灯りが揺らいでいます。ホテルのロビーにある応接のテーブルにもローソクが置いてありました。食事を終えたときに、19歳ユニバーシティでコンピュータを学びたいという長男さんが帰ってこられました。そして奥さんの友達が偶然来られて話しに加わられました。昨日のC氏ご夫妻も同席されていました。
21時に退室しました。
ワインや少しのおみやげを私たちもお渡ししていましたが、息子さんにシャンパンをお土産にいただきました。食事に出たものもお持ち帰りでいただきました。外に出ると星が出ていました。冬の曇り空ばかりのボンで初めてのお星様です。
これだけ曇りの日が半年も続き昼の時間も短いとなれば、カフェテラスが外に出るのもよく分かります。みんな太陽が恋しくなるのです。おまけにここの冬は長い。朝は10時半になっても薄暗く、15時半になればもう夜が近づいてきます。ろうそくに火を灯したくなります。
帰りもC氏に送っていただきました。A氏は買い物で私は車に残っていました。やはりここドイツではテレビで見たように冬でも車の停車中はエンジンを止められます。タクシーの運転手もみんなジャンバーを着たままで運転しているのはその為です。停止時にすぐエンジンを止めるから寒いのです。クリニックでは、待合室に入る時、診察を終えて先に帰られる時、みんな挨拶をされます。日本はどこにいったのでしょうか、
今、21時47分です。今日は私の次男の誕生日のはずです。ここと日本の日付がどうなっているか私にはわけがわかりません。その事を追いかけるのはやめます。今日は早く寝なさいとDr.に言われていました。
風呂に入って、S女史のヒーリングを受けて寝ます。
今日のDr.の話しを書くのは明日にします。
23時まで、S女史のヒーリングを受けて、それでも眠れずに1時ぐらいには寝つけたと思います。何故か目が覚めたら、2時半でした。その後目が覚めたのは予定の7時半でした。
悪性リンパ腫とドイツへ(10)
2000年01月24日(月) ボン8日目
BONでの生活もあと、2日になりました。7時半に起きて、顔を洗って一人でホテルのカフェテラスでコーヒーを飲みました。ここに来てから始めて空が晴れています。このテラスの外は明るいBONです。
8時57分にホテルを出てクリニックに行きました。
Dr.Sheefは、別のDr.Dr.(Dr.SheefもDr.Dr.ですが、それは別の分野のそれぞれで博士号をとられたという意味です。)の所に私たちを連れて行きました。その人はここジャンカークリニックのオーナー系列なのかもしれません。ローグレードのあなたはここに半年いなければなりません。と彼は私にいいました。その部屋を出てDr.Sheefの部屋に戻ったS女史はDr.に、「彼一人で半年もここにいるなんて出来ないじゃないの。彼(S.Kのこと)はドイツ語も英語も出来ないのよ。」といいました。
筋肉増強剤の筋肉注射を今日もDr.から受けました。
antiCD20(リッキサン)を使ったほうがいいかどうかは、明日骨髄液を取り出して(マルク)、検査をした後で決めます。その為に明日は,その検査をします。その注射のプロがいるのは別の病院で、そこに11時にタクシ−で行って下さい。
昨年の10月1日にDr.Sheefはこのクリニックを定年で退職したはずなのです。何故今もここで仕事をしているのか!と、今回の別のDr.が言ったようです。Dr.Sheefは、それでもジャンカーが私を訪ねてここに来るのに私がそのことをほっておいて退職してしまう事は出来ない。ハワイで、ヒーリングを受けなければいけないのは私自身だ。Dr.Sheefは、日本に帰ってからの私のために、治療のクックブックを渡すと言っています。でも今日であった別のドクターは退職したはずのSheefが何を言っている!。と言う感じでした。私にCHOPが多すぎるとこのDr.もいいました。オーバーCHOP,オーバートリートメントです。CHOPの副作用で、動脈硬化を起こしている可能性が強いともいいました。
ノーベル医学賞を巷でシェフは噂をされていますが、現実の日々はそのようなものです。残念ですがここでのDr.にはただの勤務医という一面もあるのです。彼を慕う若いDr.や患者もいますが、彼にとってこのクリニック内ではそんな難しい問題も多いようです。
