ロズウェル事件の証言

事件に関する証言とその信憑性についての情報。破線で囲んだコメントは、証言の信憑性に関する問題や疑問、補足などのコメント。

フレッド・ホワイティング(Fred Whiting)の調査は、『The Roswell Events』で発表されたものを空軍がレポートで引用したものであり、空軍の調査は空軍のレポートによる。それを元に『世界はこうしてだまされた〈2〉UFO神話の破滅』で高倉克祐氏が訳したものを基本的に引用している(一部は直接空軍のレポートを参考にした)。

その他の証言は、ムーア&バーリッツの『ロズウェルUFO回収事件』と、ランドル&シュミット『ロズウェルに墜ちたUFO』を大いに参考にしている。

尚、ムーア&バーリッツの『ロズウェルUFO回収事件』での調査の多くはスタントン・フリードマンの調査によると思われるが、詳細不明なのでムーアの調査として扱った。

ウィリアム・W(マック)・ブレーゼル(William W.Brazel, Mac Brazel)

6月14日、自分が経営しているJ・B・フォスター牧場の自宅から7~8マイル離れた場所で、広範囲に散らばった目立つ残骸を見つけた。それらの残骸は、ゴムの切れ端、アルミホイル塊、かなり硬い紙、木片だった。そのときは牧場の見回りを急いでいたので、残骸のことは特に気にしなかった。

7月4日に、妻、ヴァーノン、14歳の娘ベシーと共に現場に戻り、かなりの残骸をかき集めた。回収されたアルミホイル、紙、テープ、木片を集めると、長さ3フィート、厚さ7~8インチの束になった。ゴム片の方は長さ18~20インチ、厚さ8インチの束になり、残骸全体で5ポンドほどの重量だったと見積もった。

何度か見たことのある気象観測用気球には似ていなかった。

» さらに詳しい情報はロズウェル・デイリー・レコード紙

マーセルが語ったブレーゼルの話

数日前(マーセル初対面の日の)の雷雨で奇妙な爆発音を聞いた。そのときは雷雨のせいだろうと思って余り器に止めなかったが、次の日に残骸を発見した。

当時の新聞の内容と矛盾する。残骸はずっと前に見つけられていたはず。

ベシー・ブレーゼル・シュライバー(Bessie Brazel Schrieber)

7月4日に牧場で残骸をかき集めた後、その残骸が何なのかみんなで考えたという。そのとき父が「そりゃ、ただのゴミの束だね」と言ったのを覚えていた。

1993/09/22に行われたフレッド・ホワイティングの調査での証言

残骸は大きな気球が破裂したものの一部のようでした。破片は小さく、一番大きなものでもバスケットボールくらいでした。ほとんどは両面に何かが張ってあり、一方は箔状、もう一方はゴムのようでした。両方とも灰色がかった銀色でしたが、箔の方がゴムよりも銀色をしていました。

木材はたこの棒のようで、白っぽいテープで何かにくっつけられていました。テープの幅は2~3インチで、花柄の模様がありました。花の模様はかすかで、色々なパステルカラーで描かれていました。日本画のように、それぞれの花はつながっていなかったと思います。それ以外のどんな模様も思い出せません。

また落下によって生じた穴や落下の衝撃を示すいかなる痕跡も思い出せません。箔とゴムの物質は引き裂くことは出来ませんでした。普通のアルミ箔であれば引き裂くことは出来ますが。

ビル・ブレーゼル(Bill Brazel Jr.)

父はほとんどその話をしなかった。新聞で父が騒動に巻き込まれていることを知り、父の家に行った。父は一週間軍に監禁された。

ブレーゼルJrの語る父の体験

雨は殆ど降らない酷い稲妻だけの嵐の晩に、雷鳴とは違う奇妙な爆発音を聞いた。

翌朝、羊の様子をみようと牧場に行くと、残骸を見つけた。範囲は4分の一マイル×数百フィートぐらいだった。1日かそこらしてから、残骸を回収した。残骸には図形がかかれていた。

当時の新聞の内容と矛盾する。残骸はずっと前に見つけられていたはず。

墜落現場の草の先端だけがちょっとだけ焦げていた。

その後、プロクター家に行き、残骸の話をした。翌晩、コロナに行って、叔父のホリス・ウィルソンや友人と話しをした。ここで全国的に盛り上がっている円盤騒動を聞いた。叔父と友人から円盤の残骸かもしれないから、当局に届けたほうがいいとすすめられた。

残骸のことを気象局に問い合わせたら、保安官に相談するように言われた。

ビル・ブレーゼル本人の体験

自分もあとから破片を結構拾った。バルサ材のように見える強靭な梁状物質や、非常に薄くて軽い、引き裂くことのできない、丸めても元に戻る箔状物質、絹糸のようだが、針金っぽくもある強靭な糸状物質を拾った。

糸状の物質の話は彼だけが語っている。

自分が回収した物質は、2年ほど後にアームストロングという大尉が来て回収していった。ソコロの飲み屋で話をしたからばれたのだろう。

ジェシー・マーセル(Jessie A. Marcel)

