NACK


CÉZANNE

-の作品-

ポール・セザンヌ
Paul Cézanne [1839-1906]



「モデルヌ・オランピア」1873-74年頃/46x55cm/油彩・カンヴァス/オルセー美術館

 セザンヌの初期の作品は、暗い色彩で描かれていて、昔の巨匠たちの色彩、およびドラクロア、ドーミエ、クールベ等の構図から強い影響を受けたものであった。この時期の特徴を示すものとして、1870年、すでに「モデルヌ・オランピア」の一作がある。これは、1865年のサロンで、スキャンダルを巻き起こした、マネの同名の大作に対する、一つの反駁(はんばく)として発表したものである。
 数年後、セザンヌは、もう一度このテーマをとりあげた。しかし、この第2作目の解釈は全く異なったものとなっている。色彩は光を含んで輝いているし、筆づかいもまことにみごとで、フラゴナールの絵を想わせるほどである。セザンヌの作風は、印象主義に向かって力強く開花していく真最中であった。オーヴェール・シュル・オワーズのガシェ医師の家に滞在していたときのことと伝えられるが、この絵の構図は、ガシェ医師の発想によるもので、セザンヌは、議論の最中興奮して、やにわに絵筆をつかむや、この色彩に溢れた素描をものしたと伝えられる。彼は、先にマネがとりあげた主題の、さらに大胆な解釈を、このようにして世に出したのである。黒人の女が掛布をはいで見せた女の裸体と、長椅子に掛けた後姿の男の優雅に着こなした黒の正装とのコントラスト、またこの男は、前方にいる不思議な仔犬と一緒に、一観客の態度で裸の女に見入っているのであるが、これらすべては、この情景に、一種、エロティックで、芝居がかった性格を感じさせる結果をもたらしている。それに、左の方に掛けた垂れ幕の存在も、この効果をよけいに強めているといえる。ひげを生やした男は、おかしなことに、セザンヌにそっくりである。
 1874年の、第1回印象派展覧会のとき、この幻想的な絵は、観客と評論家の冷笑を受けた。彼らがこの作品に見たのは、「阿片の煙がただよう空中に浮かび出した幻である。ある種の悪魔が、至上天国雲の中、淫蕩な影のような、このいつわりの楽園の一隅に現出させた、ばら色の小さな裸身の幻影は、最も勇敢な男たちをも、驚きのために窒息させた……それに、セザンヌ氏は、デリリウム・トレメンスを描きながら興奮している、一種の気狂いとしか見えない……。」(マルク・ド・モンティフォー、1874年5月1日刊「ラルティスト」より)
(シルヴィー・ガシュ・パタン)

「オルセー美術館-印象派・後期印象派名作集」[Editions de la Reunion des Musees Nationaux]発行より転載(武)



 
「首吊りの家」1873年/12.5x20cm/油彩・カンヴァス/オルセー美術館

 「首吊りの家」は、「モデルヌ・オランピア」と同じく、1874年の第1回印象派展に出品された3点のうちの一作だが、やはり悪評紛々であった。「……風景画の問題について、セザンヌ氏のおっしゃるには、御自分の「首吊りの家」までは、行かない方がよいとのことである。それで実をいえば、我々はこっちの道路を離れなかった。……」(マルク・ド・モンティフォー評、1874年5月1日刊「ラルティスト」より)。
 この作品は、オーヴェール・シュル・オワーズで描かれたものであるが、当時、ポントワーズに住んでいた年長の友人ピサロが、セザンヌに及ぼした影響を示すものである。セザンヌは、いつも絵の具を厚塗りにして、所々パレット・ナイフを使う技法を用いていたが、次第に暗い色調をすてて、明るい色に変えていき、タッチを分割する印象派の技法を受け入れていった。彼は、空間を厳格に構築するという自分の意思をもちつづけていた。これは、彼がピサロから受けたものへのお返しとして、繰り返し話した制作上の配慮である。この絵に見える村の風景を、同時期のピサロの作品とくらべてみると、この頃一緒に仕事をしていた二人の画家が、お互いにもたらしあったものを知ることができて興味深い。
 この風景画は、一つの新しい作風を見せると同時に、セザンヌがこれ以後選ぶ主題にも、変化が起こっていることを示している。彼は、劇的な、あるいは文学的なテーマをすてて、例えばこの道の交差点のように、何の意味ももたない風景を描くことにしたのである。主題は、絵を描くための口実でしかない。主題は、単なる<モティーフ>となり、セザンヌ芸術が、これに対して自らの豊かさのすべてを付与するのである。
 この絵は、画家が署名をした、まれな作品の一つである(赤で、左下の隅に)。それにこの題名については、美術史家ヴェントゥーリの説によれば、それが暗示する不吉な事件に基づくものではなくて、むしろ、前の時期の、ロマンティスムの最後の名残りともいうべきものではないかとされている。
 この作品は、なるほど、印象派のものである。しかしこれは、セザンヌが、独自の創造物として、自ら見なおし変形した印象主義の結実であることから、1889年の万国博覧会のとき、過去100年間のフランス美術を見せる催しで、セザンヌの代表作として展示された。
(シルヴィー・ガシュ・パタン)

