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羊の屠殺と解体(第23話)

結婚披露宴には羊は欠かせません。屠られた羊の頭数で披露宴の規模が分かるとされています。遊牧民にとっては羊は金銭と同じ貴重な財産であり,めったに口にすることはありません。しかし,特別なイベントのときには必ず羊が出されます。遊牧民のテントを訪問して羊が出されたなら,それは最上級の歓迎を受けていることになります。

東西に長いユーラシアの草原地帯においては羊の屠殺方法には二つの作法があります。一つは「イスラムの作法」であり,もう一つは「チンギスハンの作法」です。草原地帯の西側のイスラム圏ではイスラムの作法で,東側の非イスラム圏ではチンギスハンの作法が根付いています。両者の差は大地に血を吸わせることを是とするか非とするかです。

遊牧民にとっては羊は貴重なタンパク源であり,血を含めて最大限に食べることが求められています。そのため,チンギスハンは大地に血を吸わせることを禁止しており,例えばモンゴルでは次の手順となります。
@羊を仰向けにして腹部を10cmほど切り裂く
A切り口から手を入れ,心臓近くの大動脈を指で切る→即絶命
B頭部を切断し小刀と素手で毛皮をはぐ
C内臓を取り出す
D胸腔に溜まった血を容器に移す

血液はそのまま固めるか小腸に詰めてソーセージとなります。もちろん,頭部も内臓も余すところなく食用になります。

イスラム圏では聖典「クルアーン(コーラン)」に食べられるものと食べられないもの,さらには屠殺方法が規定されています。クルアーンの第二章173には「死肉,血,豚肉,およびアッラー以外の名で供えられたもの」を口にすることを禁止しています。

クルアーンに規定されている食べて良いものは「ハラール」と呼ばれており,食べてはいけないものは「ハラム」と呼ばれています。イスラム圏ではハラール以外の食料は売られることはまずありません。

イスラム教と他の宗教が混在する地域では識別のため「ハラールの店」であることが明示されています。日本にもムスリムの方が大勢居住するようになりましたので,ときおり「ハラール」の表示のある店を見かけます。

しかし,誤って「ハラム・フード」を口にしてしまったり,「ハラム・フード」以外に食べるものが無い場合はどうするのでしょう。クルアーンの第二章173には続きがあり,そこには「だが故意に違反せず,また法を越えず必要に迫られた場合は罪にはならない。アッラーは寛容にして慈悲深い方であられる」と記されています。

スマトラ島沖地震直後のインドネシアではムスリムに対して外国からの援助物資に豚肉などが入っていたとしても食べて良いとするファトワー(イスラム法学者の布告)が出され,公式に食べて良いとされました。もっともムスリム社会では地域により食の禁忌が相当異なっており,国際的な「ハラール・フード」を認定するのは困難です。

クルアーンにより血は「ハラム」となっているため,「イスラムの作法」では大地に血を流すことになり,次のような手順となります。
@屠殺者はムスリムでなければならない
A羊を両足の間に挟んで地面に押さえつける
B「アッラーの御名によって」と唱えながら喉を切り裂く→即絶命
C血がすべて流れるまで放置する
D頭部を切断し小刀と素手で毛皮をはぎ,内臓を取り出す
E肉を切り出す

現在では(衛生上の観点から)毛皮をはいだ本体を柱に吊るし,それから内臓を取り出すことが多いようです。このときは,後ろ足の腱を利用してフックにかけます。都市部の肉屋ではフックで吊るされたものが数頭並んでいます。

イランで遊牧民が羊を屠殺するところを見たことがあります。イランの有名な観光地であるエスファハンに宿泊した時,宿で「ノマドツアー」が募集されていました。ノマドは遊牧民を意味します。

私はこのツアーに応募して総勢8人で出かけました。移動手段は米国でよく使用されている小型のスクールバスです。彼らの夏営地を見学しました。ヒツジの群れはかなり広い範囲に群れを作ってとぼしい緑を食んでいます。ここの牧羊犬は巨大で,私などにはほとんど狼に見えます。見知らぬ人が近づくと激しく吠えますのでかなり恐怖です。

テントでお茶を飲んでいるときドイツ人が「羊を1頭買ってバーベキューをしよう」などととんでもないことを言い出します。ガイドが遊牧民と値段の交渉し70万リヤルということになりました。

シンガポーリアンの一人は羊が食べれないというので7人で等分し,一人あたり10万リヤル(11$)になりました。街でケバブをいくら食べてもこの値段にはなりませんが,遊牧民がどのように羊を解体するのか興味があったので同意しました。

羊は二人の男性に押さえられ喉を切られます。流れ出た血が地面に血だまりを作ります。羊は口を押えられているため声を発することも無く足を痙攣させ,2分後には動かなくなりました。頭部は切断され,胸の部分の毛皮が切り裂かれ,あとは小さなナイフと素手で皮がはがされます。本体と毛皮は意外と簡単に分離できることにちょっと驚きました。

牧羊犬はおこぼれに与ろうと回りに集まってきます。しかし,主人たちが作業をしている間は決して手を出しません。本体がテントのある石垣の中に運び込まれてようやく彼らは地面の血を舐め始めました。

羊の本体は柱に吊るされ内蔵が取り出されます。心臓と肝臓はすぐに串に通され炭火であぶられます。胃はサッカーボールほどに膨らんでおり,中には緑色の物体がつまっています。草食動物の腸は長いと教えられてきた通り,腸は細長くやはり中には緑色のものが入っています。

我々のバーベキューは肝臓から開始されました。遊牧民はミネラルやビタミンに富んだ肝臓を一番大事にします。塩味だけの肝臓の味は悪くありません。この辺りには潅木以外には燃料がないため,火が小さく少し時間がかかりましたが次に肉が出てきます。

ガイドを含めて8人で食べても羊1頭は食べきれません。残ったものは羊の持ち主や近くの遊牧民の人々におすそ分けされます。肉を切っているときに出る腱などの食べられない部分は石垣の外にいる犬たちのごちそうになります。犬たちはよく躾けられており,石垣の中には決して入ってきません。

私たちはスーパーマーケットでパックに入った肉を買うだけですが,多くの国では肉を食べるためには動物を解体したり,肉屋から大きなブロックを買ってくる必要があります。肉を食べるということはそういうことなのです。もちろん屠殺と解体は男の仕事であり,切り分けられた後の洗いや処理は女性の仕事となります。

アジアを旅していると肉屋で売られている肉の種類はすぐに分かるようになり,内臓を抜かれた羊や牛が肉屋の店先に吊り下げられていても動じなくなります。同時に肉を食べるときには不思議と感謝の念が湧いてきます。


眉をつなぐ(第23話)

沐浴を済ませた二人は祖母から眉をつなぐ化粧をしてもらいます。物語の中では「右の母眉,左の父眉,つなぐ眉は父母の愛,夫婦相和し幸多からんことを」という意味が込められていると説明されています。

