九条の会・室蘭工大
平和を求める日本・世界の人々と手をつなぐため、憲法九条を輝かせたいと願う室蘭工業大学有志と市民の会です。


資料等

<安全保障関連法案の即時廃案を強く求める室蘭工業大学教職員有志による声明>

 2014年7月1日。私たちはこの日をけっして忘れることはないでしょう。

 なぜなら、日本の立憲主義と日本国憲法における平和主義が大きな音を立てて崩壊し始め、その後の暗黒の未来を予告する日であったからです。この日以来、日本国憲法は事実上、停止し、現在にいたっています。
 この日になされた閣議決定(「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備」)は、従来の政府見解を大幅に変え、現行の憲法下で集団的自衛権の行使を認めるとするものでした。戦争や武力行使の放棄を謳う日本国憲法9条1項に鑑みると、同自衛権の行使は、最大限の拡大解釈を以てしても、合憲であるとは言えない、と私たちは考えます。なぜなら、日本の自衛隊が米軍のみならず、他の外国軍とともに、世界各地で武力を行使する道をあからさまに開くものであるからです。同閣議決定は、憲法上の平和的生存権(前文等)や国民の生命・自由・幸福追求への権利(13条)を守るため、と主張することで、その行使を正当化しています。しかし、武力行使への道を開く行為はこれらの権利を守るどころか、むしろ、私たちや他国に住む民衆の生命を脅かすものになる、と私たちは考えます。このような政府見解は、日本国憲法の最高法規性(98条1項)の観点からも、違憲無効であると言わざるを得ません。

 2015年5月15日。私たちはこの日をけっして忘れることはないでしょう。

 なぜなら、違憲無効である上記の閣議決定に沿って、2つの安全保障関連法案が国会に上程された日であるからです。既存の10法の改定と新法の制定を目指すこれらの法案は、集団的自衛権の行使のみならず、米軍その他の外国軍への後方支援という名の軍事協力を拡大し、また外国軍への防御活動等を可能にするものであると理解しています。その内容は、上記の閣議決定同様、憲法の平和主義の理念を否定するものであり、違憲無効です。

 2015年7月15日・16日。私たちはこれらの日をけっして忘れることはないでしょう。

 なぜなら、この両日は、安全保障関連法案が衆議院特別委員会で強行採決され、同本会議で可決された日であるからです。安倍政権が、盛り上がる世論の反対の声に耳を傾けることなく、違憲法案を数の論理で押し通したという点に、私たちは強い怒りを感じています。十分な審議時間が費やされたかどうかは問題ではありません。根本的に違憲無効である法案は、どれほどの審議時間を経ても、違憲であることに変わりはありません。
 1945年7月15日、軍事産業を有する港町であった室蘭は、米艦による艦砲射撃を受け、1時間あまりで500人以上の死傷者を出しました。それから70年後のまさにこの日、人の生命の犠牲を前提とする法案の国会上程により、軍国化に向けての法的整備の道がさらに進んだということを、私たちは強い衝撃をもって受け止めています。
 21世紀以降の国際社会では、戦争や武力行使における民営化が格段に進んできました。そのような状況下で、安全保障関連法案が成立し、施行されると、技術者は大いに徴用対象とされていくことになるでしょう。工業系の高等教育機関の教職員である私たちは、工学を学ぶ学生が将来、技術者として徴用され、生命の危険にさらされる戦場に送られることになるのではないかと懸念しています。室蘭工業大学は、教育理念として「学生一人ひとりの多様な才能を伸ばし、幅広い教養と国際性、深い専門知識と創造性を養う教育」を行うこと、また「総合的な理工学に基づく教育を展開し、未来をひらく創造的な科学技術者を育成」することを謳っています。創造力をもって、平和な社会を築こうとするモラルある技術者を作ること。これが、教え子を二度と戦場に送らないという戦後教育の原点に立った私たちの使命です。私たちは、国家政策の一環としてなされる戦争や武力行使の現場へ人材を送り出すために、教育をしているわけではありません。
 以上の理由から、私たちは今、強く求めます。日本や他国の民衆の生命を脅かす安全保障関連法案の即時廃案を。

2015年8月21日
室蘭工業大学教職員有志一同


<投稿 2014年7月2日>

「立憲主義による政治」の命日

(九条の会・室蘭工大 事務局員 門沢健也)

 2014年7月1日は日本の憲政、立憲主義による政治の命日として永遠に記憶されるに違いありません。政権があらゆる詐術と欺瞞とルール違反を駆使して、憲法に厳然として定められた規範を骨抜きにして葬り去った日と言われることでしょう。

 新聞に曰く、「日本に対する武力攻撃が発生し、現行の「自衛権発動の3要件」を満たせば、自衛隊が国連の集団安全保障に基づく武力行使に参加できるとの答弁書を閣議決定した。政府がこうした見解を示したのは初めて。今回の答弁書を踏まえれば、集団的自衛権の行使容認を閣議決定した後、新たな3要件のもとで、日本への攻撃がなくても集団安保の軍事的措置に参加可能になる。」

 戦後ほぼ一貫して保守政権政党だった自民党自身が「否」であることを明確に党是・国是としてきた集団的安全保障の概念を、たかが一握りの低能集団・独善集団としか見えない現内閣の決議=閣議でいかようにも解釈できることになったのです。安倍の得意満面、ヒロイズムに満ち溢れた笑顔を見るたびに背筋が凍り、虫酸が走る思いがします。

 最後の希望は公明党でした。私は公明党支持者でも創価学会の会員でもなく、むしろ両者に批判的な眼を注いできた者ですが、良心と常識を備えた草の根の創価学会員の総意が公明党を動かし、連立内閣を離脱してでも閣議決定を覆す可能性も残されていると信じたかったです。また、時の内閣が閣議で憲法解釈を変える前提を作ったということは、主権者たる選挙民の今後の意思表示によっては、「閣議決定でその都度憲法解釈を変更できる」、または「閣議で変更してはならない」という新たなルールに変え得るものと考えられます。

 戦争の世紀であった20世紀から、平和の世紀となるはずであった21世紀が、我が祖国日本が先鞭を付けることで戦争の世紀に逆行させる愚挙は、永遠に記憶されるとともに、必ずや再び正されるべきだと確信しています。

 戦争をすることによってどこかの人々や民族、国家がより幸福になる時代は疾うに終わっているし、世界の戦乱の一つ一つがそのことを私たち一人一人に雄弁に語ってくれているではありませんか。また1回の戦争のツケと後悔、後始末が100年かかっても終わりそうにないこともまた、歴史が証明していることだと思います。いわば「安倍という狂信的戦争好きの誤った指導者」によって複数の国や地域、民族が100年の苦しみに苛まれることがないよう祈り、そして行動するのみです。

 先週末は室蘭工大の男子寮である「明徳寮」の寮祭でした。毎年教職員にも「奉加帳」というのが回ってきて寮祭のための寄付を募ります。その昔、北大の寮生だった私は毎年、寮生としての連帯意識と太っ腹と多少の見栄もあって、3千円とか5千円とか寄付してきましたが、今年は1円も寄付をしませんでした。寮祭自体のテーマや部屋ごとの企画に「集団的自衛権」や「それを閣議で決定すること」、少なくともそういったことを巡る「現在の社会情勢」といったものを一つも見出すことができなかったからです。明徳寮生諸君、君たちの世代がひととき寮祭に酔い・楽しみや喜びを見出すのはそれはそれでよい。一時的なバンカラを気取るのもよしとしよう。しかし、社会事象に関心と疑問を持つのもまた若者の特権であり、かつ責務ではないだろうか? 君たちは日本の主権者なのです。

(室蘭工業大学 ひと文化系 教員)


<投稿 2013年12月27日>

安倍首相、靖国参拝に対する意見

(九条の会・室蘭工大 事務局員 門沢健也)

 またか、安倍晋三不毛の靖国参拝。(こういった問題に無関心・無批判な方は読み飛ばしていただいた方がいいと思います。)

 靖国参拝賛成派は「参拝は日本の国内問題であり、中韓の反対は内政干渉」「他国にとやかく言われる筋合いはない」といいますが、中韓の反対とはまったく別の意味で、首相の靖国参拝は日本の国内問題です。それは日本国憲法第20条第3項の「国およびその期間は宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」との規定に明らかに反している、つまり憲法違反であるからです。これまで首相の靖国参拝を巡って多くの訴訟が争われてきましたが、「参拝は合憲」という判決が出たことはただの一度もありません。「判断せず」という裁判所の「逃げ」のほかは「違憲の疑いあり」「違憲の疑いが強い」との判断。最も新しくは2005年の小泉首相の参拝について、大阪地裁が「憲法違反」との明確な判決を下し、さらに原告側(参拝反対派)...の損害賠償請求は却下したため、国は上告することができず、「参拝は違憲」が確定判決となっています。

 さらにもう一つの国内問題として、A級戦犯の合祀があります。この合祀は1978(昭和53)年に当時の厚生省と靖国神社によって秘密裏に行われたものであり、国民には何も知らされていませんでした。1979年(昭和54年)4月19日朝日新聞によって報道されようやく国民の広く知るところとなりました。

 中韓両国は、この合祀以前はそれこそ「日本国内の宗教儀式」として問題視していませんでしたが、戦争開始・遂行の責任者として犯罪者とされたA級戦犯が合祀されたことで、「日本の中韓両国への侵略を不問に付し、美化するもの」として強い不快・反発を顕すこととなりました。

 そもそも靖国神社に祀られるのは戦死者だけであって、戦場に赴かず、まして戦闘にも加わっていない戦争指導者を祀ることは、靖国神社自体が作ったポリシーを反故にするものでした。
さらに「日本兵」として戦死した人々の中には仏教徒もキリスト教徒も、植民地であった台湾の人々をも、「国家に殉じた英霊」として神道式に祀ったのです。とりわけ民族も宗教も異なる台湾の戦死者の遺族は、「我々の父祖が日本の神道によって祀られることは全く望まない。断固拒否する」という明確な意志を以って起こした裁判でも、靖国神社側は「一旦祀った人々は二度と出せない」という私などにはまったく、全然、かけらも、微塵も理解できない理屈(「屁理屈」と言って間違いないでしょう)で、靖国と言う宗教的牢獄からの解放を拒否しているのです。こんなバカなことが許されていいのでしょうか???

 更にまた、国際問題として考えれば、1972(昭和47)年の日中国交正常化の時に、あらゆる侵略・迫害・恥辱を受けた中国人民の感情を納得させるために、当時の世界最高の賢者と(私には)思える周恩来中国首相が、「戦争を開始し、侵略・残虐行為を画策・実行したのは日本の一部の軍国主義者であり、戦争に参加した(させられた)日本の一般民衆も、侵略を受けた中国人民とおなじく被害者である。だからこそ日中両国の人民・国民は本来の友好関係を回復していくことができる」という国交回復の根本理念を、「A級戦犯を合祀した靖国神社を日本国の代表たる首相の靖国参拝は、根底から覆す約束違反の行為である」という中国側の主張は極めて自然で正当なものであると考えるべきです。

 安倍は、こんな私のような浅学の徒でさえ知っている歴史に盲目でいるのでしょうか??? こんな首相の行為をこそ、私たち日本国民は恥じなければなりません。今、私たち日本人は、アジア・アメリカを主とする世界中の国から、信義の国か狡猾の国かを問われていると感じざるを得ません。

 長文の読了、深謝。

(室蘭工業大学 ひと文化系 教員)


<意見書 2012年6月8日>

大飯原発再稼働に対する反対署名に添付した意見書
https://secure.avaaz.org/jp/no_restart_sam/?r=act

(九条の会・室蘭工大 事務局員 門沢健也)

内閣総理大臣 野田佳彦 殿

 福島原発の原因究明、その後の被災者の救済がないがしろにされ、また、4号炉の爆発の危険性が報道される中、そして新たな活断層の存在が確認されている今、福島の事故、その後の惨状から何も学ぼうとせず、大飯原発の再稼働を、多くの国民の不安や反対意見を無視する形で強行することに、「絶対反対」の断固たる意思を表明します。
 今後の電気エネルギーを、かように大きな危険を承知の上で強行することは、民主主義の原則に反するだけでなく、憲法が保証する「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する(前文)」と、第25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文に反していることは明白です。
 また、現代の私達の都合で、このような 危険な装置を残すのは次世代に対する世代間倫理にも明白に反しています。
 以上の理由により再稼働に絶対反対します。


<報道 2012年4月2日>

室蘭鉄鋼九条の会、九条の会・室蘭工大主催講演会報道
「原発事故の状況語る フリージャーナリスト坂本さんが講演」

室蘭民報 2012年4月2日 夕刊(室蘭民報社)



<寄稿 2012年2月21日>

九条と改憲についての私の憲法観
−「りーくん」の意見に応えて−

(九条の会・室蘭工大 事務局員 門沢健也)

 久しぶりに私たちの「九条の会・室蘭工大」のホームページを開いてみたら、「あなたの思い」の欄に、「りーくん」という方から、ご意見が寄せられていました。日頃、このような意見を寄せてくれる人が少ない私たちのホームページに、今回ご意見を送ってくれたことに感謝いたします。

 私は、「九条の会・室蘭工大」の事務局員の一人ですが、会を代表して、あるいは会としての公式の回答を語る資格や権限はありませんので、私個人として「りーくん」の意見に対する意見を表明したいと思います。

 いささか長い文章になると思いますが、「りーくん」含め、読者のみなさんにも、しばらくのご辛抱とお付き合いをお願いいたします。まず、私たちの会のホームページへのりーくんの投稿をそのまま引用させていただき、それ以降の私の文章は、それに触発された「私個人の意見」としてお読みください。

【りーくんのコメント引用】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2011年12月28日 (水) 21時41分01秒 りーくん
9条の会の皆様は、本当に今の日本国憲法が最高の憲法と考えておられるのでしょうか?私は積極的に憲法改正すべきと考えています。平和を達成する方法もいろいろなやり方があるのではないかと思います。憲法9条を守っていれば平和が保たれると考えていませんでしょうか? 平和の問題以外にも今の日本には課題が山積しています。財政や福祉、防災、雇用、地方自治etc... 憲法を変えるということは、国の仕組みを変えることだと思います。それによってこれらの問題解決のアプローチが得られるのではないでしょうか?今の日本の行政や法律が最高のものではないはずです。特に憲法学者の先生には、よりよい社会、人権保障、民主主義を実現するには、どういう憲法(=国の在り方)が望ましいのか、私案の憲法条文を世の中に出して問うて欲しいと思います。それをやることが憲法学者の仕事だと考えます。
【りーくんのコメント引用終わり】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


【ここから門沢の意見】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 りーくんのご意見は、「九条を改正して戦争ができるようにするべきだ」というところに力点が置かれているようには読めませんでした。むしろ現在の日本が直面しているさまざまの社会問題を真摯に考え、それに対処できるよう憲法を改正するために、私案を提示するのが憲法学者の使命である、というのが趣旨であると感じました。りーくん自身が、今の日本の現状を憂慮して発言されたこともよく理解したつもりです。