「オルセー美術館-印象派・後期印象派名作集」[Editions de la Reunion des Musees Nationaux]発行より転載(武)




「レスタック、マルセイユ湾の眺望」1878-79年頃/59x73cm/油彩・カンヴァス/オルセー美術館

 セザンヌの母親は、マルセイユの西にあるレスタックに家を持っていた。1870年の普仏戦争中、セザンヌはここに避難していた。その後も彼は幾度もここに帰って来た。たぶん、地中海に心をひかれてのことであろう。彼の数枚しかない海の絵は、すべてこの地で制作されている。
 1876年、セザンヌは、眼下にひろがるパノラマを描写して、次のようにピサロに書き送っている。「……あなたのお手紙を、ここ、海べりのレスタックで受け取りました。……海のあるモティーフで、小品を二つ描き始めました。……トランプのカードみたいなのです。青い海に、赤い屋根があって……3〜4ヶ月かかりそうなモティーフもいくつかあります。……植物は、ここでは変化しませんから。オリーヴの樹とか松は、常に緑なのです。太陽は、ここでは、恐ろしく強烈で、描こうとするものは、シルエットになって立ち上がるように見えます。白と黒だけの影ではなくて、青とか、赤とか、茶色のとか、紫のとかの……とにかくこれは、肉付け(モドウレ)の正反対の極であるように思えます。」
 この、マルセイユ湾を見下ろす景観は、たぶん1878〜79年頃の作らしいが、彼が言っている<トランプ・カード>の効果が特徴的である(この技法は、マネが、すでにその「横笛を吹く少年」で完成したものである)。構図は、明確に四つの区域からなり、その一つ一つが、筆づかいと色調の相違で対照的である。前景には海岸線があり、厚く絵具を塗ってあって、最も密度の高い部分である。次に、なめらかな青で仕上げた水面には、そこここに浮かぶ白帆が、興趣をもたらしている。その向うの、山々の連なりの上には、幅のせまい空の帯が張り出している。水平線が高く置かれているので、四つのプランの組み合わせは、画面を見る人が絵から遠ざかるに従って、こっちへ向かって立ち上がってくるように見える。このような構図は、まさに伝統的遠近法の放棄を意味しており、印象主義がめざした目標を、はるかに超脱する結果となった。
 この絵とは異なる解釈をした、もう1枚の「レスタックの海」にも、工場の高い煙突があり、この方は、ピカソ・コレクションの一部として国の所蔵品となった。
(シルヴィー・ガシュ・パタン)

「オルセー美術館-印象派・後期印象派名作集」[Editions de la Reunion des Musees Nationaux]発行より転載(武)




「青い花瓶」1885-87年頃/61x50cm/油彩・カンヴァス/オルセー美術館

 セザンヌがこの絵で、より力をそそいだのは、咲きほこる花々を描写することよりも、色彩の抑揚の方である。もう一度言っておくが、主題は、画家の最大関心事の一つに奉仕するためにとりあげられたにすぎない。すなわち、光の偶然のたわむれが物につくる効果と、その結果現われる色彩のヴァリエーションを研究することである。この絵の空間は、垂直線と水平な線の巧妙な組み合わせの面白さ、およびヴォリュームの適切な配分によって構成されている一方、全体の調和は、トーンの異なる青色の微妙な使い方で得られている。構図の中心は、ほかならぬテーブルの上に置かれた壺である。
 これに先立つ10年ほど前、オーヴェール・シュル・オワーズで、セザンヌは、数枚の花の絵を描いているが、そのうちの幾枚かがオルセー美術館にある(特筆すべきは、ガシェ医師の子息が寄贈に同意されたおかげで得られた作品である)。しかし、この絵でセザンヌが加えた新しい要素はリンゴで、これは色彩が効果的であるばかりでなく、セザンヌの作品群のうち、花の絵よりも数多い果物の静物を想起させる。セザンヌはあるとき、ガスケに、「花はあきらめたよ。すぐにしおれてしまうんだから。果物は、もっと忠実に残ってくれる」と言ったと伝えられる。とにかく、この絵では、花と果物の二つのテーマを合わせたことで、画面がにぎやかになっていることから、以前は「花と果物」と題されていた。
 この絵に顕著な単純さと節度は、例えば、ルノワールの花の構図に見られるような、満ち溢れる豊かさはほど遠い世界のものである。この作品の最初の所有者が、画商のヴォラールであったことは、興味深いので強調しておきたい。この画商は、セザンヌと同じくルノワールも、それにゴーガンとピカソも買っていたことで有名である。
 セザンヌの亡くなる2年前、1904年のサロン・ドートンヌで彼の回顧展が催されたとき、この「青い花瓶」は、セザンヌ室に掛けられて展観された。
(シルヴィー・ガシュ・パタン)

「オルセー美術館-印象派・後期印象派名作集」[Editions de la Reunion des Musees Nationaux]発行より転載(武)




