【第4回歌葉新人賞公開選考会レポート・1】
10/23にCoco de sica青山セミナールーム(青山)で行われた、第4回歌葉新人賞公開選考会に出席した。 選考委員は加藤治郎さん・穂村弘さん・荻原裕幸さん、司会は斉藤斎藤さん。 これまでにウェブ上で行われた議論に関してはリアルタイム・スペースを、候補作(選考委員それぞれ五編ずつ;重複があるので全部で十編)は第4回歌葉新人賞(ページの下の方に候補作へのリンクがあります)をご覧いただきたい。
(予備討論(?))
斉藤斎藤さん リアルタイム・スペースでの議論(9月)以降の変化について
荻原さん ・推した作品への評価は特に変わっていない ・三人の選が「こんなにかぶっている」;上の方に入れなかった(no markだった)作品に対するほかの人の評を読んで ・選ぶのが難しい ・sweet spotに入ってきた作品を推している(が、微妙にズレているものに対する評価は議論で揺れる;「ころっと変わるかも」)
加藤さん ・今回の特徴=三人の選が割と重なった 120作あまりを分担しないで選をしていて、短歌観の違う三人が微差の中でぱっと選んだものが重なる ・選び切ったつもりでも、意図が汲めなかった作品に対する他の人のコメントで「見落としていた」ことに気づく ex.島なおみさん:構成etc.に対するヒントを荻原さんからもらった 宇都宮さん:気づいていなかったところを穂村さんから指摘されて再評価
穂村さん ・他の人の引用歌で「見えていない」=節穴)に気づくことがいっぱいある→選ぶのが苦しい ・一昨年くらいからよくわからなくなった(昨年はいったんしまっておいたりもした) ・イチオシの作品、「これかこれ」、「今回は今ひとつだけれど過去の実績から実力があることがわかっている」というリスト(?)がある ↓ それ以外の作品については二人に説得してほしい
斉藤さん 予定では早めに三編ずつに絞っていきたい
荻原さん (言おうと思っていたことを加藤さんから言われた、と言いつつ) ・島作品について:リアルタイムスペースでのコメントの長さをどの作品についても同じにしようと思っていたのに長くなってしまった 穂村さんの「五点(?)」に入っているか
斉藤さん 一人三編に絞って議論したいので投票を…… (荻原さん「3/10ということ?」斉藤さん「そうです」)
斉藤さん 「ほぉ」「『私だけが知っている』時間が三分くらい欲しいですね(笑)」
ここでの投票結果は下記のとおり。 ・荻原さん:瀧音幸司さん「ユンボと水平線」、笹井宏之さん「数えてゆけば会えます」、島なおみさん「十月のファム・デリカと砂の船団」 ・加藤さん:笹井宏之さん「数えてゆけば会えます」、クロダマサコさん「あかいたそがれ」、瀧音幸司さん「ユンボと水平線」 ・穂村さん:宇都宮敦さん「ハロー・グッバイ・ハロー・ハロー」、笹井宏之さん「数えてゆけば会えます」、我妻俊樹さん「水の泡たち」
(絞られた三編についてのコメント)
穂村さん 1.宇都宮さん「ハロー・グッバイ・ハロー・ハロー」について (リアルタイム・スペースでも書いたけれど) ・「足の指先はつまさき」ということで、「つまさきの冷たい恋人」が生命感を持ってくる=パーツを立ち上げるために初句-二句で「つまさき」を定義し直す「工夫」
・言葉が低い体温のまま紙の上に張りついてしまう(ことが昔(=穂村さんたちが若かった頃)よりも多い) ↓ それを復活させるための工夫があちこちにある ex.「真夜中のバドミントンが 月が暗いせいではないね つづかないのは」の語順=ふつうの(短歌の)倒置法ではない 前はふつうの倒置で「立ち上がった」けれど今は違う ↓ 「鳥肌が立つ」衝撃
・青春歌、ideaの面白い歌 ex.「"Re:林家ぺーがいた"って賢明のみじかいメールが告げるお別れ」 「件名」のアイデア=生々しい(みずみずしい)感じ