 さて、しかしながら、全国あちこちの「九条の会」に属する人々の多くも、「今の日本国憲法が最高の憲法であり、一言一句変えるべきではない」と思って、憲法自体の改正に「絶対反対」の立場を採っているとは考えにくいです。全国各地、津々浦々に7000以上も存在する「○○九条の会」「九条の会△△」・・・も、護憲と改憲についていろいろな違った意見を持ちつつも、「現憲法九条の『精神』を変えてはいけない」という一点で、思いを共有しながら、それぞれに活動をしている、というのが実相だと思います。

 しかし、りーくん言うところの、
「財政や福祉、防災、雇用、地方自治etc...憲法を変えるということは、国の仕組みを変えること。それによってこれらの問題解決のアプローチが得られる。今の日本の行政や法律が最高のものではないはず」
というのは、政治の問題であって、憲法とは切り離して考えなければならないと私は考えます。憲法とは、「財政・福祉・防災・雇用・地方自治」について、時代や状況によって、変えるべきものではありません。それは、憲法に則った上での、政治と法律の問題です。

 少なくとも、かくいう私も、今の日本国憲法が『絶対』であり、『最高』だと思ってはいません。むしろ私は、「現実に合わせて、憲法の或る部分を変えることもあり得べし」と考えている一人です。
 長くなると思うので、いくつか箇条書にして、具体的な意見を述べます。

  1.  まず、第1章「天皇」の規定は、第14章の「すべて国民は、法の下に平等であつて(ママ)、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という条文と矛盾することは極めて明らかです。憲法の「第1章」がその後の条文と矛盾するところから始まっていることが、現「日本国憲法」の基本的かつ絶対的な問題だと考えます。
     私は、現憲法が、すべてアメリカの占領政策に押し付けられたものとは考えていませんが、この「第1章」は、少なくともアメリカ占領軍がその後の日本統治に有利で、かつ、その後に予測された共産主義革命の抑止のために得策だと考えたことは間違いないと思います。それが、戦後の戦争責任の曖昧化(さらにいえばごまかし)に直接的・間接的につながっていることもまた、間違いのないところです。つまり、戦後の日本は、戦争の戦争責任のごまかしと曖昧化から始まって、今に至るまで、ほぼ70年間そのままでいるのです。(天皇制以外について、ここでは言及しませんが、靖国神社もまた、その最も象徴的な存在です。)


  2.  現憲法の第九条について、私は前述のように会を代表して語る立場にはありませんが、少なくとも私個人の意見としては、「明治以来の日清・日露、対朝鮮侵略、日中戦争、対米戦争のような、愚昧極まりない戦争を繰り返してはいけないということを、日本国民が自覚し、確認する必要がある」と考えています。そのことに自覚的な意識を持たず、「大日本帝国」「大東亜共栄圏」「八紘一宇」的な幻想を、父祖の世代から盲目的に受け継いでいる、例えば安倍晋三のような暗愚・蒙昧なお坊ちゃま政治家を、日本の「好戦的衆愚」の国民は選び続けているのです。まことに嘆かわしいことと言わざるをえません。それは、安倍晋三に限ったことではなく、ほかに何人も、同様の考え方の政治家の名を挙げることができます。彼らには、日本の負の歴史を真剣かつ虚心坦懐に学び、それを未来の日本と世界の平和に活かしていこうという認識が欠落しているのです。


  3.  私は、「りーくん」のいうように、また前述したように、今の「日本国憲法」が最高だとも、「九条を守っていれば平和が保てる」とも思っていません。ただし、これまでのところでは、如何に解釈としての改憲が行われてきたにせよ、九条があったおかげで、少なくとも日本が他国を侵略し、日本の国民が他国の民を殺し、あるいは殺されるという事態を回避する「歯止め」としての力強い役割を果たしてきたことは、疑いのない事実です。
     現在の現実の自衛隊は、例えばイラク戦線で、「米軍の兵器・弾薬・将兵を輸送する」など、現日本国憲法の規定を明らかに逸脱する行動に従事させられ、時の政治家は「憲法の規定すれすれの線で合憲だ」という詭弁を弄して恬淡としていました。
     しかし一方で、同じ自衛隊は昨年の東日本大震災やその後の津波被害の救援について、目覚ましい活躍ぶりを見せてくれました。この自衛隊の活躍がなければ、現在までの復興ぶりは考えられない、というほどの功績だと思います。(北海道以外の方は知らないかもしれませんが、札幌の雪まつりの大雪像も、自衛隊が重機を駆使してみんな作っているのです。自衛隊は国民の娯楽にも役立っているのですね。「なんか変だな?」という気持ちもしますが。)

     さらに、重大な問題として捉えるべきことは、現在の「改憲論」のほとんどが、「九条を改正して自ら戦争を起こせる国家に改造したい」という、「自衛隊の明確な軍隊化」と一体化、ないしは抱き合わせになっていることです。この事こそが、私たち一般国民がもっとも注意し、警戒しなければならないことです。
     現在の憲法を、「古くなったから変える」、「自衛隊が存在する現状に合わせて変える」、「その自衛隊は既に軍事力であるから、戦争ができるように変える」というのならば、油を撒いておいてマッチで火を付けてさらにポンプで火勢を煽る「マッチポンプ」であり、「戦争へのドミノ倒しゲーム」でしかありませんし、「そもそも順番が逆だ」と言わなければならないはずです。
     私たちが、「改憲=九条の精神を捨てる」ことであることを看過せずに声を挙げていくのか、それとも「お上が言うことには逆らえない」と自らを愚民化することに甘んじるのか、そこが私たち日本人の「民度」、「国民としての知性」、「本当の意味での愛国心」が問われる重大な岐路だと考えます。

     何かを変えるには、まずその何かのどんな点が悪いのかを理論的に説明し、証明できなければならないはずですが、現日本国憲法で、あるいは九条の存在で、私たち日本国民はどのような損害や危険や不快を被ったのでしょうか。私は逆に、憲法と九条によって、国民はさまざまの場面で危険の淵から守られてきたと、私は思っています。逆に、そのような力強い「味方」である憲法という道具を、むしろ私たちは上手に使いこなしてこなかったと感じています。その結果の一つが、古くは高度成長期の公害病であり、最近の福島の原発事故でしょう。

     私自身の年齢は既に55歳。これからどこでどのような戦争が起きて、日本が、あるいは日本人が、どのようにその戦争に関わろうが、私個人がその戦争で人を殺したり殺されたりする当事者的立場で関わることはないだろうと思います。

     私が考えていることは、現在の日本国憲法や第九条を、一言一句変えずに「守る」(或いは「残す」)ということではなく、その条文の中に毅然として表現されている、「人を殺さず、殺されず、また再び他国を侵略せず、それによって侵略されない」という、九条の「精神」そのものです。

     さらに私個人の立場を重ねて言えば、九条が既に解釈上捻じ曲げられている状況が、条文上「改正」されて、「我が国は、憲法上他国を攻撃・侵略する権利を有する」という状況になった場合、その当事者はおそらく私の息子・娘、あるいは孫の世代になるはずで、そのときの私の子孫が、実際に他国と戦争し、人を殺し殺される立場になったときに、「今あるような日本が、かつて岐路に立っていたときに、私の父祖は何も為さなかったのか。100年前の愚かさを繰り返すのを、ただ指を咥えて眺めていたのか」と思いながら、殺し殺されるようなことが、私には我慢がならないのです。少なくとも、父(或いはおじいさん)、つまり私は、それを回避する努力をできる限りしたのだ、と言うことができなければ、実の子孫に限らず、世代を超えた倫理に反したことにほかならないと、強く感じています。

     私の夢を語れば(私だけが言っていることではありません)、もし仮に、九条を別の方向に改正することにより、自衛隊を「国内・国際災害救援隊」といった性格の組織に完全に変えて、世界のどこでどんな大災害が起こったときでも、迅速かつ機動的な活動を行い、「人を殺し、殺される」組織ではなく、「死の危機に瀕した人々を救う」組織に転換できれば、日本という国家と日本人、そして「災害救援隊」として生まれ変わった現在の自衛隊は、世界中の深い尊敬と期待を受けることになることでしょう。また私たち日本人自身も、自分の母国である日本に対して、今まで持てなかったような「大きな誇り」を持つことができるようになるのではないでしょうか。

     アメリカの戦争に、まるでヤクザの子分のように加勢するより、このような形での国際貢献を行う日本に生まれ変われば、日本を敵と見なして攻撃してくる国は、それこそ単なる「ヤクザ国家」と見なされることとなり、国際社会の強烈な非難と糾弾を受けることになるでしょう。
     つまり、日本という国を、「戦争ができて人を殺せる国」にするのではなく、「戦争を含む災害で死の危険に瀕している人々を救える国」に生まれ変わらせることができるのではないでしょうか。その時、必要ではなくなった軍事費を、教育や民生に有効活用することによって、今のような「物言わぬ国民」、さらに言えば「政治的愚民」を、「考える日本人」、「発言する日本人」、「政治に主体的に参加する日本人」、「生活も精神も豊かな日本人」へと変えていくことができると信じています。

     (「九条の会」の発起人の一人で、最近亡くなった井上ひさしがだいぶ前に書いた「吉里吉里人(きりきりじん)」という小説をぜひお読みください。ちょっと長いですが。


  4.  りーくんの意見を読んだ限りでは、今の憲法を改正すれば、「財政や福祉、防災、雇用、地方自治・・」にどのような利点があり、それが今の憲法学者のどのような責任と関係するのか、私にはよく理解できませんでした。それは憲法よりも政治の問題であり、そのような問題は、現在、また未来の主権者の一人たる「りーくん」自身に突き付けられているのではありませんか。もう一つ言えば、このような意見を表明するのに、「りーくん」などという、おふざけのあだ名でしか発言できないということは、私には怯懦な態度だと感じられます。自分の意見は自分の名前において、堂々と発言しようではありませんか。


  5.  今の日本にとって最後の、「アジア太平洋戦争」(さらに具体的に言えば、日本のアジア諸国への侵略戦争、そして全く無謀で勝ち目の無い対米戦争)の敗戦による破局的終結から、既に70年近くが経とうとしているのに、中国も韓国もアメリカも日本も、その後の傷跡、憎しみ、心の痛みから救われ、癒されてはいません。むしろ事あるごとに、それをお互いに掘り返し、えぐり返し合うことによってお互いの関係を悪くしています。
     それは、感情の問題だけではありません。日本が受けた原爆攻撃の被爆者の後遺症、またその約20年後のベトナム戦争時代の「枯れ葉作戦」でばら撒かれたダイオキシンの影響によっても、当のベトナム人だけでなく、そのころベトナムで従軍したアメリカ兵の第3世代の子孫にも、白血病やがん、奇形児の発生という極めて悲惨、かつ具体的な形で、戦争の傷跡は何十年も残るのです。
     このように、戦争とは、複数の国が戦っている何年かだけの出来事にとどまらず、50年・70年・100年に亘って、その惨禍と傷跡を残すのだということを、私たちはよくよく理解しなければならないと思います。


  6.  アジア太平洋戦争は、1945年8月15日の日本の敗戦という破局で終結しましたが、45年3月10日、たった2時間半の東京大空襲によって10万人が死亡。同じく3月から6月までの沖縄戦で10万人が死亡。8月6日の広島原爆で14万人が死亡。続く9日の長崎原爆で14万9千人が死亡。つまり、仮に、8月5日に天皇が降伏を決断していれば、30万人の命が救われ、さらにもし、45年3月の時点で降伏していれば、少なくとも50万人の命が失われずに済んだのです。

     昨年3月11日の東日本大震災とそれに続く津波について、ある研究者が、「4万人の死が1回起こったのではない。一人の死が4万件起こったのだ」と書いていましたが、まさしく戦争の悲惨は「50万人が1回死んだ」のではなく「一人の死が50万件あったのだ」と認識するべきです。そしてその数だけの、一つ一つの悲劇を生んだのです。その「殺される側」、あるいは「殺す側」に、りーくんは立ってもかまいませんか。


  7.  さらに、中国東北部の満洲国では、8月8日にソビエト連邦が対日不可侵条約を破棄して参戦。その時は陸軍の精鋭部隊であったはずの関東軍が、民間人を置き去りにして先に逃亡しました。それによって、多くの残留日本人、その次世代の残留日本人孤児が生まれました。私の肉親にも残留日本人がいますし、同じ世代の友人にも少なくないのです。

    つまり、
    「国家は国民を守らない。国家が守るのは国家」
    「軍隊は国民を守らない。軍隊が守るのは、自分たち軍隊と国家」
  8. ということです。

  9.  もしそれでもりーくんが、「日本が九条を廃して戦争をできる国家にしたい」というなら、そしてそれが日本の「衆愚的国民」の総意、あるいは、愚昧な政治指導者の口車に乗った結果であれば、それはそれで日本国民が選んだ結果ですから、致し方のないところでしょう。その時、りーくんは、自ら手に銃、あるいは機関銃、あるいはロケット弾、バズーカ砲を持って、「国家が命じる戦争」に自らの命を賭して出かける覚悟ができていますか。それとも、今の自衛隊のように「金で雇われた職業兵士に戦争は任せておいて、自分は戦争に関わらずにいられる」とお考えでしょうか。

     東大を退官した、憲法学の権威の一人と目される樋口陽一さんは、「九条を廃して戦争ができる国にするなら、絶対に徴兵制を採用すべきだ。戦争の決定する権限を持つ人間が、自分自身や肉親に何も被害が及ばない状況で、戦争発動の決断をさせる仕組みを作ってはいけない」と、強く語っています。
 私たちは現時点でのビジョン無き九条改正に、ひたすら「ダメ」をいい続け、後の世代に託すのみです。その後を日本の進路を選ぶのは今後の主権者たるりーくん、君たちです。

 実は、日本の食糧自給率、資源・エネルギー問題、地球環境汚染とも結びつけて、私の「反戦」、「非戦」の思いを語りたかったのですが、疾うに紙幅が尽きたようです。
 長文の読了を、心から深謝いたします。

(室蘭工業大学 ひと文化系 教員)


<憲法エッセイ 2011年10月29日>

またしても、「憲法破壊」の政治が始まった!