「コーヒーポットの傍の女」1890-95年頃/130x96cm/油彩・カンヴァス/オルセー美術館

 「絵画の至りつく所、それは人物画だ」と、セザンヌが、画商ヴォラールに向かって断言したと伝えられる。セザンヌは、その画業の特に最初期と最晩年に肖像画を手がけている。幾人かの批評家は、セザンヌの人物には視線がないと非難したが、これは、時には、ピエロ・デラ・フランチェスカの謎めいた人物とくらべられる。セザンヌは、顔に生気を与えるための、移り変わる表情を表現しようとするよりも、むしろ彼が描くモデルの真髄、その人の根本的性格の表現を重んじた故に、スルバラン風の静止した、また堂々たる、重い人物像を描いたのである。これこそ、「コーヒー・ポットの傍の女」がかもしだす雰囲気である。
 セザンヌが制作にひどく時間をかけることと、人みしりするたちだったことが、絵のモデルに、自分の近親者(多くの場合、自分の妻)とか、友人、あるいは親しい人たち(ジャ・ド・ブッファンの父の家で働く農夫とか、女中とか、)を選んだ理由と考えることもできる。なんともおごそかな様子のこの絵の婦人も、そのうちの一人と思われるが、だれと確定することはできない。
 このような肖像を見てもわかるように、セザンヌが、心理の描写よりも、ここでは非常に単純化されているが、いかに形態の造形的表現の方に重点をおいていたかを知ることができる。彫刻的な、重い量塊(マッス)であるこの婦人の体は、一種の静物として扱われている。画家セザンヌは、人間に対しても、リンゴと同じ不動の姿勢を要求した。コーヒー・ポットやコーヒー茶碗に倣って、人物の腕も、「自然を円筒や球、円錐に換えて表現する」という、この画家の持論にのっとって描かれている。このように、ヴォリュームを幾何学化すること、および、テーブルの描写に用いた、平面の奥がせり上がる逆遠近法は、すでにキュビズムを予告している。
 厳密に構築されたこの作品は、セザンヌが言ったとされる、かの有名な言葉を絵に置き換えたものといえる。「デッサンと色彩は、はっきり区別することはできない。彩色するに従って、デッサンもできてゆくし、色彩の調和がとれればとれるほど、デッサンも明確になる。色彩が豊かになると、形態も充実する。色調(トーン)の対照と相互関係、これこそデッサンと肉付けの秘密だよ。」
(シルヴィー・ガシュ・パタン)

「オルセー美術館-印象派・後期印象派名作集」[Editions de la Reunion des Musees Nationaux]発行より転載(武)




「トランプをする人たち」1890-95年頃/47x57cm/油彩・カンヴァス/オルセー美術館

 セザンヌが、生まれた町のエクス・アン・プロヴァンスの美術館で、ル・ナン兄弟の工房の作とされる「トランプをする人たち」を見たことは確実である。1890年代に、セザンヌはこのテーマを、数回にわたってカラヴァッジョ風に描いている。しかし彼は、この主題を、自分流の見方で置き換えた。どんな主題でも、彼の手にかかると、線とヴォリュームの探求をするための口実になってしまう。光が反射しているぶどう酒のびんは、この構図の中央軸となり、空間を対称的(シンメトリック)な二つの区域に分かつ。それが、勝負する二人の人物の対抗意識を強調する効果をあげている。この人たちは、セザンヌが、エクスの近くのジャ・ド・ブッファンにある父の所有地で観察した農夫たちにすぎないであろうが、パイプをくわえている方は、たぶん<アレクサンドルのおやじさん>と呼ばれた、この土地の庭師かもしれないとされた。
 この絵の準備のために、多くのエチュードの他に、セザンヌは、大小5枚のカンヴァスを使って、人物の数もバックの飾りつけもさまざまな絵を描いている。一番大きい作品(メリオン、バーンズ財団蔵)には5人の人物、もう1枚(ニューヨーク、メトロポリタン美術館蔵)には4人の人物がおり、その他の3枚は、ずっと整理されて、二人の勝負する人物がいるだけである。制作の順番については、いくつかの仮説が提起されている。この絵が属する3枚の単純化したグループは、明らかに長時間にわたる熟考の末得られた構図であり、これは、多くの要素が用いられていて比較的彫琢度の低い他の2枚よりは、のちに制作されたと考えたい。自分の気質に正直なセザンヌは、制作の過程で、<風俗画>の挿話的な外観を完全に消し去ること、および伝統的な遠近法をも放棄することを手段として、単純化の方向に前進したものと考えられる。
 このテーマが、セザンヌの芸術活動の最後の数年に、再び回帰していることから、興味深い一つの解釈が提出された。すなわち、勝負する二人の人物が角突き合わせている様子は、画家セザンヌが、父親にその画業を認めさせるために挑んだ、長い間の闘いを象徴するのではなかろうかというのである。彼の絵画が、ここでは、<トランプ・カード>そのものに具現されていることも含めて。
(シルヴィー・ガシュ・パタン)