・「このままでは(全体として)通じない」→surviveさせようという意志を感じる ↓ 仮死状態のみずみずしさ 些細なことに託される希求感の大きさ ex.「のばしかけの髪がちくちくするけれどアフロはでかいほうがいいから」 斉藤斎藤さんのみたいな人が出現してしまう時代に、斉藤斎藤的ではなく、普遍的な感受性や甘さをsurviveさせるには工夫がいる=宇都宮さんはこれがうまい が、ぱっと見にはわかりにくい=希求感の大きさがpin-pointで入る読者は多くない ここ(些細なところ)に希求の大きさを入れざるを得ない=survivalの状況の厳しさ(がうまく出ている)
2.笹井宏之さん「数えてゆけば会えます」について (三人とも選んでいてしかも(三人の)受け取り方に差がなさそう) ・不思議な言葉の選び方・並べ方(リアルタイム・スペースでのコメント) そういう言葉の出口を持っている:天性のもの、特殊能力 心と言葉のつながり方の癖がbaseになっている (リアルタイム・スペースで加藤さん「『淡い透明なイメージ』『自然に想起したイメージ』が特殊=才能」) (リアルタイム・スペースで荻原さん「抽象度が高い作品は、読者が気を抜くと類型的に見える」) ↓ 最初はふつうの読みすじで読みやすいものを選んでしまった ↓ 潜在的秀歌が作者の中にいっぱい眠っていそう
3.我妻俊樹さん「水の泡たち」について ・(歌葉新人賞の)常連さん=言葉の才能がある 「自家中毒的だけれど」(リアルタイム・スペースでのコメント) 受難の感覚がすごくある ex.「手裏剣に似た生き物が宇宙から降ってきたわけではなく夏よ」 ヘンで気味悪い・気持ち悪い ↓ 作者はそれが幻覚であることを知っている(本当は違ったとしても「私にはこう見える」) ↓ 本人は他人から気持ち悪いと思われがちな感じ(そのことも自覚している)
・笹井さんと比べると、笹井さんの方が自分の受難・特殊性を認識していない ↑ ↓ 我妻さんは一度自分に引き受けてから詩(短歌)にしている=「翻訳」 すんなりはいかない「苦渋」
・受難の感覚が突き抜けた面白さ ex.「『先生、吉田君が風船です』椅子の背中にむすばれている」 (「死んだ人の机に花」のみたいな)オーソドックスで力のある感じ
加藤さん 1.笹井宏之さん「数えてゆけば会えます」について ・(穂村さんは我妻作品について「受難」と評したけれど)苦しさ・絶望感は笹井作品からも出ている ex.「真水から引き上げる手がしっかりと私を掴みまた離すのだ」 「今自分がいるところ」=真水の中 「水」は生きていくことに必要だけれど、それが「真水」になっていることで窒息感が出てくる 「その中で生き続けなければいけない」 ↓ 「そこから救われる場面」に繰り返し戻ってくる (「こういった感覚で始終生きているんだなあ」と)笹井さんが今背負っているものが伝わってくる ↓ 詩的な衝撃では群を抜いている
・(一連の中で)振幅が大きい ときどき抒情に戻ってくる(最初はこれに惹かれた) ex.「集めてはしかたないねとつぶやいて燃やす林間学校だより」 ↓ 林間学校=ノスタルジー 「集めてみるけれど燃やしてしまう」 世界との関わり方=いったん救われても(自分で)壊したり燃やしたりしてしまう
ex.「水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って」 淡いイメージの連なり 平明に受け止められる歌 ↑ ↓ ex.「心地よいほうのからだを上下させ夜の肩甲骨の彫刻」 自分の感覚の中で「心地よいからだ」と「そうでないからだ」がある=強い二重性 ex.「鶏のこどもをつれて冬空か夏空に軽く会釈をしたい」 「冬空」「夏空」(=同時に存在するはずのないもの)を並列させる 複数のものに囲まれているイメージの一連が多い=奇妙なイメージ ex.「家を描く水彩画家に囲まれて私は家になってゆきます」 「あやとりの東京タワーてっぺんをくちびるたちが離しはじめる」 (poesyの)特異な側面 (牧野註・「くちびるたち」=上唇+下唇?) 「レシートの端っこかじる音だけでオーケストラを作る計画」 どういうところからこういう発想が出てくるのか 「世界の果ての絶望」から反転してくる感覚 ↓ 世界への復讐? 批評の言葉が追いつかない