(龍谷大学9条の会・事務局 奥野恒久)

 スタート当初、穏やかな運転を心がけていたような野田佳彦ドジョウ内閣が、10月に入ってその保守的性格を露わにしだした。1990年ごろから日本の財界とアメリカが要求してきた軍事大国化と新自由主義に向け、再び「暴走」を始めたのである。まず、沖縄をめぐって。沖縄振興予算という「アメ」をちらつかせつつ、総務大臣(11日)、防衛大臣(17日)、外務大臣(19日)と「訪沖ラッシュ」をして普天間の辺野古移設を迫る。次いで、「税と社会保障の一体改革」。厚労省が年金支給開始年齢を68〜70歳まで先延ばすと提案する(11日)一方で、財務大臣が消費税増税の法案を来年には必ず出すと財界に約束する(12日)。ほかにも、医療では外来患者の定額負担、介護では保険料・利用料のアップと給付の削減などなど、国民の生活を破壊するメニューをそろえて出してきた。そして、TPP(環太平洋連携協定)であり、さらには、原発再稼働に向けての動きである。
 「よくもまあ…」という感じであるが、武器輸出三原則の見直しのように前原誠司政調会長がアドバルーンを上げて、そこに官僚、ときに自民党議員までが一緒になって流し込む。これからは財界主導の「国家戦略会議」もが後押しするのであろう。
 「小泉構造改革」以降、ズタズタになった国民生活。それを立て直すための2009年政権交代ではなかったか。いや、同質の二大政党制とは、「こういうものだ」と証明するため政権交代だったのか。9月13日、野田首相は所信表明演説で、「政治とは相反する利害や価値観を調整しながら、粘り強く現実的な解決策を導き出す営みです。議会制民主主義の要諦は、対話と理解を丁寧に重ねた合意形成にあります」と訴えた。だが、彼の言う合意形成とは、持論の「小選挙区300だけでいい」が示すように、軍事大国化や新自由主義に抵抗する勢力を排除したところでの合意形成のようである。ポピュリズムとは異なった、少数派排除政治といえようか。
 だが、国民は騙され、「痛み」を背負わされつづけているのである。今進行している政治とは違う政治があることを、具体的・現実的に、そして魅力的に示し、説得することができるなら、「真正の政権交代」の展望も開けるのではないか。「ウォール街を占拠せよ」というアメリカで始まった運動のように、「人間らしさ」を求める運動は全世界で生まれつつある。憲法9条と「人間らしさ」の追求とをつなぐ言葉と運動とを改めて育んでいきたい。

(元九条の会・室蘭工業大学事務局次長)


<寄稿 2011年8月22日>

中国の高速列車事故と日本の原発事故

(九条の会・室蘭工大 事務局員 門沢健也)

 このホームページの投稿欄、「あなたの思い」に7月17付けで、外国人と思われるある方から、「九条の会は、日本の憲法九条の擁護は主張するが、中国の人権や軍拡の問題は批判しない。どうせ九条の会のサポーターは共産党ではありませんか」という投稿がありました。それについて私は、「九条の会は特定の政治的立場や支持政党には係わりなく、『日本が二度と戦争をしない』ことを目的にできたものであること」、「特定の他国を批判することを目的とはしていない」という2点について説明する返信を投稿しました。
 一方、現在の日本には、中国の一党独裁体制や人権や軍拡、環境問題について、批判的な意識や不信感を持っている人々も多いこと、しかしそれが九条の会の目的ではないことも併せて書きました。上に書いたような中国に対する批判や不信を持っている人は、九条の会の支持者かどうかに関係なく、かなり存在しています。かくいう私も、「九条の会・室蘭工大」の事務局員でありつつ、そのような意識を持っていますし、中国人留学生の中にも、母国の問題として批判的に捉えている学生もいることもまた、前の投稿で書きました。

 まず、長々しい前置きをしたのは、一つは、上の「九条の会のサポーター=共産党」と書いた投稿者に、もう一度「九条の会」の本当の姿を知っていただきたかったことと、もう一つは、現在の九条の会のように、時の権力に対して批判や反対の意見を持ったり、発言したり、行動したりする人々は、前のアジア太平洋戦争の時代、いや明治の時代から、「共産主義者」「アカ」「非国民」「国賊」というような罵倒語のレッテルを貼られて、さまざまの社会的迫害、法的処罰、それに伴う虐待や拷問・処刑・虐殺を受けてきて、その時々の日本社会がそれを結果として容認してきた歴史があったことを反芻する必要があると思ったからです。

 さて、話題を現在の出来事に移しましょう。
 ごく最近中国で、完成したばかりの高速鉄道が追突・脱線・転落する大事故があったことは既に周知のことと思います。その後、中国政府・鉄道省は、追突した先頭車両をおそらくその中にまだ存在する事故犠牲者の遺体ごと、地中に埋めるという行動をしました。しかし、中国の世論と中国国内にとどまらない各国のマスコミの「証拠隠滅のためだ」という批判に耐えかねて、埋めようとした車両を再度掘り起こす、という驚くべき行動に出ました。
 東日本大震災の報道にちょっと飽きが来たとも見られる日本のマスコミは、このニュースに一斉に跳び付き、「日本では考えられない対処」「日本の新幹線は開業以来一人の死者も出していない」と胸を張り、中国の対処については鬼の首でも取ったように、「だから中国は・・・」「やっぱり中国は・・・」というキャンペーンを張り、多くの日本の一般民衆もそれを「我が意を得たり」とばかりに同調しました。実は私もその中の一人です(あるいは「でした」)。

 そんなときに、ある週刊誌に連載されている、作家の室井佑月(むろい・ゆづき)さんのエッセーを読んで、つくづく考えさせられました。室井さんのエッセーを要約しますと、
「中国の事故はニュースになって当然だが、その報道のされ方をみて、あたしは日本人として恥ずかしくなった。中国の事故は国威発揚が最優先されて、いちばん大切な安全が後回しになったのだろう。しかし、日本の2005年のJR福知山線の107人の犠牲者を出した脱線事故も、いちばん大切な安全が後回しにされたということだった。また、中国の安全意識の批判をして、『日本の新幹線は開業以来47年間事故による死者ゼロ』なんて、今日本がいうこと?新聞やニュースで嬉々として報じること?」
 さらに室井さんは続ける。「東日本大震災と津波で福島原発の大事故を起こしてしまった今の日本が、中国の事故を嬉々として報道する、いかに日本の技術がすぐれているかを。アホな私でもさすがにこの国(日本)はヤバいんじゃないかと疑ってしまうよ。原発事故一つをとっても、中国とどれほど違いがあるというの?」

 私は室井さんのこのごく淡々とした、偉ぶったところの微塵もないエッセーを読んで、私自身も本当に恥ずかしい思いが湧いてきました。日本人は、あるいは世界中のどの国の人々も、新しい技術、高速交通でも原発でも、ときに原爆でも、それを手にするや、それを外の世界に対して誇り、「私たちの国はそのような高度な技術を持つ権利を有し、それを行使する権利もともに持つ」と言わんばかりの行動をしてきたのだと思います。今の原発がその格好の例であり、60年を遡れば、アメリカの原爆開発の「マンハッタン計画」もそれであったのだと思います。
 原爆投下は、激しい賛否両論がありながら、「せっかく作れたのだから使ってみよう」、またおそらく、「アジア第一の軍国主義国家である日本は、よほど痛い目に遭わせないと降伏せず、結局原爆の犠牲者以上の死者を、連合国側にも日本側にももたらすだろう」、「だから原爆の使用は日本の降伏を早め、結果として犠牲者の総数を減らす意味で人道にかなった作戦だった」というのが、アメリカ側の論理でした。そして、降伏後の調査の後の報告では、「被害は比較的軽微」であり、「世代を超えての健康被害は考えられない」というものであったことを、最近見たテレビで初めて知りました。要するにこれも、被害や悪い影響の矮小化、不利な情報の秘匿・隠蔽であり、現在進行中の福島原発の事故に対する政府の対応と重ね合わせずにはいられません。

 前回私が九条の会・室蘭工大のホームページに寄稿した「技術オンチの素朴な原発反対論」という拙文では、原発という極めて危険な存在との共存は、日本国憲法前文の「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」という平和的生存権に反して「国民は原発という『恐怖』とともに生きるべし」ということにならないのか、また、第25条の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という条文の「健康に生活する権利」に反するのではないかと主張しましたが、室井佑月さんが書いた「いちばん大切な安全」とは、高速鉄道よりも原発よりも、究極的にはやはり「戦争をしないこと」であり、そのことを考え、主張して行くことが、我々九条の会に関わる者の目的であり、使命であることを確認したいと思います。

(室蘭工業大学 ひと文化系 教員)


<寄稿 2011年6月15日>

技術オンチの素朴な原発反対論

(九条の会・室蘭工大 事務局員 門沢健也)

 私は工業大学の教員であるが、文科系の人間である。それで私は機械が苦手。数字が苦手。コンピューターも苦手。また、高校生の時まったく物理オンチであった私は、未だに原子力の何たるか、どのようにして発電するのか、原爆との違いはどこにあるのか、よく理解していない。だから、工業大学に勤務して、さまざまな新しい技術やものを作っていく先生方や学生たちを、目を見張る思いで見る。自分では、車のボンネットを開けて中のさまざまな機械を見るのも怖い。

 しかし私は、日曜大工的な木工・工作や塗装、郵便物の荷造り・搬送や、料理・草刈り・穴掘りなどはそれなりに得意である。つまり、日々の生活の中のごく単純な「もの作り」や「もの直し」は自分にも上手にできると思っている。
 この違いは何かであるかをつらつら考えてみると、どうやら自分自身の力でできて、失敗したときに自分で修復し、修復できないとしても自分で責任を取ることができる範囲のことだからではないかと思う。日曜大工は失敗してもやり直せばいいし、修復が不能であれば途中で製作を放棄しても誰にも迷惑はかけない。料理はまずくできても自分で食べればそれで済む。また、一緒に食べる仲間に許しを請えばそれでよい。

 翻って、あらゆる高度な技術も、そのような範囲でなければならないのではないかと、素人なりに考える。作ったものが壊れたら、その場に行って、(極めて単純化して言えば)ペンチやドライバー、ハンマーなどで(ものが大きければ重機なども使っても)何とかすればなんとかなる範囲、それがものを作ることの責任であって、作ったものが壊れて、それが多くの人に多大な被害をもたらし、しかもそれをどのようにして直すか、作った本人も分からない、というのは尋常なことではないと考える。今回の一連の地震と津波による福島原発の事故とその後の迷走が、私のような素人の疑問も「そう間違っていない」と、雄弁に語ってくれていると感じる。

 「作ったものが絶対安全」と言っておいて、想定外の「危険」の領域に達したとき、「どうしていいのかわかりません」ということを、「技術」といっていいのだろうか。 「1000年に一度の地震・津波で、想定外であった」といっても、1000年に一度だろうが1億年に一度だろうが、今それが一回だけ起これば、今の時代にそれに遭遇した人にとってはそれが100パーセントであり、「何年に一度」という言葉は意味を持たない。
 さらに1000年に一度の災害が3年続けて起こることもあり得るだろうし、現に今回の地震の影響で、東海・南東海・糸魚川静岡構造線の下の、三つの活断層で、今後3か月、あるいは来年の3月までに大地震が起こる可能性が高いとの観測があることを報道が伝えている。

 今まで「原発は『絶対に』安全」と言ってきた人々は、この事実について、どのように説明し、責任を取るのか。また、事後処理に醜態を演じている民主党政権もさることながら、これまで無条件的に原発推進を進めてきた自民党が、まっさきに自己批判をしなければならないはずなのに、それについて語った自民党政治家の存在は寡聞にして聞かない。「原発は『絶対に』安全」といいながら、実は産業のない過疎の町に「あれも作ってやる」「これも作ってやる」「ゼニもなんぼでもばらまく」と、札ビラで頬を叩くようにして原発誘致を迫ってきた歴史は一体どう精算されるのか。
 電力会社の内幕も、私は友人から聞いたことがある。北電の社員が泊原発に転勤になると、若い社員でも単身赴任し、奥さんには「事故が起きたらオレは生きては帰れないだろう。そのときは残った子供をよろしく頼む」と言って赴任する由。

 終戦直前に二度の激烈な原爆被害を経験し、また60年代の高度成長期には多くの公害問題を経験してきた日本。極めて不幸な出来事ながら、一方貴重な教訓をも得たはずのこの二つの苦い経験を、日本政府だけでなくわれわれ国民も、こと原発に関しては何一つ活かすことをしないできた。地道に反原発運動に取り組んできた、たとえば広瀬隆さんのような人々をのぞいては、「学者が、お上が、必要であり安全だというのだから、たぶんそうなのだろう」という程度の意識しか持たなかった、もちろん私を含めて、我々日本国民の無知・無関心と民度の低さが、今回の原発事故で露呈されたと強く感じる。殊に、何も考えてこなかったに等しい自分自身を深く恥じる。

 憲法に照らして言えば、原発の建設はひとたび事故が起きた場合を考えれば、日本国憲法前文の「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」という平和的生存権に反して「国民は原発という『恐怖』とともに生きるべし」ということにならないのか。また、第25条の「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という条文の「健康に生活する権利」に反するという観点で、我々は原発問題を考えてきただろうか。残念ながら、答えは「否」である。
 国が国民を縛るのではなく、国民が政治権力の暴走や誤謬を止める手段として存在する憲法を、原発問題について「強い味方」として意識し、考え、そして行動することができたはずなのに、私たちはそれをしてこなかった。

 ただ、いずれにしても日本全体での原発の発電量の割合は、全体の約30パーセントである。震災の被害が落ち着いたら(それもいつになるか難しいけれども)、電力の30パーセントくらいはみんなの努力でなんとかできるはずである。何より、都会のネオンサインやパチンコ屋の目もくらむような照明を、全部という野暮は言わないにしても、せめて半分か三分の一にすれば、われわれ一般貧乏家庭の何倍かの節電を生み出せるのでないか。
 原発に反対し、廃止を求めるなら、それに見合うだけの生活をする覚悟もまた必要だろう。

 最後にもう一つ、私は九条の会の会員の一人としてささやかながら運動に加わりつつも、悲観的に考えていたことは、結局は戦争、殊に核戦争が起こり、人類と地球は滅びるのではないか、ということだった。しかし、今回の原発事故で、また別の悲観的な見方が芽生えてきた。
 核兵器を持たない国でも、原発を持つある敵国を滅ぼそうと思ったら、通常のミサイルでその国の原発のいくつかを「効率的に」攻撃・破壊すれば、核兵器不要の核攻撃が可能となるのではないか、ということだ。
 悲観的な言葉で締めくくるのは甚だ不本意ではあるが、人類の滅亡、全生物の滅亡、地球の破滅の可能性の鍵は、戦争以上に原発が握っているかもしれない。チェルノブイリ、スリーマイルに続く今回の震災の原発破壊は、その格好の実例を提供してしまったという恐怖心を感じる。
 その意味で、我々「九条の会」は憲法第九条のみならず、原発問題についても「平和を作り、守っていく」という視点で、憲法前文や第15条も含めて考えて行く必要があると、強く思う。

(室蘭工業大学 ひと文化系 教員)


<寄稿 2011年6月3日>

祝福されぬ国歌をもつ日本の不幸
=かわいそうな「君が代」=

(九条の会・室蘭工大 事務局員 門沢健也)

 みんなでいっしょに歌う歌は、みんなが好きで、楽しく歌えるものでありたい。それが自然な感覚であると思う。同時に、例えばみんなでカラオケに行って、みんなが同じ歌を一緒に歌っている場面でも、自分があまり好きではない、あるいは関心がない歌なら、ひとりだけ黙っているのも許されるべきである。
 「国歌」、つまりみんなでいっしょに歌うことを前提とした歌なら、なおさらのこと、「一人残らず全員」とはいかぬまでも、大方の人が愛していて、好きで、いっしょに歌うことを喜びとし、楽しめる、「歌う人々に祝福される歌」であることが理想のはずである。
 しかしならが、きわめて残念なことに、日本の国歌「君が代」は、戦争の歴史と密接に関わっていることから、歌うことを望まない人は数多く、その理由もきわめて理にかなっているし、かくいう私もまたそう考える一人である。