「オルセー美術館-印象派・後期印象派名作集」[Editions de la Reunion des Musees Nationaux]発行より転載(武)




「水浴の男たち」1890-1892年頃/60x82cm/油彩・カンヴァス/オルセー美術館

 「トランプをする人たち」の閉ざされた場所は、「水浴の男たち」が動きまわるこの空に向かって開いた空間と相反するものである。ここでは、雲さえも、樹木と人体とがかもしだすリズム感に呼応していくようである。上記二つの主題は、正反対の極とみられている。前者は暗い色彩で描かれていて、闘争の思想に結びつくのにくらべ、後者は青と緑が主調で、画家は、人間と大自然との強調と調和、ある種の融和とさえいえるものを表現しようとしている。セザンヌは、エクスでの青春期に、ゾラもその仲間であった友人たちと一緒に行ったアルク川での、楽しくにぎやかな水浴のことを想起している。彼は、同じように兵士たちが、この川で泳ぐのを観察したともいわれている。
 セザンヌは、ジョルジョーネ、ティツィアーノ、ルーベンスあるいはプッサン等のあとを受けて、人物と大自然との統合の仕方を追及している。「水浴の女たち」と題する3枚の大作に至る研鑚の結果、セザンヌは、フランス絵画の伝統的テーマである(ワトー、ブーシェ、フラゴナール、クールベ、ルノワール……)水浴の女たちを全く新しいものにつくりかえた。このテーマは、すでに1870年から彼の作品に登場するが、特にその最晩年に、このテーマが、執念のように彼につきまとった。セザンヌは、昔のデッサンや彫刻をもとに、飽くことを知らぬげに、同じポーズを繰り返しカンヴァスや水彩画で描きつづけた。
 この作品はなかでも最も完璧で、最もよく構築された一例であり、水浴の男たちが、安定のよいピラミッド形の構図に配置されている。この構図は、教会堂建築のタンパン飾りの形に似て、イタリア美術にしばしば見られるものである。中央にある樹木は、「トランプをする人たち」に置かれたびんと同じく、中央軸の役割をもつ。布をもつ男の姿は、シニョレリのデッサンに想を得たかのようにさえみえるが、同時に、エル・グレコの「ラオコーン」の人物(Ch.Sterlingの説)に似ているともいえる。このテーマを描いた他のヴァリエーションには、男たちが、帯状装飾(フリーズ)のように水平に並んで構成されたものもある。
 この作品は、1904年の、サロン・ドートンヌに出品されて、当時の若い画家たちに大きな影響を与えた。そのなかには、ドニ、マティス、ピカソ等のように自分でも、セザンヌによる別の「水浴の男たち」を所蔵していたものもいる。
(シルヴィー・ガシュ・パタン)

「オルセー美術館-印象派・後期印象派名作集」[Editions de la Reunion des Musees Nationaux]発行より転載(武)




「玉ねぎのある静物」1895年頃/66x82cm/油彩・カンヴァス/オルセー美術館

 静物画というテーマは、セザンヌの性格と、その制作態度によく合っていたので、彼は、画家としての全生涯を通じて、特に注意を払っていた。「無言の生命」に対して特別の配慮をした、オランダやスペインの画家たちのあとを受けて、セザンヌは、日常生活に親しみ深い小物たちに詩情を感じたのである。しかし、フェルメールやスルバランとか、ゴヤ等の名前よりは、シャルダンのそれの方が、この場合、より重きをなすといわねばならない。1869年にルーブル入りをしたこの巨匠の作品を、セザンヌはおそらく賛嘆の念をもって見たことであろう。例えば、奥行の感じを出すために、セザンヌはしばしば----特にこの絵では目立つのだが----ナイフを斜めに置く方法を使っている。このやり方は、彼に先立って、マネがシャルダンから借用したものであった。
 果物の球状の形が(玉ねぎの形も同じく)セザンヌの追及する、ヴォリュームの研究によく適していたのであるが、そのそばに、彼は素朴なオブジェをいくつか描きこんでいる。それらのオブジェの一部は、今日、エクス・アン・プロヴァンスの、彼のアトリエに保存されている(陶器類、グラス等…)。同じ小物類を、繰り返し使うこと自体、セザンヌが、構図の形成の上で、これらのオブジェの調和的な配置を集中していたことを示すものと考えられるし、いろいろな形の上に起こる光のたわむれを研究したことを示すものと考えられる。1905年、彼は、次のように書いている。「デッサンしなさい。物を包むのは反映であり、光は、その全体的な反映によって物を包むのです。」
 くり型をめぐらしたこのテーブルの上には、びんによる垂直線につりあわせるために、セザンヌは、厳しく組み立てられた構図を柔らげるべく、装飾的効果のある布を置いた。これは、彼の晩年の静物画に、多く見られる手法である。この布は、びんと同じく、何の変哲もない全く空虚な背景から浮き出して見える。このような背景の取扱いは、より多くの要素がたてこんだ最晩年の静物画の中で、この作品だけを他と異なったものにしている。この時期、セザンヌは、新しい遠近法のシステムを採用していたが、これは、キュビズムへの道をひらくものであった。すなわち、オブジェは、上から見下ろした角度で、また、同時にいくつもの視点から眺めた形をもって並べられている。

