坊ちゃん

夏目漱石は、慶応3年(1867)東京牛込馬場下横町に生まれ、本名は金之助。 東京帝国大学卒業後、明治28年松山中学の英語教師として四国松山に赴任。 これが後の「坊ちゃん」の舞台となりました。明治33年から36年まで文部省の留学生として英国に渡り、その後は帝大英文科の講義に力を注いでいます。 明治40年には、東京朝日新聞社からの招きを受け、教官の職を捨て新聞小説「虞美人草」を書いて大評判を博し、初期3部作と言われる「三四朗」「それから」「門」を書き上げています。その「門」を書き上げた明治43年の夏、胃潰瘍となり、静養のために訪れた伊豆の修善寺温泉で血を吐き、意識不明に。
夏目漱石
懸命の看護の末、一命は取り止め、生死を超える体験によって、人生観は揺れてていったと云います。 小説「こころ」で明治と共に生まれ育った「先生」を人間の罪と重ね葬った漱石は、己の過去を暴いて克服するかのように「道草」を書き上げ、その後、胃潰瘍悪化のため「明暗」は未完のまま1916年(大正5年)12月9日、49歳の生涯を終えました。
 小説『坊ちゃん』では、単純、率直、江戸っ子の坊ちゃんが、四国の中学の数学教師に。 坊ちゃんの奔放な言動は生徒や教師たちの間に様々な事件を巻き起こします。 そして、周囲の愚劣、無気力、悪知恵に反発し、先輩教師とともに、教頭に鉄拳制裁を加え、教職を投げうって東京に帰るという反俗精神に満ちた名作が数多くの読書ファンを引き付けました。
坊ちゃん列車
坊ちゃん・マドンナ・巡査
 小説『坊ちゃん』の冒頭の書き出しは、『親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。小学校にいる時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かしたことがある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかもしれぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りることはできまい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階くらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと言ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。 〜 (中略) 〜 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出かけて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師がいる。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。おれは三年間学問はしたが実をいうと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。もっとも教師以外に何をしようというあてもなかったから、この相談を受けたた時、行きましょうと即座に返事をした。
これも親譲りの無鉄砲が祟ったのである。引き受けた以上は赴任せねばならぬ。』 これが小説『坊ちゃん』が四国松山に来た由縁です。
 さて、暮れも押し迫った平成14年12月28日・29日の両日、『奥道後と冬のしまなみ街道バスツア−』で久し振りに松山へ。
子規記念博物館でバスを降り、道後商店街を目指して歩いて行くと、放生園(ほうじょうえん)に辿り着きます。 放生園は建武年間(1334〜1336年)に伊佐爾波神社が現在の場所に移された時、境内の御手洗川の引水を湛えて池が造られたと云われています。
坊ちゃんカラクリ時計
 この池が「放生池」と云われ、聖浄の地とされたようですが、現在は埋め戻されて公園になっており、その片隅に名物「坊ちゃんカラクリ時計」が設置されています。 このモニュメントは、道後温泉本館建設百周年記念事業の一環として「振鷺閣」(しんろかく)を素材に製作されたもので、午前8時から午後10時まで、30分間毎に軽快なメロディに乗って夏目漱石の小説『坊ちゃん』の登場人物が4段階に伸びながら演出します。 一番下の階層は道後温泉入浴模様、2段目は中央に坊ちゃんとその両側には先輩教師と人力車に乗ったマドンナが、3段目には時を刻む時計が配されるという凝り様です。 また、この時計の周りには、松山観光協会の方が演じる「坊ちゃん」「マドンナ」「巡査」が、それぞれ観光客相手に記念撮影等に応じてくれます。
 この公園の左手には松山市電の「道後温泉駅」があり、この前には「坊ちゃん」も乗ったであろう「坊ちゃん列車」(午後5時以降〜)が展示されています。 この「坊ちゃん列車」の所有者、伊予鉄道は明治20年9月14日に創立。 翌年10月28日に日本初の軽便鉄道として松山−三津間の運行を開始したと云います。 当時の伊予鉄道1号機関車は「四輪連結水槽式機関車」でドイツのクラウス社から輸入され、その後明治、大正、昭和と実に67年間にわたって松山平野を走り続け、わが国初の軽便鉄道機関車として昭和43年3月8日、愛媛県指定有形文化財に指定されました。 夏目漱石が松山へ教師として赴任したのは明治28年、道後温泉をこよなく愛し、汽車に乗っては頻繁に足を運んだ模様で、明治39年発表の小説『坊ちゃん』には、当時の道後温泉や軽便鉄道がユニ−クに描かれており、その後伊予鉄道の汽車は「坊ちゃん列車」の愛称で地元松山市民を初め多くの人々に親しまれてきました。
 この後、「道後商店街」を潜り抜けて行くと「道後温泉(椿の湯)」に到着。 更に商店街を行くと、突き当たりに「道後温泉」が見えて来ます。 夏目漱石が愛した温泉としても知られる天下の名湯「道後温泉」。 3000年の歴史を持ち、日本では最古の温泉で、文明開花の華やかさを感じさせる木造の本館は、百年経った現在も明治の香りそのままで、国の重要文化財の指定を受けています。
道後温泉(本館)
道後温泉(椿の湯)
 道後温泉本館内には宿泊施設はありませんが、1階は常連客向きの大衆浴場、2階は大広間でゆっくりとくつろげて、浴衣とお茶、お菓子のサ−ビスがあり、正岡子規や夏目漱石が何度も訪れた「坊ちゃんの間」等も2階以上の利用客には無料で見学することが出来ます。 この「道後温泉」利用料金は、「神の湯」階下280円、2階席620円、「霊の湯」2階席980円、3階個室1,240円になっています。