 本来ならば、少なくとも国民の大多数が愛し、歌うことを喜びとして共有できるものである歌が「国歌」であるべきなのに、そうではない人にも歌うことをあからさまに、あるいは策略に近いようなあの手この手を使って強要し、歌わない者を批判し、さらには罰則まで加えられる・・・。つまり、強制されて歌い、歌わなければ罰せられる、という「祝福されない国歌」をもつ我が日本は、「国歌」という点では本当に不幸な国であるとつくづく感じる。
 逆説的に言えば、みんなには愛されてはいない、あるいは歌うことを拒否され、歌わなければ罰せられても仕方がないことを前提に歌われる「君が代」という歌は、なんとかわいそうな歌であることか。「国歌」でさえなければ、また歌うことを強制さえされなければ、この「君が代」という歌は、多くの歌の中で、古風で荘厳な一つの歌として、全く強制されなくても、ある人々には喜びを以って愛唱されるだろうに。

 私は息子が二人いるが、小学校・中学校・高校と、入学式にも卒業式にもただの一度も参加したことがない。仕事と重なって行けないことがほとんどだったが、時間があったとしても行かなかったのは、「君が代を歌わせられる」、あるいは「起立して歌うかどうか」という踏み絵の上に立たされるような状況にわが身を置くことに、我慢がならなかったからである。
 代わりに何度か妻(つまり息子たちの母親)が出席した。私と違って信念のある(あるいは思ったことは自分の思い通りにおこなう)彼女は、すべての入学式・卒業式で、起立と斉唱の拒否を通した。私はそういう妻を尊敬する一方で、そんなことで何かを強いられたり試されたりする事態そのものを、こころから呪い、そして憎む。

 九条の会の仲間と飲み会の二次会でカラオケに行ったときなど、私は好んで軍歌を歌う。(もちろん軍歌を聞きたくないという人が一人でもいれば歌わない。)しかも私は軍歌をたくさん知っていてたくさん歌うことができる。仲間には、「九条の会員のくせに戦争賛美の歌を歌うとは怪しからん」と非難あるいは揶揄される。しかし私は、「二度と悲惨な戦争を起こさず、このような歌を歌わなくて済むようにとの主張と祈りを込めて歌うのだ」と、正々堂々正しい主張をする。
 留学生とカラオケ(私の仕事は留学生と国際交流)に行ったときには、ある中国人留学生からのたってのお誘いで、「出征兵士を送る歌」を二人で熱唱した。中国人の彼いわく、「日中戦争の歴史などは別問題として、軍歌というのは勇壮でいいですよね。私は日本の軍歌が大好きです」とのことだった。私は、その留学生のしなやかな感性と寛容さに非常に感動した。強制して歌わせられるのでなければ、歌などはこういうことが普通で、また自然なことなのだとも強く感じた。私たちが相当過激な革命歌である、フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」を口ずさんでも楽しむことができるのと同じように。

 職場の仲間とカラオケに行くこともある。若い仲間もいるが、私より15歳年上の尊敬する上司もカラオケ好きで、かなり古い時代の歌を歌うほかに、私が軍歌を歌っても批判などはせず、いっしょになって楽しそうに高歌放吟し、「門沢さんは、その年でなんでこんな古い軍歌まで知っているんだ」と尋ねるので、私は「父親が風呂場で歌い、母親が台所で大根を刻みながら歌っていたので、いつのまにか覚えてしまったのです」と答える。
 尊敬する軍歌好きの上司は、軍歌が好きなことで、かなり右翼的な考え方の持ち主かなというイメージを抱いていたら、あるとき、「きょうの1曲目は『ふるさと』にしよう」と言って、「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川・・・」と歌いだした。そして歌い終わってから、なんと「日本の国歌は『君が代』なんかやめて、みんなが美しい日本の原風景をイメージして、思いを共有しながら楽しく歌える『ふるさと』みたいな歌が本当はふさわしいんだよな!」としみじみと言ったのだ。そのときの私のうれしさと感動は、いまここで書き伝えるのが難しいほどだ。

 北大の学生時代、恵廸寮(けいてきりょう)という、ものすごく古くてものすごく汚い寮に住んでいたが、北大予科の時代からの伝統で、毎年寮歌を作っていた。(「都ぞ弥生」がその中でもっとも有名な歌である。)
 寮歌を作る(選ぶ)方法は、寮歌を選定する委員会を作り、その委員会が、全寮生にまず歌詞を募集する。期限までに応募のあった歌詞をガリ版で全寮生に配り、投票をして一作を選ぶ。しかる後に志と才能有る者が、その選ばれた歌詞に曲を付け、寮内放送で全寮生に聞かせ、また投票して最高位のものをその年の寮歌と決めるという、伝統に則っていながらきわめて民主的かつ明快なものであった。さらに、その寮歌は覚えるも覚えないも自由、歌うか歌わないかも自由。しかし、みんなで入る大きな風呂場で、誰か一人がある寮歌を口ずさむと、そこにいる裸の全員が声高らかに唱和する、などというのは、いかにも風情に満ちた一景であり、これこそが寮生が愛唱する「寮歌」であるという、爽やかで心地よい連帯感を感じたものだった。
 今の日本で、例えば「ふるさと」を国歌にするのはどうかを議論したり、歌詞や曲を公募して、公開の形で一つを選ぶ、なんていうことができたなら、どんなに素敵なことであろうか。

 もう一つ、私が学生の研修旅行で何度か行っているオーストラリアという国は、正式の国歌のほかに、「ワルツィング・マチルダ」といういささかユーモラスな唱歌があり、オーストラリア人にとっては、国家よりもこの「ワルツィング・マチルダ」の方がずっとオーストラリア人としての心に響く歌で、よその国でオーストラリア人が何人か集まったりすると、この歌の合唱になり、ときにはみなが感動して涙とともに歌われることさえあるという。(「渚にて」という古い映画のテーマ音楽としてご存じの方もおられるかも知れない。)

 翻って、わが祖国日本では、5月31日(火)の新聞報道のとおり、「『君が代』の起立・斉唱命令は合憲」との最高裁判決。最高裁は、憲法の番人であることを自ら放棄したのか、憲法は権力の暴走を防ぐために国や政府の権限を縛るものであるという「立憲主義」の根本を実は理解していないのか、あるいは、このような思想・信条を持った人間でなければ最高裁の裁判官までは出世できないのか。
 また、1999(平成11)年に、いわゆる「国歌・国旗法」が唐突に成立したときも、「国民に義務を課すものではない」と、当時の小渕恵三首相が何度も繰り返し言っていたのに、その約束は、12年の歳月を閲(けみ)して、紙くずのようにいとも簡単に反故にされたわけである。
 政治、あるいは政治家の約束が如何に信頼に足らないものであるか、また、それを防ぐための三権分立の制度が機能していないらしいことも、わが祖国日本の大きな「不幸」と感じざるを得ない思いである。
 まったく悲しく、情けなく、嘆かわしい出来事ではある。それでも私たちは望みをすてることなく、間違った力に屈することなく、それぞれの立場で何かできることをしていきたい。私はまず、今まで避けて通ってきた小学校の卒業式(よその子どもの)にでも出て、起立・斉唱を拒否してみようか。うちの「勇気あるかみさん」を見習って・・・。

(室蘭工業大学 ひと文化系 教員)


<記録 2011年1月29日>

憲法ゼミナール
2011日中韓「アジアの平和を考える」
(会場での発言より)



■中国人留学生から見た『反日運動』 李 占涛<リ ジャンタオ>さん

(1)反日感情
 日本に来て留学することは、うらやましい感情が多い。留学しながら私は、週に3回ほどアルバイトし、6時間で5000円を得られる。私の姉は10年前に失業しアルバイトしているが、毎日働き、月500元位、日本円にすると4000円くらい。中国で姉のような暮らしをしている人は50%くらいいます。それから見ると良いわけです。
 対日感情については、うらやましいが、微妙なことがある。私の妻と娘が、昨年8月に中国に戻った。私と生活した5年の間で、娘の日本語は、私より上手になった。生活習慣も養成され、日本食大好き。中国に戻って小学校3年生になり、1、2ヶ月経つと周りのいたずらっ子に攻撃された。「りんりん(娘)は日本人」と言われた。もう一つは「グイズ(鬼子=鬼畜)」とも呼ばれた。娘はたいへん困り、2ヶ月して妻は先生に相談し、学校は調査して嫌がらせをやめさせた。そこは海の近くの小さな町だが、こういう感情がある。
 もう一つ、妻は日本で生花が好きになり勉強した。中国に戻ったら花屋を開き生花を教えようとした。「日本の生花」の看板を設置したら、周囲の中国人に、「これはよくない、ダメだ」と言われた。
 私が感じているのは、中国の反日感情では、日本は豊か、その一方で日本への恨み、蔑視がある。

(2)「反日運動」に参加する気持ち
 実際の反日運動は、たいしたものではない。何故なら反日運動に参加する規模は小さいから。2004年上海で起ったデモで1000〜2000人だ。私のいた大学には3万人の学生がいる。10万人いる大学もある。上海の人口2000万人の中だから。
 日本人はTVで毎日見ているので、反日運動に参加しているのは中国人全てと見るが、中国では、全ての日本人が毎日靖国神社へ参拝しているイメージを持っている。
 中国人が「反日運動」になぜ参加するのか。私は38歳、1972年生まれ。小学生から30年間たっても日本人を見たことがなかった。でもかなり良くない感情があった。祖母から聞いていた。戦争中は日本人が来たら大変なので逃げた、日本人は悪い、怖い。そのイメージはそのまま定着した。
 二つ目は、(日中が国交回復した)1972年まで、両国の交流がなくなってしまった。日本人はどのような人かわからない。教育から日本人のイメージを継承している。
 第三に政府の宣伝。言論の自由がない。日本の報道は狭く、日本人は毎日靖国神社に行くようなイメージを与えている。侵略戦争もそうだ。マスコミ、政府のコントロールの下流れている情報は多いが、政府に良くない情報は管理されている。「反日運動」は政府に影響がないので、あまり干渉しない。そういうマスコミの影響ある。
 明確に日本に反対する人は少ない。日本人に良くない感情もつ人も多いが、デモしよう、デモに行こうと行動する人は非常に少ない。

(3)中国の政治状況、政府と民衆
 全体的にみると政治制度が独裁政府。その特徴は暴力、軍事力が高まっていることだ。嘘をつかないと独裁政府を維持できない。言論の自由を押さえなくてはならない。格差社会である。姉の収入は500元、私の町から北京まで600辧蔽羚颪任篭瓩さ離)で、友人の大学副教授は年間12万元、一月にすると1万元、私の姉の20倍だ。
 中国社会には、格差と不公平の社会問題がある。この不満を解消させるためには、敵が必要で、日本はその恰好の対象だ。中国政府の反日運動の放置には、不満を解消するねらいがある。

(4)私から見た日本政府と国民の対応
 日本における憲法改正の動き、中国の軍事力の高まりに対して、日本の保守派の政治家には対抗意識がある。私の意見では、このような方向は正しくない。私から見ると、日本は力がある。国籍、性別、民族に関わらず、どこの国の人に対しても人間として扱う日本は、他の国と違う。2004年の四川大地震で、私は募金活動に参加し、多くの日本の人々の協力と支援をもらった。これが日本の力だと感じた。人間が一番大事。価値観に多様性がある。
 軍事力もすごいが、私は軍事力には意味がないと思う。日本が戦争に負けたのは、アメリカの軍事力にではなく、人権と民主主義の理念の力に負けたのだと思う。中国人に対して制度と理念の良さを伝え、中国の人権運動を支援し、協力してもらいたい。中国が民主化したら、日本にとってよくなる。独裁政府は誰、どの国に対しても戦争しそうで危ない。
 劉暁波(リュウギョウハ)さんがノーベル平和賞をもらった。私が表彰会場の空席のイスを写してネットに流したら、削除されていた。私は友人と受賞を祝って、インターネットに「劉さんおめでとう」と書いて出したら、すぐに削除されていた。
 諸外国の政府が、中国の民主化に協力してくれることはたいへん重要だと思う。



■韓国人留学生から見た朝鮮半島情勢1 呉 襲法礇 ジュンヨン>さん

(1)軍備の面から見る
 北朝鮮と韓国の情勢について話します。私は陸軍での兵役で、国境線の警備に携わった経験があります。韓国の兵役の期間は、陸軍は2年、海軍2年3ヶ月、空軍2年6ヶ月でした。それと、兵役の替わりに民間企業で3年間働くか、軍人として身体の不自由がある人は、3年間の社会奉仕を行います。韓国はいつも戦争の準備をしているわけです。
 兵力は北朝鮮400万人(兵役は10年基準です)。韓国は60万人。2年現役で後に3〜6年の予備兵役があるから、兵力は200万人はあると思います。

(2)北朝鮮の挑発の原因
  ̄篦敕(ヨンビョンド)砲撃で、(北朝鮮は)演習に対抗と言っています。皆さん、銃弾1個の値段を知っていますか?15円(5.25丱薀ぅ侫襦砲任后B仞鐚屮丱此璽砲の砲弾(ロケット弾)は15万円、誘導装置がつくと25万円します。
 韓国では、1回の訓練で兵士1人が銃弾を約40発撃つ。訓練は、最低でも400、500人で行なうから、実際の大規模な訓練では億単位の金がかかる。
 北朝鮮では訓練の時、実際の弾丸を買うだけの予算がないため、口で「パンパン」と言って射撃訓練を行なっているといわれている。億単位の金がかかる韓国のような訓練はできない。だからこそ実戦で使える兵士が充分にはいない。これまでは報道で伝えられてきたが、北朝鮮は口だけでなく、実際自棄(やけ)になっている。それで北朝鮮は危機感を感じ、韓国に対して「軍事訓練をやめて欲しい」と主張している。
◆)鳴鮮は終焉が近いといわれているが、核ミサイルに拘っているのは、実はそのせいである。日米でミサイルを迎撃して撃ち落す研究をしているが、空中で核ミサイルを撃墜すると空中拡散し、被害は更に大規模になるため、実際には迎撃できない。それが核の真の怖さである。

(3)ドイツのような国民統一できるか
 できない理由の第一、休戦ラインである41度線の前後3劼飽貳婿毀韻脇ってはいけない。つまり、ベルリンの壁のようにはいかないのだ。
 第二に北朝鮮からの逃亡者の話を聞くと、「世界で唯一つ平壌にしかない高度な施設、それがエスカレーターだ。」そのような認識では最早話にならない。政府を転覆させるような民衆の意識も期待できない。
 中国が北朝鮮の支援をあきらめない限り、統一はできないのではないか。このままだと必ず戦争が起こるだろう。別の第三の国や国連などが間に入ってくれない限り、統一はきわめて困難である。韓国軍には自分たちに作戦権はなく、アメリカにある故に(北朝鮮への)ミサイル攻撃の権限もない。だから、仮に戦争が起きたら、韓国が勝ったとしても、韓国の社会基盤は破壊され、結局は勝ったことにはならないだろう。
 日米安保、韓米同盟はあるが、中国・日本・アメリカが一緒になり統一に協力してくれるか、戦争になるか。韓国は戦争に関してはナイーブになっている。もし戦争になったら第3次世界大戦になる可能性があるからこそ、事態が深刻になる前に日本人の理解と協力が求められる。