「オルセー美術館-印象派・後期印象派名作集」[Editions de la Reunion des Musees Nationaux]発行より転載(武)



 画商のアンブロワーズ・ヴォラールは、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスにセザンヌを訪問した時の旅を思い返しながら、後年、つぎのように語っている。
 「スタンダールは、マルセイユからエクスまでの道は 呆れるほど醜いと言った。だが私にとっては、その道程はまことに楽しいものであった。。汽車の線路がセザンヌの絵の中を走っているように思われた……」
 事実、セザンヌの芸術は、このフランスの土地と切っても切れない深い関係にある。単に彼が自分の故郷の町に住みついてサント・ヴィクトワール山やジャ・ド・ブッファンの風景を繰り返し描き続けたという理由だけからではない。風景にかぎらず、静物でも、肖像でも、セザンヌの作品の中には南フランスがある。いや、南フランスの風土に養われたセザンヌの感受性があるのである。
 地中海地方は古典主義的芸術の母胎だと言われる。セザンヌが少年時代に眼の前に見ていたものは一日中靄にとじこめられたような微妙な陰影に富んだノルマンディーの海岸でもなければ、空と大地とを区切る地平線のあたりにいつも靄のたなびいているようなイール・ド・フランスの風景でもなく、青く澄んだ空にくっきりとした山脈の稜線を見せる明るい南フランスの風土であった。セザンヌ自身の気質の中には、北方の暗いバロック的表現に惹かれるものが生まれながらにしてひそんでいたが、同時に明快な表現と構成的秩序を求めるラテン的精神も住んでいた。古典主義的なものとバロック的なものと、この相矛盾するように見える二つの性向が同時にひとつの魂の中に生きているということが、セザンヌを理解する鍵だとルネ・ユイグは語っている。
 自分の心の中のそのような矛盾と葛藤とにいちばんよく気がついていたのは、当のセザンヌ自身であったろう。彼は何とかしてこの二つの性向のあいだの調和を求めようとした。彼の生涯の探究はすべてその実現に捧げられたと言ってよい。だが彼が自らに課したその困難な探究と成果について、彼の周囲の人びとは、ほとんど理解することができなかった。少なくとも故郷のエクスにおいてはそうであった。
 ヴォラールがセザンヌをエクスに訪れたのは、1896年、セザンヌがすでに57歳の時のことである。父親の遺産から生じる年金で生活に困るようなことはなかったとはいえ、セザンヌは孤独であった。今なら、世界中の愛好者や美術館長が眼の色を変えて追い回しそうな作品が道端に打ち棄てられてあっても、誰も見向きもしなかった。事実セザンヌは、絵を描いている最中、どうしても自分の思い通りにできないと、突然癇癪を起こして、カンヴァスをパレット・ナイフで引き裂くと、アトリエの窓から外に放り出すのだった。ある時など、そのようにして投げ出された「静物」が、窓の外の桜の木に何日もひっかかったままでいることもあった。
 時には、息子のポールが父親の真似をしてカンヴァスに穴をあけることがあった。セザンヌは怒るどころか、大喜びでヴォラールに言った。
 「あいつは窓と煙突をあけたんですよ。つまりここに描いてあるのが家だってことがわかったんですね……」
 彼は、ほかの人びとにも、それが「家だってことが」わかってほしかったに違いない。しかし、無邪気な息子を除いて、エクスでは誰もそれがわからなかった。
 セザンヌは孤独であった。