爆撃手、機体中央砲手、パイロットとしてB24に乗った。1928年以来468時間の戦闘飛行を記録し、敵機を5機撃墜したことにより、航空勲章を5つ授与されていた。

航空写真分析の専門家として空軍機に乗る。航空勲章は2つ。規定の時間、空軍機に乗っていたことにより授与。パイロット経歴は虚偽。

ジョージワシントン大学から物理学の学位をもらい、さらにウィスコンシン大学・オハイオ州立大・ニューヨーク大学・ルイジアナ州立大学などにも通った。

ルイジアナ州立大学に1年半通っていた。ジョージワシントン大学にはマーセルの記録なし。ウィスコンシン、オハイオ、ニューヨーク地区に住んだ形跡すらなし。学位について宣誓供述を求められると、嘘だったと白状した。

1949年、ソ連原爆開発成功の際にトルーマン大統領がラジオで読んだ原稿を書いた。

ソ連原爆開発成功の際、ホワイトハウスはステートメントを文書で発表したのみでトルーマン大統領がラジオで発表したという事実はない。

集められるだけの残骸を集めた。キャビットの乗っていたキャリオール(人貨両用)・ジープ、マーセルの乗っていた参謀専用車(42年型ビュイック)のトランクと後部座席いっぱいに積んで帰った。7/7の午後に基地へ向かい、夕方に基地についた。

7/8の午後に回収物を全部積み込んだB29でフォートワースに行った。B29の半分が埋まるぐらいの量だった。

フライトエンジニアのロバート・ポッターの証言とは残骸の量がずいぶん違うようだ。

ロズウェルに墜落した残骸は地球上のどんな物質とも違っていた。梁状物質はバルサ材に似ていて重さも同じぐらい。折れ曲がりはするが、非常に硬くて燃えなかった。象形文字のような文字があった。紙状物質は茶褐色で恐ろしく強靭だった。箔状物質はタバコの銀紙のよう。かなりの軽量。重さ16ポンド(7.25kg)のスレッジハンマーを使っても、曲げることも燃やすこともできず、切ることも破ることもできなかった。プラスチックの性質を持った金属だといってもいいかもしれない。

写真でマーセルが持っている物体は、細かく破れているし、小さな破片になっている。

事件当時、残骸が奇妙なものだと説得するためにアーヴィング・ニュートンに見せたものは、バルサ材についた記号のようなものだけだったようだ。マーセルが言うような物質の奇妙な性質を見せていれば、ニュートンも必ず奇妙な残骸だと納得しただろう。

自分との写真を撮ったあとに、残骸は気球の残骸と入れ替えられた。 残骸は自分の操縦でフォートワースに運んだ。

写真の分析からマーセルと一緒に写っている残骸と、アーヴィング・ニュートン、ロジャー・レイミー准将、トーマス・ドゥボーズ大佐らと一緒に写っている残骸は同じものであることが確認されている。つまり、入れ替えられたという証言に正当性はない。

残骸をマーセルの操縦で運んだというのは当時の新聞とも矛盾する。

一番確かなことは気象観測用気球ではなかったといういうことだ。

残骸の写真は気球に吊り下げられていたレーダー・ターゲットに見える。

空軍の査定書では「唯一の弱点は、問題を大げさにする傾向があることだ。」 と書かれた。

ジェシー・マーセル Jr(Jessie Marcel Jr.)

1991/05/06に行われたフレッド・ホワイティングの調査での証言

残骸は三種類あった。薄い箔状の金属状の灰色の物質、もろい、暗褐色のプラスチック状の物質でベークライトのようなもの(有機物的な黒いプラスチック物質)、そして I型梁の破片と思われるものだった。梁の内側には文字のようなものが書かれていた。色は紫かバイオレットで、浮き彫りになっていた。曲線によって構成された幾何学的な形をしていたが、ロシア語にも日本語にも、その他の外国語にも似ていなかった。エジプトの象形文字に似ていたが、動物の模様はなかった。

「有機物的な黒いプラスチック物質」という話は、他の証言者の話には出てこない。

ビュイックとキャリオールに積んだ残骸は、ほんの一部でしかないと父は語った。

シェリダン・キャビット(Sheridan Cavitt)

ランドル、シュミットの主張に対して

この件についてペンタゴンからの質問もなかったし、この件を秘密にすることを制約した覚えはない。

墜落した円盤や異星人については何も知らないし、それを信じてもらうためなら、血で署名しても構わない。

1947年に空中給油訓練中の2機のB29が衝突していたことを知っていたので、異星人の死体を見たという証言者の中には、この事故の遺体を見た者がいたのではないかと考えていた。