この化粧はチュルク系民族の一部に伝わるもののようです。パミール高原を挟んだ西トルキスタンと東トルキスタンの両方でこの文化を見ることができます。私は中国西域のウルムチでこの化粧をした女性を見かけました。

最初は菜っ葉のようなものを売っている女性たちを写真に収めましたが,彼女たちの眉がつながっていることが分かり,もう一度アップで撮らせてもらいました。調べてみると彼女たちが売っていた菜っ葉がこの化粧の材料でした。

物語の中では祖母が植物の葉を揉んで,その汁を使用しています。現地では「ウスマ」と呼ばれている植物はインディゴ(藍)の仲間のようです。

通常の藍染は藍の色素(インジゴ)を使用しますが,インジゴは水に不溶性です。そこで,インジゴを長期間かけて発酵させ,微生物を利用して還元し,水溶性にしてから繊維に染み込ませます。繊維に染み込んだ状態で自然に酸化され,再びもとのインジゴに戻りますので着色が可能となります。

それに対して新鮮な藍の葉に含まれているインジゴの前駆体(無色)を繊維にしみ込ませ,その状態で繊維中でインジゴを生成させて染める方法もあります。これを「生葉染め」といいます。この方法は単に葉を揉んで絞った汁をそのまま利用します。

これが,チュルク系の女性たちが採用している方法と思われます。彼女たちにとっては眉をつなぐ化粧は一般的なものであり,特に農村部ではよく見られるようです。私もこの化粧を期待してウズベキスタンを旅行しましたが,観光地ではまったく見かけませんでした。


披露宴(第23話)

中央アジアの家族制度の特徴は「大家族制」と「家長制度」です。また,親族の絆が非常に強い土地柄であり,地域社会の連帯がとても強く機能しています。それは,厳しい自然環境と8世紀頃からこの地域に入ってきたイスラムが結び付いた結果です。

ロシア支配を受ける前の19世紀の中央アジアではこのような伝統がしっかりと機能していました。その後,中央アジアはロシアに支配され,さらにソ連邦に組み込まれることによりロシア化が進みます。それでも,家族制度や地域社会の伝統は多少変容しながらも現在に受け継がれています。

特に結婚式は結婚する二人の祝いの席であると同時に,花嫁の親族・地域社会と花婿の親族・地域社会が新しい関係をもつお祝いの席でもあります。そのため,結婚式には大勢の人々が招かれ,花嫁側,花婿側で盛大な祝宴が執り行われます。

そのような準備はすべて家族や親族によって行われます。もちろん,大量の料理の準備は多くの人手を必要としますので,地域社会の女性たちは応援にかけつけます。このように書いていると,伝統的な中央アジアの結婚式は日本の伝統的なそれとずいぶん似ているという感じを受けます。

中央アジアにおける結婚式(披露宴)のスタイルは地域により異なり,一概にこういうものだとは言えません。大きな流れとしては下記のようになります。
(1)花嫁の家において披露宴が行われる
(2)花婿が花嫁の家に迎えに来る
(3)イマーム(宗教指導者)と二人の証人の前で結婚の儀式を行う
(4)花嫁は親との別れの儀式を行う
(5)花嫁は女友だちといっしょに花婿の家に向かう
(6)花婿の家におけて披露宴が行われる
(7)翌朝,花嫁の挨拶という儀式が行われる

花嫁の実家および花婿の実家における披露宴はイスラムの教えに則り,男女別となります。物語の中では女性は家の中で,男性は家の外で伝統料理をいただくことになります。物語の中では双子の花嫁はまったく食事ができないように描かれていますが,19世紀にはそのような習慣が残っていたのかもしれません。

イスラム社会においては女性は多くの制約を受けますが,女性だけの場ではその制約はほとんど無くなり,飲食とおしゃべりと踊りで盛り上がります。花嫁ももちろんそれに参加することができます。

遊牧生活の名残なのでしょうか,中央アジアでは床に敷物を敷いて,その上で食事をする習慣があります。移動式住居から固定式住居に変わってもそのスタイルは引き継がれています。

地域の食事のメインはプロフ(作中では焼き飯と表現されています)であり,結婚式の当日には結婚プロフといって両家で作ったプロフを交換する慣わしもあります。

日本の古い結婚式が地域により多くの伝統をもっているように,中央アジアでも地域により様ような結婚式のスタイルがあります。イランの遊牧民の伝統的な結婚式では花嫁の実家で両親とのお別れの儀式が行われ,父親は別の場所で行われる披露宴に出席できません。

現在ではホテルなどで披露宴が行われるので見知らぬ人が紛れ込むのは難しいのですが,田舎の結婚披露宴はオープンですので日本人旅行者がふらりと参加しても歓迎されます。私もウズベキスタンで何回か記念撮影中のカップルや集団を見かけました。そのまま後をついていけば披露宴に参加できたのではと悔やまれます。

イスラム社会における結婚の重要なポイントはキリスト教のように「死が二人を分かつまで」夫婦として暮らすことを神の前で誓うというものではなく,人間同士の契約として扱われていることです。双子の結婚の儀式に二人の叔父とイマームが出席したのは結婚の証人としてです。

結婚が人間同士の契約ですからイスラム社会では離婚に関する制限はありません。イスラムでは人間は弱いものであることが前提となっていますので神に誓いを立てた永遠の愛が結婚の条件とはなっていません。

もっとも,イスラム社会といえども結婚や離婚については民族や部族の慣習が入りますので,地域により大きく異なります。ともあれ,結婚の儀式が終わるとあとは飲めや歌えやの披露宴が繰り広げられます。

花婿の一行(第24話)

サームとサーミが盛装で双子の花嫁を迎えに行きます。中央アジアに限らず南アジアや北アフリカでも結婚式はにぎやかなほど二人にたくさんの幸せがくるという考えがあり,鳴り物入りの花婿の行列が町を練り歩くことになります。自動車が普及しても花婿は馬に乗るのが慣例のようです。

物語の中ではカルナイという長いラッパのような楽器を吹き流しながら行進します。サームとサーミの実家と花嫁の実家はほとんどお隣さんですが,村を一回りしてから花嫁の実家に向かいます。

花婿到着の知らせを受けると双子の花嫁には厚い布がすっぽりとかけられます。これは結婚式が終わるまで花嫁は新郎側に顔を見せない慣習によるものでしょう。二組の新郎新婦は正面のじゅうたんの上に並んで座ります。

ここで新郎新婦はおとなしく座ってイマームが到着するのを待つことになるはずですが,活発な双子はもう何もしないことに耐えられないようになり,布団を立ててそれに布を被せて部屋を脱出し,危ないところで戻ります。イマームにより結婚の儀式が執り行われようやく花嫁は顔を見せることができます。

寝具(第26話)

双子の花嫁の背後には2組の新しい寝具が積み上げられています。中央アジアでは寝具や敷物は花嫁側が嫁入り道具として揃える習慣があります。そのため花嫁の持参品として彼女たちの後ろに積まれています。