■韓国人留学生から見た朝鮮半島情勢2 李 昌大<イ チャンデ>さん

(1)朝鮮半島の状況
 私が今感じている朝鮮半島の状況は、だんだん悪化している。前大統領と前々大統領の太陽政策により、北朝鮮に米やお金を支援していたが、現大統領は選挙の時に、「その支援の結果、北朝鮮が核を持つようになった。だから私は太陽政策に反対する」と主張し、当選した。その結果、北朝鮮・韓国の関係は、それ以前と全然違ったものとなってきた。2010年から北朝鮮の砲撃で韓国軍の船が沈められたり、延坪島が砲撃されたりした理由もそこにあると思う。
 ニュースで見ると、北朝鮮では韓流のドラマや音楽などがはやっている。北朝鮮の人々が韓国のドラマを観たら、普通の韓国人の生活とか、美味しいものを食べている姿を見ることで、最近は北朝鮮の国民も考え方がかわってきていると思う。
 延坪島の問題が起きた時に、私の弟は兵役中でした。国境の付近に今もいる弟は、寝る時間も軍服を来て、靴も履いたまま寝て待機している。弟は私に電話して来て、「今は普通の状態に戻った」と伝えてきた。

(2)戦争が起きたら
 今まで呉襲砲気鵑話していたが、北朝鮮のウラには中国の影響があり、韓国にはアメリカの強い影響がある。戦争になったら、先の朝鮮戦争の時のようになる。最近の状況だったら、アメリカがイラクのように、北朝鮮を攻撃してもおかしくないが、アメリカと中国がお互いに牽制し合っているために、アメリカは北朝鮮を攻撃しないと思う。
 韓国の軍隊は、陸・海・空軍に分かれているが、北朝鮮の攻撃により延坪島で死亡した2人の軍人は、海軍の中にある海兵隊に所属していた。訓練期間は平均2年、それが終わると8年間予備役として待機し、1年に一度の訓練を受ける。その後は40歳まで市役所などで行なわれている非軍事的な活動、つまり戦争になった時に、地域を守ったり、防災の訓練などをするが、40歳を過ぎたら、軍事に関することへの責任は免除される。
 個人的意見だが、もし仮に戦争になったら、日本の自衛隊はどうすればいいのか。私はどのような戦争にも、どのような形ででも参加しない方がいいと思う。自衛隊が戦争に参加したら、日本の憲法に違反するだけでなく、世界的な戦争に加担し、また日本自体も必ずそれに巻き込まれることになるだろう。



■新「防衛計画の大綱」について<レジュメ> 佐藤 有さん

はじめに 〜憲法とは何か〜

 憲法(constitution)とは何か? ※constitution:構造
 々餡箸隆靄榾 ∈嚢睨ゝ(≠法律)、国家権力に制限をかけ、個人の人権を保障するもの
 ※国家に対する歯止め、下から上への圧力、少数派・弱者の人権を守るために、多数派・大きな力を持つ者のルールと、国が目指すべき理想を掲げている

1.新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会の報告書(2010.8.27)

    ○ 世界の平和と安定に積極的に貢献する「平和創造国家」を目指す
    ○ 米国の力の優越は絶対的なものではなく、同盟国に対する米国の期待が高まると予想される
    ○ 「基盤的防衛力」から「動的防衛力」へ
    ○ 離島・島嶼の安全確保と必要な部隊・警戒監視活動の強化
    ○ 専守防衛からの緩和、集団的自衛権の行使を日本自身の選択によって決める
    ○ 海外派遣恒久法の制定とPKO5原則の緩和
    ○ 非核三原則は必ずしも賢明ではなく、武器輸出三原則の見直しが必要
    ○ 憲法論・法律論ではなく、政府のスピーディーな意思が重要

    ※日米同盟関係が重要であり、北朝鮮・中国を脅威・仮想敵だと捉えている

2.新「防衛計画の大綱」の特徴 (1)アジアの国々とどう向き合っているか

    ○ グローバルなパワーバランスの変化は、アジア太平洋地域において顕著に表れている
    ○ 北朝鮮−我が国を含むアジア太平洋地域の安全保障における喫緊かつ重大な不安定要因
    ○ 中国−軍事や安全保障に関する透明性の不足とあいまって、地域・国際社会の懸念事項
    ○ 領土や海洋をめぐる問題や、朝鮮半島や台湾海峡等をめぐる問題が存在する不透明・不確実な要素が残されている
    ○ 日本は食料・資源・市場を海外に依存する貿易立国であり、繁栄には海洋や国際秩序の安定が不可欠
(2)新防衛大綱の要旨
    ○ 「基盤的防衛力」から「動的防衛力」への転換
    ○ 南西諸島を念頭に島嶼部攻撃への対処能力を強化、陸上自衛隊は島嶼防衛を重視
    ○ 今後とも日米同盟は必要不可欠、新たな形で発展させていく
    ○ 武器輸出三原則の見直しを検討、軍事技術水準の動向を踏まえる
    ○ 国連平和維持活動(PKO)参加5原則の見直しを検討
    ○ 非伝統的安全保障問題(対テロ戦略、破綻国家・脆弱国家)、人道支援・災害救援・海賊対処への対応
    ○ 我が国の意思と高い防衛能力を明示する事が、我が国周辺の安定と抑止力を高める
    ○ 首相官邸に国家安全保障に関する首相への助言などを行う組織を設置
    ○ 民間活力の有効活用、後方業務の効率化
    ○ 非軍事部門との連携協力、軍事力が重要な役割を果たす
    ○ 安全保障問題に関する研究・教育の推進・知的基盤の充実・強化
    ○ 防衛能力発揮のため、質の高い人材の確保・育成・必要な教育訓練
    ○ 情報規制・管理に関する法整備、情事継続的な情報収集・警戒監視・偵察活動
    ○ 各種事態に関するシミュレーション、総合的な訓練・演習

3.日本国憲法の理念と照らし合わせてどうか

(1)第9条
○ 9条は、徹底した非軍事平和主義を理想としている
○ アジア太平洋地域に対する反省は済んだのか?
(2)99条、13条
○ 大きな力を持つ者達は、憲法を遵守、擁護しているか
○ 自衛隊の人達も1人の人間であり、現場にいるのは彼らであること −
(3)98条
○ 日米安全保障条約、新防衛計画の大綱は98条から考えると、無効になるのか?
(4)憲法前文
○ 「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きないやうに・・・」はどこへ行った?
○ 「全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利」を実現できるか?
 ※軍隊は市民を守らないという教訓、歴史
 ※「秩序」「改革」という言葉で思考停止になっていないか?
 ※そもそも、二者択一で応答できる話なのか?

4.改憲はどうなるか

    ○ 明文改憲はなくとも、解釈改憲が究極的なものになっている
    ○ 生活の身近なところから変化(変質)が起きている
    ○ 戦前と同じか、それ以上のものになっている = “ある意味”で歴史に学んだ体制作り
    ○ 昨年の安保50年を境に、日米(同盟)は深化(進化)しようとしている
    ○ 「自民党時代にはできなかったことを踏み込んで提案したい」という声
    ○ 誰のための、何のための改憲なのか

おわりに 〜新たな局面へ向けて〜

    ○ 日米安保50年、韓国併合100年と言われた2010年から、あっという間に2011年に
    ○ 反対の声だけでなく、対案を提示しなければならない − 他の事とも関連付けながら
    ○ 「戦争の放棄」を改めて考える = 選択肢として「放棄」
    ○ 「日米安保条約がなくなれば、どうするの?」などの問いにどう答えるか
    ○ 絶対に譲れないものは何か、何が問題なのか − 柔軟な思考力と想像力

参考文献

    1)平成23年度以降に係る防衛計画の大綱
    2)中期防衛力計画整備(平成23年度〜平成27年度)
    3)北海道新聞 夕刊 2010年12月17日付
    4)北海道新聞 朝刊 2010年12月26日付
    5)月刊憲法運動 396号
    6)月刊憲法運動 397号
    7)NPJ通信 http://www.news-pj.net/npj/kimura/028.html


<寄稿 2009年7月1日>

室蘭工業大学職員組合「かいな」コラム集 −1−

(奥野恒久・室蘭工業大学准教授・憲法学)

■(2008年11月6日)
 ここ数年、毎年のように沖縄に通っている。北海道とは対照的な暖かさや空の色、海の色に魅せられてということもあるが、穏やかで力まない沖縄の人たちと風土に無性に触れたくなるのである。那覇空港に降り立ったとき、スーッと肩の力が抜けるのは、毎度のことである。そんな沖縄に付きまとっているもの、それは、あの穏やかさとはまるで似つかわしくない「戦」や「軍」である。
 「慶良間列島における700人を数える老幼者の集団自決は、日本人の軍隊の『いさぎよく自決せよ』という命令に発するとされている」。35年も前にこう書いた大江健三郎は、2005年になって元守備隊長らに名誉毀損だと訴えられた。原告である元守備隊長は、その書『沖縄ノート』を読んですらいなかったという。極めて政治的な訴えである。この一つの訴えが根拠となって、安倍政権下の教科書検定では、集団自決の記述から「軍の強制」が削られた。もちろん沖縄県民は怒りをあらわにし、撤回を求める県民集会には室蘭市民の数を上回る11万人もが駆けつけたのである。
 ことの核心は何であろうか。軍は住民を守らなかった、いやそれどころか住民を犠牲にした、この軍の本質を歴史教育の場で教えさせたくない、という権力者の本音であろう。「軍の保持」を明記する改憲案を掲げるのに、沖縄戦の歴史は正直「邪魔」なのである。
 『沖縄ノート』で大江は、「僕は…沖縄について、本土で生き延びている人間としての自分のいやらしさを意識しないでは、すなわち端的な恥ずかしさやためらいをおぼえることなしには人前で話すことができない」と述べる。「ひめゆり平和祈念資料館」では、かの沖縄戦につき、沖縄は国体護持のための“捨て石”になったのだと記す。“捨て石”は、一度ばかりではない。1952年4月28日、日本が独立したときは沖縄に占領の継続を、そして本土復帰後も沖縄に米軍基地を押し付けているのである。
 恥らうことさえなかった自らの無知を恥じつつ、これからも沖縄に通おうと思う。幸い、“捨て石”との自覚を掴みなおそうとしている、沖縄の若い世代とも接するようになった。戦争をさせてはいけない、そう自分の言葉で話したい、この想いは確実に通じ合う。そして、穏やかな暮らしを守るため、時に激しく闘う。この「構え」も大いに学びたい。

■(2008年12月1日)
 先日、本学の学生から「サークル・リーダーシップトレーニングで話をして欲しい」との依頼を受けた。「リーダーシップトレーニング」という響きにいささか違和感があること、そもそも自分自身がリーダーとは縁遠い存在であるゆえお断りするのが筋なのだが、リーダーなるものについて考える良い機会でもあるし、学生から依頼を受けたことがとにかく嬉しく、何か話してみようと思う。
 今、私が求めているリーダーとは。素描してみると、「日ごろはメンバーの多様な能力を自由かつ存分に発揮させ、時に一致団結を促す」、こんなところであろうか。ポイントは、「多様」と「自由」である。画一的なメンバーであれば、統治するのは楽だろう。しかし、ここぞというとき総合力を発揮するのは多様な力であろうし、何より組織を崩させないもの、それは「層の厚み」だと思われる。だとすると、本学が推進している教職員の評価制度。多様な能力の開花よりも、画一化の方向に進むのであれば、それは大学自体を弱めることにならないか、懸念するところである。
 さて、この国のリーダーについてである。現在が「百年に一度」の経済危機だとの認識はお持ちのようだ。現に、それが口実となって非正規労働者3万人もが職を失おうとしている「大変な」ときである。また、これまで政府が追随してきたそのアメリカでは、オバマ新政権の下、ありとあらゆる手立てを講じて難局を乗り切ろうとしているときである。そんなときに麻生首相は、「私の方が税金は払っている。たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」と言ったという。保険制度についての理解云々より、うんと前の問題である。飲み屋での政治談議と公での発言とが一体になってはいないか、いやそもそも国の政策を個人的な印象や体験で論じているのではないか。ならば、この国の首相はリーダーの資質以前のように思われる。
 ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(1864‐1920)は、『職業としての政治』のなかで、政治家にとって重要な資質として、情熱と責任感と判断力の三つをあげている。そして、「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である」と述べる。この言葉、無責任な言動を繰り返す首相に贈っても意味はなかろう。本学の学生に贈るとともに、私たち自身、噛み締めたいと思う。サークル活動でも、労働運動や平和運動でも、盛り上がるときは確かにある。しかしそうでないときに、「じわっじわっと穴をくり貫いていく作業」をつづけれるか否か、それがリーダーに問われているのではなかろうか。

■(2009年1月6日)
 先日、ある学習会にて「貧困と戦争」の関係が話題となった。現在、日本で起こっている二つの社会的運動、すなわち20代・30代を中心とする「反貧困」の運動と、60代以上を中心とする平和運動、これらに結合の可能性はあるのかという文脈においてである。国内でもまた国際的にも貧困が戦争を誘引する、とはいえそうである。例えば、とにかく職を求めている人にとって、それが軍事にかかわるものであるかは二の次であろうし、生活のために戦争に行く人は世界中後を絶たない。国際的には、貧困を生み出す市場万能の経済が同時に特定国の権益を他国に生み出すため、権益保持の衝動から軍事派遣を要請する。他方で、貧困に喘ぐ国や人々が「テロ」をも含む強硬手段を行使する危険があるとして、軍事的警戒感が高まる、という具合である。
 しかし、このような構図を明らかにしたところで、ただちに先の二つの運動が結合するとは思われない。やはり話が「遠い」のである。では、何を掲げたとき、結合はありうるのか。そのようなことを考えている折り、朝鮮人の強制連行問題を扱った論文から、「朝鮮人たちは、…一人死ねば一人朝鮮から強制連行してくればいいと、彼らは戦時消耗品に過ぎなかった」(横田一「麻生一族の過去と現在」『世界』2009年1月号)との文に出合った。戦前戦時中、日本の企業が朝鮮人を「消耗品」と見ていたというのである。実はこの感覚が、現在の日本社会で露骨に表出してきているのではないか。労働者派遣契約の激しい争奪戦の中では、「無料お試しキャンペーン実施中!一週間無料、一ヶ月35%オフ、三ヶ月13%オフ」と、人間リースを宣伝するチラシが出回ったという(参照、中野麻美『労働ダンピング』(岩波新書、2006))。そして、不況に陥れば「派遣切り」と、まさに人間が大切にされていない、象徴的な事例である。
 日本国憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される」と規定している。一人ひとりをかけがえのない、交換することのできない存在として、大切にするよう国家に命じているのである。と同時に、この規定は企業や大学、そして個人を含む社会に対して向けられた「道徳的」メッセージとも読みうる。翻って、私たちは一人の人間として、大切にされているか。またそのように、例えば学生を大切にしているだろうか。  人間として扱われない、その最たる例が戦争であろう。だとすると、「反貧困」と平和運動の連結は、「人間として扱え」という極めてシンプルなスローガンを掲げるのが良い。2009年が、人間回復に向けての一年となることを切に願う。