Dr.Sheefは、今日風邪を引いていました。このジャンカークリニックにも数の予測はできませんが多くの職員がいます。確かにここの外来で今回出会っただけでもUSAノースカロライナやハワイ、フランス、イギリスから患者さんが来られていますし、地元のタクシーはここをみんな知っており、もちろん地元の人もこのクリニックのことを悪くは言わないのです。しかし経営的に見て患者さんの数はどうなのでしょうか、入院病棟に行ったことがないので私にはそれはわかりません。別のDr.Dr.に呼ばれたのは偶然クリニック内をその人が調査する為か、カルテが回りそのカルテが目に止まったのか、院内の規定で2人以上のDr.がカルテにタッチする事になっているのかなどです。
でも、その別のDr.Dr.の部屋に案内したDr.Sheefが、その部屋に入ってその部屋のDr.と握手をした時の表情が、今になれば少し気になります。
ホテルに帰って、S女史がA氏に上記を報告した後でその報告を私に訳してもらいました。11時半に部屋に上がって、スーツケースのキーを探しましたがやはりありません。旅に出ると何かが起こるものです。スーツケースのキーの事はあきらめました。
今、13時15分です。
下に降りて、BONに住んでおられる東南アジアから移住してこられたC氏の車でN女史とともにケルン大聖堂を案内してもらいました。高速道路を120Kmから140Kmのスピードで走って30分でケルン大聖堂まで行けたでしょうか。車の中でS女史に言われたとA氏が私に言いました。Mr.S.Kはヒーリングの事に付いて何もわかっていないと。私が英語を話せないための単なる行き違いだと思うのですが、そのことが彼女独特のバイブレーション、インスピレーションならどうしようもありません。しかし彼女のヒーラー部分は、シャーマンと同じように24時間の物ではなく神につながる時間とそうでない時間があるようにも思えます。できればそうでない時間に感じられた事と思いたいものです。解決のできないことをここボンで考えてもポジティブではありません。S女史はポジティブ大好き、ネガティブ大嫌い人間のヨーロピアンです。
今日はすごく寒い。今日の晴れた日はとても寒い。平日ですがここケルン大聖堂には多くの人が来られていました。S女史に言われてお参りをしました。彼女は敬虔なクリスチャンでもあります。ここはかなり有名なようです。なんと日本語のパンフレットもそこに置かれていました。
大聖堂の見える近くのカフェでコーヒーとラザニアを食べました。店の中にも日本人らしきお客さんが何組かおられるのですが、ベトナム人の板さんのこともありますし、台湾の人や香港、東南アジアの人と日本人との区別に自信がなくなってしまいました。そして私たちはボンへ。ホテルに帰る前にBONの書店に入りました。駅のすぐ近くの繁華街のいつも通る所と反対のほうに本屋さんの並んでいる所がありました。大きな店です。本がまた安い。日本の半分の価格で、2000円以上の本はその3分の1の価格設定かと思われます。その店でA氏に言われて吉川英治の宮本武蔵英語版をS女史にプレゼントしようとすると、私が先にN女史にプレゼントをされてしまいました。タロットカードです。
夕食を食べる予定の”上海”まで送ってもらい、チャーハンとやきそば、ワンタンスープを食べました。アイスクリームとコーヒーもです。デザートの前に梅酒が出ましたが、おいしくて1人で3人分飲みました。
その近くの広場に大きなベートーベンの銅像が建っています。ここの人にベートーベンといっても通じませんでした。ダダダダーン。は通じます。ベーソーベンなら通じます。疲れた。
昨年の12月に、Dr.はまたハワイにヒーリングに行かれたようです。食事のあとでボンからフランクフルトまでの電車の切符を買いました。ここボンにいるのもあと少しです。ホテルに20時半に帰ってきました。
今、この日記を22時半まで書いていました。
23時半にベッドに入って寝ました。寒さを感じて3時ごろに目を覚ましましたが、夜中の何時かに暖房用のスチームが切れるようになっていたのでしょう。
悪性リンパ腫とドイツへ(11)
2000年01月25日(火) ボン9日目
8時45分に起きてトイレに行って、起きたままでうとうとしているのだと思っていましたが寝てしまったのかもしれません。起きれば9時45分でした。すぐに朝食を食べに下へ。誰もいないのでテラスで一人で食べて、朝食を終えて部屋に上がり顔を洗って、10時半に下に降りました。少ししてS女史が降りてきて、10時50分にA氏の部屋に電話をして、Dr.Pのクリニックに行きました。
