クロード・モネ
Claude Monet [1840-1926]

「庭園の婦人たち」1866/255x205/オルセー美術館
クロード・モネは、その幼年時代と青年時代を過したル・アーヴルで、最初の真の師、ユージーヌ・ブーダンに出会った。彼はまた、この町でオランダ人の風景画家ヨンキントンとも友好関係をもった。この二人の画家は、ともに頑固な反世俗主義者であり、彼らが、若いモネの将来の方向を決定する模範となったのである。
パリに出たモネは、グレイのアトリエに入り、ここでバージル、ルノワール、それに、おそらくシスレーにも出会った。1865年、モネは、サロンに2枚の風景画を出品し、好評を博した。その翌年の「カミーユ」(ブレーメン美術館)でも、同様に成功を収めた。その絵には、クールベとマネの影響が濃厚である。これに勢を得て、モネは、戸外の人物をまとめた超大作「草上の昼食」を描き始めた----マネへのオマージュともいえるが、同時に挑戦とも----が、これを、未完成のまま置いて、当時住んでいたパリ近郊のセーヴルで、この「庭園の婦人たち」にとりかかった。オンフルールに移って、1866−67年の冬の間中、この制作にかかっていた。このタブローが仕上がったときに、最初のイメージの新鮮さが保たれているようにするため、モネは終始戸外で制作することに決めたが、これは、この絵の巨大さの故に、かならずしも容易な作業ではなかった。この絵の左の方の3人の人物像のために、パリ近郊の、ある資産家の庭でポーズしたのは、カミーユ・ドンシュウで、モネは、1870年に彼女と結婚した。この〈俗っぽい〉主題の選択は、その現代性の故に、ゾラの気に入ったものであるが、光と影の強烈なコントラストを、さらに強調するテクニックの自由さと色彩の輝かしさが、1967年のサロンの審査員の拒否を招いた要因であった。この失敗が、モネの経済状態をいっそう悪化させ、彼の異端分子としての立場を決定的なものにした。この作品は、バジールが所有していて、のちにマネに渡り、さらに、作者自身の手に戻ったことを想起していただきたい。彼は、その栄光が確立したのち、1921年にこの作品を国立美術館に売却した。(アンヌ・ディステル)
「オルセー美術館-印象派・後期印象派名作集」[Editions de la Reunion des
Musees Nationaux]発行より転載(武) |

「カササギ」1869/89x130/オルセー美術館
この、きらきらとまばゆいばかりの雪景色は、伝統的に「かささぎ」と題されている。その主題からも、また様式からも、「庭園の婦人たち」完成の年、1867年にモネがオンフルールで描いた「荷馬車、雪の道、オンフルール」(オルセー美術館)や「オンフルール近郊、雪」(ルーヴル美術館)のような作品と比較してみたくなるのは当然のことと思われる。1868年10月、モネについて長文の記事を地方紙に掲載したル・アーヴルの新聞記者は、いつものように自然を前に制作にはげむ画家と行き会った様子を、次のように記述している。「あれは冬のことだった。何日か雪が続いて……石にもひびが入りそうなほどの寒さだった。私たちは、最初に小さな火ばち、次にイーゼル、最後に外套を三重に着こみ、両手に手袋をはめ、顔は半分凍りついたような男に気がついた。それが、雪の印象を研究しているモネ氏であった。」
「かささぎ」の制作年は正確にほ定められていない。しかしながら、最近のモネの研究では、彼がエトルタに滞在していた1868年の冬に描かれたと考えられている。(「エトルタの荒波」オルセー美術館もこの時代の傑作の一つである)大きな寸法の画面が用いられていることからして、モネは、単なる自然にもとづいた習作(エチュード)ではなく、<きちんと仕上げた作品(タブロー)>を制作しようとしていたのであろう。たぶん、彼には1869年の官展に出品しようという心づもりがあったようだが、このとき彼は落選してしまっている。
いずれにしても、「かささぎ」は、モネの青年時代の傑作の一つである。当時、彼は30歳にもならなかった。その率直な様式も、当時としては斬新なものだった。この雪景色のねらいは、言うまでもなく写実性にある(正確に描写された生垣、素朴な柵、農家の建物は、明確にノルマンディー地方であることを示している)。一切の説話的な要素は、故意に排除されている。とりわけ、人間の姿が全くないことが、強い印象を与える。この意味でモネは、彼より少し前に同様のテーマを描いたクールべより、先を進んでいる。この作品の根本的な目的は、モティーフを前に画家の目がとらえた、雪の輝きと明暗のコントラストの強さを、カンヴァス上に忠実にうつしかえることにあったと考えよう。
モネは、後年もこの雪と冬のテーマはしばしば繰り返した。例えば1879年の「ヴェトゥイユの教会堂」は、その好個の作例である。(アンヌ・ディステル)
「オルセー美術館-印象派・後期印象派名作集」[Editions de la Reunion des
Musees Nationaux]発行より転載(武) |