■(2009年2月5日)
 新年早々、リベラルアーツ教育を掲げるICU(国際基督教大学)に視察に行ってきた。
学科制が廃止されたICUでは、学生は入学時に文系・理系関係なくさまざまな科目を巡り、2年次終了までに自らのメジャーを、美術・考古学、音楽、法学、化学、言語学など31分野から選ぶことになる。また、授業スタイルの中心は、講義ではなく対話型。見せてもらった授業でも、学生は頻繁に質問やコメントを発するし、全ての机と椅子が可動型になっており、授業中すぐにグループ討論が開始される。さらに驚いたことに、約半分の授業は英語でなされ、学生も英語で質問し、英語でのグループ討論も行われていた。学生たちは、実に鍛えられている。4年次の学生数人と話したが、彼女たちが自信に満ち満ちていること、自らの大学に「誇り」を持っていることを見せつけられ、「参ったな」との思いで室蘭に帰ってきた。
 さて、話は変わるが、私は晴れた日、10時25分からの授業のため講義棟に向かうのが好きである。多くの学生たちが、ゆっくり歩く私を追い抜いていく。なかには、「おはようございます」と声を掛けてくれる学生も。あたりまえのことだが、皆、学ぶために授業に向かっているのである。本学の多くの学生は学ぼうとしているし、「擦れる」ことなく真面目に授業に臨んでいる。私は、歩いていていつも「うちの学生も棄てもんじゃない」、「さあ、気合を入れよう」という気分になる。
 先日、本学の留学生に大量の米や野菜が届けられた。「金融危機や急激な円高で経済的に苦しむ留学生に」と、届けてくれたのは、農業実習を受け入れている新冠の農家や室蘭の市民である。「野菜とともに元気を届けたかった」という話を聞き、本学の学生たちが市民の人間的な暖かさで「大切にされている」のだと嬉しくなった。裏を返せば、本学はこれまで地域市民と、そのような「血の通うつながり」をつくってきた、ということである。
 大学も様々である。ICUのような大学から学ぶことはもちろん多い。とかく「改革」が叫ばれるとき、自らの欠点や遅れが唱導されがちであるし、他からまねるという衝動も働きがちである。だが、それで果たして「根付く」のか、形だけになりはしないか、大いに疑問である。「改革」論、もし必要ならば、本学や本学学生の「良さ」を確認するところから始めるべきであろう。

■(2009年3月6日)
 危機的な経済状況、雇用を中心とした社会不安、そして政治不信と、あらゆる面で「混迷」する現在の日本社会において、「軍事大国化」への道だけは着実に進んでいる。政府は、3月中旬にも「海賊対策」と称してソマリア沖に海上自衛隊の護衛艦2隻を派遣するとともに、「海賊対処法案」の早期成立を目指すという。国連決議のもと各国が行っている活動であり、日本の「国益」にもかかわるといわれ、議論は低調である。自衛隊を海外に出すという重大事への認識が希薄に思えてならない。各国がソマリア沖への軍隊派遣に熱心な背景には、その背後に広がるアフリカのエネルギー資源をめぐる米欧と中国との利権争いとの指摘もある(谷口長世「狙いはアフリカのエネルギー資源確保だ」『世界』2008年3月)。
 さて、自衛隊派遣についてである。まず法的な問題として、第一に現行法(自衛隊法82条)の「海上警備行動」は日本近海での危機対処を想定し、実際そのように運用されてきたことから、1万キロも離れたソマリア沖への派遣は「無謀」ともいえる拡大解釈である。さらに新法案では、ソマリア沖に限定されないため、それこそ日本の「国益」にかかわれば、世界中どこにでも派遣できることになる。第二に、これまで隊員の「自己保存」に限られていた武器使用基準が、「任務遂行」にまで拡大される。これなど、憲法9条が禁じる「武力行使」ではないか。次に、論理の問題として、国益のための自衛隊派遣を認めて本当に良いのか。その先はどうなるのか。「日本の生命線」と称して軍事侵攻した戦前の歴史を、いま一度踏まえなければなるまい。
 とかく自衛隊派遣問題は、目的と手段の慎重な吟味を欠いて「一人歩き」する傾向がある。本当に「海賊対策」が目的なら、かつて東南アジアから海賊を一掃した海上保安庁になぜ光が当たらないのか。また、ソマリアを含む周辺諸国への警備活動支援がなぜ論じられないのか、等である。
 いやむしろこれを機に、国際的な警察活動、災害救済活動のための組織へと、自衛隊の方を変えていくくらいの議論があっても良いのではないか。軍事的な人的・物的資源を軍事利用から市民的利用へと移す「軍民転換」が、世界的には注目されつつある。政策力のみならず高い技術力が求められる「軍民転換」の研究、本学で取り組めないものだろうか。

■(2009年5月7日)
 平和をめぐって静かだが重苦しい空気が漂うなかで、62回目の憲法記念日を迎えた。ソマリア沖への自衛隊派遣問題に接し、護憲派の論客・伊勢崎賢治氏は、「憲法9条は日本人にはもったいない」「私は護憲派として『敗北宣言』をしようと考えている」と語ったという(『北海道新聞』5月1日)。「真意はどこに?」と気になっていたところ、翌日の『朝日新聞』に当人のインタビュー記事があった。「今回の、9条の根幹に挑戦する国益を掲げた海外(ソマリア沖)派兵に、彼ら(護憲派)の批判精神が反応しません。日本人を助けるためだったらしょうがないと考えるのだったら、もう護憲派は崩壊してしまいます」と語っている。どうやら、護憲派への怒りのようである。
 私も以前から、日本国民が9条を維持できるか否かの分水嶺は、「国益」が持ち出されても軍事力行使に“No”といいつづける平和意識を国民が持ち合わせているか、だと考えてきた。伊勢崎氏の指摘の通り、「日本人の生命と財産を守る」という大義名分での自衛隊派遣に多くの国民は、支持あるいは沈黙した。このことは、やはり敗北であろうか。
 昨年末から、「貧困」や「派遣村」が取りざたされ、国民の厳しい暮らしがクローズアップされてきた。ところが、北朝鮮による「飛翔体」発射以降、それら暮らしの問題はメディアから消去され、出てくるのは「敵基地攻撃論」や「核保有論」など「勇ましい議論」である。暮らしが厳しければ厳しいほど、暮らしとはかけ離れた「地に足の着かない」強硬論が好まれることもある。作家の村上龍氏は、「経済的弱者は幻想にすがる」という(『無趣味のすすめ』(幻冬舎、2009年))が、自らの困難な状況を紛らわすための幻想や言い訳となる「敵」や「ターゲット」が社会的に表出することも珍しくない。
 では、どうするか。敗北主義に陥らないことを前提に、生活実感に根ざした手ごたえある憲法論議を積み重ねていくしかない。「自衛隊は、ソマリア沖で永久に活動するの?」「船舶の航行を守る、もっと良い手はないの?」「日本政府は、生きていけない国民が現にいるのに、お金をかけるとこころを間違っていない?」といった具合に、である。同時に、憲法論議を柔軟に行う力量も身につけたいものである。
 さて、私が参加した京都・円山公園の憲法集会では、ノーベル賞を受賞した益川敏英氏が登壇し、「とにかく私は、戦争が嫌いです」と大声で怒鳴られた。その迫力とそのあたりまえの思いに4700人の参加者は「わが意を得たり」と大きな拍手をおくった。正直な思い、これまた響くものである。

■(2009年6月5日)
 先月、5月21日により、裁判員制度がスタートした。実際には7月あたりから、原則3人の職業裁判官と6人の市民からなる裁判員とが有罪・無罪の決定、および量刑とを行うことになる。対象となるのは、重大な刑事事件であり、最近のデータでは、強盗致傷、殺人、現住建造物放火、強制わいせつ致死傷、危険運転致死というのが多い順である。ここ室蘭地域を管轄する札幌地方裁判所では、これら事件が1年間に70〜80件くらい起こると想定しており、昨年11月には裁判員候補者6,100人に通知し、今年以降は毎年8,000人程度を見込んでいるようである。さて、この制度とどう向き合うかである。
 確かに近年、市民感覚とかけ離れた判決をしばしば目にする。玄関ドアの新聞受けにビラを投函しただけで、「住居侵入で有罪」という判決などは、市民感覚からすると信じがたいのではなかろうか。また、とりわけ男性にとって、いつ被疑者・被告人になってもおかしくない、いわゆる列車内痴漢事件において、無罪を勝ち取るのは至難のわざである。それには、裁判にあたる職業裁判官自身が満員列車に乗った経験などない、との事情もある。裁判員制度は、このような閉鎖的な裁判所に、風穴を空ける可能性を秘めてはいる。
 しかし、問題点も多々指摘されている。一つは、裁判員になる市民への過渡の負担の問題である。たとえば、死刑判決への関与や課される守秘義務など、素人である一般市民には酷ではないか、という意見である。もう一つは、被告人の適正な手続のもとで裁判を受ける権利が侵されないか、との疑念である。日本国憲法が31条以下で規定しているのは、強大な刑事権力への警戒を前提とした、被疑者・被告人の適正な刑事手続の保障である。センセーショナルな事件であればあるほど、マスメディアの報道と相まって、市民が情緒的になるのは自然な傾向である。だが、「被害者や遺族がかわいそう」といった感情が判決を左右するのは、やはり望ましくなかろう。
 「裁判員法」は、その1条で「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」ことを本制度の趣旨として掲げる。ここに、刑事被告人等の権利保障が後景に退いていることを確認しておかなければならない。と同時に、裁判を通じて、国民に「参画」と「責任」を担わせる社会が描かれていることも見ておく必要があろう。裁判員制度を通じて、「参画」と「責任」に目覚めた国民が、国家権力と緊張関係を持ちうるか、権力に吸収されるか、長期的な大きな「賭け」がスタートしたのではなかろうか。

■(2009年6月25日)
 以前に本コラムで触れた、「国益」を掲げた海賊対処のための新法が、6月17日に参議院での否決の後、憲法が例外とする衆議院での再可決によって成立した。だが、この法がさしあたって念頭に置く、当のソマリア沖を航行する日本関係船舶は激減している。世界不況の影響で自動車専用船の運行が半減したうえ、南アフリカの喜望峰を迂回する船も出てきたからだ。喜望峰を経由すれば、日数はかかるものの高額なスエズ運河の使用料を払うより、経済速度で燃料費を抑えることができる、という(参照、半田滋「自衛隊はソマリア沖で何をしているか」『世界』2009年7月号)。ところで、今回も注目したいのが、「国益」という言葉である。国内経済を中心に、国民の生活基盤がズタズタにされるなか、かつてのように「国際貢献」や「国際協調」といったより普遍的と見られる言葉だけを掲げても、自衛隊の海外派遣について、国民からの支持を調達することはできない、ということであろう。
 この問題は、なにも日本だけのことではなく、むしろ国際的に醸成されてきた。周知の通り、ブッシュ政権時代のアメリカは、人権や民主主義を掲げながら、国際法的手続を無視してアフガニスタンやイラクを攻撃する一方、イスラエルや性差別是認国家であるサウジアラビアを保護・支援してきた。このアメリカの「普遍」の名を借りた二重基準こそが、「普遍」に対する諦めを蔓延させることになったといえる。結局、「正義とは力にすぎない」と。
 法哲学者の井上達夫が「この絶望が普遍の無力化を促進し、覇権を批判的に超克する規範的な生命力を普遍から奪っている」「現代の哲学思想の大勢もまた、普遍を『脱構築』し、普遍に死亡宣告を下すことで、自己の知的先端性を示そうと競っている」と、嘆いたのが2003年であった(井上達夫『普遍の再生』岩波書店(2003))。
 2009年6月23日、アメリカのオバマ大統領は、イランでの大統領選の結果に対する抗議デモを政府が強行に弾圧したことに対し、「指導者を誰にして、どんな統治形態を選ぶかは、イラン国民が判断すべきだ」としつつ、「イラン政府は弾圧ではなく、同意を通して統治しなければならない」と語った。アメリカとイラクの、決して友好的とはいえない関係を前提にするとしても、オバマ大統領の発言は「普遍の再生」を呼びかけたもの、と言えなくもない。さて、「周回遅れ」のこの国では、やはり「国益」を前面に掲げないと、国民的同意を得ることなどできないのだろうか。


<寄稿 2008年12月11日>

胆振・日高 九条の会 学習・交流会に参加して

(山田 寛一・室蘭工業大学 情報工学修士)

2008年10月26日、苫小牧で開催された「胆振・日高 九条の会 学習・交流会」に参加しました。約50名が来場し、私たち九条の会・室蘭工大を含め4団体から活動報告があり意見交換がなされました。現在、胆振・日高管内には20を超える団体が存在しており、少しずつではありますが九条の会が広がりを見せていることに喜びを覚える一方、中には休眠状態の団体もあるようで、会の運営について改善の余地は大いにあると感じました。

学習・交流会の中で多く聞かれたのが「徐々に地域の方々に浸透しつつあるが、今後の発展のためにはさらに賛同者を増やす必要がある。特に若い人の参加が少ないから参加を促すための工夫が必要だ。」という話でした。たしかに今回の学習・交流会の参加者を見ても学生の姿は見受けられませんでしたし、ご年配の方々が大半を占めていました。

私たちの会も学生の賛同者数が少なく、行事に参加してくださるのも地域の方々や教職員が大半を占めています。これまでの活動を振り返ってみると「学生が主役」という活動が乏しく、これでは学生の賛同者が少ないのは当然なのかな、とも思います。

私たちの会は大学にある九条の会で、他の団体よりもはるかに若い人に関心をもってもらうチャンスがあると思います。その利点を活かして学生の賛同者を増やすことが今後の会の発展に不可欠ですし、大学にある九条の会としてやるべきことではないかと感じました。


<報道 2008年6月23日>

「憲法ブックレット/九条の会・室蘭工大2008総会記念講演」
室蘭民報 2008年6月21,23日


※右の図をクリックして拡大してください→


<寄稿 2008年5月7日>

航空自衛隊のイラクでの活動を違憲とした名古屋高裁判決の画期的意義

(奥野恒久・室蘭工業大学准教授・憲法学)