そこで骨髄せんし(マルク)。腰に麻酔をして、2回、別の場所に針を刺し込んで、取ったかのは3年ぶりのマルクですが、3回目は本当にいやですようと思ったら2回で終わりました。リンパ腫は非常に小さいといってもらっても、何も嬉しくはありません。今は大きくなりつつある所なのですから。化膿止めの抗生物質でしょうか、椅子に座って点滴をしてそのまま30分休みました。顕微鏡を覗いてきたDr.Pは何も問題はないといいました。ただし、大学に送って結果が帰って来るまでに14日か、15日かかるとの事。これは培養検査の事でしょうか。ビルがどうのこうの目の前でといっていたから、大学での検査のお金が確定していないと言う事でしょう。どうもDr.PはDr.Sheefの友達かもしれません。英語はもう一つだといいますが、マウイにも行ったし3年前には日本の京都にも行ったといわれます。
「オー、フジヤマ・ゲイシャサン。」
へえぇ、それって漫画の世界だけじゃなしに本当なんだ。へんに感心した私でした。ミニアウスなので、3〜4日は安静にしているようにとの事。シャワーはいいが、風呂には入らないように。
507DMを払って13時前に帰りました。
14時に病院に行って、Dr.は急患か何かで出ているので遅くなるとの事。今日までの会計をしました。1660DMでした。
ホテルのフロントで少し話しをしてS女史はクリニックに、A氏はは買い物に行かれました。私は部屋で休んでいると16時前にA氏から病院に行くと電話がありました。
16時過ぎにDr.に話しを聞いてホテルに帰り、S女史とA氏と長話、18時半に東南アジア出身のC氏が迎えに来て、その途中で町に出てA氏はトランプと、チョコレート、私はワインを買いました。A氏はお土産に花を、S女史も大きな花を買っていました。今日は、C氏の家、2階建てで、大きなリビングです。C氏はドイツにいるおじさんを頼って、船で東南アジアから1ヶ月かかってイタリアに着き、そこから車でドイツへ。C氏のおじさんはすでに東南アジアの故郷に帰られたと言う。今夜お世話になるC氏はタクシーの運転手をずっとされていたらしい。言葉も何もわからないこの地で一軒屋を持つまで頑張られました。ごくろうさまです。もう仕事はリタイヤ。一度は故郷に帰りたいともいわれていました。娘さんはクラシックバレエをやっていて、ドイツの青年と恋愛、結婚してお子さんもおられます。スープ、春巻き、サケの焼き物、春雨の炊いたもの、えびの炒めたもの、魚の揚げたもの、カレー、デザートでした。これはドイツ料理と東南アジア料理とのちゃんぽんでしょうか、このC氏の奥さんにS女史はとてもとても気に入られたようです。人恋しいのでしょうか、ぴたっと寄り添って離れません。今回何故こんなに親切にしていただけたのかわかりません。このC氏ご夫婦はA氏とは何の関係もありません。BONに住んでおられるA氏の間接的な知り合いの同郷というだけです。
11時半にホテルに帰ってきました。足を洗ってからこの日記を書いています。Dr.Pのクリニックからこのホテルに帰ってきた時の話し、そのあとジャンカークリニックからここに帰ってきた時のA氏とS女史の話しは次回にします。
Dr.Pのクリニックから帰って、
明日夕刻にマルクをしたところのばんそうこうを変える事。
あなたが、リンパ腫の患部を触るたびに、7番目のチャクラエネルギーを息を吸って吸い込み、手を患部に当ててゆっくりと吐き出しなさい。その時にリンフォーマを殺すというよりも、それが小さくなって行くと言う事をイメージしなさい。あなたが患部を触るたびに、“ああ、病気なんだ。”と自覚する事はマイナスのイメージで患部を育てる事になります。だからそれはだめです。私の体はこの病気と今日から闘っていくのだと考えて下さい。S女史の膵臓がんも治りきったわけではありません。気孔家のN氏の気は、同じくK女史の立てなかったお母さんを助けました。それは事実です。そのK女史はS女史のチャクラ他の理論的な教えに心酔しています。気孔家のN氏を次から次からたずねて相談に来る人は3万人。
今日、食事の時に心を開いた時にだけ汗が出なかったのか、
ペンドラム:宇宙からの信号を彼女が受け取れるもの。
シャーマントラベリング:自分が外出しているときに、イーグルを使って、自宅の様子を見にいかせる。家に何か起きていないか?