双子の住んでいる地域の家屋は固定式のものであり,床に敷物を敷き,その上に敷布団を敷きます。当然,朝になると布団をたたみ,部屋の隅に積み上げ,その上にきれいな布をかけることになります。遊牧民の移動式住居でも同じような寝具が使用されます。これは日本ととてもよく似ている文化です。

中央アジアと日本の間には寝台文化の中国があります。中国から多くの文化を学んだ日本にも寝台文化は入ってきました。しかし,日本の家屋は土間と板敷の部分が分離され,そこで履物を脱ぐ習慣が定着し,寝台は廃れることになります。同じ寝具文化をもっているので中央アジアを訪れた日本人はきっと親近感を覚えることでしょう。

余談ですが,現在の中央アジアの伝統的な固定家屋では入り口で履物を脱いで部屋に入ります。ヨーロッパのように土足で室内に入る文化ではベッドは必需品でしょう。


水餃子(第26話)

エイホン家の女性たちが昼食のために水餃子をたくさん作ります。カルルクはおいしいとたくさん食べました。中央アジアでは水餃子が常食されており,レストランでも市場の食堂でも食べることができます。双子の結婚式の場面でも餃子づくりの場面が描かれています。

具を小麦粉の皮でくるみ加熱調理する食べ物はユーラシア大陸の中緯度地域のほぼ全域で見られます。このような食べ物の起源がどこにあるかを調べるのは困難であり,西アジアもしくは中国という二つの説が併存しており,現在でも定説はありません。

西アジア説ではトルコから中央アジアを起源地としており,そこから東西に広まったということになります。中国説では中国北部を起源地としており,そこからはるばるヨーロッパまで伝播したということになります。

食べ物のように後に残らないものは文献等に頼ることになりますが,必ずしも各地の文献がそろっているわけではありませんので餃子の起源と伝播について定説が確立するのはまだまだ先のことになりそうです。起源地の特定は難しいので餃子様の食べ物の各地域の呼称を調べてみましたら下記のようになります。

日本
餃子
韓国
マンドゥ
中国
餃子(シャオズ)
モンゴル
バンシ(バンシュ)
ウズベキスタン
マンティ
グルジア
ヒンカリ
トルコ
マントゥ
ロシア
ペリメニ
ウクライナ
ヴァレーヌイク
ポーランド
ピエロギ
イタリア
ラビオリ
ドイツ
マウルタッシェ


中央アジアのウズベキスタン,キルギス,カザフスタン,アフガニスタンでは「マンティ」となっており,調理法は蒸すもしくは茹でます。トルコから中央アジア,韓国とつながる「マントゥ」系の呼び名はなんとなく餃子の起源地を類推させます。これでモンゴルが「マントゥ」系の呼称であれば西アジア起源説に軍配を上げたいところですが,そうはなりません。

餃子の最古の化石(痕跡)は中国・新疆ウィグル自治区トルファンのアスターナ遺跡で唐代の古墳群から見つかったものです。ただし,これは発見された最古の痕跡であり,餃子の起源地がこのあたりであることを意味してはいません。

隋・唐に先立つ五胡十六国・南北朝時代の西域は北方遊牧民に支配されており,トルファン・オアシスが唐王朝の支配下に入ったのは7世紀のことです。遊牧民文化が浸透していますで,ここで発見された餃子は中国が起源という証明にはなりません。

そもそも具を皮で包むという調理法は遊牧民の文化です。そう考えると西アジアあるいは中央アジアで生まれた餃子様の食べ物がチュルク系民族の大移動(拡散)とともに広まったとも考えられます。餃子を調べるとユーラシアを横断した気分になるというのは言い過ぎでしょうか。


お茶

物語の中にはお茶を飲むシーンがたくさん出てきます。ロシアの影響がなかった19世紀初頭の中央アジアでどのようなお茶が飲用されていたかは文献が少なくてはっきり分かりません。

茶葉を利用する歴史は2700年ほど前の中国南部(四川省・雲南省)に始まり,当初は薬用として使用されていました。これが漢の時代には北部に伝わり,せんじ薬の文化をもっていた漢人によりお湯で煎じるお茶に発展したと推定されます。

嗜好品のお茶の歴史はおよそ2000年ということになります。唐代(618-907年)には華北にもお茶の習慣が広まり,さらにお茶は中国から交易品として陸路で周辺国にもたらされました。

有名な「茶馬古道」は四川省・雲南省を起点にチベット,ビルマ,インドに通じていました。このルートは茶葉とチベットの馬を交換したことから「茶馬古道」と呼ばれています。

13世紀にモンゴル帝国が隆盛し東アジアと西アジアが一つの民族が支配するようになり,中国(元王朝)のお茶は広く旧世界に広まっていきました。前節の餃子もこの時期にユーラシアのモンゴル支配地域に広まった可能性もあります。

この時期にお茶の形態が変化します。遊牧民族は移動のため運搬に便利なお茶が必要でしたので,固形のお茶(緊圧茶)が生み出されました。固形のお茶は一般的に「団茶(だんちゃ)」と呼ばれ,茶葉を蒸してから臼を使って砕き成型したものです。

「団茶」はかさばらないので中央アジアにも広く伝播しました。19世紀初頭の中央アジアで飲まれたいたのはおそらく「団茶」であったと推定されます。「団茶」は現在でもプーアル茶や六堡茶として飲み続けられており,モンゴルなどの遊牧民の間でも飲用されています。

現在の中央アジアは「紅茶」と「緑茶」が混在しており,「団茶」は残っていないようです。中央アジアには陸路でお茶がもたらされたためウズベク語のお茶は「choy(チョイ)」,紅茶は「qora choy(カラチョイ)」と呼ばれています。日本語では「紅茶」ですがウズベク語では「黒茶」です。ロシア語では「チャーイ」ですから,こちらも陸路伝播の言葉が使用されています。

世界におけるお茶の呼び名は大きく「チャ」系統のものと「テー」系統のものがあり,どちらも中国語起源です。「チャ」は広東語での呼び名であるチャ(チャー,ツァー)に由来し,「テー」は福建省の方言のテーに由来します。

「テー」は大航海時代の17世紀にオランダの商人がたまたまアモイからお茶を運んだため方言がヨーロッパにもたらされており,ヨーロッパの国は一様に「テー」系統の呼び名となっています。

それに対して陸路でお茶が伝播したユーラシア地域の呼称は「チャ」系統となっています。これらの地域に旅行してお茶が欲しいときは「チャー」といえばだいたい意味が通じます。

ヨーロッパでも当初は緑茶でしたが,ある時期から紅茶に変わっています。紅茶はウーロン茶と同じ発酵系のお茶であり,ウーロン茶との差は葉に含まれるタンニンの発酵度合いによります。この発酵により茶葉は黒っぽく変色します。