1994/05/24に行われた残骸に関する空軍の調査への返答

人間やその種のものを運ぶにはあまりにも貧弱だった。それがラジオ・ゾンデ以外の何かである可能性を考えたことは一度もなかった。

ラジオ・ゾンデは積んでいなかったようだ。おそらく気象観測用気球という意味で使っているのではないかと思われる。

残骸は20フィート四方の地面に散ばっており、地面がえぐれているといったような墜落の衝撃をしめす形跡はなかった。

ブレーゼルのインタビューでは直径200ヤードの範囲とあり、ずいぶん印象が違うようだ。20フィートはFBIテレックスで書かれている気球の大きさと同じである。

誰かが気象観測用気球をなくしたくらいにしか思えなかった。気にするほどの出来事でもなかった・・・。ついてなかったという程度のことで。

ルイス・リケット(Lewis Rickett, William Rickett)

機体は前部が流線型で、コウモリのような後縁を持つ幅の広い翼を備えていた。左側には亀裂か穴があった。機体は地面に突っ込んで、前部がひしゃげていた。崖の横腹に激突して30~40度の角度で突き出していた。その周りには残骸が散乱していた。

ウォルター・ハウト(Walter G.Haut)

1993年の宣誓供述

7月8日の午前9時30分頃に、基地指揮官のウィリアム・ブランチャード大佐から電話を受けました。彼は空飛ぶ円盤またはその部品を入手したと言いました。彼はそれがロズウェル北西部の牧場から来て、情報将校のジェシー・マーセル少佐がフォートワースへ空輸する予定だと言いました。

ブランチャード大佐は、ニュースリリースを作成し、それをロズウェルのふたつの新聞とラジオ局に届けるように言いました。彼は地元メディアが最初のニュースになるように望んでいるようでした。私は最初にKGFLに、それからKSWSに、そしてデイリーレコード、最後にモーニング・ディスパッチへと行きました。

翌日、フォートワースのロジャー・レイミー准将が気象観測用気球であったことを発表した新聞を読みました。

ブランチャード大佐は、物体が何であるか確信しているようでしたので、物体を見たのだと思います。彼がそれを気象観測気球に間違えただろうという可能性は全くありません。マーセル少佐も間違わなかったでしょう。

1980年にジェシー・マーセルは、レイミー准将のオフィスで撮られた写真の物体は、彼が回収したものではなかったと話してくれました。

私は、回収された物体が宇宙から来た航空機であったことを確信しています。

最後の宣言は、おそらくUFOミュージアム館長というスタンスからの発言だと思われる。

» 原文はこちら(英語)

2002年の宣誓供述

私は、7月7日月曜日午前半ばに、誰かから墜落した残骸の報告が入ったことを知っていました。基地司令官ウィリアム・ブランチャード大佐によって、情報部長シェシー・マーセル少佐が調査に行かされたことを知っていました。

同じ日の午後に遅くまでに、ロズウェルのすぐ北の2番目の現場について、民間人からの追加報告が入った事を覚えています。私は通常業務に殆どの時間を費やしたので、それ以上の事は殆ど聞いていません。

7月8日火曜の朝7時30分、定例のスタッフ会議に出席しました。ブランチャード大佐、マーセル少佐のほかには、シェリダン・キャビット大尉、ジェイムズ・ホプキンズ大佐、ユリシス・ネロ中佐、テキサス州フォートワースのカーズウェル空軍基地よりブランチャード大佐の上司ロジャー・レイミー准将、准将の参謀長トーマス・デュボース大佐も出席していました。主な議題はロズウェル北西約75マイルのリンカーン・カウンティの現場に広がった残骸についてで、マーセルとキャビットが報告しました。町のおよそ40マイル北の2番目の現場に関しては、ブランチャードが予備説明を提供しました。残骸のサンプルはメンバーに回されました。それは、私がこれまでの人生の中で見たことも持ったこともないものでした。紙のように薄いのに非常に強い金属ホイルのような破片、そして縦に珍しいマークのある破片が、人から人へわたり、各人が自分の意見を述べました。誰も残骸の破片を特定できませんでした。

マーセルもキャビットも含めて全ての参加者が、この会議のことに言及したことはない。もしマーセルがこの会議に本当に参加していたのならば、間違いなく第2墜落現場のことも含めてUFO研究家に話をしただろう。そして、マーセルがわざわざニュートンを説得しようとすることなどなかったはずである。

会議の重要な議論のひとつは、これを公開すべきか否かということでした。レイミー司令官は計画を提案しました。私はこれが彼の米国国防総省のボスからの命令だと信じています。他の現場を発表することで、町の北の重要な現場から注意をそらす必要がありました。既にあまりに多くの民間人が既に関わっていましたし、報道機関も既に知識がありました。私はこの計画がどのように達成されるかをきちんと知らされていませんでした。

これはプレスリリース前のはずなので、報道機関が知っていたという事実はないはずだ。

午前9時30分頃に、ブランチャード大佐は、私のオフィスに電話をしてきて、空飛ぶ円盤のプレスリリースを口述しました。マーセルはロズウェル北西の牧場から回収した残骸を上層部に空輸しました。私はラジオ局のKGFLと KSWS、新聞のデイリー・レコードとモーニング・ディスパッチにニュースリリースを届けることになりました。