3.クロダマサコさん「あかいたそがれ」 ・ひらがな表記自体は珍しくないが、それをうまく生かしきれている作 意味を薄める効果=読者を無防備にさせておいて、読んだ瞬間「ガツン」 破壊・「つぶす」などの暴力的モチーフへ(ひらがなで)読者を誘い込む ex.「ノブのないドアかドアのないノブかよくわからないふんさいちょくご」 かなり技巧的な歌 目の前には何もない(廃墟?) magicalな感じの表現 「ふんさいちょくご」がひらがなであることで、読者に「ふっと渡す」=うまい
ex.「てのひらをしきつめたへやにとじこもりつめをきるおとだけきいている」 ぞっとするような感覚 最初はふっと読んでしまうが、あとで反芻するとゾッとする
・かなりレトリックの強い歌・破壊的な歌へ読者を引き込む
3.瀧音幸司さん「ユンボと水平線」について ・自然体の豊かさ、面白さ、悲しさ(哀しさ?) ex.「もうダメだおれはこれから海へ行くそしてカモメを見る人になる」 「腹筋が趣味ですというばかものが映るテレビを消せば夕闇」 ↓ 抒情のパターン=自己卑下→美化→…… 自然体
・反撃に出るのも自然体(最後の三首など)
荻原さん 1.笹井宏之さん「数えてゆけば会えます」について (どういうふうに説明していいのか……) ・この作品を読んだとき、宇都宮作品・我妻作品を思い出した ↓ 共通項があるが、笹井作品が一番「自分に入ってくる角度がsmooth」
・(言葉の感覚として)無垢な感じがある pureさ(純粋さ)では宇都宮作品の方が上→but違和感がある ↓ 笹井作品の場合「定型(短歌のかたち)にこだわる」ぎりぎりの不自由さを抱えて書いている感じ ↑ ↓ 宇都宮作品は(荻原さんの)ラインの外にある作品が何首かある ↓ これが「smooth」「違和感」の差?) ex.「拾ったら手紙のようで開いたらあなたのようでもう見れません」 「水田を歩む クリアファイルから散った真冬の譜面を追って」 ↓ 面白い
・「たくらみがたぶんないだろう」と推測されるのにあたかもたくらんでいるかのような感触 「明らかに企んでいる」「素のまま過ぎる」と消える面白さ(がある) ↓ 「そのまま書いていてたくらみ」はかなり注意力を持って見ないと中に入りにくい(一首一首が同じに見えてしまう)
・気になるところが自然=「ちょうどいい」→強く推せる 「嫌な歌」がほとんどない ↓ 面白い(興味深い)作者
2.瀧音幸司さん「ユンボと水平線」について レトリックの世界・「自分と他人」(恋愛/「私とあなた」)・black hole的ではない ↓ 「人(他者?)」のイメージが(他の作品と比較して)割合リアルに見える ↓ 言葉のうまさ/面白さを追求することが「リアルな人」につながっている=不思議な人
・めちゃくちゃなことを言っている(ジャイアン的)=「無頼」(珍しい) ex.「完璧な一日なんて無いと知れおまえごときであればなおさら」 「おまえごとき」が他者に向かっているのか、自分に返ってくるのか ↓ ダメであるのに妙にしっかりしているキャラクター
・「本人のキャラクターで書き上げる」例は多い(butこの人はそうではない) 言葉・表現の面白さの上に人物のイメージができている=「人物像がはっきりしている」という意味では古風・懐かしさ(にも見える)
・「素のままで書いてこんな笑いが取れるか」 (加藤さんが「反撃に出るのも自然体」と言った最後三首は)演出っぽく見える(肩に力が入っている)
3.島なおみさん「十月のファム・デリカと砂の船団」について (リアルタイム・スペースに書いた以上は……と言いつつ) ・けっこうすごいつくりになっている ふつうの(地の?)作とパーレン()の作が一首だったり詞書だったりする ↓ ふつうに読んだ範囲で二つの人称(二人の人物)が読み取れる
・それほどややこしくない(maniacでない)はない ↓ 現実(文芸?)の世界が見えてくる 「入り口→階段→ある高さ(踊り場なり二階三階なり)へ行ける」作り方 人(読者)をきちんと誘導していける作り方=いい
・詞書に「ジョイス」云々→いかにもややこしそうな宣言=鼻につく but全体として自然(怖い表情をしているわけではない)
斉藤さん (確認、と断って)選んだ三編に重みづけはある?