紅茶は中国でヨーロッパ人の嗜好に合わせて強く発酵させることにより生まれたとされています。お茶の木と栽培技術は厳しい禁輸となっており,現在,世界最大の紅茶生産地のインドで野生種の茶木が発見され栽培が開始されたのは19世紀のことです。

ちなみに「緑茶」は非発酵系であり,摘採したばかりの生葉を(酸化酵素の働きを止めるため)すぐに蒸気でまんべんなく蒸します。これにより発酵は進まなくなり,茶葉は緑色のままとなります。


ガゼル(第26話)

唐突にガゼルの絵が出てきて驚かれた読者の方も多いのではないでしょうか。ガゼルは東アフリカのサバンナに生息しておりチーターやヒョウが獲物としている動物です。しかし,ガゼルの起源地はユーラシアと考えられています。

ガゼルの仲間はウシ科・アンテロープ亜科に含まれており,自然生息地はユーラシアとアフリカとなっています。中央アジアに生息しているのものは「モウコガゼル」でしょう。wikipedia では体長110-148cm,肩高62-76cm,体重28-40kgというデータが載っていました。

モウコガゼルの分布域は広く,ユーラシアの草原ベルトを中心に北の森林ステップ,南の砂漠地帯にかけて生息しています。当然,アミルの嫁ぎ先の周辺にもたくさん生息しているはずです。

東アフリカの草食動物は肉食動物から身を守るために大きな群れを作ります。しかし,ユーラシアの広い草原地帯ではモウコガゼルは小さな群れで散らばって生活しています。しかし,出産時期になるとメスは数100kmも移動し,広い草原の特定の場所に大集結して10日ほどの間にいっせいに出産します。

草食動物にとっては出産時期がもっとも危険であり,子どもたちも数がまとまればそれだけ肉食動物に捕食される危険確率が小さくなります。中央アジアのどこかの草原でも100万頭もの大集結が見られるのかもしれません。

ウシ科は現生のウシ亜目の中でも最大のグループであり,漸新世(約3400万-2300万年前)に出現し,4つに分かれた胃で効率よく草を発酵・消化することによりユーラシア大陸で繁栄します。

草原ができるまで地球は森の惑星であり,大陸の大半は森林に覆われていました。しかし,600万年ほど前から地球の乾燥化が進み,草原ができました。草は森を駆逐して草原を作り出しました。

草にとって最大の武器は燃えやすいことです。落雷などにより簡単に燃え広がり,野火は広い範囲を舐めつくします。樹木は一度焼かれると回復は遅いので,その間に草は広い範囲を草原に変えてしまいます。

600万年前の草原の出現により草食動物のグループのうち食料を木の葉から草に転換したものは大きく繁栄することになります。その代表的なものがウシ科の動物です。ユーラシアとアフリカの間に陸橋ができるようになるとウシ科の動物はアフリカに進出します。

そこでも草を効率的に消化できる能力により先住の草食動物に対して優勢となっています。サバンナを代表するオグロヌー,ガゼル,アフリカスイギュウなどはウシ科に属しています。


山羊に乗る(番外編)

アミルの町で子どもが崖の斜面から滑り落ち,なんとか小さな灌木にしがみついて助を求めています。すると祖母が「山羊を連れておいで」と立ち上がり,大きな山羊に乗って出ていこうとします。

サニラが驚いて止めようとしますが,祖母は山羊を操って崖を登り始めます。急峻な崖のわずかな突起を的確にとらえて山羊は崖を登り切り,子どもの救助に成功します。この話を見てう〜んと唸ってしまいました。

確かに野生山羊の仲間には体重が100kgの大型のものでも急峻な岩場を住処としているものがあり,足をちょっとでも踏み外したら谷底へ真っ逆さまという崖を勢いよく駆け下りたり,飛び跳ねたり自由自在に動き回ることができます。

このような優れた身体能力を有している山羊であれば少なくとも人間が乗っていなければ子どもがしがみ付いている崖を登るのはなんでもないことです。しかし,体重がそれほどないとはいえ人間を背負って崖を登るのは大変なことでしょう。

祖母も慎重にバランスを崩さないように山羊を操ります。おそらく,この山羊は祖母を乗せていたのでしょう。二人の息はぴったり合い,難しい仕事を成し遂げます。

ヨーロッパには人が山羊に乗った造形が数多くあり,一つの文化となっていたようです。中央アジアでも女性は山羊に乗る文化があったのかもしれません。しかし,中央アジアの女性は馬やロバを使用するのが一般的です。


馬と放牧地と遊牧民族(第29話)

第6巻の主要テーマは牧草地を巡る争いです。ユーラシア大陸の北緯40-45度あたりは乾燥地帯となっており,カスピ海の西側からキジルクム,カラクム,ジュンガル,ゴビと砂漠がベルト状に連なっています。

その北側の北緯45-55度あたりはステップ気候(BSk)となっており,、ステップとよばれる丈の短い草原地帯がベルト状に連なっています。年間を通して降水量は少なく,雨季には少量の雨が降り,昼と夜の気温差が大きな気候帯です。

土壌は豊かであり植物の自生は可能ですが,降雨量が少ないため森林は育たず,農耕には不向きな土地です。草原地帯の土壌はわずかな水分で生育する草により守られてきました。

この草原地帯には羊などの家畜を飼育して生計を立てている人々が暮らしています。草原の草は季節や少ない降雨により変化します。また,たくさんの家畜を1か所に定住させると厳しい環境の草原はすぐに劣化してしまいます。

旧ソ連時代にはカザフスタンの草原地帯を大型機械を投入する大規模農耕地に変えようとしましたが,土地の乾燥化を招き,多くの農耕地は放棄されました。このことは自然に逆らって人間の都合のよいように自然を改変する行いは持続可能なものではないことを教えてくれます。

現在でも多くの半乾燥地域では家畜の過放牧により植生が劣化し,砂漠化が急速に進行しています。草原に暮らす人々にとって草原は生活の源ですので,草原を持続的に利用する知恵が生み出されました。それが「遊牧」です。

もともと羊はより新鮮な草を求めて草を食みながら移動するという性質をもっており,そこから人間が草原の持続的な利用について学んだという側面もあります。

現在は国境という人為的な境界線により人の往来は管理されるようになりましたが,それ以前は遊牧民が家畜とともに1年に1000kmを移動することも珍しくはありませんでした。

羊とともに移動する遊牧民にとって移動手段は必要不可欠です。その移動手段が馬ということになります。羊と馬の組み合わせにより,初めて草原における「遊牧」が可能になったといっても過言ではありません。

ウマの祖先はユーラシア大陸と北米大陸に広く分布していました。それらは,ベーリング海峡が凍結している時期にはユーラシアから北米へ,あるいは北米からユーラシアへ移動していました。

ウマにつながる種は少なくとも5000万年前に北米の森林地帯で暮らしていたと考えられています。大きさはキツネ程度でした。その後,北米大陸の乾燥化が進み,ウマ科の祖先は敵から逃れるための敏捷性と草を食べるのに適した歯を獲得し,草原で暮らすように進化していきます。