Las Vegas Review-Journal によると、ハウトはワシントンから痛烈な電話を受けたとのことであるし、ビル・ムーアもハウトの行動は勇み足だったという理解をしているようだ。先の会議の話が本当ならば、ハウトが批判される理由はない。

ニュースリリースがワイヤサービスに届く頃には、私のオフィスは世界中からの電話が殺到しました。メッセージは私の机に山積みでしたが、ブランチャード大佐はメディアに対処せずに家に帰って隠れることを提案しました。

ブランチャード大佐は基地を去る前、私を個人的にビルティング84 (俗に言うハンガーP-3)と滑走路の東寄りに位置するB-29格納庫に連れて行ってくれました。最初ビルに近づくと、屋外も屋内も厳重な警備がされていました。中に入ると、町の北で回収されたばかりの物体を安全な距離から観察する許可を得ました。大体12~15フィートの大きさで、幅はあまりなく、高さ6フィートで、卵のような形をしていました。照明が暗かったのですが、表面は金属のように見えました。窓、砲門、翼、テール部分、または着陸装置などは見えませんでした。

単なる下級報道官にトップシークレットとして、守られるはずのものを見せるだろうか。もし見せるのならば、上官のマーセルが見ていないというのもおかしい。

遠方からも、キャンバスタール塗り防水布の下で2,3の死体を見ることができました。頭だけがカバーからはみ出しているような状態だったので、私はどんな風になっているのか分かりませんでした。頭は標準より大きく見え、覆いの輪郭からは10歳程度の子供の大きさだと思いました。後日になって、ブランチャードは彼のオフィスで、腕を床から4フィートの上げ身長を教えてくれました。

私は回収した死体を収容するためにセットアップされた一時的な死体公示所の情報を得ました。

私は残骸が“ホット(放射性)”ではないとの情報を得ました。

フォートワースからマーセル少佐が帰ったとき、マーセル少佐は「レイミー准将のオフィスに残骸の破片をもって行き、その後マップルームから帰ると、部屋から出ていた間に、残骸が気象観測用気球とレーダーカイトの残骸に摩り替えられた」のだと説明してくれました。マーセルはこの状況に非常に混乱していました。私たちはそれにつての話は二度としませんでした。

先の定例会議の話が本当ならば、情報隠蔽の方針は知っていたはずなのだから、マーセルが混乱するのが理解できない。

軍のクリーンナップの際、回収現場の一つに少なくとも1回、視察が許可されました。残骸の幾つかは基地に持ち帰って、オフィスに飾ったりしました。

トップシークレット事項の明らかな物証なのに、あまりにも扱いがぞんざいではないか?その物証はどこへ行ったのか。

数ヶ月後にも、私は、残りの証拠品回収のため2つのチームが個別に各現場に戻っていることに気づきました。

私が個人的に見たものは、きっと宇宙から来た何らかのタイプの機体と、その乗務員だったと思います。

» 原文はこちら(英語)

アーヴィング・ニュートン(Irving Newton)

1979/07 ビル・ムーアインタビューに対して

それは切断されていて、乾いていた。これまで何千個も飛ばした経験があるから、私の与えられたものが気球の一部だったことには疑問の余地はない。そのあと、私はこういわれた。ロズウェルの某少佐がこの残骸を空飛ぶ円盤だと判定したが、准将はこの判定に初めから疑いを持っていた。だから、私が呼びつけられたのだとね。

1994/07/21 空軍の調査での証言

自分が将軍の執務室に入っていくと、空飛ぶ円盤といわれるものが床いっぱいに広げられていた。見るなり、私は笑ってしまった。私がこれが空飛ぶ円盤ですか?と聞くと、そうだと教えられた。私はこれが気球とレーウィンレーダー反射板であることを彼らに教えた。

私が残骸を調べていると、マーセルはレーダー反射板の棒の断片を取り上げ、そこに記されているものが異星人の文字であることを私に信じさせようとした。棒には紫色かピンク色の図形があり、色褪せたマークのようだったが、リズムも規則性も見受けられなかった。彼の言葉だけでは、これが異星人の文字であるとは信じられなかった。

レイミー准将が誰かに対し、残骸をライト・パターソン基地に送るという計画はキャンセルするように言ったのを覚えている。

取りやめの話はレイミー准将から出たのかもしれないが、実際には取りやめられずライト・パターソン基地に送られたものと思われる。

グレディ・バーネット(Grady L. Barnett, Barney Barnett)

バーネットはUFO研究家からインタビューを受けたことはない。知り合いのL.W.(ヴァーン)マルティス夫妻などの伝聞情報である。

L.W.マルティスによるバーネットの証言の再現

ニューメキシコ州マクダレナの近くに仕事に出かけたときに、金属に反射する光を見た。飛行機の墜落かもしれないと思って現場に向かった。そこには25~30フィートぐらいの金属製の円盤が墜落していた。

