中半人遺跡・蝦夷塚古墳


ー古墳時代中期(約1500年前)の集落と平安時代(約1000年前)の水田跡
現地説明会資料
日時:平成10年7月18日(土)  10時〜12時

中半入遺跡現地説明会案内地図

平安時代初期の水田跡に足跡と思われるものが


はじめに
今回の中半人遺跡、蝦夷塚古墳の調査は「担い手育成基盤整備事業東田(はるた)地区ほ場整備事業」により、遺跡の一部が消滅するため、記録保存を目的として行った緊急発掘調査です。
遺跡の所在地 岩手県水沢市佐倉河字中半入、胆沢町南都田字駒堂
調査の委託者 岩手県水沢地方振興局水沢農村整備事務所
調査期間 平成10年4月14日〜9月30日
調査対象面積  9,000u
調査機関 (財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター
調査担当者 文化財専門調査員 高木 晃.
       期限付専門職員 鈴木 聴
協力機関 水沢市教育委員会 胆沢町教育委員会

1. 遺跡の位置と立地
中半人達跡、蝦夷塚古墳はJR水沢駅の北西約6km、現在広大な田園地帯となっている胆沢扇状地の北端
に位置しています。胆沢扇状地は遺跡の北を流れる胆沢川が作りだした平地で、中半人達跡の周辺はそのうちの一番低い水沢段丘面と呼ばれる部分にあたります。現在の地面の標高はおよそ75〜78mの範囲です。
 中半人達跡は今回の調査で明らかになった遺跡ですが、蝦夷塚古填は古くは江戸時代の文書に土山が数基あったことが記されているように古くから知られている遺跡で、今回の工事が両者にまたがることから、まとめて調査対象としています。
 また、この説明会の時点で発揮してもいる部分は道路、用排水路などになる場所で、広大な遺跡のあちこちに散らばっているため、1区〜6区に区域分けしています。このうち胆沢町にまたがる5・6区が蝦夷塚古填にあたります。

2. 遺跡の概要
 今回の説明会までに判明している遺跡の様子は時代順に以下のようになります。
@縄文時代晩期〜弥生時代(約2500〜1800年前)
 この時代の遺構(柱穴、井戸、水路など人が土地に手を加えた痕跡)は見つかっていません。土器の破片か2区東側などで少量出ています。
A古墳時代前期(4世紀:約1700〜1600年前)
 丸い底の壺形土器「坩」(かん)をのせる「器台」(きだい)と呼ばれる土器が3区から見っかりました。この時代の遺跡は県内では数カ所しか分かっていません。器台は水沢市高山遺跡についで2例日です。
B古墳時代中期後半(5世紀後半〜6世紀前半:約1550〜1650年前)
  遺構では住居跡が2区で2軒、4区で6軒見つかりました。また、住居跡の中などから大量の土器や黒曜石で作った石器などの遺物(当時の人々が使った道具類)が出土しています。中半人遺跡から南南東に2km余りで胆沢町角塚古墳がありまずが、こことの関係が注目されます。
C奈良時代(8世紀:約1250年前)
 5区で「終末期古墳」と呼ばれる直径7mはどの丸い塚の跡とそれを取り囲む溝の跡が2ヶ所見つかりました。ちょうど発掘前に「蝦夷塚古墳」の標柱が立っていた場所です。現在埋め戻しているため写真でご覧いただきますが、後の耕作により古墳の本体は失われています。
D平安時代初め(9世紀〜10世紀初め:約1100年前)
 秋田・青森県境の十和田湖がこの頃噴火しており、遺跡のあちこちに白い火山灰が厚く積もっています。
 2区ではその火山灰の下から水田の跡が見つかりました。足跡のようなくぼみも数多くあります。
E平安時代後半〜中世?(11世紀〜16世紀?:約1000年前〜500年前?)
  2区から4区にかけて、火山灰の上に再び水田が作られています。ただしこの水田がいつ頃のものか、まだはっさりしていません。
F江戸時代後半〜第2次大戦後(約200〜50年前)
  現在のような整った水田になる前の水路などがみつかっています。


 今回の説明会では以上の@〜Fのうち、主にB・D・Eの時代の様子についてご説明します。

B古墳時代中期後半のムラ
この時代の家は、地面に四角い穴を掘り柱を建てて屋根をかけた「竪穴住居跡」として見つかるのが普通です。中半人遺跡では合計8軒の竪穴住居跡が見つかっています。このうち残り具合の良い2区にある「201号住居跡」について見てみます。
「201号住居跡」は1辺が6m余りの四角形で、掘っていくと長さ1〜1.5m、幅20cnl程、厚さ2〜3pの炭が放射状に並んで見つかりました。また、炭の上下に焼け土のかたまりが広がっていました。炭は屋根(恐らくかやぶき)の支えとなる「垂木」が火災にあって焼け落ちたものと考えられます。炭の大きさなどから当時の屋根の構造を調べる手がかりになりそうです。
 床面には上からみると楕円形〜長方形になる空洞があり、屋根を支えた柱の地面に埋めた部分が腐って隙間になったものと思われます。また炊事場である「カマド」が東壁にあります。
遺物では丸い円盤に穴を開けた形の「石製模造品」が2個、首飾りにしたと思われる「管宝」、「コハク玉」、刃物を研ぐ「砥石」などが出土しています。

