落日燃ゆる衣川

平成16年7月15日の岩手県
西磐井(いわい)郡平泉町の中
尊寺は、初夏の様相を帯びて
はいたものの流石に東北らし
い気象状況は関西人にとって
実に過ごし易い1日でした。 こ
の平泉中尊寺は、天台宗東北
大本山で、「前九年の役」と「後
三年の役」以来の敵・味方の
霊を弔(とむら)う為、1105年
(長治2年)藤原清衡(初代)が
建立した寺院です。
平泉中尊寺(国宝・金色堂)平成16年7月15日撮影
 堂宇は、1125年(天治2年)頃に粗(ほぼ)完成したと云い、藤原基衡(二代)、秀衡(三代)によって更に造営が続けられ、堂塔40余宇、僧坊300余宇の大寺院になったと云われています。 この金色堂(覆堂)の中央の須弥壇には、藤原清衡(初代)の遺骸、向かって左の壇には、基衡(二代)、右の壇には秀衡(三代)の遺骸(ミイラ化)が安置されており、秀衡の遺骸の傍らには、子泰衡の首級が納められています。

 さて、平泉中尊寺の須弥壇に安置されている藤原秀衡(三代)と源義経の関係は、余りにも有名です。 源義経は平治元年(1159年)、源義朝と常盤御前との間に、義朝の九男として誕生。 幼名は牛若(丸)と云い、父源義朝が平清盛との平治の乱で敗れた後、東国に逃れる途中、尾張で譜代の家来に謀殺されます。 牛若も源氏の宿敵・平清盛に命を狙われ、母常盤御前と共に諸国転々と身を隠したと云われます。 その後、東大寺や鞍馬山別当東光坊等に預けられます。 牛若16歳にして、正門坊と名乗る僧から自分の父親が源氏の大将源義朝の子であること、牛若の異母兄弟である兄源頼朝が伊豆に配流されていること、更には源氏代々の武功勇武等を熱烈に聞かされ、これを境に己の素性を知って、平家討伐を決意します。 そして、夜には寺を抜け出し、貴船神社に「源氏を守らせ給へ。宿願まこと成就あらば、玉の御寶殿をつくり千町の所領を寄進し奉らん」と祈願したと云います。 その後(あと)、牛若は一層剣術を磨き、神業とも思える武芸を身に付け、名を「遮那王(しゃなおう)」と改名。 その折、黄金商・「吉次信高」なる人物の仲介に依り、奥州藤原秀衡を知り、藤原氏と運命的な出会いを決定付けました。

 時は、嘉応2年(1170年)「天下乗合事件」をきっかけに平家打倒の声が各地に起こり、治承4年(1180年)4月、後白河天皇第二皇子「以仁王(もちひとおう)」の令旨(皇太子の命令を伝える公文書)を受け、平氏追討の旗揚げ・挙兵。 木曾義仲は信州から、兄頼朝は鎌倉から、これと呼応するように義経も平泉から出陣。 そして、義経は兄頼朝と駿河国(静岡県)黄瀬川で劇的な対面を果たします。 義経は兄弟の対面を、「共に涙にむせび給う。互に心のゆく程泣きて・・・」と心情を「義経記」に記しています。 平氏はその後、一の谷の合戦、屋島の合戦で相次いで義経率いる源氏軍に敗れ、終に元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の合戦で敗れ、茲(ここ)に平氏は滅亡。
この軍勢の中には武蔵坊弁慶、伊勢三郎義盛、佐藤継信・忠信兄弟の姿があったと云われています。 そして、遂に平清盛も養和元年(1181年)2月、熱病に倒れ、64歳にしてその一生涯を終えたのです。 この平氏滅亡は義経の功績に依るものが大でしたが、義経の運命は大きく傾き始めました。 義経は前年、後白河天皇から「検非違使尉」に任じられたことから、兄頼朝の推挙を受けていなかったことを理由に、頼朝の激怒を買うことに。
つまり義経の華々しい活躍と功績に、異母兄弟の兄頼朝の異常なまでの冴疑心・嫉妬心が決定的となり頼朝と義経の溝が大きく深まり、更に梶原景時の讒言から都を追われます。

 義経主従一行(愛妾:静御前、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、佐藤忠信、伊勢三郎義盛ら10数名)は吉野山(奈良県吉野郡吉野町)に逃れて行きます。 茲で断腸の想いで静御前と別れていますが、その後、静御前は捕らえられ鎌倉に送られる静御前の過酷な運命を知る由もなく一旦京に舞い戻ったものの、もはや身を置く場所もなく、以前世話になった藤原秀衡を頼って奥州平泉に落ち延びて行くしかなかったのです。