<セザンヌの家系>

 ポール・セザンヌは、1839年1月19日、このエクスの町の大通り、クール・ミルボーに大きな帽子屋の店を出していたルイ・オーギュスト・セザンヌの長男として生まれた。母親はエリザベート・オノリーヌ・オーベールと言い、ルイ・オーギュストの店の店員の妹であった。だが、セザンヌが生まれた当時は、ふたりはまだ正式に結婚してはいなかった。それから二年ほどして、妹のマリーが生まれたが、ルイ・オーギュストがエリザベートを正式に妻として迎えるのは、それからさきに二年ほどたった後のことである。つまり、セザンヌと妹マリーとは、生まれた時は法律上は私生児であった(ただし父親は、ふたりとも生まれると同時に自分の子として認知している)。このことは、後にセザンヌの性格形成に大きな影響を与えることとなる。
 もともとセザンヌ家はエクスの町に古くからいたわけではなかった。いやその先祖はフランス人ですらなかった。17世紀の中頃、北イタリアのピエモンテ地方にある貧しい村チェザナから、わずかばかりの財産を全部背負って南フランスにやって来た男が、われらのセザンヌの祖先であった。おそらくははっきりとした姓名を持っていなかったその男は、土地の人びとから、生まれた故郷のチェザナの名前で呼ばれた。それがフランス風になまってセザンヌとなったのである。
 その男は、最初はエクスから少し離れたブリアンソンに落ち着いた。それから何代か後に、セザンヌ家はエクスに移った。エクスにやって来た男のことについては、よくわかっていない。その息子は床屋を開いた。床屋の息子は洋服屋になった。その洋服屋の息子がセザンヌの父、帽子屋のルイ・オーギュストであった。
 このルイ・オーギュストは、商人としてなかなかのやり手であった。彼は相当の財産を貯めると、帽子屋を続けるかたわら、ひそかに金貸しを始めた。セザンヌが生まれてから9年後、1848年、土地の銀行が破産したのを好機として、彼はその銀行をそっくり10万フランで買い取り、銀行経営に乗り出した。これがあたって、セザンヌ家は町でも上位の富裕な家族となった。
 その銀行の成功には、ルイ・オーギュストの手腕がものを言ったことはもちろんである。ある時、マルセイユのお客に貸した金が焦げつきになりそうになった。ルイ・オーギュストは、自分でそのお客の家に乗り込んでいって、日常の出費を全部チェックした。その客はかなり浪費家であったが、ルイ・オーギュストは、自分でその家の財布を握って、余計な金は一文も使わせなかった。しばらくしてようやく家計が立ち直り、借りた金を返せる見通しがはっきりついてから、彼はやっとエクスへ戻って行った。
 セザンヌは、父親の商才は受け継がなかったが、ひとつのことを徹底的にやり抜くこのような頑固さは受け継いでいた。そして母親からは、ロマン主義的文学趣味や夢見る性格を受け継いだ。後に彼が画家になろうとした時、あくまでも反対した父親にたいして取りなしをしてくれたのはこの母親であった。
 セザンヌは10歳の時エクスのサン・ジョセフ学校に、13才の時同じくエクスのコレージュ・ブルボン(後のエクス高等学校)に入れられた。このコレージュ・ブルボンでパリからやって来たゾラと出会ったことが、セザンヌにとって決定的な影響を与えた。
 父ルイ・オーギュストは、商人としてはたしかに成功したが、エクスの人びとからは必ずしも愛されなかった。第一に彼はもともと「他所者」であり、土地の人間でなかった。第二に彼自身人づき合いの悪い非社交的な人間であった。(この点もセザンヌは父親から受け継ぐこととなる)。しかし、何よりも大きな理由は、彼が正式な結婚もしていない女にふたりまで子供を生ませたということであった。田舎の閉鎖的な社会においては、そのような不評判は取り返しがつかなかった。1848年、彼はエクスの町の町議選に出馬して無残な敗北を喫した。町の人びとは、彼の商才は認めても、彼を決して自分たちの仲間とは考えなかったのである。


<パリの生活>

 このような町の人びとの態度は、コレージュ・ブルボンにもそのまま反映した。少年セザンヌはいつも友だちから仲間はずれにされた。そこへあらわれたのがゾラである。ゾラは都会風の洒落た感覚を持った異色の存在であったが、パリからやって来た「他所者」であることには変わりなかった。そのことがふたりの少年を急速に近づけたのである。
 たしかに、詩人を目指していたゾラの強い影響がなければ、セザンヌはあるいは父親の言うようにおとなしく銀行家の跡継ぎとして終わったかもしれない。少なくとも、彼が22歳の時、反対する父親を説き伏せてパリに出る許可を得るようになるには、一足先にパリに行ったゾラの強い勧めが必要であった。ゾラは、中学時代のふたりの友人が、大文学者と大画家になる日を夢みて、しきりに田舎の友人に手紙を書き送ってよこした。実際的なゾラは、パリでかかる費用までこまかく計算して、月に125フランあれば充分だと書いて来た。
 「部屋代として毎月20フラン、昼食は1回18スウで夕食が1回22スウ、すなわち一日の食事代が2フラン(1フランは20スウ)、したがって食費は月に60フラン、部屋代とあわせると80フラン。そのほかにアトリエに通う費用がいるが、一番安い部類に属するシュイスの所でざっと10フラン、それにカンヴァス、鉛筆、絵具等のために10フランほど見こめば、結局100フランになる。残りの25フランを洗濯代、光熱費その他の諸雑費、煙草代、ちょっとした遊興費にあてれば、大体間に合うはずだ。それに、その気になれば自分で多少稼ぐこともできる。アトリエでの習作や、特にルーヴルの作品の模写など、かなり良い値で売れる……」
 ゾラのこの計算は、最後の「多少稼ぐことができる」という点だけを除いて、きわめて正確であった。そして、この程度の出費は、もちろん銀行家のセザンヌ氏にとっては何でもなかった。ただ彼が、息子のパリ行きに最後まで反対したのは、何とかして息子を自分の後継者にしたいと思ったからである。
 「息子よ、将来のことを考えなさい。人は天才を抱いて飢えることもある。食べて行くのはお金によってなのだよ」と言うのが彼の口癖であった。
 このような父親にたいして、息子のためにいろいろ骨を折ってくれたのは母親であった。彼女は夫に言った。
 「だってあなた、この子はポールという名前よ。ヴェロネーゼもルーベンスもポールだったと言うじゃないかい」
 この母親の弁護が功を奏したのか、父親もついに折れて、1861年、「ポール」はパリに出て、アカデミー・シュイスに通うこととなった。
 ゾラとの友情は、セザンヌにとって大きな力であった。しかし、田舎者の彼には、パリの生活は必ずしも肌に合うものではなかった。アカデミー・シュイスでピサロやギョーマンと知り合ったのは大きな収穫であったが、彼自身は早くも都会生活に疲れていた。あれほど望んでいた絵の道にも、自信を失ったらしい。最初のパリ滞在は半年ばかりしか続かず、セザンヌは早ばやとエクスに引き上げてしまった。