北米で進化したウマ科の祖先の一部は250万年前の気候変動によりユーラシア大陸に移動し,そこで進化を遂げた種が北米大陸に再移動しています。この種の中から現在のウマの直接の祖先が現れ,彼らはユーラシア大陸にも拡散していきます。

この種はユーラシア種と北米種に分かれ,北米種は1.1-1.2万年前に絶滅しています。この原因は気候変動によるものとする説と人類の狩りによるものとする説が並立しており,決着はついていません。西部劇では「ムスタング」と呼ばれる野生馬が登場しますが,それは大航海時代以降にヨーロッパ人により持ち込まれた馬の子孫です。

北米種が絶滅した頃,ユーラシアにおいても馬は絶滅寸前まで減少したようです。こちらは人為的な影響が大きいとされています。馬は長い間,人類にとっては肉と毛皮と目的とする狩猟動物であったようです。

人類と馬の関係が変化したのは約6000年前の頃です。それは馬を家畜化し騎乗するようになったからだとされています。最大の天敵が保護者になったことにより,馬は絶滅をまぬがれ,人類とともに数を増やしていきました。

とはいうものの,馬に騎乗することは簡単ではありませんし,飼育には羊よりはるかに手がかかります。それでも騎乗のメリットは大きく,馬を安定的に乗りこなすためハミとアブミという2つの馬具が発明されています。

ハミは馬の口に含ませ,両端は騎手が持つ手綱と接続されており,騎手の意思を口への刺激として馬に伝える役割をもっています。現在のハミは金属製であり,馬はそれを噛むように見えます。

馬の歯は大丈夫なのかと心配する方もおられるかもしれませんが,馬の歯は前歯と奥歯の間に歯の無い部分があり,ハミはこの部分に通されますので,馬がハミを噛むことはありません。ハミが発明されたことにより,馬は騎乗用の家畜としての途が開かれました。

アブミ(鐙)は鐙革で鞍から左右1対を吊り下げ,馬に乗るときおよび騎乗しているとき足を乗せるものです。アブミは4世紀に中国で発明されました。

馬に乗って走らせるとき,騎手の足の支えがないと不安定になりますので,騎手は両足で馬の胴を挟みつけるようにしていました。アブミの発明により,騎乗時の不安定さは解消され,馬上で武具を扱うこともできるようになりました。

ユーラシア大陸の遊牧騎馬民族として最初に登場するのが「スキタイ」です。彼らは紀元前7世紀から前3世紀ごろ,カザフスタンから黒海北岸あたりまでの草原地帯を支配した民族です。

スキタイの時代にはアブミはありませんでしたが,軽騎兵は強大な戦力となりました。馬に乗ると草原を見渡すことができますし,家畜を制御するための移動も容易となり,遊牧の生産性は劇的に向上しました。

この時期から草原地帯の遊牧民は馬をよき伴侶として家畜を飼育する生活様式を確立しました。さらに,馬や牛に引かせた荷車を使用することにより,荷物を乗せて遠距離を移動することが可能になります。

遊牧民は草を求めて季節ごとに草原を移動するため複数の良い放牧地が必要になります。遊牧民にととっては放牧地の有無は死活的に重要な問題です。遊牧民は部族あるいは氏族ごとに行動するため血縁が重視されます。

アミルの実家となるハルガルは地域の有力部族であるヌマジに娘を嫁がせ,それにより縁戚関係の恩恵を受け,牧草地には不自由しませんでした。ところが,嫁いだ娘がひどい扱いを受けて死亡したためヌマジは放牧地から出ていくよう伝えます。

良い遊牧地なしにはハルガルの所有する家畜はこの冬を越せそうにありません。ハルガルの族長(アゼルの父)はロシアと結んでいるパダンの力を借りてエイホン家のある村を襲撃して,その放牧地を奪い取ろうとします。

う〜ん,この話の進め方には異議ありです。中央アジアの中緯度乾燥地帯は砂漠地帯とその北側の草原世界に分かれます。砂漠地帯では農耕も家畜の放牧もできません。人々が暮らしているのは水が得られて農耕が可能なわずかなオアシス世界です。

もちろん,オアシス世界にも家畜はおりますが,放牧地が広がっているわけではありません。また,19世紀のオアシス世界ではヒヴァ,ブハラ,コーカンドなどの藩王国が存在しており,外部からの侵略があった場合は軍隊が出動するとになります。つまり,いちおう国家としての体制は整備されていますので,牧草地という土地を奪うことはできません。

それに対して,草原世界ではいちおう藩王国の体裁はあっても,それは基本的には部族連合にすぎませんので,牧草地を巡る部族間の争いに対する仲裁機能はそれほど期待できなかったと考えます。

そう考えると,草原世界の放牧地争いをオアシス世界にもってくるのは無理があります。また,草原世界の遊牧民は大半の生活物資は自給自足していましたが,一部の食料やある種の物資はオアシス世界に頼らざるを得ませんでした。遊牧民にとってオアシス世界は重要な交易相手であり,彼らなしには遊牧生活は成立しないという事情もあります。


ロシア製の武器(第30話)

ハルガルの族長は地域の有力部族であるパダンに協力を求めます。物語の展開からするとパダンも遊牧部族ということになりそうですが,定住地をもち,ロシアから小銃や軽量砲を購入して(支給されて)います。

このような武器,特に軽量砲は遊牧生活にとっては役に立たないものであり,移動生活を繰り返す遊牧民にとってはお荷物となります。遊牧生活の基本は家畜と必要最小限の生活用具であり,財産を蓄積するには不向きな生活様式なのです。

また,近代兵器はとても高価であり,数をそろえないと威力が発揮できないものです。物語の時代は19世紀の前半ですから,日本の幕末の数十年前になります。この時期の小銃の主流は「雷管式マスケット銃(先込め式滑腔小銃)」と呼ばれており,銃口から装薬と弾丸を詰める先込め式で,ライフルは切られていません。

火縄の代わりに雷管を使用するようになったものの火縄銃と大差はありません。明治維新で官軍が使用した「エミュー銃」ができたのは1846年のことです。パダンの族長は「先込め式も元込め式」もあると説明していますが,装薬と弾丸を銃口から詰めるか,雷管の近くで詰めるかという差はあるだけで,1回発射すると面倒な火薬と弾丸の装填をしなければなりません。

この時期のカートリッジ(薬包)は計量済みの火薬(点火薬,装薬)と球形の鉛の弾丸が一緒に油紙などに包まれたものであり,火縄銃の時代と大差ありません。日本でも火縄銃は歩兵(足軽)の扱う武器であり,弾込めに時間がかかることから,鉄砲隊は騎馬隊や槍隊に守られた集団でした。

有名な「長篠の戦い」で織田軍は鉄砲隊で殺到する武田の騎馬隊に多大の損害を与えました。後世に伝えられる「鉄砲の三段撃ち」が可能かどうかは分かりませんが,鉄砲隊を守ったのは「馬防柵」と呼ばれる馬止めの柵でした。