 2008年4月17日に航空自衛隊(以下、空自)のイラクでの活動を違憲とした名古屋高裁判決は、2週間の上告期間を過ぎたため、5月2日に確定しました。かつて、長沼訴訟で自衛隊が違憲とされたことがありました(1973年、札幌地裁)が、自衛隊の活動が違憲として確定するのは初めてのことです。改めて名古屋高裁判決(以下、本判決)の意義を、大きく二点に分けて確認したいと思います。
 第一は、言うまでもなく空自の活動を違憲としたことですが、それにあたり本判決はイラクでのリアルな現実を直視しています。たとえば、米軍が2004年11月にファルージャで国際的に禁じられている化学兵器を用い多くの民間人を殺傷したこと、首都バグダッドで英国軍のC130輸送機等が武装組織に撃墜させられたことなどを詳細に認定し、さらにはイラクで活動する武装勢力の性格をも分析しています。それら事実認定の蓄積にもとづいて、現にイラクで起こっていることは、米英軍等による犯罪集団に対する実力の行使(治安活動)ではなく、一定の政治的目的を有した組織的・計画的な「国に準じる組織」と多国籍軍(米英軍等)との国際的な武力紛争だと把握します。また、本判決は、「飛行ルートの下で戦闘が行われているときは上空を含め戦闘地域の場合もあると思う」といった当時の久間防衛大臣の発言にも着目しています。そのうえで、「現代戦において輸送等の補給活動もまた戦闘行為の重要な要素である」との専門家の証言や、「他国による武力の行使と一体となるようなものは…憲法上許されない」という内閣法制局の見解を引いて、「政府と同じ憲法解釈に立ち、イラク特措法を合憲とした場合であっても、武力行使を禁止したイラク特措法2条2項、活動地域を非戦闘地域に限定した同条3項に違反し、かつ、憲法9条1項に違反する活動を含んでいることが認められる」と判断したのです。
 徹底した事実認識と専門家の知見にもとづき、政府の憲法解釈に沿って違憲だと判断しています。完全に「詰めきった」判決だといえるでしょう。本判決を受けて、町村官房長官は、「バグダッド飛行場などは非戦闘地域の要件を満たしており、納得できない」と述べました。しかし、もしそうだというのであれば、本判決を覆すだけの客観的事実を示して国民を納得させる責任が政府にあるはずです。それがなされないのであれば、「負け犬の遠吠え」で違憲の政治がなされるという、法治国家にあるまじき事態といえるでしょう。
 第二に本判決は、平和的生存権について「全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利」であり、「裁判所に対してその保護・救済を求め法的措置の発動を請求し得るという意味における具体的権利性が肯定される場合がある」と述べています。従来、「平和」の中身が抽象的だとして具体的権利性が認められてこなかったことを考えると、まさに画期的といえるでしょう。本判決でも、控訴人らの平和的生存権の侵害は認められませんでした。しかし、本判決は言います。「控訴人らは、それぞれの重い人生や経験等に裏打ちされた強い平和への信念や信条を有しているものであり、…そこに込められた切実な思いには、平和憲法下の日本国民として共感すべき部分が多く含まれている」「決して間接民主制下における政治的敗者の個人的な憤慨、不快感又は挫折感にすぎないなどと評価されるべきものではない」と。そうなのです、私たち日本国民は悲惨な戦争体験の歴史を出発点に平和憲法のもとで、「いかなる戦争もダメだ」「被害者にも加害者にもなりたくない」という独特の平和意識・平和文化を築きつつあるのです。そして本判決は、そのことに理解を示しているのです。
 本判決を「足場」にすると、私たちの運動も新たな展望が見えてきそうです。まず、政府・与党が進めようとしている「自衛隊海外派遣恒久法」に大打撃を与えることができるでしょう。また本判決は、「憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には、平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして、裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる場合がある」と述べています。有事法制の具体化への抵抗の道も開けるでしょう。
 しかし、何よりも日本国民の平和意識、日本の平和文化をより強固にする運動の手掛かりになるはずです。今回示された、近年稀有ともいえる裁判官の理性と良心からなる本判決を、市民の手で大きく育てていきたいものです。


<寄稿 2008年4月3日>

日豪ピースフォーラム発言原稿より
(2008年3月29日メルボルンにて)

(日本機関紙協会埼玉県本部事務局長 二橋 元長)

■戦争の反省のうえに

 いまから63年前まで、日本は戦争に明け暮れていました。
 とくに、先の大戦では、2000万人もの人々のいのちを奪い、日本国民も300万人が犠牲になりました。この戦争で日本は、オーストラリアともたたかい、少なくない悲劇を生んでいます。戦争は1945年8月15日、日本の敗北で終止符が打たれました。
 1947年、日本は戦争の反省のうえに、日本国憲法を制定します。その第9条では「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」をうたいました。
 第1の「戦争放棄」では、侵略戦争はもちろん、自衛戦争をも放棄しました。
 日本国憲法が、国連憲章より一歩踏み込んで、自衛戦争まで否定した背景には、広島・長崎に原子爆弾が落とされたことがあります。もし第3次世界大戦が起これば、それは核戦争となり、人類は死滅する…。それを避けるためには、戦争をなくすしかないと考えたからです。
 第2に「戦力不保持」をうたったのは、戦争放棄をつらぬくためでした。
 軍事力を持たなければ、仮に意思があっても、戦争はできません。武力の行使も武力による威嚇も不可能になるからです。いま世界には、軍隊を持たない国が30ほどあるといわれています。日本は、その先鞭をつけたのです。
 第3の「交戦権否認」は、国家として戦争を宣言する権利、つまり国家の名で殺人を合法化する権利を認めないということです。これにより、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が訪れないように」したのです。政府に対し、「戦争するな」と命じた意味は大きなものがあります。
 このほか日本国憲法には、9条以外にもたくさんの平和条項が散りばめられています。その点は、お配りしてあるパンフレットを見てください。

■野蛮な国から平和な国へ

 さて、この憲法を制定してから60年たちました。
 60年前の日本は、世界一野蛮で残酷な国と、世界から見られていました。
 しかし、憲法9条のもとで、日本は60年間、戦争で他国の人間を殺したり、他国の人間から殺されることがありませんでした。
 おかげで日本は、平和な国、戦争をしない国として知られるようになりました。
 私は、インドやブラジルでひらかれた世界社会フォーラムなど、いくつかの国際会議に参加したことがあります。そこで多くの海外代表が、憲法9条のある日本をうらやましがっているのを聞きました。
 もちろん、朝鮮戦争やベトナム戦争で、日本がアメリカの戦争の足場となったことを、知っています。
 いっさいの戦力を持たないといいながら、世界第3位ともいわれる自衛隊が存在することも事実です。
 アフガニスタンやイラクで戦争をしているアメリカ軍を助けるため、日本は自衛隊をインド洋やイラクの戦闘地域にまで派兵し、占領政策に加担しています。
 こうした事態に対して、「9条は死んだ」と嘆いた人々もいました。
 しかし、それでも、自衛隊が実戦に加わることなく、給水活動など復興支援の活動にとどまっていたのは、9条があったからだということを、強調したいと思います。

■憲法9条を世界に

 いま憲法9条に、国際的な注目があつまっています。
 1999年にオランダでひらかれたハーグ国際平和市民会議では、「各国議会は、日本の憲法9条のような戦争を禁止する決議を採択すべきである」と宣言されました。
 2005年の「紛争予防国連会議」や、2006年のバンクーバー世界平和フォーラムでも、同じような決議が採択されています。
 イラクの人々は、もし自分たちの国の憲法に9条のような条項があったなら、こんなにも苦しむことはなかったろうと語っています。
 アメリカの裏庭から脱し、新たな国づくりをすすめる南米・ボリビアのモラレス大統領は、新しい憲法には、9条のような条項を織り込みたいと語っています。
 5月に、日本で「9条世界会議」が開催されます。世界各地から平和を求める人々が集まり、9条が持つ国際的・普遍的な価値について語りあいます。そこでは、9条を世界に広めることが確認され、武力によらない平和への展望をきりひらくことになるでしょう。
 いま世界は、平和の方向へ大きく動き始めています。
 いまやヨーロッパで、戦争が起きることを想像する人はいないでしょう。
 中南米では、平和と民主主義の新しい流れが起きています。
 アジアでも、ASEANを中心に協力・共同の新しい関係が模索されています。
 国連加盟国の3分の2以上が、非同盟首脳会議に参加しています。
 南極を含めて、南太平洋のほとんどが非核地帯となり、北半球でもモンゴルや中央アジ ア地域などに非核地帯は広がり、核保有国を包囲しています。
 アメリカと軍事同盟を結んでいる国は、30そこそこしかありません。
 アメリカの戦争に付きあっている国は、最大39カ国でしたが、いまでは21カ国です。 
 それなのに、日本とオーストラリアは、いまだにアメリカとの軍事同盟に加わり、イラク戦争につきあっています。これは、とても残念なことです。
しかし、そのオーストラリアでも大きな変化が起きていることを、私たちは知っています。 先の総選挙で、みなさんが、ブッシュ大統領の盟友であるハワード首相を落選させ、政権交代をかちとられたことを、私たちは歓迎しています。
 アメリカは、「裸の王様」になっていることを、知るべきときを迎えているのです。

■手を携え、世界の平和に貢献しよう

 2004年6月に、ノーベル文学賞受賞者の大江健三郎氏らがよびかけた「九条の会」は、全国に広がり、いまでは7000を超えました。私たちの埼玉県でも400近い「九条の会」がつくられています。「草の根メディア9条の会」もその一つです。
 私たちはいま日常的に、9条の価値を発信しています。9条がありながら、9条を無視し、スキあらば9条を変えようとねらっている勢力と対峙しています。
 私たちが毎年夏に行っている平和の展示会は、戦争を否定し、平和の世論を広げるうえで、大きな役割を果たしています。
 世論調査でも、この3年間、連続して「9条を変えるな」の声が増えているのは、こうした運動の反映です。
 先日、沖縄でアメリカの海兵隊員による、女子中学生暴行事件が発生しました。13年前にも同じような事件が沖縄で起こり、日米両政府は「再発防止」に全力をあげると約束しました。しかし、その約束は無惨にも踏みにじられてしまったのです。
 また、ハワイ沖でアメリカ軍とともにミサイル防衛の演習を行い、凱旋気分で戻ってきた海上自衛隊のイージス艦が、漁船に衝突し、沈没させました。
 この二つの事件は、日米両政府がすすめる「世界のなかの日米同盟」が、決して日本国民のいのち・くらしを守るものではないことを示しています。
 「日米同盟」は、いったい誰を、誰から守るのか…。
 いのち・くらしの現場から、「日米同盟」を問ううごきが始まりました。
 武力で平和はつくれない。戦争で平和はつくれない。
 戦争は答えではありません。
 いまこそ、日本国憲法9条がうたう、武力によらない平和をめざすときです。
 話しあいで問題を解決する力を、はぐくむときです。
 日本とオーストラリアが「ノー」といえば、世界最強の軍事力を誇るアメリカといえども、勝手気ままに戦争を起こすことはできなくなります。
 ともに手を携え、世界の平和に貢献しましょう。


<寄稿 2007年11月30日>

全国交流会と青年分科会に参加して

(情報工学修士 山本 泰之)

 2007年11月24日に行われた9条の会全国交流会と青年分科会に参加し、全国各地の9条の会がどの様な活動をして、どの様な成果があるのかを聞き、また九条の会・室蘭工大の活動を報告してきました。また青年分科会では、主に”学生9条の会”が具体的にどの様な活動をしていて、他の会にヒントになるようなことを互いにアドバイスし、今後の発展に活かそうと、意見の交換を行いました。

 僕ら九条の会・室蘭工大は学生・教員・職員・地域住民が一体となって活動している全国的に珍しい会ではありますが、学生の賛同者数が少なく、またイベント事に参加してくださるのも大半が地域住民や教職員などの”大人”たちです。青年分科会で、他の会の報告を聞くと、むしろ「地域住民を巻きこむのが大変だ」という会が大半で、僕らの会とは逆の立場でした。

 結論から言うと僕らの会では”学生による学生のための活動が無い”というのが大きな原因なのではないかと感じました。
 例えば9条の会・東大では、学生にアンケートを行い、「改憲・護憲どちらかに寄るのでは無く、両方の意見をきちんと聞いてみたい」という声をきいて、「『憲法の品格』と題し、小林節さんと小森陽一さんを呼んで徹底討論を行ったら学生が約150人ほど集まった」という報告がありました。  他にも、気軽に参加できるよう、シール投票や授業前のアンケート等、学生が学生向けのイベントを行うことで参加者を増やす努力していました。それ以外では、学生がよく行く学食や大学周辺の居酒屋にポスター貼らせていただくなど、地道でも継続的な活動で参加者が増えたという報告がありました。

 僕らの会は世代や立場を超えて工学大学から9条を発信していますが、今後より発展していくためには、学生の賛同者を増やすことは不可欠だと思います。地道に少しずつでも学生の”仲間”を増やすためにも、「学生の学生による学生のための活動」と「他大学の学生9条の会との横のつながり」の必要性を感じました。


<寄稿 2007年11月26日>

第2回「九条の会全国交流会」に参加して

(事務局次長 奥野恒久)

 2007年11月24日、東京で開かれた第2回「九条の会全国交流集会」に参加してきました。現在、6801あるとされる全国の九条の会から、510の会、計1026人の参加がありました。午前中は呼びかけ人の挨拶と、ユニークな活動をしている5つの九条の会から報告がなされました。
 安倍政権から福田政権に変わり、強引なタカ派路線とは決別し、「運動も一息つけるかな」というムードもあります。そのようななか、私は加藤周一さんの発言に注目していました。というのは、昨年の6月、加藤さんは、「勢いに乗ってください。勢いは上り坂だと思う。それで、勢い乗らなければ勝てないです、相手が強いんだから。今、上り坂の時に押して、押していけば、勝てるかもしれない」と言っていました。今年7月の参議院選挙での安倍自民党の大敗、そして安倍首相の退陣。「在任中に改憲を行う」と明言していた首相を引きずり下ろすことで、改憲を止めたのです。少なくとも、運動がなければなかったことであり、私たちの運動を評価していいはずです。では、その次の課題をどう設定するか。今年、加藤さんはこう言いました。「安倍内閣から福田内閣に代わり、相手は手ごわくなった。解釈改憲によって憲法をないのと同じ状況にしようという動きを理屈で打ち破る必要がある。そしてそのためには、長丁場の運動を意識して、劇的ではなくゆっくり組織をつくっていかなければならない。また福祉など日常性に結びつけて運動を進めていく必要がある」と。焦らずじっくりと自分たちの運動を鍛え直すことの重要性を痛感します。
 地域からの報告にも魅力的なものがありました。自民党支持層を含め、こと憲法9条問題については、運動に保守層をも巻き込みうるという実証例が報告されました。沖縄南風原九条の会からは、募金約240万円集めて「憲法九条の碑」を建立し、今では平和学習に活用されていること、宮城県岩沼九条の会準備会からは、毎月の会報をやさしい言葉で書き、全国紙・地方紙に折込み、活動を常時広く知らせることで、特定の人の活動にならないよう努めていることなどが報告されました。ちなみに「九条の会・室蘭工大」についても、全参加者の前で報告され、私たちの会の存在は全国レベルになりました。
私の印象ですが、成功をおさめている会は、学習会や会報の発行、宣伝行動などを定期的に行い、かつ例えば単にチラシを配るだけでなくポケットティシュに入れたり、キャンディーをつけたりと工夫を凝らしているということです。また、個人的に奮起させられたこととして、この交流会の司会を渡辺治氏が務めるなど、憲法学研究者が必死になって運動をしていることです。私も頑張らないといけません。
 私のように大学で活動している者でも、圧力を感じることがあるくらいです。九条の会の活動をすることで、もっともっと強い圧力を受けている人は多いことでしょう。でもです。澤地久枝さんの言葉で締めたいと思います。「私たちは一人ではない。憲法九条で世の中をよくしようという人たちがいっぱいいることに希望を持って生きていきましょう」。大江健三郎、加藤周一、小森陽一にはじまり、本学でも鈴木好夫、門澤健也等々、同志がたくさんいることを改めて感じてきた全国交流会でした。