穂村さん:宇都宮さん>笹井さん>我妻さん 加藤さん:笹井さん>クロダさん>瀧音さん 荻原さん:順位づけなし
斉藤さん (宇都宮作品について)「定型の不自由さを手放している」と言っていたのは具体的にはどれ?>荻原さん
荻原さん ex.「牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ」 散文的なものを狙って入れている ↓ 定型を手放していいのか? 「ここに入れていいかどうか」をもう少し悩む
(フロアから田中槐さん:「映画ぎらいの彼女がよくみてたロードムービー 旅行もきらいだったくせにさ」?) それもそう(荻原さん)
ex.「オーロラの下うごけない砕氷船 とりあえず とりあえず踊っとく?」の下の句 ↓ かたちを整えるように努力した方が「リアル」では? ↓ (荻原さんとしては)「リアルでない」感じがする(穂村さんと感覚の差があるかも)
穂村さん 「とりあえず とりあえず踊っとく?」は「とりあえず とり/あえず踊っとく?」の句またがり=句またがりを理解している リズムという意味では去年のしんくわ作の方が……
荻原さん 破調というより、「リズムを整える努力」を早く手放し過ぎでは?ということ 「(句またがり・破調について)わかってて手放している」のはわかるけれど……
穂村さん 「わかってて手放している」ならいい(しんくわさんより……)
荻原さん (しんくわさん云々ではなく)「心地よい」or「ひっかかる」で考えると?>穂村さん
穂村さん 字あまりが入るのは「ここ」 ex.「映画ぎらいの彼女がよく見てたロードムービー」
荻原さん たくらみ(構想力、言葉を引っ張っていく力)の高さ(強さ?)はわかる ↓ もっと定型に行けるのでは?と思うのに「それをしない」選択に錯誤がある(=穂村さんとの考えの違い)
加藤さん 穂村さんの批評の軸(受難?)ははっきりしている ↓ それを一番強く感じるのは笹井さん 「automaticに見えるのは表現として結晶化しているから」ではないか>穂村さん
穂村さん 「言葉が並んでいるだけ」のところから「受難」etc.という 笹井さんの「数えてゆけば会えます」はタイトルからして願いについて間違った思い込みがある→切なさ sympathyを寄せない ex.「数分後関東平野の薔薇を持ちあなたは遠くとおくへ帰る」 変におかしいのは「数分後」と「関東平野」(範囲の限定のしかたが微妙) ↓ この人は「言葉が内面(source)に触れている」と思う ↑ ↓ ex.「(おんなとは砂絵のなかの王国が滅する朝を動くみずうみ)」(島なおみさん) 不思議な配列だけれどbookish ↓ sourceと関連づけて読んだときの「質」の差 笹井さん=個人的なものに触れている ↓ この領域(個人的な部分?)は短歌の中では層が厚いところ ↑ ↓ 瀧音幸司さん「ユンボと水平線」は短歌では薄い領域
(加藤さん:大滝和子とか)
笹井さんが一番個人的/時代に対してopen ↑ ↓ 我妻さん=「自分」が一般化できると思っている
加藤さん (宇都宮さんは)タイトル(「ハロー・グッバイ・ハロー・ハロー」)からしてポップ
穂村さん 個人的なところから入って瞬間的に説得される
加藤さん 大滝和子とか葛原妙子とか山中智恵子とか…… ↓ 個人的なところから出て「世界につながる」 余裕がない方が本当っぽい 笹井さんはもっと評価できる
穂村さん だから二番にしている(笑)
ここのあと15分ほど休憩をはさんで引き続き議論が行われた。 後半の模様はこちら。(051023)
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