 小説『坊ちゃん』には「道後温泉」を「住田の温泉」として登場。 その部分を紹介しますと『おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極(き)めている。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及(およ)ばないが温泉だけは立派なものだ。せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛(でかけ)る。 〜(中略)〜 温泉は三階の新築で上等は浴衣(ゆかた)をかして、流しをつけて八銭で済む。その上に女が天目(てんもく)へ茶を載(の)せて出す。おれはいつでも上等へはいった』と。 漱石が通ったころは木の香りのする新築だったようです。

 また、先程ご紹介しました「道後温泉(椿の湯)」ですが、小説『坊ちゃん』にはこのような記述が見られます。 『「そうか、大抵大丈夫(たいていだいじょうぶ)だろう。それで赤シャツは人に隠(かく)れて、温泉(ゆ)の町の角屋(かどや)へ行って、芸者と会見するそうだ」
「角屋って、あの宿屋か」「宿屋兼料理屋さ。だからあいつを一番へこますためには、あいつが芸者をつれて、あすこへはいり込むところを見届けておいて面詰(めんきつ)するんだね」「見届けるって、夜番(よばん)でもするのかい」「うん、角屋の前に枡屋(ますや)という宿屋があるだろう。あの表二階をかりて、障子(しょうじ)へ穴をあけて、見ているのさ」』と。
 つまり、「道後温泉(椿の湯)」が小説『坊ちゃん』では、「坊ちゃん」と「山あらし」が「赤シャツ」の密会を見張る「桝屋」のモデルで、向かい側にある「かど半」が密会場所「角屋」のモデルとされているのです。 
坊ちゃん団子
一六タルト
 また、小説『坊ちゃん』にはこのような場面がありました。 『おれのはいった団子屋は遊廓の入口にあって、大変うまいという評判だから、温泉に行った帰りがけにちょっと食ってみた。今度は生徒にも逢わなかったから、誰(だれ)も知るまいと思って、翌日学校へ行って、一時間目の教場へはいると団子二皿(さら)七銭と書いてある。実際おれは二皿食って七銭払(はら)った』と。
 これは「つぼや菓子舗」で創業1883年、以前は「茶屋又」という屋号で、当時「湯晒し団子」と呼ばれていたものが小説『坊ちゃん』に出てくる団子のモデルとされています。 米餅に小豆餡をまぶした素朴なものと云われていますが、現在の「坊ちゃん団子」は『坊ちゃん』が発表されて道後の団子が有名になり、二代目が今の三色(緑、黄、茶色)にしたようです。