<報道 2007年11月24日>

「あの人たち熱いね」
しんぶん赤旗 2007年11月24日 朝刊


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<寄稿 2007年4月18日>

危険すぎる、憲法改正手続法案の強行採決

(奥野恒久・室蘭工業大学准教授・憲法学)

 野球でもサッカーでも、そのルールについては、対戦する双方がともに同意しているはずである。ルールや手続とは、そういうものである。だが、国家の最高法である憲法の改正手続をめぐって、与党は衆議院で同意を得ることなく採決を強行した。この姿勢を目にし、ひょっとするとこの国は「抑圧社会」になるのでは、との危惧を覚える。
 いうまでもなく憲法とは、国民が国家権力を縛るための法である。だから日本国憲法は、国民にではなく、国務大臣や国会議員といった権力を担う公務員に憲法尊重擁護義務を課している(99条)。憲法で権力の暴走を防ぎ国民の権利を保障する、立憲主義という歴史的叡智である。この点を踏まえるならば、憲法を改正するにあたって、何よりも国民一人ひとりが主体的に考え論ずるという動きが不可欠なはずである。ところが出されている法案は、このような国民の動きをむしろ封じ込めようとしている。たとえば、教員の国民投票運動は禁止される。憲法学の教員が日本国憲法の価値を語ることが違法となるなど、信じ難い規定である。「組織的多数人買収及び利害誘導罪」なる規定もあり、憲法をめぐる市民グループの運動が監視の対象になりうる。その一方で、高額の支出を要するテレビCMなどメディア利用は、野放しといってよい。
 どうやら、国民を憲法改正の「客体」にしたい、国民に憲法について学んだり論じたりして欲しくない、国民はメディアから情報を得てくれさえすればよい、これが法案の本音であろう。暴走する権力が、自らの手でその拘束規範たる憲法を、国民を「起こさない」で変えようとしている。この動き、あまりにも危険すぎる。


<主張 2007年4月16日>

憲法改正手続法案の参議院での慎重な審議を求める(アピール)

 憲法改正手続法案が、4月13日に与党のみの賛成で衆議院本会議を通過しました。最高法である憲法を改正する手続きすら広範な合意を得ることができない、このことは現在この国の民主主義が危機に瀕していることを如実に示すものといえます。
 私たちは、この法案に大きく二つの問題があると考えます。第一に、法案は中立的な手続を定めたものではなく、改憲のハードルを低く設定しています。それは、改憲を推進する勢力が手続法の制定を主導した帰結です。たとえば、法案には最低投票率の定めがなく、国民投票における「過半数」も実質上、有効投票の「過半数」になっています。現に機能している憲法を改正するのであれば、少なくとも積極的に改正すべきとする国民が過半数を占めるべきではないでしょうか。
 第二に、一人ひとりの国民が国民投票運動の主体に位置づけられていないことです。いうまでもなく憲法とは、国民が権力を縛るための法です。だとすると、憲法改正にあたっては、国民こそがその主体として行動しなければならないはずです。しかしながら法案は、国民投票運動期間を60日から180日と短く設定したうえ、公務員や教員の国民投票運動を規制し、さらには「組織的多数人買収及び利害誘導罪」なる規定で市民グループの運動を監視の対象とするなど、国民の主体的な運動を封じ込めるものになっています。その一方で、多額の資金を要するメディア利用はほとんど野放しのため、資金力によって情報提供量に偏りが出るのみならず、国民がメディア情報の単なる受け手となる可能性も否定できません。いずれにしろ、国民が憲法について、最も学び論じなければならないときに、そうさせないようにする法案といえるでしょう。
 衆議院の公聴会でも、多くの反対論や慎重論が出されました。そのような議論も踏まえ、参議院では誰もが納得できる手続法に向け、白紙にもどすことも含めて慎重な審議がなされるよう強く求めます。私たち「九条の会・室蘭工大」では、引きつづきこの法案への反対の声をあげていくとともに、この法案の抱えている問題を広く市民に訴えていくことを決意し、ここにアピールとします。

2007年4月16日
九条の会・室蘭工大


<寄稿 2006年12月16日>

諦めず、日本国憲法を掲げたい

 教育基本法が「改正」された。「改正」案の中身、そして「改正」に向けての議論のあり方、その両面を批判してきた私としては、やりきれない思いである。「改正」直後のメディア報道の大きな扱いを目にし、審議過程の扱いとの違いに憤りすら感じる。だが、へこたれるわけにはいかない。
 この問題に限らず、「やらせ質問」への対応や自民党「造反」議員復党問題等々、いま政治は乱れていないか。そうだとすると、その大きな要因は、昨年の「郵政選挙」で国民が与党にあれだけの数を与えたことだろう。与党は、数の力に奢り丁寧さを欠いている。この事実を、しかと確認しておかなければならない。
 教育基本法は「改正」された。しかし、この国の最高法規は日本国憲法である。憲法は、国民が平和で自由に生活できるよう、政府に命じているのである。現実は、格差の拡大など、暮らしにくい社会へと向かっている。だからこそ、この憲法を掲げつづけるのだと、国民がはっきりさせることが肝要である。そうすることで、将来、教育基本法を蘇らせることを含め、展望が開けるはずである。日本国憲法を掲げる力をもう少し強めていきたい。

(奥野恒久・室蘭工業大学助教授・憲法学)


<主張 2006年12月14日>

教育基本法の「改正」について、誰もが納得のいく徹底審議を求める(アピール)

 「教育の憲法」と謳われ、教育の根本を定めている教育基本法が、今日・明日にも「改正」されようとしています。それは、教育のあり方を「根こそぎ」変えてしまおうというものであり、国民一人ひとりにかかわる「大変な事態」です。ところが、多くの国民がこの事態を理解し、受け容れているとは到底思われません。この問題を争点とする国政選挙すら行われていないのです。そればかりか、政府がタウンミーティングでの「やらせ質問」や「さくら発言」を行ってきたことは、政府自身の調査で明らかになったのです。「改正」は政府が「仕組んで」進めていることであって、国民の声でないことは、明瞭です。
 そもそも、なぜ、いま、教育基本法を変えなければならないのでしょうか。教育基本法は、前文と11条からなる短い法律です。そのなかで、教育を通じて一人ひとりを成長させ、平和な社会をつくろうとの理想を掲げているのです。悲惨な戦争を導いた、戦前の国家主導の教育を改め、教育に国家が介入することを戒めています。教師に、自律性に基づいて主体的に生徒と向き合わせようとしているのです。
 ところが、改定案では「国を担う国民を育てる」ことを教育の目的だとし、教育を通じて「国を愛させよう」とまでするのです。また、教育内容も含め、国家主導で教育を行うというのです。管理と競争が一層強化されるでしょう。これは、改憲の動きとも通じ、「戦争を批判しない」「戦争を担う」国民を育てようというのです。
 私たち「九条の会・室蘭工大」は、真理の探究を志す大学に集う者として、平和が脅かされることに黙ってはいられないと、結成されました。教育基本法の「改正」は、まさに平和への危機です。また、研究や教育は、管理と競争ではなく、自由な環境のなかでなされなければならないと考えます。
 そこで改めて、教育基本法問題については、国民の理解と議論を前提に誰もが納得のいくよう、徹底審議を尽くすよう国会に求め、私たちの訴えとします。

2006年12月14日
九条の会・室蘭工大


<寄稿 2006年11月19日>

今、この国の民主主義は機能していない
〜教育の根本を軽視した、教育基本法「改正」案の強行採決に思う〜

 民主主義とは、ただ多数決でものごとを決めることではないはずである。もしそうだとすると、政治的・社会的少数者は常にうかばれない。彼らの思いが政治の場でくみ取られることが全くないならば、彼らは政治的無関心となるか、それでも自らの思いが強ければ、私は肯定しないが、テロをも含む民主主義とは異なったルートで、自らの思いを貫徹することになるであろう。少数者にとってはいうまでもないが、社会全体にとって不幸である。
 この不幸を克服する術はないのだろうか。まず考えられることで、日本国憲法も採用しているのが、裁判所による少数者の人権保障、いわゆる違憲審査制である。仮に政治の場で敗れたとしても、敗れた少数者の人権が侵されるならば、裁判所は多数派に抗して少数者を守る、すなわち人権を侵害する多数派によってつくられた法律を違憲・無効とするのである。この術はたしかに重要であり、裁判所にはそれだけの働きが期待されているのだが、それでもこの術は、最終にして最低のラインを守るに過ぎない。なぜならそれで少数者への人権侵害は防げたとしても、少数者の声が政治の場に反映されるわけではないからである。そこで改めて民主主義のあり方が問われることになる。
 社会において決められるべきことは、それこそ忘年会の日程から生殖医療のあり方まで多様であり、そのことがらに応じた「決められ方」が採られなければならない。この「決められ方」が適切、すなわち誰もが納得のいくものであれば、少数者も含め社会全体の不幸は最小限に抑えられるはずである。そして、最も慎重に扱われなければならないのが、個人の価値や個人の内面にかかわる問題であり、憲法学の中には、このような問題はそもそも民主主義の領域で扱うべきでない、という主張まである。
 そのようななか、最近の憲法学や政治学が注目しているのが、熟慮・討議型民主主義(deliberative democracy)という民主主義モデルである。そこでは、ものごとを決めるにあたって参加者は、自らの立場を正当化する理由を示し、それをもとに対立する者同士が互いの立場を尊重しつつ十分な討議をしなければならない、とされる。このような手続きを経ることで、少なくとも討議をするという点での協調関係は維持され、社会的「亀裂」を回避するのである。これも、先に述べた不幸を克服するための一つの術で、慎重さを要する問題には有用であろう。
 さて、教育基本法「改正」問題である。いうまでもなく、この法律は教育の根本理念を定めたものであるから、それが変わるということは、その下位法令にはじまり、学校・家庭・地域など教育にかかわるありとあらゆることが変わるということである。「大変なこと」である。だが、国民の間で「大変なこと」を受け止めるだけの議論や覚悟はあっただろうか。「改正」をめぐる論点は十分自覚されているのであろうか。たとえば教育の重点が、一人ひとりの「人格の完成」から、国や社会の形成者としての資質を養うことに移ることになるが、国民は納得しているのだろうか。あるいは、教育は国家が主導すべきなのか、国家は教育の条件整備にとどまるべきなのか、戦前の歴史も踏まえて論じられるべき点である。また「改正」案は、「国を愛する態度」という個人の価値にかかわることがらを掲げており、その点でもこの問題は、最も慎重に扱われなければならない。
 ところが、政府はタウン・ミーティングでの「やらせ質問」で世論を誘導し、衆議院では野党欠席のなかでの強行採決である。「決められ方」自体、誰も納得できないものである。「国会で十分な審議時間をかけた」と与党議員は言うが、要は時間ではない。どれだけ野党や国民を説得する努力をし、反対派の理解が得られたかである。私には、与党は「なりふり構わず、力ずく」でことを進めたとしか見えない。これでは、教育をめぐって社会的「亀裂」さえ生じかねない。そのときは、またしても力で抑え込もうというのであろうか。
 この国のこれからの教育に不安を覚えるのみならず、民主的な社会が維持できるのか、力で統制される社会になりはしないか、との不安を覚える。このような不安を払拭するためにも、一からの出直しを含め、根本的な議論のやり直しを国会に求めたい。もちろん、国民の主体的な議論がその前提である。

(奥野恒久・室蘭工業大学助教授・憲法学)


<活動 2006年11月3日>

意見広告運動
北海道新聞胆振版
2006年11月3日朝刊


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<報道 2006年10月16日>

「草の根活動が本格化」
室蘭民報 2006年10月16日 朝刊(室蘭民報社)


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<寄稿 2006年9月28日>

日本の民主主義のあり方を問いかけた、
国旗国歌訴訟・東京地裁判決

 テレビを見ていて、不快と感じる意見を耳にすることは、しばしばある。多様な意見が存在してこそ民主主義であるから、反論・批判をすることがあっても、「不快だから取り締まれ」とは、民主主義を尊重する限り、言えないはずである。ところが昨今の日本社会では、多数派とりわけ体制側にとっての不快な言論は、弾圧される傾向にある。「立川テント村事件」で東京高裁は、この傾向にお墨付きまで与えてしまった(2005年12月9日)。
 入学・卒業式で国旗掲揚と国歌斉唱を強制した都教委に対し、東京都の教職員らが起こした訴訟で、東京地方裁判所は、強制は思想・良心の自由(憲法19条)の侵害であり、都教委の通達や指導は、行政の教育への不当介入の排除を求めた教育基本法に反する、と明確に判示した(2006年9月21日)。日の丸・君が代問題にとどまらず、教育基本法改定問題、さらには安倍新内閣にもインパクトを与えるであろう。安倍晋三氏は、著書『美しい国へ』の中で、「国旗が掲揚され、国歌が流れると、ごく自然に荘重な気持ちになるものだ」と決め付ける一方で、日の丸・君が代を不快に思う人の「その不愉快さには、全く根拠がない」と切り捨てる(83頁)。安倍氏の歴史認識とともに、異なる立場とどう接するかという、民主主義観が問われなければならない。
 東京地裁判決は明快である。「日の丸、君が代は明治時代以降、第二次世界大戦終了まで、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことがあるのは否定しがたい事実」だとし、そして「異なる主義、主張を持つ者に対しある種の不快感を与えることがあるとしても、憲法は相反する主張を持つものに対しても相互の理解を求めて」いると述べる。「抑圧政治に対する警鐘」と、私はこの判決を見る。

(奥野恒久・室蘭工業大学助教授・憲法学)


<活動 2006年9月22〜25日>

沖縄平和ツアー

初めて沖縄の地を踏んだ人もいました。『初めての沖縄が、このツアーで幸せでした』『沖縄の苦悩や、平和の尊さを最初に学べて良かった』の声があふれたツアーでした。第二弾乞うご期待!(編集部強願望)

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<資料 2006年2月1日>

もう、日本国憲法は「お役御免」なのでしょうか?
憲法を守る地域ネット/作成 室蘭工業大学憲法研究会


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