チャールズ・ミルズ・マンソン

1934年11月12日オハイオ州シンシナティで私生児として出生。

幼少時、母親は当初マンソンの面倒を見ず、親戚の間をたらい回しにされる。

母親は厳格なクリスチャンの家庭を飛び出し、売春で生計を立てていた。

母親がガソリンスタンド強盗で刑務所に行くと、叔父夫婦に引き取られたが、

その叔父にも虐待され小学校に女装して行かされ、いじめられた。

10代の頃には刑務所にも入り、同性愛の看守によって性的な暴行を日夜受ける。
 

55年05月、19歳で出所、炭鉱夫の娘と結婚して子供をもうけるが、売春組織の元

締めをやって逮捕、7年の懲役となる。


1967年仮釈放された時期はヒッピーが大流行していた。

61年から67年の世間の激動時代を獄中で過ごす。

催眠術や魔術、フリーメイソンやサイエントロジーなど精神医学などを研究する一

方聖書を愛読、歌手を志し、自作曲を囚人仲間にギター弾き語りで聞かせていた。

ビートルズの「抱きしめたい」がヒットして、獄中で聞いて以来たいそうなお気に入

り。仲間に「チャンスを掴めば俺もビートルズのようになれる」と吹聴していた。
 
出所後は盗みを働きながら放浪生活。吟遊詩人としてアピールしようと街角や公園で

歌っていた。

家出少女などを仲間に引き入れ、黒く塗り直したバスでカリフォルニアを放浪した。

このバス・ツアー中、「マジカル・ミステリー・ツアー」を聴いたマンソンと仲間(ファミリー)

は、自分達のバス生活そのものを「マジカル・ミステリー・ツアー」と呼ぶようになった。

マンソンがビートルズから思想的何事かを強く感得した初めてのアルバムが「マジカル・

ミステリー・ツアー」だったのではとマンソンのドキュメンタリー本「ファミリー」の著者エド・

サンダースは指摘する。
 

68年頃マンソンは、前年マハリシ・ヨギにやられていたビーチ・ボーイズのデニス・ウイ

ルソンと知り合う。デニスの豪気のおかげでデニス邸にファミリー共々入り浸り、テリー・

メルチャーはじめ周辺業界人に取り入ることにもなる。

デニスはファミリーの女の子をツアーに同行させたり、マンソンに資金援助したり、曲を

合作したりした。 

「リトル・バード」「ビー・スティル」(フレンズに収録)「ネバー・ラーン・ノット・トゥ・ラヴ」

(20/20 に収録)の3曲がスティーブ・カリニック名義で詞を提供したデニスとの共作作品

として知られている。


1969年7月25日、ボビー・ボーソレイユ、スーザン・アトキンズ、メアリー・ブランナーが

音楽教師ゲイリー・ヒンマンの元を訪れた。ヒンマンはドラッグ密売人として〈ファミリー〉

とは浅からぬ仲だった。ヒンマンは2万ドルの遺産を家に隠しているという噂だった。

3人はヒンマンに〈ファミリー〉に加わり、2万ドルをサバイバル資金として差し出すよう求

めたのだ。押し問答は2時間も続いたが、答は変わらなかった。ノーだ。日蓮正宗の信

徒だったヒンマンは、よくわからないカルトに加わって、マンソンを神とあがめる気など

毛頭なかった。苛立ったボーソレイユは銃を抜きだした。乱闘になり、銃が暴発し、ヒン

マンは頭を数回殴られた。 ヒンマンは縛られ、なおも金を出せと脅されつづけた。

連絡を受けてマンソンもやってきた。彼は肌身離さぬ“魔法の剣”で切りつけ、ヒンマン

の耳をそいだ。マンソンはヒンマンを監禁し、財産を奪う計画だった。だがその翌日、

錯乱したボーソレイユがナイフで切りつけて、ヒンマンは死亡した。

〈ファミリー〉はついに一線を越えたのだ。 彼らは現場を偽装し、黒人過激派の仕業に

見せかけようと考えた。そうすれば人種間の対立が激しくなり、“ヘルター・スケルター”

