むくむく通信社 むくむく叢書

掲載日2004.2.1 最新更新日 2009.5.8

…写真への手紙・覚書…

記憶の痕跡

記憶のかけらをよみがえらせるとき、
そこには自分の生きた証があるように思います。

自分の存在理由を問うきっかけです。
ぼくは写真と文章で、
その理由を問いはじめたのはないでしょうか。
2007.6.5


記憶の痕跡
2006.2.12〜2006.5.3

-1-

記憶の痕跡を求めて、生まれて幼少を過ごした場所に立った。その場所に過ごしたのは、1946年から1953年だった。あれこれ半世紀以上が過ぎ去った。そこには道路があり、家屋があった。ボクの記憶の痕跡を求めて、デジタルカメラを持って自転車に乗り、幼児の記憶に残っている場所を確認してまわった。
     
     300mibu0602120007

住まっていた場所の家屋は新しくなっており、焼け跡の広場だったところに、家屋が密集している。記憶の光景はどこにもないけれど、ボクの記憶は、その地点を確認する。

そこは洋風の二階建て家屋だった。表が本通りに面しており、和漢薬を商う店舗だった。台風が襲来し、ショウウインドウのガラスが割れて、ベニヤ板が張られていた。その前は花屋だった家屋には地下室があり、薄暗い地下室は恐怖をいだかせる空間だった。

ボクが生まれてから6歳まで住んだ家屋の記憶が、甦っては消えていった。写真は今の姿を撮ることしかできないけれど、写真を撮るボクの脳裏には、その場所を確認し、かってあった姿として記録されるのだ。

-2-

親が昭和31年(1956年)に新調した写真アルバムが、手元にある。いま確認してみると、ボクの記憶の写真は、七頁目の右端に、糊付けされている。名刺半分の大きさだ。子供達が七人並んで写っている写真だ。夏のころである。ランニングシャツとパンツ、髪の毛は、男の子は丸刈り、女の子はおかっぱ姿である。七人の子供は電柱を背にして四人が座り、三人が立っている。ボクは立っている一人だ。

     300mibu0602120023

撮影は昭和25年か26年の夏だろう。見知らぬ人に撮影されたのち、写った写真を持ってきて買わされたものだ。当時の記憶がよみがえる。その写真が、手元に届いたときの光景を覚えている。父親がブツブツ言いながら、お金を払っていた。

それから半世紀以上が経って、ボクはその電柱を目当てにシャッターを切った。電柱は当時より少し移動している感があるけれど、ほぼ同じ位置に、記憶の電柱があった。道沿いの家屋が建て替えられ、電柱が立て替えられてはいるとしても、その場所は、当時のボクをとどめる唯一の写真だ。

ボクが所有する幼少の写真は、二枚だ。一枚目は、一歳前後に写真館で撮られた写真。二枚目が、電柱の前で撮ってもらった写真だ。ボクの記憶に残る幼少のころの外風景をとどめる唯一の写真が、ここにある。

-3-

ここに一枚の写真がある。撮影は1950年ごろ、ボクが所有するボクが写った写真だ。写真には、撮られた時、見られる時がある。撮られた時から、見られる時、この写真の場合、時間経過はおよそ55年の歳月だ。

     3000001

この写真は、ボク自身にまつわる写真だから、この写真を見ることによって、当時の記憶が、よみがえってくる。記憶が記憶を呼んで、その頃のこと、そこから派生する様々なことが思い起こされてくる。

日記がある。手紙の類がある。それらは文字で書かれた記憶である。それらの文字で書かれたものを読むと、書かれたその時の記憶がよみがえってくる。そうして当時の様々なことが思い起こされてくる。

写真と文章。形式は違うけれど、記憶装置のインターフェースだ。ヒトは、記憶を持つことでヒトでありうる。手元にある記憶のインタフェースは、作品ではない。しいて言うなれば、作品となる素材である。この素材が作品に組み込まれることによって、文学作品や写真作品が成立していく。写真や文章、記念写真や日記の類は、ボクにとっての作品素材なのです。

-4-

     300dosokao0604290002

50数年前、1953年(昭和28年)に、ボクが小学校に入学したときのクラス写真です。先日、そのクラスの同窓会なるものが開かれ、半数近くの同期の男女が集まりました。他聞にもれず、昔を懐かしむ声しきりで、あれから50年以上経ったとゆうのに、記憶のなかの面影を確認しながら、名前を確認し、時間が過ぎるにつれ、当時の記憶が糸をたぐるように、よみがえってくるのでした。

数枚の写真が、複写されて席に持ち込まれていて、ボクはその写真をデジカメで撮りました。服装とか履物とか、当時の痕跡をとどめたまま、封印されてきて、それらの子らが大人になって、老年期を迎えるころになって、封印が解かれた。記憶は、50数年の歳月を一気に飛び越して、子供のころのままの関係で、今、再会を迎えたのです。それぞれに人生の物語をつくってきて、いまに至っているのだけれど、記憶の痕跡は、時空を超えているようです。

旧友に会う、古い写真にめぐり合う。過去があり、現在があり、そうして未知の未来がある人生です。生きた証の記憶として、旧友があり、写真があり、そうして同窓会があった。まあ、ヒトそれぞれの記憶の痕跡を、自分の外に持つことで、確認できる人生でもあるのでしょう。