ナポレオンのエジプト遠征時(1778年)にカイロ近郊のナイル川河畔において,マスケット銃で武装し,方陣隊形を組んだフランス軍は待ち構えていたエジプトのマムルーク騎馬隊をあっさり打ち破っています。小銃の力は数の力であり,そのような力は国の単位でなければ威力を発揮できません。

つまり,騎馬戦闘を主体とする遊牧民族同士の戦闘においては連射の可能な弓矢の方がはるかに有用な武器になります。逆にエイホン家のある村落に200丁ほどの小銃と弾薬があれば家屋を盾にして行政所のある街の中心部は守れたでしょう。この時代の小銃は数の力でなければ威力を発揮できないのです。もっともそうなると,物語がうまく進行しません。

バダンの所有しているロシア製の武器には軽量砲(絵柄からするとカノン砲)もありました。これは遊牧民にとってはほとんど価値のないものです。大砲が効果をもつのは正規軍同士の大規模な戦闘や城壁に守られた城砦を攻略するような場合です。

この時代の大砲は移動が大変であり,有効射程距離は600-800m程度です。18基の大砲を100人以上の人数で時速4kmほどの速度で移動させ,街から数百mほどのところまで近づいてくるまでまったく気が付かないということはありえません。

このような情報は速やかに藩王の知るところとなり,正規軍が侵略者を迎え撃つことになります。都市の住民は藩王に税金を支払うのはこのようなときに保護してもらうためです。物語の中でも戦闘が終了した頃に藩王の治安部隊が到着しています。

大砲(前装滑腔式野戦砲)はナポレオン戦争では大きな役割を果たしました。しかし,現代の大砲とは相当異なるものです。大きな差異は射程と砲弾です。当時の有効射程は最大でも1000mほどであり,砲弾は炸薬のない砲丸が主流でした。

つまり,球形の鉄球や石球を装薬の爆発力で飛ばす装置です。マスケット銃と同様に大砲も砲口から装薬と砲弾を入れ,砲尾近くの火口から火を入れて発射します。

戦闘場面では着弾した砲弾が爆発しているように描かれています。とすると,この砲弾は砲丸の内部に炸薬を入れた榴弾ということになります。当時の大砲では榴弾を発射するものはカノン砲に比べて砲身がずっと短い臼砲ですが,確かにロシア製の大砲にはカノン砲と類似形状で榴弾を発射できる榴弾砲があります。

しかし,この時期の榴弾は着弾時の衝撃によって起爆する瞬発信管は備えておらず,砲弾が目標の近くもしくは目標に到達した時に爆発させるためには時限信管を適切に操作する必要があり,部族の軍事知識では難しかったことでしょう。当時の大砲の主流は重い球体を敵陣に打ち込み,その運動エネルギーで敵を死傷させるものでした。


イランへ(第36話)

英国人のスミスと案内人のアリはイランに到着し,地域の富豪の家に滞在することになります。18世紀初頭のイランはガージャール・ペルシャです。

繁栄を謳歌しイスファハーンを世界の半分と言わしめたサファビー朝が滅亡した後,この地域は混乱しますが,それを統一したのがガージャール朝です。ガージャール朝の版図はほぼ現在のイランと重なります。

この時期,ペルシャには地域大国の面影はなく,その領土は南の英国と北のロシアの緩衝地帯の役割を果たすだけのものになっています。ガージャール朝は軍事力を部族勢力の提供する兵力に依存していたため,権力基盤は弱く,地方太守に任じたガージャール一族も独立傾向を強めていったため,国内統治は安定していませんでした。

スミスとアリが滞在した「富豪の家」は平民階級のものとしては立派すぎます。第36話の冒頭に出てくる水の豊かな庭園と家屋はまるで王侯貴族が贅を尽くして造営した離宮や迎賓館のように見えます。

イランの水源は南部のザグロス山脈,北部のエルズルブ山脈にあり,高い山の無い東部は広大な砂漠となっています。そのような土地で物語にあるような贅沢な水と緑の広い庭園を所有できるのは地方の太守クラスであったことでしょう。


モスク(第37話)

スミスとアリは街で一番のモスク(イスラム寺院)に案内され,その建築と壁面装飾の見事さに感嘆します。

日本ではイスラム教と呼ばれていますが正式には「イスラーム」であり,「神への絶対的な服従」を意味します。つまり,「イスラーム」にはアラーへの帰依という宗教的側面とムスリム(イスラム教徒)としての社会や人間関係を規定する側面をもっています。

その成立時からイスラームは政教一致の原理が働いていました。ムハンマドの時代のムスリム共同体から正統カリフ時代を経て初のイスラム王朝であるウマイヤ朝が成立し,それ以降のイスラム王朝は,宗教権威者(カリフ)あるいはクルアーンの中で「神に由来する権威」を意味する君主(スルタン)が国・帝国を統治してきました。

中世のキリスト教国家では世俗的権力者である国王・皇帝と宗教的権威者である教皇はとりあえず分離されていました。それに対してイスラームにおいては近代まで政教一致の政体が続いてきました。

この差異が近代国家の形成に大きな影響を与えました。キリスト教社会では政教分離により民主主義社会に移行することができましたが,イスラーム社会では現在に至るまで一部の国を除き政教分離が実現せず,民主主義も不十分にしか機能していません。

早い時期に政教分離を実現したトルコ,エジプト,イランにしてもイスラムへの回帰という揺り戻しがあり,イランはその力が極端に働きイスラーム原理主義国家に変貌しています。逆にイスラーム社会においては政教一致の政体の方がずっと安定感があるのも事実です。

イスラームにおいてはキリスト教でいう「聖職者」は存在しません。信仰は個人とアラーの間で直接交わされるものであり,そこに聖職者が介在する必要はありません。

イスラームでは日に5回の礼拝が義務付けられ,お昼の礼拝はモスクに集まってみんなで行うことが奨励されています。このため,イスラーム社会には必ずモスクがあり,人々は集い,一斉に礼拝を行います。

特にイスラームの安息日である金曜日の集団礼拝は重要とされ,街でもっとも大きなモスクは「金曜モスク(マスジド・ジャーミー)」と呼ばれます。モスクは礼拝所であり,聖職者はおりません。代わりに宗教指導者が説話を行います。

イスラームにおいては礼拝は五行の一つであり,モスクは天国への入り口とされてきました。そのため,金曜モスクは天国を思わせるような美しい装飾で飾ら,タイル装飾技術が花開きます。

中でもイラン,トルコ,ウズベキスタンではタイル装飾技術が芸術の域まで高められました。この地域を旅行してモスクやマドレサ(神学校)の外壁あるいは内壁や天井を飾るタイル装飾を見ない手はありません。もちろん,そこは宗教施設ですから地域のルールを守った服装やふさわしいふるまいが求められます。