の訪れも近づくだろう。ヒンマンの血を使って、壁に「政治的なブタ」の字を書いた。

ブラック・パンサーの仕業だと示すために、下手クソな猫の手の絵も描いた。
 

8月4日、ヒンマンの車を運転していてボーソレイユが逮捕された。
 
デニスの口添えでレコーディングもするが、評価する者がおらず苛立ちを募らせていっ

た。

裏切られた気分を晴らすため、マンソンは前記のテリー・メルチャーの家に乗り込む

が、メルチャーは引っ越した後で、新しい居住者に追い払われる。 

その新しい居住者がロマン・ポランスキー、シャロン・テート夫妻であった。



ポーランド人映画監督ロマン・ポランスキーは1967年、アイラ・レヴィンのベストセラー小説『ローズマリーの

赤ちゃん』映画化のために米国に招かれた。ポーランド国立映画大学で映画製作を学んだポランスキーは、

62年の『水の中のナイフ』でヴェネツィア映画祭の批評家賞を得て名をあげた。この成功で英国に招かれ、

血まみれ映画二本、『反撥』と『袋小路』を作る。『反撥』ではカトリーヌ・ドヌーヴが性的妄想に悩まされる娘

を演じた。続く『ポランスキーの吸血鬼』で、主演女優シャロン・テートとはじめて出会う。
 


8月8日、「赤ちゃんが欲しいの、お願いだから殺さないで!」と泣きながら懇願した妊

娠9ヶ月のシャロン・テートに対し、信者のスーザン・アトキンスは「見たかメスブタ!お前

に慈悲などない!」と言い放ち、ナイフを11回振り下ろした。                                 


翌日、マンソンは信者二人を連れラビアンカ夫妻を殺害した。

ラビアンカ夫妻はスーパーマーケットチェーンを経営する金持ち。 夫は首を4回、下腹

部を8回刺されて死亡、 妻は41回も刺され、腹には「WAR」と刻まれていた。                                                                               

彼らを殺した後、マンソン・ファミリーは牧場で身を潜めていた。ファミリーの数は30〜

40人ほどで、ほとんどが中流階級の娘だった。牧場主とその娘らと性交させる代わり

にカリフォルニアのデスバレー近くの牧場牧場を借りていたという。


8月16日、農場に手入れがおこなわれ、自動車窃盗の容疑で25人が逮捕された。

だが、警察はテート=ラビアンカ殺人と〈ファミリー〉との関係に気づいておらず、全員を

釈放した。
 

9月、〈ファミリー〉はデス・ヴァレーのバーカー農場に移動を開始した。

ここを根拠地にし、デューン・バギーを駆って町を襲う略奪軍団を編成するつもりだっ

た。
 
10月12日、銃器不法所持などの容疑でマンソンは逮捕された。

警官が踏み込んだとき、マンソンは洗面台の下の小さなキャビネットに体を押しこんで

隠れていたという。
 

11月6日、ファミリーのスーザン・アトキンズが売春容疑で逮捕されたとき、留置所で同

房者にシャロン・テート殺害犯であることを打ち明けた。


この情報が当局に漏れたため、1969年12月 1日ファミリーは一斉検挙された。

事件後、「Lie」というタイトルでマンソンのアルバムが出る。
 

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女優シャロン・テート

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スーザン・アトキンス

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ラビアンカ夫妻







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−逮捕後のマンソン−


70年6月15日裁判開始。陪審は男7女5。裁判期間中の225日間、ホテルに隔離された。

マンソンは国選弁護人を次々と解任したり、裁判官を忌避して裁判の引き伸ばしを図った。(終結まで10年かかって

いる)

額に鉤十字の彫りこみを入れ、「俺はお前らの世界から抹殺された人間であり、この十字はその目印だ」とした。
 
支持者たちは裁判所の近辺にテントを張って住みつき、額に彫りこみを入れたり、頭髪を剃って、マンソンへの支持

を表明した。

マンソンには反省の色はまったくなく、「首を切り落としてやる」と叫びながら判事に詰め寄ったこともある。
 
担当検事のもとにはマンソンの支持者から脅迫電話がかかり、裁判官と検事には護衛がつけられた。
 
マンソンはファミリーの一人、テックス・ワトソンを黒幕に仕立て上げようとしたが、逆にワトソンの証言によって有罪色

が濃厚になった。
 

裁判開始から7ヶ月後の 1971/01/25日、陪審はマンソンに第一級殺人と殺人の教唆で有罪の評決に達した。

評決の発表の日は裁判所周辺に厳戒態勢がしかれた。というのもマンソンの支持者が海軍基地から手榴弾を盗ん

で逃走中で、「最後の審判"Judgement Day."」といわれる儀式を計画していることを警察がつかんでいたからだ。

死刑判決を受けるが、判決の11ヵ月後にカリフォルニア州で死刑が廃止(72/06/16)されたため、現在も収監されて

いる。

憎みつづけた社会によって命を救われたことは歴史の皮肉と言う他はない。

以来マンソンはカリフォルニアの州刑務所にいる。


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