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UTRILLO

-に関する画歴と裏話-

ユトリロ
Maurice Utrillo [1883-1955]

 

『その生涯』

 モーリス・ユトリロは1883年12月26日、パリのモンマルトルに生まれた。母はスザンヌ・ヴァラドン、父のボァッシイはアル中患者で、モーリスを認知しなかった。1891年、スペインの美術評論家ミゲル・ユトリロの養子となった。その後、母の住んでいたモンマニ−で学校教育を受け、ロラン・カレッジに学んだ。17,8歳のころから飲酒癖が始まり、1901年にアル中の症状をおこして、医療をうけた。母はその治療の目的で、絵を描くことを教えた。初めは気乗りしなかったモーリスも、やがて本格的に描き出す様になった。初めは母の画風の影響を受け、その後ピサロのあとを追って、印象派画風に入った。1907年、白の時代が始まった。サロン・ドートンヌに出品したのは、1909年が最初である。
 放浪と乱酒は彼の精神をいため、ときどき入院や監禁のやむなきにいたることがあった。1912年のブルタニューやコルシカの旅行は、自然の美しさが彼を元気づけた。しかしパリに戻ると、またも酒に耽溺して、狂態を演じては入院するのだった。
 最初の個展を開いたのは、1913年である。1918年に、酒のために心身をそこね、レピクピュスの病院へ入り、やっと退院してモンパルナスへ戻った時、同じ宿命の画家モジリアニと逢った。しかし、その夜のひどい酔態のために、また病院へひき戻されてしまった。
 脳をひどく悪くしてヴィル・ジュイフの精神病院へも入ったが、その不幸の状態の中から新しい画風が生まれていった。かくて色彩時代が始まる。彼は孤独の画家だった。師も友人もほとんどない。しかし、その孤独とひどい中酒性病患の生活の中から、美しい作品が次々と生まれていった。彼の心身は病的でありながら、その作品は繊細であり、健康である。
 1936年、モーリスはポーウェルと結婚した。母のヴァラドンが死んだのは1938年である。
そしてボーウェル夫人が、母のように彼の面倒をみてくれた。1948年サロン・ドートンヌで彼の回顧展が開かれた。1951年にマルケやデュフィとともにサロン・デ・チュレリにモンマルトの風景を出品している。

「美術の裏窓」昭和30年4月25日発行(式場隆三郎著)と「検索サイトでの情報」を参考に「ユトリロの生涯」を転記。(道)


     『たった一人の友』

孤独なユトリロに、たった一人の友があった。友人というよりは、弟子と呼ぶべきだろうか。それは、ゲイという退職の警官だった。彼は街角に小さな酒場を開いていた。ゲイはユトリロに部屋を貸した。そして制作を見ているうちに自分も似た絵を描き出した。だが師匠格のユトリロが酔っては乱暴するので、何とかして飲ませまいと部屋に監禁するのだが、脱走しては飲みつぶれったりべろべろになって帰宅するのだった。その近くにラ・ベル・ギャブリエルという酒場があり、「美しのギャブリエル」もまたユトリロの沈没場所だった。彼の作品の1つに、この酒場の外観を描き、隣の白壁に矢印をつけ、入口の軒の上に「わが生涯の最良の思い出あり、1912年10月、ユトリロ」と書きつけたものがある。入口に立っている女が、リー・ヴィジュである。
 ゲイはやむなくユトリロを部屋に閉じ込めたので、しかたなく写生にも出られず、絵ハガキから風景を描いた。しかし、それは生き生きとして、美しい作品になった。
 ユトリロの酒癖は、叫喚と暴行であった。しかし、さめると別人の様になって画架の前に座って制作に精進するのだった。アブサントやラムを好み、その渇えがたかまると、窓ガラスを破り、ドアを打ちぬき、服を裂いて飛び出してゆく。そして強い酒をあおりつづけて不覚におちいり、舗道や溝に寝てしまうのだった。雨が彼の酔いをさましてくれることもあった。朝の寒気が、意識を呼び戻してくれることもあった。