 もともとセザンヌは、決して器用な方ではなかった。絵を描くのは好きではあったが、中学時代にはその優れた画才で周囲を驚かしたというようなことは、およそなかった。一度だけ学生時代に図画で二等をとったことがあったが、それ以後、あまり将来を期待させるようなことは何もなかった(この時一等を得た学生は、その後土地の画家となったが、セザンヌが有名になってからも、自分の方が優れていることを信じて疑わなかったという)。
 いったん故郷に帰ったセザンヌは、しばらくのあいだ、父親の銀行で働くことになった。しかし、翌年、ふたたびパリに出て、またアカデミー・シュイスに通い、そこでモネを知り、モネを通してシスレー、ルノワールとも親しくなった。後の印象派グループの仲間たちがようやく顔を揃えるようになるのである。
 父親との仲は、その後もうまくはいかなかったが、しかし、毎月の必要な経費だけは父から出して貰っていた。生涯貧困で苦しんだシスレーなどの場合と違って、セザンヌがお金のことで苦労したのは、後に妻となるオルタンス・フィケと知り合って、しかもそれが父に認められず、ゾラの計算通りのぎりぎりの毎月の手当で、妻と、やがては息子をも養わねばならなかった数年間のあいだだけのことであった。父と正式に和解して、オルタンスと結婚するのは、1886年、父の死の直前のことである。
 しかし、父親は、息子の二度目のパリ滞在の頃から、心の中では銀行を息子に継がせることを断念し、セザンヌが絵画の道に進むことを止むを得ないと考えていたようである。ある意味では、息子の才能に最も信頼を置いていたのは、あるいはこの父親であったかもしれない。
 後年、セザンヌがいっこうに世に認められずにいた時でも、彼は「あいつは俺の息子だ、馬鹿なはずはない」と言っていたという。


<サロンとの戦い>

 いかし、その「馬鹿なはずがない」彼の息子は、なかなか世に認められなかった。彼は、エクスに帰っていたあいだに、ジャ・ド・ブッファンの別荘の壁にきわめてアングル風の「四季」を描いて、それに戯れに「アングル」と署名したりしたこともあるが、彼が最も惹かれたのは、ロマン派の巨匠ドラクロワであった。(彼はドラクロワを讃える作品を描くことを生涯の課題としていたが、ついにそれは出来上がらなかった)。
 「黒人スキピオ」にしても、いずれも塗りの厚いパートと暗い色調と激しく情熱的な主題で、きわめてバロック的特色を示している。
 ある伝記作者のごときは、これら初期の作品に、若いセザンヌの性の執念を見て、オルタンスと知り合った後、その欲求不満が解放されて官能的主題が彼の作品から消えて行くと説明している。その当否はともかく、1860年代のセザンヌが強く官能的バロックの特色を示していることは事実である。
 1866年、セザンヌははじめて二点の作品をサロンに送った。「蚤を取る女」と「ナポリの午後」である。だがいずれも見事に落選した。この時セザンヌは、三年前の「落選展」と同じものを開いてくれるよう、かなり強い調子の要望書を時の美術局長ド・ニューヴェルケルク宛に出している(もちろんその要求は拒否された)。
 この二点の作品は、どちらも現在は残っていないが、当時の作風から見て、やはりバロック的傾向の強いものであったと思われる。(「ナポリの午後」は後にもう一度同じモティーフで描いたものが残っているが、これはサロンに送ったものではない)。
 「ナポリの午後」は裸の男が寝台の上に横たわっている構図であるが、そのモデルとなったのは、便所汲取人をしている男であったという。その男の細君が画学生のために安い軽食堂を開いていたところからセザンヌは彼と知り合ったのだが、セザンヌがその男にモデルになってくれと頼むと、最初は「仕事が忙しいから」と断られた。
 「しかし、君の仕事は夜中にするのだろう。昼間は暇じゃないか」
 「冗談じゃない。昼間は夜に備えて休むんでさあ」
 「それじゃ、君が休んでいるところを描こう」
 というわけで、寝台の上に横たわる裸夫という奇妙な構図が生まれた(なお後に1905年、サロン・ドートンヌに出品したセザンヌの作品にたいし、金メダル受賞画家ヴィクトール・ピネは、「あれは酔っぱらいの汲取人の絵だ」と言った。セザンヌはよほど汲取人に縁があるらしい)。
 セザンヌは、その後も熱心にサロンに作品を送り続けたが、いつも落選の憂目を見た。彼がはじめて入選したのは、1882年、43歳の時のことである。しかしそれも、審査員であったギユメの友情のおかげであった。
 当時の審査員は、落選者の中から、自分の弟子の作品を一点だけ「救う」ことができた(この制度は後に廃止された)。したがって、この時のサロンの目録では、セザンヌは「ギユメ氏の弟子」ということになっている。