すると反対側からペンシルバニア大学の考古学調査団が来た。彼らも飛行機事故だと思って来たらしい。

円盤の中にも外にも死体があった。乗っていたと思われる生物は全員死んでいた。姿は人間に似ていたが、人間ではなかった。頭部は丸く、目は小さく、毛髪がなかった。両目は奇妙なほど離れていた。彼らはきわめて小柄だったが、頭は体に比べると大きかった。衣服は上下つなぎ(ワンピース)で、色はグレイだった。ジッパーもベルトもボタンも見当たらなかった。全員が男性のように見えた。

軍の将校が来て非常線を張った。この場から立ち去り、このことは口外しないように言われた。

L.W.マルティスによる場所の話

場所はソコロ市外のどこか。ソコロのすぐ西側かもしれない。バーネットは“フラッツ”といっていた。

リー・ガーナー(元カウボーイで後にソコロ郡の保安官)の話

バーネットから聞いた考古学調査団の話を覚えている。ペンシルバニア大学の学生も混じっていたかもしれないが、ミシガン大学の調査団ではないか。

ジョン・グリーンワルド(元連邦政府職員で隠居したソコロに住む農夫)の話

サンアウグスティン平原は“フラッツ”と呼ばれていた。そこが事件現場だと信じている。

J.F.(フレック)ダンリー

バーネットから空飛ぶ円盤の墜落現場を見たという話を聞いた。

1990年に発見された彼の妻の日記によると、ロズウェル事件当日、バーネットは墜落現場と言われるサンアウグスティン平原に行っていない。また、異星人を目撃したというような奇妙な体験についても、妻に対して語られた形跡は全くない。

ジェラルド・アンダーソン(Gerald Anderson)

彼の妻は、彼から異星人の死体やUFOの話を聞いた事がないと証言。また夫について「作り話をするのが大好きで、実際にそれを他人に信じさせる事ができる」と語っている。

叔父らとサンアウグスティン平原に化石採集にでかけ、その折にドーム状の円盤と、中に乗っていた4人の異星人を目撃した。異星人の2人は既に死亡しており、一人が虫の息、一人は近くにしゃがんでいた。また、ペンシルバニア大の考古学者も来ていた。後からやってきた軍隊に脅され、強制的に立ち退かされてしまった。

円盤の近くにはバーネットと思われる人物もいた。

バーネットからは、サンアウグスティン平原で他の人物や家族などを見たという話は出てこない。

現場に一緒に行った叔父テッド・アンダーソンの日記が証拠だ。

日記を書くことに使われているインクは、1974年以降にならないと手に入らないシェーファー製のブラックインクであることがわかった(叔父テッドは1974年以前に他界している)。この調査を受けてアンダーソンは、渡したのは書き写した日記であり、オリジナルではないと言い出し反論している。しかし、オリジナルが存在するという証拠は全く提示されていない。

墜落現場で会った考古学者はペンシルバニア大学のバスキルクという名の学者である。

バスキルクという考古学者の正体は、アンダーソンが高校の時に人類学を習っていた教師ウィンフレッド・バスキルクであることが判明した。はじめにアンダーソンが語っていたバスキルク教授の特徴とウィンフレッド・バスキルクの特徴は完全に一致した。バスキルク自身の調査によって、バスキルクの授業があったクラスの卒業写真に、アンダーソンが写っていることが確認されている。 バスキルクはアンダーソンを嘘吐きだと断言している。

軍の将校の一人はアームストロングという名前だった。

事件当時5歳だった上に、30年以上も経ってからの証言にしては、あまりにも詳しすぎる。

自分の証言を補強するために、通話記録を偽造したと指摘されている。

グレン・デニス(Glenn Dennis)

ロズウェル事件当時、基地近くのバラーズ葬儀社に勤めていた。

当時の電話番号簿を調べたところ、デニスの名はロズウェルの他の葬儀屋のところに載っていた。

怪我をした空軍兵を車で基地に送っていった際、基地病院の外には陸軍の救急車が2台停まっていた。その中に残骸を見た。残骸はカヌーの前部のようで、縁の一部にはヒエログリフのような文字があった。救急車内の残骸を見たことについて、口外しないように軍に脅された。そのときの会話は以下のようなものだった。

白人、赤毛の大尉「(今日のことは口外するな)さもないとおまえは砂漠で骨になって発見されることになるぞ」
黒人の下士官「大尉、この男ならいいドッグフードになりますよ」

当時は人種差別が激しかったため、黒人が白人のデニスへこのような言葉使いをすることが許容されるような世の中ではなかった。また、当時に白人と黒人の組み合わせのグループがあったということも考えにくいといいう指摘もある。

基地病院には、仲の良い軍医がいた。この医者は退役後に小児科医として開業した。

デニスが語る医者に該当する経歴の医者は1人のみ。その医者はデニスの事を全く知らず、当時何か事件があった記憶もなかった。

基地病院にいた知り合いの看護婦から異星人の死体の話を聞いた。看護婦の話によると死体は3体。1体は墜落後もしばらく生きていたようで、綺麗な死体だった。他2体は、風雨にさらされ、肉食獣にも損傷を与えられていたため、損傷が酷かった。指は4本で人間で言う親指がなかった。指先は吸盤状だった。骨は分厚い軟骨のようだった。目はくぼんでいた。鼻もくぼんでいてふたつの小さな穴があった。耳の穴には耳たぶのようなものがあり、穴を塞ぐことができそうだった。