「アルジャントゥイーュのヨットレース」1872/48x75/オルセー美術館

「印象・日の出」1873/48x63/マルモッタン美術館

「日本の着物を着たカミーュ」1875/231x142/ボストン美術館

「サン・ラザール駅・ヨーロッパ橋」1877/64x81/マルモッタン美術館
アルジャントゥイユ線の終着駅は、パリのサン・ラザール駅であった。それ故、ここは、モネにとって親しみ深い場所であった。この事実から、モネが、この<当世風な>主題にひかれた理由の一部を説明することができる。この主題は、すでに1873年に、マネが、有名な「鉄道」(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)で漠然と予見させたものである。マネの場合とは逆に、そして早くも1876年、「ヨーロッパ橋」(この橋は、サン・ラザール駅の付属建造物の一部をなす)上の通行人を描いたギュスターボ・カイユボットの場合とも異なり、モネは、鉄道線路の高さにまで降りて、駅の構内の鉄骨とガラスでできた大屋根の下にまで入りこんでいる。人影は、ところどころ光を帯びて白くあるいは青みがかって渦巻く煙と蒸気の中にかき消されていく。このように光を描くことに意を用いた「サン・ラザール駅」のシリーズは、「ルーアン大聖堂」シリーズの作者であるモネが、系統的に進めた制作過程の、最初の一形態と考えられる。
1877年の、第3回印象派展覧会について書きながら、ゾラは、これほど反正統的な主題の選択を、熱心に擁護して、次のようにいった。「今年、モネは、すばらしい駅の構内の絵を出品した。この絵には、急いで入ってくる汽車の、ごうごうという轟きがきこえてくる。大屋根の下に、渦巻きあふれる煙と蒸気が見える。ここにこそ、今日の絵画がある……我々の芸術家たちは、駅の詩情を発見しなければならない。彼らの祖先たちが、森や河の詩情を見出したのと同じように。」このナチュラリストの小説家が数年後に、文学史上に記念碑的な「獣人」(1889−90刊)を、現代のアレゴリーとして書きあげたことを思い合わせると、これら数行の美術評論が、いかなる重みをもつものであるかを知るのである。(アンヌ・ディステル)
「オルセー美術館-印象派・後期印象派名作集」[Editions de la Reunion des
Musees Nationaux]発行より転載(武) |