 一行は弁慶の諫言もあり山伏姿に身をやつし、「羽黒山(山形県)から熊野三社(和歌山県)へ参詣し、下向する」という触れ込みで一路、奥州を目指して落ち延びて行くのです。
義経の出で立ちは、垢(あか)づいた白小袖2枚に矢筈(やはず)、模様の白地の帷子(かたびら)、葛(くず)で編んだ大口袴(おおぐちはかま)、群千鳥(むらちどり)模様を摺(す)りだした柿色の衣、古びた頭巾(ずきん)を目深にかぶった姿であったと云います。 そして、奥州を目指す行程は、京から大津、琵琶湖の海津大崎(滋賀県)、愛發山(あいちさん)(福井県敦賀市)、平泉寺(福井県)を経て、有名な「安宅の関」(石川県小松市)へ。 この間、北の方(正妻)と稚児も姿を変えて連れて行っています。 しかし、行く先々で義経主従一行ではないかと度々疑われ、弁慶の機転で正に薄氷を踏む思いで敵中突破を果たして行きます。 特に有名な「安宅の関」では、武蔵坊弁慶が生死を掛けて、偽の勧進帳を読み上げ、主君義経を容赦なく投げつけ・打ち付ける等の迫真の演技をやってのけ、最大の危機を乗り越えています。 武蔵坊弁慶は、如意の渡し(富山県高岡市・新湊市)を越え、「奈呉(なご)の浦」(富山県新港市)では、義経の袖に縋(すが)って危機を脱出したとはいえ、主君を無惨に打ち付けた非を詫びて涙を流したと云われますが、義経もまた、「斯程(かほど)まで果報(かほう)拙(つたな)き義経に、斯様(かよう)に心ざし深き面々の、行く末までも如何(いかが)と思えば、涙の零(こぼ)るるぞ」と答え、衣の袖を濡らしたと伝えられています。

 そして、直江津(新潟県)から一旦佐渡島に渡り、更に寺泊(新潟県)に戻って来て、海沿いに北上。 鼠ヶ関(山形県)、清川(山形県)からは船で最上川を上り、名勝「白糸の滝」を見ながら、栗原(宮城県)、平泉(岩手県)へと無事に落ち延びたのが文治3年(1187年)も漸く暮れようとした2月頃だったと云われています。
 一行は、手配られた追手方をどうにか振り切り苦心惨澹(くしんさんたん)の末、平泉に到着。 この時、主従を纏う山伏の装束は風雨に痛みぼろぼろになっていたと云われます。
平泉中尊寺から見た衣川(北上川)方面
源義経・屋敷跡(平成16年7月15日撮影)
 藤原秀衡は牛若丸を庇護(ひご)した時と同じように、自分を頼って来た義経主従を庇護するよう決意し、大いに歓迎したのです。 そして、義経を大将に戴き、頼朝と一戦を交える覚悟があることを諷(ふ)したのです。 これに対して、頼朝は秀衡に対し脅し文句を綴った書簡で圧力をかけるため、二つの要求を突き付けます。 一つは、かつて平清盛に依って奥州に配流された院の近臣を鎌倉に帰すこと、もう一つは東大寺大仏の鍍金(ときん)のため3万両を納めよ、というものでした。 しかし、秀衡はこの要求に対して公然と無視し続けたのです。
 そして、秀衡は頼朝の脅しに動じることなく義経をかくまい続けたと云います。

しかし、義経にとって運命を大きく揺さぶる事態が発生しました。 都落ちから1年も経たない文治3年(1187年)10月29日、義経を強力に支援して来た藤原秀衡が病に倒れ、急逝。
 義経は、秀衡の死に直面し、予期せぬ事態に絶望し、慟哭したと云います。 この様子は「義経記」に、「同じ道にと悲しみ給へども、空しき野辺にただひとり、送り捨ててぞ帰り給ふ」と述べていることからも伺い知ることが出来ます。

 藤原秀衡の死は、奥州防衛上最大の危機が藤原一族に迫まりました。 秀衡と頼朝の確執があったこと、また一族に秀衡程の統治能力をもった子弟がいないことから、義経と藤原一族を襲う環境が整ったということです。 これを見越すかのように秀衡は、兄弟力を合わせて難局を凌ぐように遺言して果てましたが、その願いとは逆に義経の扱いを巡って兄弟間で対立が生じ、藤原一族の結束は一気に弱体化したのです。
 頼朝は、この機を逃さず一気に揺さぶりをかけます。 秀衡生前中も、義経の処遇を巡り院宣(上皇・法皇の命令を伝える公文書)が下される等の圧力があったと云われていますが、秀衡の死後文治4年には、その動きが一気に慌(あわただ)しさが増しました。
 文治4年(1188年)2月21日、藤原基成と泰衡に対して義経追討の宣旨(天皇の命令を伝える公文書)が、2月26日には同院宣(上皇・法皇の命令を伝える公文書)が下されました。
 10月12日、藤原基成と泰衡に対して、重ねて頼朝から義経追討の命令が出され、これに応じなければ共に藤原一族を追討すると報知したのです。 また、11月には陸奥・出羽国司らに対しても、藤原基成と泰衡を管理・監督し、義経を討伐せよとの院宣を発出させます。
文治5年(1189年)3月22日、業を煮やした頼朝は藤原泰衡追討の裁可を朝廷に奏上。
 いよいよ絶対絶命に追い込まれた藤原泰衡は、鎌倉の度重なる圧力に屈し、約1ヵ月後の4月30日の朝、父の遺命に背いて家来の長崎太郎を大将に500騎の軍勢で義経の衣川の館、高館(たかだて)を襲ったのです。
義経旧屋敷の供養碑(平成16年7月15日撮影)

