あゝ野麦峠

野麦峠(平成15年10月25日撮影:遠く乗鞍岳望む)
旧野麦街道(峠付近)
 飛騨と信州に跨る『野麦峠』は冬の間、人の往来を妨げ、人をまったく寄せ付けない最大の難所となっています。 「野麦」とは、この地方独特の呼び名で飢饉の時に不思議と花が咲き、実が成ったという(熊)笹のことです。 この野麦街道は、飛騨の高山から野麦峠を越えて、寄合渡(よりあいど)から、境峠を通り木曽の藪原に出たものですが、江戸時代中期には黒川渡(くろかわど)から入山峠を経て、梓川沿いに松本に至る道が開かれ、これも野麦街道と呼ばれるようになったと云われています。 江戸時代には、天領飛騨国代官所所在地であった高山と江戸を結ぶ幹線道路として公用に使われ、尾張藩からは「尾州岡船」の鑑札を受けた牛方等により、信濃から飛騨へ米・清酒などが、飛騨からは信濃の中南信地方の歳とり魚としての鰤(ぶり)等海産物や曲物(まげもの)などが運ばれた道でした。 明治4年(1871年)の廃藩置県では、飛騨国は筑摩(ちくま)県に編入され、県庁(松本市所在)と支庁(高山市)とを結ぶ連絡路として、また岡谷・諏訪と方の製糸業の盛んな頃は工女の往来する道となったのです。 このように、飛騨国と信濃国を結ぶ公用道路として、また文化や物資などが交流した道としても重要な街道だったようです。

 時は、明治36年2月、飛騨から野麦峠を越えて信州諏訪へ向かう百名以上もの少女達の集団がありました。 毎年、飛騨の寒村の少女達はわずかな契約金で長野県は岡谷の製糸工場(キカヤ)へ赴く。 岐阜県吉城郡河合村角川で生まれた「政井みね」、はな、きく、ときも新工(シンコ)として山安足立組で働くことになっていたです。 途中、ゆきという父無し子の無口な少女も一行に加わっり、明治日本の富国強兵のための外貨獲得はこのような工女のか細い手に委ねられていたと云います。 当時の日本と云えば、明治維新以後、富国強兵策の基で、外貨を稼いで軍備増強の元手を担ったのは「生糸」でした。 農家の養蚕によって作る繭を原料に、10代、20代のうら若き製糸工女の手によって、紡がれていたのです。 製糸業の中心は、長野県や群馬県でしたが、とりわけ信州諏訪地方に集中していたのです。
 工女達は周辺農村部から集められ、粗末な寄宿舎に寝起きし、ろくに休みもなく1日12時間以上の過酷な労働に従事していたと云います。 「政井みね」も河合村角川から口減らしのために出稼ぎに出たのです。 初めて糸引きに出る子は「シンコ」と呼ばれ、小学校四年を終えたばかりの11〜12歳。 雪が残る2月には、赤い腰巻きにワラジばき、背中に風呂敷包みを背負って、製糸工場のある長野県の岡谷に向かったのです。
 
 その様子は、細井和喜蔵の『女工哀史』や山本茂実の『あゝ野麦峠』などの著作で多くの人々に感動を渦を巻き起こしました。 特に山本茂実の『あゝ野麦峠』は山本薩夫監督によって、1979年(昭和54年)に映画化され、大きな反響を呼びました。
 また、続編『あゝ野麦峠 新緑篇』も、1982年(昭和57年)に同じく山本薩夫監督によって映画化されています。 この『あゝ野麦峠』は、昭和43年(1968年)、朝日新聞から出版された山本茂実著のルポルタ−ジュです。
野麦峠を目指す工女達
 明治から大正にかけて、飛騨地方の貧農の娘達は、まず、飛騨古川や高山の町に集まり、工場毎の集団になって、美女峠を越え、寺附(朝日村)又は中之宿(高根村)で1泊。 その後、難所の野麦峠(標高1672m)を越えて信州に入り、奈川村のどこかの集落の宿に泊まり、奈川渡を経て、島々(安曇村)又は波田(波田町)に泊まって、塩尻峠を越えて諏訪地方に入ったと云います。
 約3泊4日の行程であったこの旅は、1934年(昭和9年)に国鉄高山線が開通するまで続いたようです。
 
 話しは横道に反れました、再び「政井みね」の話しに戻します。
三年後「政井みね」は、一人前の工女になっていた。 取り出す糸は、細く一定で光沢がなければ輸出用にはならず、毎日の検査で外国向けにならない糸を出したものは、みんなの前で検番から罵倒され、一定基準に合格しない場合は当人の給金から罰金が差引かれたと云います。 「とき」と「はな」は劣等組、「みね」と「ゆき」は、社長の藤吉から一目おかれるほどの優等工女で、跡取り息子の春夫もそんな二人に関心を抱いていたのです。 大日本蚕糸会の総裁伏見宮殿下一行が足立組を訪れた日、劣等工女の「とき」が自殺。 やがて正月がやってくると各工女達は、一年間の給金を懐に家に帰るが、「ゆき」には帰る家がなかったのです。 一人ぼっちの正月の寂しさと、「みね」をライバル意識していたことから、「ゆき」は春夫に身を任せるのでした。
 ある日、金庫の金が紛失し、帳付けの新吉は藤吉に嫌疑をかけられます。 新吉を慕う「きく」は見番頭に相談するが、小屋に連れ込まれて手籠めにされ、自暴自棄になった彼女は小屋に火を付け、新吉と共に天竜川に身を沈めてしまったのです。 旧盆で工場が休みになると、工女達は束の間の解放感に浸り、幾つかのロマンスが生まれました。 「はな」は、検番代理にまで昇格した工女達の唯一の理解者、音松とこの夜結ばれました。 「ゆき」は春夫の子を宿していましたが、春夫には許婚者がおり、彼女は妾になるのを嫌い、春夫から去って、一人子供を育てようと野麦峠を彷徨っているうちに流産してしまいます。