「ポピー畑・ヴェテウイルにて」1879/70x90/ブリエ財団蔵

「氷解」1880/65x93/オルセー美術館

「エトルタの荒海」1886/65x81/オルセー美術館

「散歩、日傘の女性」1875/100x81/ワシントンナショナルギャラリー
1887年8月、モネは、ジヴェルニーから批評家デュレに書き送っている。「……私は、今までにないほど、仕事にはげんでいます。新しい試みもやっています。それは、私が理解するところに従って、戸外の人物を、風景と同等に扱うという試みです。これは、私の昔の夢でしたが、いつも私につきまとって私を悩ませます。一度でいいから、この夢を実現してみたい。ああ、でもこれは何と困難なことか!……」
モネは、彼の画業の初期とアルジャントゥイユ時代の作品であれほど丹精した人物画の制作を、かなり長い期間、すててかえりみなかった。ところが1885年頃になった、突然---しかし、これが最後となるのだが---改めて風景の中に人物を描き入れる構図の探求にとりかかる。この時期、彼は、このテーマを風景画家の立場で、また、印象派の観点から取り扱っている。人物をとりまく光の被膜覆に、特に注意を集中しての制作である。彼が好んで使ったモデルは、一緒に暮らしていて、のちに彼の二度目の妻となった、アリス・オシュデの娘たちであった。
こうして、18歳のシュザンヌ・オシュデが、「日傘をさす女」のモデルになったらしい。彼女は1886年の夏、ジヴェルニーを散歩していたところを、画家の筆にとらえられたのである。モネの息子がルーヴル美術館に寄贈した2枚の対をなす絵に、画家モネは、彼の目にみえた幻のようなヴィジョンを、瞬時的な性格に置き換えて描き出している。彼には、おそらく、亡くなった最初の妻の面影が、よみがえったのではなかろうか。1875年に、モネは、最初の妻カミーユを、これとよく似たポーズで描いている。彼女が、空中に浮き出したような姿で、崖の上を歩いてゆくところである。一方、「日傘……」の方では、モネは、感じたままの印象に完全に身をゆだね、モデルの顔立ちをほとんど描いていないので、モデルの個性を取り去る結果にいたっている。2枚の絵は、1891年にデュラン・リュエル画廊で展観されたとき、「戸外の人物像の試作」と、意味深長に題されていた。モネは、日傘によって得られる陰と光のたわむれを表現すべく努力した。ドレスと草の動きは風のそよぎを表現し、人物の歩みは背景の雲の動きに呼応する。(シルヴィー・ガシュ・パタン)
「オルセー美術館-印象派・後期印象派名作集」[Editions de la Reunion des
Musees Nationaux]発行より転載(武) |
 「日傘をさす女」1886/131x88/油彩・カンヴァス/オルセー美術館

「4本の白樺」1891/81.9x81.6/メトロポリタン美術館

「ロンドンの議事堂」1899-1901/81x92/オルセー美術館

「睡蓮」1914/200x200/東京西洋美術館
1893年、モネは、ジヴェルニーにある有名な睡蓮の池の整備を始めさせていた。この<水の庭園>には、なるほど日本の版画の影響が認められはするが、すべて画家の強い意志によってのみ実現されたものである。この池は、プルーストが今世紀初頭に強調したように、それ自体が1枚のタブローとして設計されたのである。
1895年以来すでに、モネはこの池を作品の中に取り入れているが、初めてこの池を主題に数枚の絵を描いたのは1898年になってからである。1904年以後は、池をとりまく風景と、日本風の太鼓橋のモティーフが、追々に消えてゆき、終には全く描かれなくなって、水面だけが残り、画面全体を占めるようになる。この池が、その後、画家モネの晩年の最後の20年間をとおして、彼の絵画上の探求における主要な主題となった。1908年、モネ自身もそのことを友人ジェフロワに書き送っている。「……仕事に没頭しています。これらの水と光の反映の光景が、一種、執念みたいになってしまったのです。これは、もう、私のような老人の手にあまる仕事です。しかし、それでも、私が感じているものを、何とか絵に表してみたい。」
画家は、睡蓮と池、睡蓮の葉と花、それに、光を吸いこむ水面と光を反射する水面などのコントラストを駆使して構図をつくっている。水の無限の広がりを暗示するため、睡蓮の花は、しばしば画面の端で切られている。この絵は正方形であるが、この時期、モネはしばしば、この形のカンヴァスを使っている。
このような研鑚は、1922年にモネが国家に寄贈した大画面の構図に、その帰結をみたのである。これらの絵は、1927年にテュイルリー公園のオランジュリーに飾られた。これらの「睡蓮」をもって、印象派の隊列の先頭に立っていたモネは20世紀の画家となり、抽象画家の先駆者となったのである。彼のいう<水景>は、以来多くの画家、文筆家、音楽家に、称賛の念を与えつづけてやまない。(シルヴィー・ガシュ・パタン)
「オルセー美術館-印象派・後期印象派名作集」[Editions de la Reunion des
Musees Nationaux]発行より転載(武) |
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