知り合いの看護婦はナオミ・マリア・セルフという名前である。ナオミ・マリア・セルフが居なくなった後、基地病院の婦長とそのことについて話をした。

1947年版のロズウェル基地の年報によると、当時ロズウェル基地には5人の看護婦が勤務していたが、ナオミ・マリア・セルフという名前、もしくは類似の名前の看護婦は存在しなかった。ジャーナリストのポール・マッカーシーの調査当時存命だったのは、ローズマリー・J・ブラウン中佐のみだった。彼女は1947年の夏に「何か奇妙なことが起きた意識は全くない」と語っている。また、ブラウン中佐は、記録にある他の看護婦のことを良く覚えていたが、デニスの語るセルフという看護婦にあてはまる人物についての記憶はなかった。

デニスの語る婦長の特徴に該当する看護婦は存在しなかった。無理やり証言に近い人物を探すと、事件の12年後に基地病院に配属された人物になってしまう。

プロクター夫妻(Floyd Proctor, Loretta Proctor)

1970年代後半 フロイドの証言

ブレーゼルから、残骸の話を聞いた。ブレーゼルは饒舌だった。

中国語か日本語を思わせる模様が付いていた。爆竹の包み紙に書いてあるような感じの淡い色で書かれた図形の一種だった。

ナイフで切ろうとしても切れなかった。紙も金属もこれまでに見たことのないものだった。

残骸をロズウェルに持っていくように勧めた。

ブレーゼルは一週間軍に拘束されていた。

1991/05/05に行われたフレッド・ホワイティングの調査でのロレッタの証言

ブレーゼルは私たちの牧場に来て、私と夫に何かのかけらを見せました。彼によると、彼の牧場にはそのような残骸がたくさん散らばっているということでした。彼が持ってきたのは茶色をしたプラスチックのようなものでした。彼は牧場にはアルミニウム箔のようなものも落ちていると言っていました。それはとても柔軟性があり、裂けたり燃えたりしなかったそうです。また何かが印刷されたテープもあると言っていました。印刷の色は紫色でした。

ロレッタは時間と共に証言を変えており、夫のフロイド存命中は、話を聞いただけでどんな残骸も全く見ていないと語っていた。

リディア・スレッピー(Lydia Sleppy)

姉妹局のKSWSのジョニー・マクボイルからロズウェル事件のニュースを聞いた。

スタントン・フリードマンがインタビューしたところによると、マクボイルは何も起こらなかったと言っているようだ。

ニュースをテレタイプで送ろうとしたところ、突然送信が中止され、テレタイプ送信をやめるようにFBIから割り込まれた。「アルバカーキに告ぐ。送信するな。繰り返す。この通報を送信するな。通信をただちにやめよ。」

彼女の使っていたテレタイプは通信を受信するためには、操作者のスイッチ操作により受信モードにする必要があり、FBIであっても割り込むことなど不可能であった。

ウォルト・ホイットモアJr.(W. E. Whitmore Jr.)

ホイットモアJr.が語る父の体験

ブレーゼルをかくまってインタビューをとった。

ワシントンDCの連邦通信委員会(FCC)の委員長を名乗るスロウィーという男からの電話でインタビューの放送を止められた。チャベス上院議員からもスロウィーの指示に従うように説得があった。

ホイットモアJr.自身の体験

残骸は見たことがある。残骸は金属箔と木のような梁状物質。一部には文字のようなものがあった。墜落現場は175~200ヤードの範囲が扇形に掘り返されていた。

メルビン・ブラウン(Melvin E. Brown)

ブラウンはUFO研究家から直接インタビューを受けたことはない。べバリー・ビーン(Beverly Bean)がそう言っているのみ。ブラウン家の者で娘の証言を支持する者は一人もいない。

墜落現場の警備を手伝った。異星人の死体は2つか3つだった。残骸の回収のときに、遺体袋に入った異星人の死体と共に救急車に乗り、基地の病院まで行った。異星人の遺体は氷で梱包された。

彼は機密に関わることなどないはずのコックであった。

サリー・ストリックランド・タドリーニ(Sally Strickland Tadolini)

1993/09/27に行われたフレッド・ホワイティングの調査での証言

ビルが見せてくれたものは、何かの織物だったと思っています。それはアルミ箔のようでもあり、サテンのようでもあり、よくなめした皮革のようでもありましたが、それのどれとも違っていました。それは手袋に使う子山羊の皮ぐらいの厚さで、鈍い金属質の灰色がかった銀色をしていました。片面はもう一方よりしこし黒かった。何かが印刷されていたり、浮き彫りになっていたかどうかは思い出せません。

ロバート・ポッター(Robert Porter)