 この他、松山銘菓には「一六タルト」がありますが、タルトは松山初代藩主松平定行が正保4年長崎探題職兼務の命を受け任地に赴いた折、南蛮菓子タルトに接し、その味を賞でて製法を松山に持ち帰ったと云われています。 その後、松山の菓子司に技術が伝わり松山名産になったと云われています。

 午後5時半「道後商店街」を抜けると、辺りはもう既に真っ暗。 迎えのバスに乗って一路今夜の宿泊先「ホテル奥道後」へ。 名物の「ジャングル風呂」で冷え切った身体を温めて夕食会場へ。 夕食は、バイキング形式で和洋食共自由に心ゆくまで堪能出来ました。
 翌日は、松山市内「四国海産物センタ−」及び「伊予絣(かすり)資料館」を見学。 「伊予絣」の創始者、「鍵谷カナ」は1782年(天明2年)松山西垣生今出に生まれ、1864年(元治元年)82歳で没。 その動機は農家のわら屋根を葺き替える時、わら屋根を押えた竹が煤(すす)けて縄目のあとの模様が浮き出ているのを見て、ヒントを得たと云います。
伊予絣資料館
 当時は発祥の地名を取って「今出絣」と云われていたが、後に「伊予予絣」と呼ばれ、日本三大絣(久留米、備後)の一つとなり、全国に広く知られるようになったと云われています。
鍵谷カナ
伊予絣
 「伊予絣資料館」では「伊予絣織機」や「藍染工房」及び製造直売コ−ナ−も設けられており、伊予絣の製造工程を偲ぶことが出来るようにもなっています。 この後、松山市内を離れ、北条市から今治市内へ移動。 今治北ICから「しまなみ街道」に入って世界初の三連吊橋、「来島海峡大橋」を渡り、続いて日本初の補剛箱桁吊橋、「伯方・大島大橋」、そして本四連絡橋の先駆者、「大三島橋」を渡って「大三島」で昼食。
 昼食後は、更に世界一の斜張橋、「多々羅大橋」を渡って「生口島」で下車。
この「生口島」には、西日光東照宮と称される「耕三寺」の他、「平山郁夫美術館」があり、折角の機会だからと「平山郁夫美術館」を見学。
来島海峡大橋
平山郁夫美術館
画家・平山郁夫さんは、1930年生口島の瀬戸田町に生まれ、瀬戸内の青い海や緑の島々の織り成す豊かな自然の中で少年期を過ごしたと云われています。 神秘的な潮の流れや群青色の海は、平山少年の心に大きな影響を及ぼしたと云われ、画家・平山郁夫さんの感性は、この瀬戸内の風土に育まれたとも云われています。 平山郁夫美術館では、最新の大作の他、作品制作の上で重要な一過程で、本画と同じ大きさで作られる最終的な下絵−大下図−を多数所蔵されており、大下図によって作品が生み出され、平山芸術誕生の軌跡を辿ることが出来ましょう。
 その平山郁夫美術館は現在は、平山郁夫さんの兄が美術館を管理されております。
「生口島」からは日本初の複合桁斜張橋、「生口橋」を渡り、「因島」へ。 更に、本四連絡橋で最初の吊橋、「因島大橋」を渡って「向島」へ。 そして「新尾道大橋」を経て尾道へ。
 この「しまなみ街道」は全長約60q、西暦2002年最後を飾る旅路でもありました。


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