 吾妻鏡に依ると、義経は「衣川館」に滞在していたところを襲われた。 今は「判官館」とも呼ばれるこの地は、「衣川館」だったのでしょうか。 この高台には、天和3年(1683年)伊達綱村が建立した義経堂があり、甲冑姿の義経の像が祀られています。

 不意を突かれた義経主従は、兼房と喜三太は屋敷の上に駆け上がり、引き戸の格子を小楯にして弓矢を次々に射て放ち、また屋敷の大手門には武蔵坊弁慶、片岡八郎、鈴木三郎等八人の面々が立ち塞がったと云われます。
しかし、多勢無勢彼らは壮絶に戦っては切り込まれて自刃して果てたのです。
この中にあって、弁慶は喉笛を打ち裂かれて全身を赤く染めながらも、威風堂々の戦いを見せていたのです。 弁慶が持仏堂に入ると、義経は静かにお経を唱えていたと云います。

 弁慶は「君の御目に今一度かかり候はんずる為に参りて候。君御先立ち給ひ候はば、死出の山にて御待ち候へ。弁慶先立ち参らせ候はば、三途の河にて待ち参らせん」と語り、それに対して、義経は「今は力及ばず、假令我先立ちたりとも、死出の山にて待つべし、先立ちたらば誠に三途に河にて待ち候へ。御経も今少しなり、読み果つる程は死したりとも、我を守護せよ」と応えています。

 弁慶は、義経に最期の別れを告げ、義経の目には咽(むせ)び泣く弁慶の姿が映ったことでしょう。 弁慶は、「六道のみちの巷に待てよ君おくれ先だつならひありとも」の歌を詠み、死後に再び会う約束を交わすと、義経も「後の世もまた後の世もめぐりあへそむ紫の雲の上まで」と返歌して、慟哭したと云われます。 
 義経の手勢は、弁慶、兼房、喜三太の三人になった。 
弁慶は、血に染まれながらも最後の力を振り絞って懸命に長太刀を振るったと云う。
 その姿は、人馬の区別なく、狂ったように手当たり次第に長太刀を斬り付け、戦場に血の雨を降らせたのです。 弁慶もまた、受けた矢は数知れず、全身が矢だらけになりながらも縦横無尽の働きを見せたと云われています。
弁慶の墓(平成16年7月15日撮影)
 弁慶は、この時に一度大きく長太刀を振って敵を打ち払い、長太刀を逆さに突き立て、仁王立ちになったと伝えられている。 弁慶の動きが止まった。 正に仁王の如き姿になって笑ったかと思うと微動だにしなかった。 弁慶は立往生しながら絶命した。 これが後の世に言う「弁慶の立往生」だったのです。 弁慶の大往生は「死んでも殿の自害を守る」という最期の奉公だったのでしょうか。 義経主従で最後まで残ったのは兼房一人になった。

 義経は、持仏堂で読経を終えると、一人残った兼房に自害の時を告げた。
義経は、守刀を取り出すと、身体深く刀を突き刺した。 左の乳の下から背中にまで刀を突き立てて、疵口(きずぐち)を三方へ掻(か)き破り、腸(はらわた)をえぐり出し、刀の血糊(ちのり)を衣の袖で払い清め、脇息(きょうそく)にもたれかかった。 更に、義経は兼房に命じ、兼房は北の方(義経の正妻)の右脇に刃をあてた。 また、続いて義経の幼児にも刃をあてた。
 茲に、偉大な巨星・義経の最期は落ちたのでした。 時に、義経31歳。

 1180年、義経挙兵から僅か9年後の劇的な最期は、余りにも波乱万丈の人生と思えてなりません。 平成16年7月15日、武蔵坊弁慶大墓の前に佇(たたず)むと自然と芭蕉の句「夏草や 兵どもが 夢の跡」が思い出されました。

 武蔵坊弁慶大墓碑の建立の由来には、「文治5年(1189年)義経の居城高館焼き討ちされるや、弁慶は最後まで主君を守り、遂に衣川にて立往生す。遺骸はこの地に葬り五輪塔を建て、後世中尊寺の僧・素鳥の詠んだ石碑が建てられた。 『色かえぬ 松のあるじや 武蔵坊』」と。
 この武蔵坊弁慶の大墓は、義経の高館跡と称される屋敷跡の中に佇んでました。


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