フォーク:鷹 イーグル:鷲
自分に備わっている、もっとも合う動物を見つける事が出来る。
ただし、S女史をたずねて来る人に、S女史がその人の動物を見つけるには2時間かかる。
トリートメント
バイブレーション
骨髄検査の結果は問題ありません。
ただし、詳細検査?は大学に送るので14日〜15日かかります。
Dr.Sheefいわく“確実に治ります。100% ディフィネットリーアナボリックステロイドが有効です。”
あなたは、今日来たから治るのです。
あと1年遅かったら治らなかったかも知れません。
ノーカミングアップヒアー
この話しをホテルのロビーでしていた私は、私のライターをポケットにしまいこんだA氏にライターを要求した。これは単純に私がタバコが吸いたかったのですが、、ライターを受け取った時に何故かS女史がローソクに火をつけて欲しがっていると思い素直にそれを実行した。この時S女史は本当にそれを私にして欲しいと思った所だったので非常に喜んでくれた。
今が、病気の始まりだと思ってくださいとS女史は言いました。
自分が自分のがんを克服するつもりになって下さい。
リ・コンプレッション(心のわだかまり)があります。
まず、心をオープンにする必要があります。
我を通さない生き方(?)、をする必要があります。
神様がモーニングコールのベルを鳴らしています。
帰りの飛行機の中で、自分の人生のゴール。(ゴールと言うのはおかしいが、したい事、これは家族や子供のための事ではなくて、あなた自身がしたい事です。)エゴイステックでも何でも言いから、自分のしたい事を10ヶ書きなさい。
日本についた明くる日から、必ず声を出してそれを言って下さい。
“今日一日を自分が、自分が幸福にするためにはどうしたらいいか!”
非日常的な事(これまでにした事がない事)を、毎日例え5分でも10分でもいいからして下さい。
1ヶ月経ったら、それとゴールを照らし合わせてみて、何かを付け加えてみたいと思えばそうしたらいい。
セルフデストロイインストラクション
神様は、もっとあなたが幸せになるためにあなたを作っている。
あなたは、もっとあなたの幸せのために自分自身を使う必要がある。
ヒーリングは自分が助けられた状態。自分が幸せな状態でなければ人に対しては出来ない。自分をヒーリングする事がもっとも大切です。
白い太陽の光があなたを包んでいる状態を思いなさい。
第3の目(サードアイ・おでこの下眉間の所にある。)から入る太陽エネルギーが、あなたの体を洗浄して、足の先、手の先、息を吐く息の中からネガティブな部分を出していく事を感じなさい。
そう言っても、それが出来ない日もあるでしょう
“私はまた、神様との約束を破った。
そんなネガティブな思いをする必要はまったくありません
神様はいつも許してくださいます
仕事のしんどさ、仕事で要求されること、それも宇宙の現象の一つです
今のあなたに、日本のあなたの仕事の仲間に対して何が出来るの
ここにいては何も出来るはずがないでしょう
幸せな人生を選ぶか、部下を掌握して不幸な人生を選ぶか
自分の責任だ、自分の責任だと思っても何も出来ない。払拭できない
もっと、自分の部下が仕事が出来るように神様にお願いするほうがベターだ
もう、土日には仕事は止めなさい
そうしているのは、あなたが自分から逃げたいだけじゃないですか
今回あなたに与えられた機会は誰にでも持てるものではありません
そんな機会は誰にでもは持てません
今回、私がB氏やDr.Sheefと知り合ったのはみんなあなたの為の前作業でした。(私は、私が、リンフォーマになったのはS女史とDr.Sheefと、B氏とのきづなをより強めるための物だったと言った。
氏談:テングウ:?仙人飛び降りの術
毎日毎日仙人の家で掃除に明け暮れていた修行者が3年目の修行を終えた時に、谷に向かって生えている木に登り、その枝から仙人の言うとおりに、まずは枝をつかんでいる右手を、そして左手を離してまっ逆さまに谷に落ちていく、その時一陣の強い突風が谷の底から舞い上がり、修行者は谷の上に見事に立つ事が出来た
1年目は飛び出せず
2年目も飛び出せず
3年目にようやく
S女史いわく。「人生は美しい。
悪性リンパ腫とドイツへ(12)