イスラーム世界の宗教施設の基本は「ウマイヤド・モスク」にあるように,長方形の敷地を回廊もしくは付属の建物で囲い,内側を大きな広場とし,メッカの方角に敷地と同じ幅の礼拝堂を配置する構造です。

ササーン朝ペルシャの時代にモスクの四辺に「イーワーン」と呼ばれる少し奥行きのあるアーケード状の小ホールを置き,大ドームをもつ礼拝堂本体を「イーワーン」の背後に配する様式が生まれました。「イーワーン」はモスクの内と外をつなぐ空間であり,礼拝堂と中庭をつなぐ空間にもなります。

「イーワーン」の壁面や大ドーム,礼拝堂内部は華麗な装飾タイルで飾られ,イスラーム宗教建築物の一つの到達点となりました。ササーン朝の時代,ペルシャは地域の大国でしたので,新しいモスクの様式は中央アジアやエジプト,インドに広まりました。

イスファハーンにはササーン朝ペルシャがその財力を惜しみなく注ぎ込んだ「世界の半分」と呼ばれる広場があります。この広場はイスファハーンでもっとも人気の高い観光地であり,中でも南に面した「マスジェデ・イマーム」は最高のイラン装飾タイルが見られるところとして必見です。

モスクの語源はアラビア語の「ひざまずく場所」を意味するマスジド(マスジディ)です。イスラムがスペインを支配したときスペイン語のメスキータとなり,それが英語ではモスク(mosque)となりました。

当然,イスラーム圏では「モスク」ではなく「マスジド」が一般的に使われており,現地の人に「●●モスクはどこですか」とたずねても通じないことがあります。まあ,たいていの場合は●●という固有名称の部分で理解してもらえることが多いようです。

マスジェデ・イマームをイマーム広場から見ると堂々としたイーワーンがモスクの入り口となっています。その右側にある大きなドームが主礼拝堂であり,その前もイーワーンが配されいます。

しかし,入り口のイーワーンと主礼拝堂は一直線になっていません。これは,広場がメッカの方向を向いていないことが原因となっています。入り口のイーワーンは広場の辺に合わせますが,礼拝堂はメッカの方向に合わせるため,入り口に対して約45度曲げられています。

入り口のイーワーンおよび主礼拝堂の内部は精緻な装飾タイルで飾られています。また,礼拝堂上部のドームもすばらしい色のタイルで覆われています。モスクの門や壁を飾るタイル装飾はイスラム建築ともに発展し,「モザイクタイル」と「絵付けタイル」の2つの技法が用いられています。

歴史的にみると11世紀のセルジューク朝の時代,素焼き煉瓦と釉薬をかけた煉瓦および簡単な模様のタイルを組み合わせた幾何学模様により建物を装飾していました。

しかし,この技法では複雑な紋様は作り出せないので13世紀頃には「モザイクタイル」の技法が発明されました。「モザイクタイル」は単色で正方形のタイルを焼き,それを目的の絵柄に合わせて削り,たくさんの断片を組み合わせて大きな絵柄パネルに仕上げるものです。

この技法を使用するとどんな複雑な模様も表現することができます。また,この技法は曲面にも適用することができますので,ドームやイーワーンのアーチの天井部分を飾るスタラクタイト(蜂の巣状になった装飾要素,鍾乳石装飾とも呼ばれる)をタイルで覆うことができるようになりました。

一方,「絵付けタイル」は大きな絵柄を分割して正方形のタイルに絵付けして焼き上げたもので,タイルを張り合わせると目的の絵柄ができます。「絵付けタイル」はモザイクに比べてずっと簡単に作ることができますので,この技法が確立された以降は場所を選んで使用されるようになりました。

「モザイクタイル」は美しいがコストがかかり,たとえばマスジェデ・イマームのようにモスク全体を装飾しようとすると大変な手間がかかります。サファビー朝の時代にはすでに両方の手法が使用されていました。

イーワーンのアーチの天井部分はイラン独特の「鍾乳石飾り」が施されており,その部分もタイルで覆われています。また,主礼拝堂のドームの内側にあたる丸天井も精緻なタイル装飾が施されています。このような部分は曲面の連続ですのでおそらく「モザイク・タイル」が使用されているはずです。


ハンマーム(第37話)

ハンマームはは中東全域に広く見られる伝統的な公衆浴場のことです。トルコ語では「ハマムもしくはハマーム」といいます。中央アジアではイスラーム以前から蒸し風呂の習慣があったとされています。それは,窓のない部屋で焼いた石に水をかけるものです。

中東に公衆浴場ができたのはイスラーム以降であり,ローマの浴場文化を踏襲したものです。イスラームでは礼拝の前に身体を清めることが義務付けられていますので,ハンマームはそれと合致することになり,イスラーム世界で急速に普及しました。とはいうものの,水の乏しい地域ですので湯船の無い蒸し風呂ということになります。

現在では各家庭に風呂を備えることが多くなり,公衆浴場は衰退していますが,まだ残されています。私はトルコ東部ののワンで体験したことがあります。ちょうど宿の前にはハマムがありましたので。トルコに来たら一度は経験してみたいと思っていました。

ちょっとドキドキしながらドアを開ける。いかにもトルコ人という肉付きのよいおじさんがあそこで着替えてもらえと痩せた従業員に指示を出します。そこはただのマッサージ室であり,脱いだ服をマットの上に置き,貸し出された大きなバスタオルを腰に巻いて浴室に入ります。マッサージ室にはとくにカギがあるわけではないので,カメラを含む貴重品は宿に置いてきました。

浴室内は蒸気の熱気が充満しています。室内は壁も床もタイル張りになっており,中央は一段と高くなった大理石の台になっており,この部分は下から熱せられています。

壁の一面は個室の洗い場になっており,浴室との間はカーテンで仕切れるようになっています。ここで体を洗い大理石の台の上に寝そべります。これはけっこう熱く,汗がふき出してきます。

ここで汗をかき,洗い場で水をかぶり,再び横になるということを3回繰り返して浴室から出ます。希望があれば浴室であかすりもやってくれそうです。まあ,話のタネに中東に行ったら一度は経験しておくと良い土産話になります。

イランでは一般的に公衆浴場は「ギャルマーベ」と呼ばれています。イランは地域の大国であり,文化の中心地であったため,イスラームが浸透してもアラビア語がそのまま使用されることは少なかったようです。

イランの「ギャルマーベ」はかって湯船を有していましたが,衛生状況が劣悪であったため,18世紀には浴槽の無い,蒸し風呂の様式に変わっています。

イランに限らずイスラーム社会では女性は家族以外の男性から隔離された存在であり,家族の男性と一緒でなければ外出もできません。そのような場合も保守的な地域では頭から足首までをすっぽりと覆う服装が求められます。イランではチャドル(チャードル)と呼ばれ,顔以外を覆う黒い服装となります。