 明治41年にはアメリカに不況が訪れ、この岡谷にもその不況が押し寄せ、生糸の輸出は止まってしまいました。 倒産から逃れるには、国内向けの生糸を多く生産しなければならず、労働条件は日増しに悪化。 そんな中、「みね」は肺結核で倒れました。 こうなれば、病気の工女は使いものにならず藤吉は、「みね」を家族の元に帰すべく電報を打ったのです。
 「ミネビョウキスグヒキトレ」の電報の知らせを受けた兄の辰次郎は夜を徹してキカヤに駆けつけたのです。
 そして、辰次郎は物置小屋に放り出されて衰弱しきった「みね」を背板に乗せ、工場の裏門から出た。 「みね」の病名は腹膜炎で重体。 幾日も兄の背にうずくまって峠の茶屋に辿り着いた。 この時の野麦峠は燃えるような美しい紅葉で覆われていたと云います。 「みね」の前で、涙で霞む故郷が広がっていた。 「あ〜、飛騨が見える、飛騨が見える」と呟(つぶや)くように言ったきり、その場に力なく崩れた。 それは「百円工女」と云われた模範工女の最期だったのです。
 時に、明治42年11月20日午後2時、「政井みね」享年22歳のことでした。
「政井みね」と「政井辰次郎」の石像
 山本薩夫監督の映画『あゝ野麦峠』では、「政井みね」を大竹しのぶ、「政井辰次郎」を地井武男、そして野麦峠の「お助け茶屋の老婆」には北林谷栄が好演して感動の渦を巻き起こしたましたが、『あゝ野麦峠』著の山本茂実氏は、大正6年(1917年)長野県松本市生まれ、早稲田大学文学部卒業。 若者向け雑誌「葦」を創刊。
 編集長を勤めながら『あゝ野麦峠』の他『喜作新道』『高山祭』など庶民の歴史を数多く描いています。 しかし、平成10年(1998年)81歳で没。
政井みね
 山本茂実氏の『あゝ野麦峠』は、この峠を越えた飛騨の糸引きたちの証言を基に、明治時代を写した「記録文学」と云われています。
 乗鞍岳を望む北斜面の峠道は、堅い氷が刃をむく。 飛騨に戻る12月は4〜5mもの雪で埋まると云われ、吹雪の中を紐で体を繋(つな)ぎ、念仏を唱えながら一列で歩く。 雪と氷の峠を越える百数十q、文字通りの命がけの道程だったと云われています。
 その「野麦峠」は、標高1627mの北アルプス有数の峠で、現在も冬場は深い雪に沈みます。

 ここで、若干その峠の様子を更に山本茂実氏の『あゝ野麦峠』の原作を引用して紹介します。
『しかし雪道の前進はなかなかはかどらなかった。 いくら川浦の男衆でも腰まである前夜からの積雪を足でけちらして進むのでは、そうはかどるはずはなかった。 そうかといって行列の先頭に足の弱い者を立てるわけにはいかない。 先頭は元気の者が選ばれて、川浦衆と一緒に工女は雪を踏み、第一番に行く人の足跡を第二番手がまた踏み、その上をさらに元気な工女たちが続く。 こうして三百人、五百人と踏んではじめてそこに道ができる。 吹雪がひときわ激しくタイマツを襲って、幾つかを吹き消して通り過ぎた。 もうだれも一言も発する者はなかった。 吹雪はタイマツと共に工女衆の歌声も吹き消してしまったのである。 ビュ−ッ、ビュ−ッと、鋭い刃のように吹雪が梢を通り過ぎる音が聞こえるだけだった。………』
復元:川浦工女宿(野麦峠から信州側に下った在所に設置)
受難女工慰霊碑
 この雪深い野麦峠を越えたて行った工女達が働く場所も過酷なものでした。 親と雇い主の間で交わされた証文を盾に、一日16時間も働くことを強いられ、病死、自殺に追いやられた工女も少なくなかったと云われていますが、八ケ岳に初雪を見る頃になると工女達は元気になる。 それは、暮れの帰る日が近づいて来たからです。 現在、峠の道は、県道が開通して歴史街道になっており、頂上には「お助け小屋」が復元されています。 峠道を歩くと地蔵菩薩に出会うことが出来、ここを通った工女達が何度も手を合わせたに違いありません。 更に、峠の頂上には「政井みねの供養碑」が建てられており、その供養碑から飛騨側に少し下って行くと飛騨の山々が重なって見えます。
 また山峡に光る屋根・屋根は野麦の集落で、ふるさと飛騨との別れと再会の場でもあったのでしょうか。 この山頂からは遠く乗鞍岳の他、木曽の御岳山が見えると云われています。
 復元された「お助け小屋」は、現在観光客向けの宿泊施設になっています。
 訪れた平成15年10月25日は、2名の宿泊者が居られました。 宿泊料は1泊2日食事付きで8,000円とのこと。
 その昔、飛騨から信州へ、信州から飛騨へ、野麦峠を越えて行った多くの女工達もこの女工宿に宿泊したに違いない、また、その時の女工哀史に思いを馳せながら、「野麦峠」を跡にして、木曽福島から中津川IC経由/中央自動車道で帰途に着いた次第です。
復元:お助け小屋


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