<収集家と画商>

 それから7年後の1889年パリ万国博覧会の時に、セザンヌにふたたび「出品」の機会が訪れた。もっとも、今度も「実力」を認められたわけではなく、セザンヌに肩を入れていた収集家ショケのおかげであった。
 このショケは、セザンヌやルノワールの絵を早くから集めていた慧眼の収集家であったが、しかしパトロンというほどお金持ではなかった。彼はごく平凡な官吏で、乏しい小遣いをはたいて少しずつ好きな絵を集めて行くという本当の愛好家であった。このショケにセザンヌを紹介したのはルノワールであるが、ショケがルノワールを介して初めてセザンヌの作品を買った時、ちょっとしたエピソードがある。
 それは、小品の「水浴習作」で、ショケは大いに気に入ったのだが、問題は、かねて夫の「道楽」をあまり快く思っていなかったショケ夫人をどう納得させるかということであった。今さら無名の新人の「下手な」絵を買おうとすれば、必ず夫人の反対にあうに決まっていた。そこで、ショケとルノワールは、一計を案じた。ルノワールが「ただ見せるためだけ」にセザンヌの絵をショケの家に持って行って、それを忘れて帰るという方法である。当日ルノワールは、何気ない様子でセザンヌの作品を拡げて、ショケに見せた。ショケははじめて見るような顔をして「ちょっと変わっていて面白いね」といって暗に妻の同意を求めた。ショケ夫人は、ただ見せに来たものと思っていたので、ルノワールの手前一応のお世辞を言った。ルノワールはそれからしばらく世間話をして、予定通りその絵を「忘れて」帰ったのである。1889年の万国博覧会の時、そのショケの持っていた古い家具を博覧会に出品してくれという依頼が来た。ショケは、絵画展の方に自分の所蔵のセザンヌを一点並べてくれるのなら貸しましょうと言った。その条件が認められてセザンヌも並べられることになったのだが、その絵は会場の隅のものすごく高いところに展示されていたので、それがセザンヌの作品だということがわかったのは、セザンヌ自身とショケのふたりだけであった。
 ショケと並んで早くからセザンヌの作品に注目していた人に画商のヴォラールがいたことは、広く知られている通りである。ヴォラールは、セザンヌと知り合う前にその作品に惹かれて、いろいろの人を介して作品を買い集め、1895年にラフィット街の自分の店でセザンヌの最初の個展を開いた。この時、大変な悪評であったことは、ヴォラールが克明に書き残している。
 しかしヴォラール自身のセザンヌに対する傾倒は変らなかった。後に彼はセザンヌに自分の肖像画を描いてもらっているが、その時はポーズをするため115回通ってもまだ出来上がらなかった。それも毎回じっとしていなければならないので、さすがのヴォラールもうんざりしたということである。
 彼が少しでも身動きすると、セザンヌは「動いちゃいけない。林檎が動くか!」と怒鳴りつけたという。
 静物画の場合、なるほど、人間と違って林檎は動かなかったが、しかしいつまでたっても描き上がらなかったので、林檎は腐ってしまうのが普通だった。花は描く時には、花が凋んでしまうので、紙の造花を使ったという。



<孤独な晩年>

 晩年のセザンヌは、エクスの田舎に引きこもって、孤独の中で自然と対決していた。印象派のグループの中で、セザンヌは最も世に認められるのが遅かった。モネやピサロが一応世に受け入れられてからも、セザンヌだけは、なかなか認められなかった。それには、人づきあいの悪さというその性格もあったかもしれないが、それ以上にやはり、その作品があまりに大胆で革新的であったからであろう。1902年、ミルボーが友人のセザンヌのため、勲章をもらってやろうと思って、美術局長のルージョンに交渉に出かけたことがある。ルージョンは物わかりの良いところを見せようと思って、早速勲章申請の手続きをやりかけたが、相手がセザンヌと聞くと、途端に硬化した。
「モネはどうだい。モネならやってもいい。なに、モネはいらないんだって? それならシスレーにしょう。え? シスレーは死んだ? じゃあピサロにしたらどうかね。ピサロも死んだのかな。ともかく誰でもいい、セザンヌでさえなければもらってやろう……」
 結局セザンヌは、勲章をもらいそこねてしまった。
 それから半世紀後、彼の作品に一点五億円という値がつくことを思えば、セザンヌこそ、先駆者の悲劇と栄光とを一身に背負った芸術家ということができるであろう。



「近代美術の巨匠たち(著者=高階秀爾、発行所=青土社、発行日=1998年8月20日)」より転載(道)




BIOGRAPH

TOP OPENER EVENT MEMBERS GALLERY PUBLISH LINK