1991/06/07に行われたフレッド・ホワイティングの調査での証言

私は円盤だといわれていたものをフォートワースまで運んだクルーでした。飛行機にはマーセル少佐も乗っていました。ウィリアム・アンダーソン大尉はこれは空飛ぶ円盤の残骸だといっていました。われわれが到着した後、荷物はB25に移されました。私はそれらの荷物はオハイオ州・デイトンのライトフィールドに運ばれると言われました。荷物はとても軽く、一つは三角形で、底辺が2.5フィートほどでした。残りは小さな梱包で靴の箱くらいでした。褐色の紙で包まれ、テープで止められていました。とても軽く、中にはなにも入っていないかのようでした。われわれは三角形の箱と靴の箱くらいのものを三つ積み込みました。これらは自動車のトランクルームに入ってしまいそうでした。私たちが昼食から戻って見ると、荷物は既にB25に運ばれたといわれました。彼らはあれは気象観測用気球だといいましたが、私は気球ではなかったと思っています。

トーマス・デュボーズ(Thomas J. Dubose)

1979/09/09 ビル・ムーアのインタビューに対して

ロズウェルからきた物品を特別機でまっすぐライト・フィールドへ運ぶように上からの命令がきていた。

ジェイム・シャンデラからの残骸は摩り替えられたか?という質問に対して

いやいや。摩り替えられなかったよ。それは間違いない。私はそこにいたのだから責任を持とう。

チャールズ・ムーア(Charles B. Moore)

ビル・ムーアの墜落したのは気球だった可能性はあるか?といった趣旨の1979年頃のインタビューに対して

きみがいった通りの物体なら、その可能性は完全に除外できるね。47年にはむろんのこと、それをいうなら現在だって同じだが、そんなに広い範囲に残骸をバラまいたり、多少でも地面を傷つけたりできるような気球なんて、使われてなかった。

残骸が散らばっていた範囲や、地面に残った溝など、実際にはなかった特徴を前提に質問しているため、このような返答になっている。

ジェームズ・ラグズデール(James Ragsdale)

ランドル&シュミットの調査に対して

7月4日の夜。トゥルーデイ・トゥルーラヴと一緒に車に乗っていた。天気は雷雨。

PM11:30頃、頭上を閃光を放ちながら飛んでいく物体を見た。物体はキャンプ地から1マイル程離れたところに墜落した。現場に行くと崖の横腹に物体の残骸が突き刺さっていたが、次の日にもう一度確認することにしてキャンプ地に帰った。

7月5日の朝、墜落現場にいくと、そこにあったのは短い翼を持った航空機のようなものだった。 残骸の一部を拾った。「あの代物は手にとって小さく丸めることができるのに、ひとりでにぴんと伸びてしまう代物だった」またある一片は「手にとって、好きな形にすることができ、いったんそうするとそのままの形を保っていた。どんな形にでも曲がってそのままになるんだ。ぴんと伸びることはなかった。」

「死骸か何かが横たわっていた。死体のようだった。背はあまり高くなく…せいぜい四、五フィートぐらいのものだった。」

MP(憲兵隊)の乗った車やレッカー車、六輪駆動の軍用トラックなどが来た。一台はサイレンを鳴らしていた。MPは非常線を張った。残骸はきれいさっぱり片付けられた。

1993/1/27 に行った宣誓証言

1947年7月の夜、激しい雷雨のさなかに、ロズウェルの北西40マイル前後のところに女性同伴で居た。まぶしい光が南東に移動するのを目撃した。日の出時にその方向に車を走らせ、妙な残骸片に覆われた断崖の近くの峡谷に出た。痛んだ機体の残骸で、機外には小さめの死体が数体あった。コンボイが現れたため、急いで付近を立ち去った。

ダン・ドワイヤー(Dan Dwyer)

ダンが直接UFO研究家からインタビューを受けたことはない。フランキー・ロウ(Frankie Rowe)の証言から目撃者に上げられている。フランキー・ロウの証言の一部は姉のヘレン・カーヒル(Helen L. Cahill)によって支持されている。

7/5早朝に消防署への電話で呼び出され、飛行機のようなものの墜落現場へ行った。遺体袋2つと、生存していた一人の異星人を見た。生存していた異星人は怪我をしていなかったようだ。

1993/11/22付けのフランキー・ロウの宣誓供述

父はロズウェル市の消防署の消防士だった。ある夜、父は帰宅後、ロズウェルの北に出勤したことを家族に話した。父はロズウェル郊外で宇宙船のようなものの残骸と異星人の遺体にでくわした。

私は父と一緒に帰宅するため消防署にいた。州警察官がやってきて、墜落現場で拾ったという金属質の残骸片を見せた。くすんだ灰色をしていて、アルミ箔ほどの厚さだった。丸めるとひとりでに開く物質だった。消防士はそれを切ることも燃やすこともできなかった。