2000年01月26日(水) ボン10日
この日からは帰国して、会社での机上の整理を終えてようやく落ち着いた1月30日(日曜日)の19時半(日本時間)から書いています
1月26日水曜
昨夜は、ボン最後の夜のために興奮したのか、眠れませんでした。
寝付いたのは、3時半ころだと思います
8時50分に起きて9時20分にホテルで朝食。昨日と今日はここでの朝食は私1人だけでテラスのテーブルを使っています。昨夜“べんとう”にしていただいたケーキは、今その最後を食べましたがハンバーグは、時間がたちすぎたので捨てます。ごめんなさい
10時、クリニックへ
Dr.Sheef
あなたはこの病気では死なない
死ぬとしたら別の病気だ
あなたの骨髄の中にはリンパ腫細胞はない
最後の3回のCHOPの必要はなかった
あなたは今後半年は日に当たってはいけない
そのことは昔、私の先生が教えてくれた
学会で新たな発表をしたらみんなその治療方法を採用してしまう
しかし、本当に使うべき治療方法は患者によって違う
お尻に筋肉注射を2本、今日は秘書らしき人に打ってもらいました。これは領収書があるので品名が後で特定できるはずです
筋肉増強剤を2アンプル持ち帰りました。1週間後とそのまた1週間後に1アンプルずつ打つ予定です
クックブック(ボイステープ)がまだ出きていませんでした
15時にクックブックを渡すのでまた来てくださいとの事
そのあとホテルに帰って、Dr.Sheefの話しを若干訳してもらいました
最後に渡した私からS女史への手紙
あっという間の10日間でした
ありがとうございました
外国の人のそばに長くいたのは今回が始めてです
たくさんの事を教えていただきました
今日をスタートにします
たばこを止める事を約束します
私自身のための生活を進めてみます
日本に帰ってからあなたに手紙を書きます
自分自身を“Take care”することを、もう少し学ぶ必要を感じました
今回お世話になった多くの人に、素晴らしい世界が広がりますよう祈ります
もしも、私が英語を話せても、言葉ではお伝えできないかも知れません
本当にありがとうございました
12時に部屋をあける為にA氏の部屋に移りました
13時に、S女史の部屋にポストカードを届けに行きました
しばらくしてS女史から電話があり、カードは受け取るが他は受け取れないと、かなり興奮していたとの事
心配していたがクリニックに行く為に下に降りた時、S女史は私に“ありがとう”と言ってくれました
そのありがとうという言葉は、彼女がほとんど話したことのない日本語ではなかったか?
今となっては、その時の私の記憶は定かではありません
13時から15時まで部屋で休んでいましたが、S女史の電話で起こされました
15時にクリニックへ
16時近くになって、結局S女史がクリニックでの会計などすべてをやってくれました。Dr.Sheefのボイステープと、サービス品のCD20(リッキサンの錠剤があるわけないのに、このときはてっきりそれと思い込んでいました。)を持ってホテルに帰りました
ホテルでS女史からプレゼントをいただきました
16時半に、お世話になったC氏他3人がホテルまで見送りに来てくれました
なんと、みんなにプレゼントをいただきました。日本とはやはりその習慣が違う
17時40分にホテルを出てステーションへC氏の車で送っていただきました
みんなが見送りにきています。私たちよりもあとから出発するS女史のホテルにおいてある荷物は誰が見ているのでしょうか、
18時13分ボン発フランクフルト行きのレイルウェーに乗りました
フランクフルトエアーポート19時53分着
隣接のホテルシェラトンに20時チェックイン
最後の夕食はドイツへの旅行本に載っていたハムセットのドイツ料理を頼みました。それは22時半頃でした。S女史がその携帯からホテルに電話をくれました。S女史が乗った列車が違った。!、デンマークには帰らずにスイスにでも行くのだろうか、その電車は最終のはずです。彼女は駅で夜明かし
見送りに来たおばさん達がS女史のことを離してくれなくて、ばたばたで時間がなかったんだと思います。最終電車ですから他には便がないし、まちがって乗ったその列車もどこ行きかわからないと言う。ロシアにでも行くのだろうか、ヨーロッパのすべては地続きです
