佐川町史による徐福伝説

五位山公園の碑

碑文によると

徐福伝説
前方にそびえる虚空蔵山には
二千年以上の昔中国と日本を結ぶ
ロマンとしての“徐福伝説“が秘められている。
徐福は不老不死の薬をもとめる
秦の始皇帝の命を受けて
東海にあるといわれる神仙の山、

蓬莱山をめざして船出したが
漂着した土地にとどまり故郷には帰らなかった。
この伝説日本各地に残っている。
徐福一行、暴風雨に遭い、土佐の宇佐に漂着
この虚空蔵山に登ったという、
山頂で彼らは鉾をかざして故国をしのび
柴を折って一夜の夢を結んだが
仙人に会えず、むなしく
この地を去っていったと言われている。
一九九〇年
佐川町

丹生神社 虚空蔵山鉾ヶ峰寺 虚空蔵山
虚空蔵山五位山公園丹生神社に関連項目あり

徐福は秦の時代の医薬を扱う薬方士で実在の人物だと信じられている。
司馬遷の「史記」によると(全くの受け売りであるが)徐福は

始皇帝に東方に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)の三神山があり
仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと願い出て、
3000人に余る大船団を組織し二度旅立ったが二度目には帰らず平原広沢の王となった。
という記載があるらしい。3000人の中には農耕技術を初めとして、様々な技術者いたと考えられる。

平原広沢は中国から東方、すなわち日本だと考えられており、各地に徐福伝説が伝わっています。

佐川にもこの伝説があるのです。しかも大きくかかわっている可能性さえある。

徐福一行は須崎市の海岸に漂着しそこから見える虚空蔵山が三神山の一つ蓬来山ではないかと考えた。
夜明けになると太平洋の日の出に感激し、矛をかざして喜んだ。
そのためこのピークを矛が峯と呼ぶようになった。
との伝説がある。

さらに徐福が求めた不老長寿の薬は、天台烏薬だと言われており、
県立牧野植物園には天台烏薬の木が植えられている。(実際には年代があわないので無関係らしい)

参考にしました。

土佐史研究家  広谷喜十郎氏  http://www.city.kochi.kochi.jp/deeps/01/0104/rekishi/re0508.htm

佐川町史による徐福伝説  http://homepage2.nifty.com/iitoma/shiryoushitu/jyofuku.htmlの引用です

「徐福の一行は暴風雨にあい、土佐の宇佐に漂着して、虚空蔵山に登ったと言う。山頂で鉾をかざして故国を偲び、柴を折って一夜の夢を結んだが、仙人には会えずむなしく帰国したと言う。佐川町史には、徐福と張郎の二重臣を東海に派遣、佐賀に上陸したが霊山が見あたらず、再び東海を目指したが暴風雨にあい、張郎の鷲翔丸は須崎浦に漂着した。土地人に教えられた蓬莱山に登ったが仙人には会えなかった。徐福の一行は紀伊の国熊野に上陸し、ここを永住の地と定めた。戦国時代の四国の覇者長蘇我部氏は徐福の子孫であるとする旧記を残している。これによると始皇帝六代琉孫が来日、信濃に居住し、秦徐福と号したと言う。」

徐福伝説は、九州から中四国、紀伊半島、富士山周辺、北は青森まで広がっている。
「徐福は中国(秦)から不老長寿の仙薬を探し求めて、この地に来た」と云うのが共通している。

徐福は最初に九州に上陸,数年後,蓬莱山をめざしてさらに東方に船出し、
九州,四国から紀伊半島へと黒潮や季節風を利用していったと考えられます。
3000人もの一行が各地で仙薬を捜しながら徐福を名乗り移動したとすれば、広範囲に及ぶ伝説の多さも頷けます。 

このことがわが国の弥生時代の特に農耕文化確立に大きな役割を担っているかも知れないのです。
(あくまで、伝説ですが)



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