数日後、数人の軍人が家にやってきて弟たちや妹たちに外で待つようにいった。母と私は食卓につくように命じられ、先日見た金属片のことを聞かれた。そのことを口外すると、砂漠に連れて行かれ、二度と戻れなくなるとか、両親が旧捕虜収容所の“オーチャード・パーク”に連れて行かれるといわれた。

1993/11/22付けのヘレン・カーヒルの宣誓供述

1948年に両親(ダン・ドワイヤー夫妻)が訪ねてきた際に、父が言った。重大な事件が起こったが、おまえに話すわけにはいかない。口外すれば、家族の安全が気づかわれる。知らないほうが身のためだ。

同じ折に母は父の言葉を裏書しました。事件があったので父としては話したいのだが、家族のことが気づかわれる。何か話したと思われたら、何者かが私を殺しにやってくるという話だった。

妹のフランキーから1960年代のはじめに聴いた。フランキーは1947年にテーブルにつかされて、脅しを受けたそうだ。“水のように流れる”物質を目にしたとも話していた。

当時、消防士が郊外へ行くというのは普通ではなかった。また、事件当時に実際に行ったという記録は見つかっていない。

フランク・カウフマン(Frank Kaufmann)

他にもスティーブ・マッケンジー(Steve McKenzie)や、ジョセフ・オズボーン(Joseph Osborn)などの名前を使って、円盤墜落に肯定的な証言をしたと言われている。

異星人の死体が置かれた格納庫は、大きな二重扉つきで、さらにその周囲には警備員が配備された。カービン銃で武装していて、誰も近づけないようになっていた。格納庫の中央に箱がひとつ置かれていた。箱は幅20フィート、長さ6フィート程だった。

カウフマンは、事件当時軍に属していたわけではなく、ロズウェル陸軍飛行場の民間事務員に過ぎなかった。

スティーブ・マッケンジー(Steve McKenzie)

フランク・カウフマンの別名と考えられている。

ロズウェル陸軍航空基地に配属されていた。

7月2日にホワイトサンズミサイル試射場でのレーダー監視のために呼び出された。一地点から別の地点へ矢のように飛んでいく物体をレーダーで監視していた。7月4日の夜11:20頃に物体は脈動するように見え、スクリーン上で大きくなっていったかと思うと元の大きさに戻り消えた。物体は墜落したものと思われた。

7月5日にワシントンの特別班と共に現場に急行するように命令された。現場には民間人がいるとのことだった。死体の数は5体。2体は墜落した物体の外に投げ出されていた。痩せていて頭は不釣合いなほど大きかった。目は普通の人間よりもわずかに大きく、瞳孔があった。

格納庫に保管されている墜落残骸の一部を、ロズウェルのカメラマン、ウッドロー・ジャック・ロドゥンが撮影した。格納庫に無許可で近づくものは射殺するよう命令されていた。残骸ははじめ、アンドルー陸軍航空基地へ運ばれ、そこからパターソン陸軍航空基地へ運ばれた。運搬に関しては、様々な陽動作戦が行われ、追跡されないようになっていた。その後、個人的な記録から何から、様々な改竄が行われた。

ジェイソン・ケラヒン(Jason Kellahin)

APのニューヨーク本社からロズウェルに急行するように電話をもらった。アルバカーキ支局から同行したのはロビン・アデアだった。日中に現地に入ったことを考えると、電話は朝のことだと思う。現地入りには2時間ほど掛かる距離だった。二人はまずヴォーンにいった。ヴォーンのすぐ南が残骸の発見現場だった。コロナ街道を西に向かっていると多くの車が見えたので、現場がわかった。現場には航空基地の将校たちがいた。

ケラヒンがニューヨーク本社から急行するように言われたとすれば、新聞の報道の内容からして、軍のプレスリリース直後ではなかったのかと思われる。つまり、朝ということはなさそうだ。また、現場に行ったという記憶も怪しい。

アルバカーキから同行したアデアはカメラを持っていた。残骸とブレーゼルの写真を撮った。残骸は半エーカー程の範囲に散らばっていた。残骸は銀色の織物と凧をつくるときに使うような軽い木材だった。自分の考えでは、二人が見たものは「気象観測用気球」だった。

どの記録からも、残骸とブレーゼルの写った写真は見つかっていない。

R・D・アデア(Robin D. Adair)

ニューヨークから電話を受けたときは、テキサス州エルパソにいた。AP本社は飛行機をチャーターしてもいいから、一刻でも早くロズウェルに行けということだった。

ロズウェルの飛行場に着く前に、リンカーン郡のブレーゼル牧場の上を5,6回旋回した。写真は1枚も撮れなかった。現場は警官やFBIに囲まれていた。現場の3/4マイル以内には入れてもらえなかった。周辺に着陸できる場所はなかった。現場には残骸がたくさんあり、焼け野原のようだった。地面に残る深い傷跡と轍が見えた。地面への食い込み方からして、金属性の物体がぶつかったようだった。

警官やFBIが墜落現場に居たという証言はアデア以外では誰も触れていない。現場には着陸できていないはずなのに、なぜか詳しい。


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