『ひとりぼっちを愛す』

 ユトリロは人がそばにいると、落ち着いて絵が描けなかった。妻がそばにいても、駄目だった。たった一人で、孤独になると初めて筆が動いた。
 しかし母だけは例外だったと言う。無情な父への反抗、父へのコンプレックスは、母を慕わせるのだった。
 母亡き後、彼は妻に頼りきっているようだ。酒に老けてゆく彼に反して、つやつやと肥った妻、それは姉であり、母のようでもある。その愛にすがって生きてゆくユトリロ。
 部屋にジャンヌ・ダルクの像を飾って、それを拝んでいる彼の姿は、妻よりも母よりも、もっと大きな力をもつ、永遠の女性の胸に抱かれたいからなのだ。父を呪い、憎み、男に反発するユトリロは、聖母よりもジャンヌのような、りりしい女にひかれたのである。


「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」1912年/54.5x74.0cm/油彩・カンヴァス/ポール・ペトリーデ画廊/パリ


『モジリアニとユトリロ』 

 1918年、ユトリロはピックピュスの療養所から脱走して、モンパルナスのラ・グランショーミエル街の安レストランで、モジリアニと逢った。やはり酒狂のモジリアニはその時33才で、ユトリロは35才だった。この二人の放浪画家は、大いに喜んだ。そしてモジリアニの世話をしている友人を訪ねて、二枚の作品を描いて金をもらい、それで大いに飲んだ。
 翌日彼らは安レストランの壁に絵を描き、そこで僅かな金をもらって、また飲み歩いた。金は瞬く間に使い果たして、あとは無銭飲食となって、警官に追われた。その辺の地理に詳しいモジリアニはうまく逃げたが、ユトリロは鉄道線路の柵に追い詰められて、つかまって留置された。ユトリロは錯乱状態だった。取り調べ警官も困り果て、また前に入っていた精神病院に収容されることになった。
 この二人の画家の運命は、非常にちがったコースを辿った。二年後にモジリアニは死に、その葬式の日に妻は窓から飛び降りて自殺した。だがユトリロはまだ生き長らえてる・・・。

 パリ郊外の街、ル・ヴェジネは晩年のユトリロが暮らした別荘地です。モンマルトルで酔いつぶれていた生活は遠い時代のものとなります。ユトリロはレジョン・ドヌール賞という勲章を貰い、フランスを代表する画家になったのです。
ユトリロは51才の時、リュシーという年上の裕福な未亡人と結婚しました。母親のヴァラドンが息子の行く末を案じて、この結婚をとりまとめたのです。結婚生活はユトリロを変えました。年上の妻を母親のように慕ったのです。お酒に溺れることも少なくなり、ユトリロの絵は高い値段で売れました。毎日、画商に請われるままに絵を描きました。白の時代の感性はどこへ消えてしまったのでしょう。ユトリロは画商の言われるままに同じ風景を何枚も描きつづけました。あの「ラパン・アジル」だけでも350枚は描いています。雪を降らせたり、季節や天気を変えたりして。まるでゼンマイ仕掛けの人形の様になってしまったのです。それが年老いた画家の奇妙な晩年の姿でした。
ある日、友達の詩人がユトリロに尋ねました。「もし、パリから離れ、二度と戻って来れないとしたら、どんな思い出をもって行きたい?」「漆喰をひとかけら、持っていくだろうね」「どうして?」「子供の頃、漆喰を集めて遊んだんだ」ユトリロにとってモンマルトルは故郷の街でした。
彼が帰ってきたのは亡くなってからのことです。居酒屋ラパン・アジルの傍らの墓地にユトリロは眠っています。72才の生涯を終えて・・・。


(「美術の裏窓」式場隆三郎著・昭和30年発行より転記)(道)



モーリス・ユトリロ美術館
place General Leclerc 95110 Sannois France
Tel.001-38-1-3998-2113/ Fax.001-38-1-3998-2011
開館時間 火〜日 10:00〜17:00
       金    10:00〜18:30




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