A氏にお尻のバンソウコを変えてもらいました
注射の為か、体が少しだけ暖かい
テレビ映画を見て、寝たのは3時頃です
もう来ることがないかもしれないドイツ
今はまだ私がドイツにいるのは事実です
ドイツのホテル、最後の夜
みんなありがとう
悪性リンパ腫とドイツへ(13)
2000年01月27日(木)
日本
10時45分にフランクフルトの空港に併設されているホテルをチェックアウトしました
空港内で朝食をとりました
13時13分発のルフトハンザ航空にて、一路関西空港へ
23時36分の時計を、機内で7時36分に直しました
もう何もかもドイツから離れていきます
そして、わけがわからない時差調整で、いつ日付が変わるのかはわかりませんが、たぶん
1月28日金曜日(JP)
まだ暗い飛行機の外、円形の地平線の向こう側が青く明るくぼんやりとしています。地球は丸く小さい。その上に私たち人を含めて無数の植物・生物が暮らしています。大気汚染、この小さな地球では環境破壊はあっという間に広がるのでしょう
7時37分?関西空港に着きました
空港にて朝食。A氏とは新大阪で別れしました
本当に何もかもありがとうございました
感謝申し上げます
大阪から妻に電話して自宅へ
13時自宅着
今回の旅行でお出会いしたすべての人へ
本当にありがとうございました
帰国して1週間後、持ち帰った薬を入れるために妻に初めての筋肉注射(皮下注射かもしれません。)をしてもらいました。妻はもちろん医療はしろうとです。人の肌に注射針を刺すのは初めてです。皮膚を突き抜ける強さが妻にはわかりません。入らない入らないといっています。なんとかクリアしました。(やけくそだったかも、
ドイツでの医療費関係他支払
飛行機は関空からフランクフルトまで安売りチケットで往復88000円だったと思います
ホテル代金はひとり5000円から10000円だったと思います
1月25日火曜
Dr.Pのクリニックで、507DMを払いました。(ドイツマルク)
ジャンカークリニックで、今日までの会計をしました。1660DMでした
1月26日水曜
ジャンカークリニックで、追加の最終支払い。112.36DM
総合計で日本円にして15万円から20万円だと思いました。今はユーロでしょうか、書いたドイツマルクは正しいものですから換算をしてください。もちろん保険は一切適用されていません
治療概略経
1月18日(火)16時にジャンカークリニックでDr.Sheefと初回面談
1月19日(水)血液検査、上部超音波、腹部超音波(別々の医師に)
1月20日(木)胸部レントゲン検査
1月21日(金)腹部CT
1月22日(土)Dr.Sheefが私のお尻に筋肉注射(アナボリックステロイド・筋肉増強剤
1月23日(日)Dr.Sheefが初めて私を触診。別の医師が、私のお尻に筋肉注射
1月24日(月)別のDr.Dr.に面会。Low glaidは半年はここにいなければいけない。CHOPのやり過ぎです。血管に影響が出ています。Dr.Sheefに筋肉増強剤を打ってもらいました
1月25日(火)Dr.Pクリニックで、骨髄液採取検査(マルク)その結果をDr.Sheefに聞きました
1月26日(水)2本の筋肉注射を打つ
1月27日(木)筋肉注射2本とANTICD20(リッキサンだと勘違い)を持ち帰りました
ここまで、できるだけ事実に忠実にお話ししようと思いました。なにしろ私は英語もドイツ語も話せませんから近くでされている会話を再現するのは不可能です。実はこの3ヵ月後にしこりが大きくなり、4月末にDr.Sheefからのプレゼント錠剤を飲用したのです。そしてそれから1週間でバリ島、突然そのバリ島での初日の夜に髪の毛がすべて抜けてしまいました。血液検査はしていないのでどこまで骨髄抑制が出ていたのかはまったくわかりませんが、そこそこ低下していたはずです。何も知らないことは幸せかもしれない。しかし、予想していないことが起こった時の不安感は最大規模のものでした
トップページから入る気分はデジカメのページで、少しずつ写真をお見せしたいと思います
|