-5-

     300dosokao0604290001

50年後に再会したとき、探そうとしたものは、失われた記憶でした。だれかが50年前の写真を見せてくれ、確かに記憶の中にあった写真を目の前にして、ボクは、目の前にいる人の現在と、50年前のその人とをダブらせながら、面影をみとめ、50年前にタイムスリップしていくのでした。

記憶のイメージと目の前の人、同窓生であるというだけで、水平感覚を得るものです。世の中に、人はみな同じだとはいえ、財を得てリッチな生活を得る人もいれば、そうでない人もいる。また、世間でいう有名、無名、所属などの比較で、優れた人もいれば、そうでない人もいる。大人になってからの人と人の関係なんぞ、この比較のうえに立った関係のような気がします。

小学校1年生という年代に知り合った関係というのは、男とか女とかを意識しなかった関係であり、貧富なんぞ意識しなかった関係だった。50年を過ぎ去らせた、そこにいた人との関係は、そういう意味で、水平感覚、水平位置としてありました。記憶の痕跡は、人と人との関係をつくりなす基本態なのかも知れないと思います。


光の痕跡
2006.7.21


     300hikari0607150018

光ってのは生命の源泉だと思うんよね。
この世のしきたりってのも光が基準のように思うんよね。
まづ闇があって、そっから明暗に別れるわけでしょ。
その明をつくりだすのが光ってわけさ。
植物ってのは、光を摂取して光合成するわけだし、
動物ってのは、光で合成された酸素を吸って生きてくわけだし、
光ってのは、生命の源泉なんですね。
人間さまだって、光を求めてやまない動物でしょ。
光ある処を求めて、脚光を浴びたい、認められたい!
なんて、光あるところは、情のエクスタシー領域でもあるんやろねぇ。


写メール文学
2006.7.7〜7.14

     300hibi0607060033

-1-

文学作品というのは、作家を自認する個人が、個人の内部でつくりあげるイメージを文章化したものだといいます。この限りにおいて、文学作品は、作家と読者という二項に分けられたあり方です。ところで最近は、ネットワークを通して個人と個人が写真と文章を交換しあうことがあります。写メール交換です。

アートの形を、個人間の関係性のなかに見出す論があります。これまであったアートの形、すなわち作家と鑑賞者という関係のなかで、出来あがった作品をその介在とするという、従前の形ではなくて、制作プロセスそのものをアートの行為とみなすのです。作家を自認する制作者のプロセスを、ライブで享受するというにとどまらず、行為者が複数登場するなかで、アートが行われる。関係性のアートです。

文学の試みを、この関係性のなかに置いてみようというのが、この項の目的です。文学作品が、制作のプロセスを複数で共有し、生成していく中味自体をもって作品となる。そうゆう形です。さて、そこには文章と写真が置かれる。文学と写真というジャンルを融合させ、なお、複数の個人により生成させられる形を、文学の新しい形として、提起したいと考えているのです。

     300200607110004_1
-2-

作り手がいて、読み手がいる。作者がいて、読者がいる。作者が中心にあって、読者はその周辺にいる。まあ、既存の文学形式は、このような構造を持っているわけです。この構造の中心となる作者を、個人の集合体とするというのが、写メール文学の発想です。自我なくして文章は書かれえない、という前提を否定することはできませんから、文章を書く基本体は、個人です。

この個人と個人の写真と文章の交換によって、ある場が作られ、その場が文学の場となる。この場というのは、仮想空間場であって、作者自身が読者であり、読者自身が作者である、という関係がその場に生じるわけです。この関係場にいる個人そのものの形が、文学の主体となるのです。

連歌、応答歌、そういえば、写メール文学として思考する、この関係は、かってあった形態に類似するものです。制作し呼応しあう当事者のなかに生じる心の動き、それ自体を重視する文学態といえばいいかも知れないですね。作者と享受者が一体となった関係の文学態です。

この写メール文学は、既存の文学形式を解体するものだと考えています。あるいは近代文学の形式が成立する以前の、まだ文学という概念が成立しなかった頃の、文章による情の交換場であったそのものを、新たな現代ツールによって再生させる試みでもあると考えます。ええ、これは、文学という概念からすれば、文学以前のたわごとにすぎない考え方だと一笑にされることです。でも、アートという概念を、関係性を中心に組みなおしていくと、文学というアートの形をも、このように組みなおしたい道筋なのです。































































































































































































































































































































むくむく叢書 第六巻(1)

写真への手紙・覚書
中川せんせ・著




むくむく叢書表紙へ



ここはむくむく叢書です


物語と評論集表紙目次へ戻ります


写真&物語「花物語」

写真&物語「ぱん物語」

考えることの物語

食べることの物語

フリースペース聖家族

「記憶の痕跡」-1-

「記憶の痕跡」-2-


「記憶の痕跡」-3-


写真物語-1-

写真物語-2-

写真物語-3-

写真物語-4-

写真物語-5-

写真物語-6-

写真への覚書-1-

写真への覚書-2-


「記憶の痕跡」-1-

「記憶の痕跡」-2-


「記憶の痕跡」-3-


「 記憶の痕跡 」