 4区で見つかっている竪穴住居跡は幅の狭い調査区で全体の大ささがはっさりしているものがありませんが、同じような四角い住居跡が中心です。

実はこの時代のムラは水沢市西大畑遺跡、北上市猫谷地遺跡などこれまでわずかしか見つかっていませんでした。中半入遺跡で見つかった8軒という数はこれまでで最も多い住居跡数になります。たいへん興味深い事に、この時代は岩手県唯一の「前方後円墳」である角塚古墳が作られた時期にあたります。
角塚古墳は大規模な土木工事でつくられており、この地域の有力者(=胆江地区の王様?)の墓と考えられています。中半人遺跡がこの人物の住んでいた場所かどうかは分かりませんが、何らかの関係はありそうなので、今後詳しく調べる必要があります。

他に住居跡の内外から、「須恵器」と呼ばれる非常に硬い焼き物の破片が見つかっています。須恵器は「窯」で焼かれた土器で、この時代は近畿地方など限られた場所で作られていました。様々な種類の形がありますが、中半人遺跡では儀礼、「蓋坏」、「高坏」、「はそう」などがあります。いずれも県内ではまれにしか出土しません。また宮城県北(宮崎町湯の倉)産の黒曜石を使った石器も大量にあります。他に久慈地方産のコハクなど、遠方から貴重な品々を取り寄せる富を持った人物が遺跡周辺にいたようです。


D平安時代初めの水田
 2区、4区などから白〜灰色の火山灰が見つかりました。さわると小麦粉のようにサラサラして固まりません。厚いところでは30cmの厚さで積もっています。この火山灰を吹き上げた火山は今のところ、十和田湖ではないかと考えています。今でこそ静かな観光地ですが、実は東北地方でも有数の活発な火山で過去いくどとなく噴火を繰り返してきました。最後の噴火による火山灰が10世紀初め頃と言われる「十和田a降下火山灰」で、遠くは仙台まで降り積もっています。中半入遺跡で見つかった火山灰も見た目から十和田a降下火山灰と考えられますが、詳しい分析を予定しています。

 岩手県南部でこのように十和田a降下火山灰が厚く見られる遺跡はありませんが、水で流されて低い所にたまったような様子が見られるため例のない厚さになったと思われます。


 調査でこの火山灰を取り除いたところ直下の黒色土が所々帯状に盛り上がっており、その中の四角い部分が低くなっていました。これが当時の水田の跡と考えられます。つまり盛り上がった土手は水田のアゼで、囲まれた低い部分が水田の一区画になります。現在の水田と比べ山区画がずいぶん小さくなりそうです。


 また、水田の表面には火山灰が点々と広がっており、これを注意して掘り上げると様々な形の穴ボコがまだらになりました。中には大きさが20〜25p程で細長い逆三角形になるものがあり、人間の足跡が含まれているようです。足跡が穴となって残り、火山灰でパックされたような様子なので、農作業の種類や火山灰が降った季節などを知る手がかりになるかも知れません。


E平安時代〜中世?の水田
 この水田として耕作された土層は2区、4区の広い範囲に広がっていますが、最近の水田耕作で上の方がかき回されている部分が多く、2区西側で洪水粘土にパックされた部分から当時の水田の様子がわかりました。水田土層は黒準色〜暗褐色で表面に小さい草か押し倒されたような炭の層が薄く広がっています。その上に粘土と砂が交互に数枚繰り返して積もっています。炭の正体が作付けされたイネなのか、それとも雑草なのか調べてみたいと思います。


 特徴的なのは2区で見つかった南西〜北東にのびる規模の大さなアゼで高さ15〜20cm、上幅1m近くになる部分があります。それより規模の小さいアゼが大アゼから左右にのびて区画を作っています。


 この水田からは時代のわかる遺物が見つかっていないため、いっ頃の水田なのかまだはっきりしていません。洪水の年代、あるいは水田表面に残る炭を分析して時代を調べる必要があります。


 3. まとめ
 今回の発掘調査によって、中半人遺跡は縄文時代から現代に至るまで集落、水田など人々の生活の場となってきたことが明らかになりました。特に古墳時代の集落は数少ない調査例の一つとして注目されます。
 調査は9月まで継続され、さらに来年度も予定されておりますので、当地方の過去の様子が解明されることと思われまず。


おわりに、
 最後になりましたが、本遺跡の調査に御協力いただいた岩手県水沢地方振興局水沢農村整備事務所をはじめ、水沢市教育委員会、胆沢町教育委員会、地元の地権者の方々、作業員の皆様に御礼申し上げます。

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