そのように不自由な暮らしをしている女性たちが素顔をさらして集い,女性同士でくつろいで会話を楽しむことのできるハンマームは貴重な社交と情報収集の場でした。文献には女性用のハンマームはとにかく騒々しいと記述されています。物語の中でも男性から解放された空間で羽を伸ばす女性たちの喧騒が描かれています。

ハンマームは女性たちにとって衛生面からだけはなく社交場として大いに利用されていたようです。富裕な階層の女性たちもチャドルで身を隠し庶民と一緒にハンマームを利用していると記されています。

1989年のホメイニ師によるイスラーム革命以後,イランはチャドルの国に戻りました。街で見かける女性たちは一様に黒いチャドルを着用しています。しかし,(私は見たことがありませんが),チャドルの下には華やかな服をまとっており,女同士の集まりはとても華やいだものになるそうです。


姉妹妻(第37話)

初めて行ったハンマームでアニスはシーリーンに出会い,なぜか惹かれます。話し相手のいないアニスはシーリーンと「姉妹妻」になろうとしますが,この「姉妹妻」は作者である森さんの造語です。

後書きの作者談では「ハーハル・ハーンデ(縁組姉妹)」となっており,17世紀から19世紀のペルシャの風習となっています。この件に関してはまったく聞いたことがありませんし,ネット上で検索してもまったく有用な情報は見つかりません。

唯一,「ペルシア民俗誌(平凡社刊)」にそのような風習が記載されているという情報が見つかりました。この件に関してはペルシア民俗誌を読んでから書くことにします。それにしても森さんは(漫画のネタにはなりますが)ずいぶんマイナーな風習を見つけてきたと感心します。

イスラームでは結婚は義務ではないにしても,預言者ムハンマドは「結婚は信仰の半分」と述べているように重要なものとされています。民族を維持するためには子孫を残さなければなりませんので,これは当然のことです。

ユダヤ教から派生した同じ一神教でありながらキリスト教社会とイスラーム社会では結婚に対する考え方はまったく異なります。キリスト教における結婚は神の前で結婚を誓約するものです。このため,結婚式は教会で挙げることになります。特にカソリックは離婚を認めておらず,「死が二人を分かつまで」添い遂げるのが神との誓約なのです。

それに対してイスラームでは結婚は個人の間の契約です。結婚には社会的な手続きを踏むことは必要ですが,アッラ−に誓約することはありません。イスラームでは人間はこころの弱い存在であり,結婚生活が破たんすることはありうるという前提で,結婚の契約と同時に離婚時の契約も合わせて結びます。

結婚のとき男性は女性に対してアラビア語で「ニカー」と呼ばれる結納金を譲渡し,女性側が結納金を受け入れることで結婚の契約が成立します。契約に際しては証人と新婦側の保護者が同席している必要があります。

これは女性の権利を守るためであり,結納金は新婦の財産として結婚後も新婦によって保持されます。また,女性はこの財産をもって離婚することがきます。なにかと女性の地位の低さや生活上の不自由さが話題となるイスラームですが,意外と女性の権利が守られる一面もあります。

作者の創り出した「姉妹妻」はイスラームでは禁忌となっています。イスラームでは男性は4人までの妻を持つことを認められていますが,(近親関係の悪化を考慮し)「ある女性とその姉妹を同時に妻とすること」は禁じられています。

アニスとシーリーンは実の姉妹ではありませんで,イスラームの禁忌に抵触しません。ついでの話になりますがイスラームの一夫多妻制について触れておきます。

砂漠の民は乏しい自然資源や富を求めて争いが絶えませんでした。戦闘により多くの男性が死亡するため,残された寡婦は生活が成り立たなくなります。また,人口の再生産も難しくなります。この社会の不安定要素を改善し,部族の人口を維持するために一夫多妻が認められました。

その場合でも「複数の妻を公平に扱うこと」という条件が付いています。これは常識で考えても難しいことはすぐに分かります。イスラーム社会は日本で言われるほど男性天国というわけではありません。

イラン編の乙嫁はアニスですが,名前だけで判断するとシーリンが主人公です。シーリーンは12世紀のペルシャの詩人ニザーミーによって書かれた叙事詩のヒロインとしてイランではつとに知られている女性です。この叙事詩はサーサーン朝のホスロー2世と彼の妃となる皇女シーリーンの悲劇的な恋愛を描いたものです。

物語の原型はサーサーン朝時代に歴史上の叙事詩として名高い「シャー・ナーメ(王の書)」で取り上げられています。この民族的叙事詩は古代ペルシアの神話,伝説,歴史の集大成であり,約6万対句にも及ぶ大作です。

第7巻の後書きに「描くところがない モヨウは モヨウは」とうろたえる作者の姿が描かれてます。ペルシャはモヨウに関してはモスク,ペルシャじゅうたん,陶器など精緻なものがそろっており,逆に描きだしたら切りがないのではと心配します。

解説屋としてはペルシャの紋様文化をもう少し描いてもらいたかったのですが,イラン編では作者は女湯を描くことに情熱を燃やしたようです。


カスピトラ(番外編)

番外編ではガゼルを狙うカスピトラが描かれています。トラはかってアジア大陸に広く生息していました。100年前でもカスピ海沿岸から中央アジアにかけて(カスピトラ),黒竜江沿岸(アムールトラ),中国華南(アモイトラ),インドシナ(インドシナトラ),インド全域(ベンガルトア),さらにはかってスンダランドとして陸続きであったスマトア島,ボルネオ島にも生息していました。

しかし,WWFによるとこの100年間で人類の土地開発により生息地の9割が失われました。アジア全体でトラは絶滅危惧種となっています。中央アジア,中国・朝鮮の種はほぼ絶滅したと考えられています。

トラはアジアの生態系の頂点に位置する動物ですので,その分広い縄張りを必要とします。人類の開発による生息地の破壊,薬用や毛皮目当てのの乱獲,人間や家畜を襲う害獣としての駆除されることなどにより生息数は激減しています。

19世紀には10万頭は生息していたと考えられますが,現在は3000頭を下回っていると考えられます。そのうち大半はベンガルトラ,アムールトラであり,残りの種は絶滅に瀕しています。

生態系の頂点立つ生物はおしなべて繁殖率が低い傾向があり,かつ幼獣の時期の死亡率も高く,いったん数を減らすと数を回復するのは難しいのです。人類という新参の天敵が力をつけてきたときからトラの運命は決まりました。


日干しレンガ(第48話)

第8巻の主人公はパリヤさんです。パダンとハルガルに襲われ,エイホン家のある町は大きな被害を受けます。アフリカのサハラ周辺,中東から中央アジアの乾燥地帯の家屋の主要材料は日干しレンガです。というのはこの地域では樹木が少ないので木造の家はできませんし,石造りの家を建てる財力や人手もありません。

日干しレンガは建築材料となるレンガは泥を練って,型に入れて形を作り,それを強い日差しにさらすと出来上がります。どこにでもある材料を使用できますので,最小のコストで家ができます。

日干しレンガは焼成していませんんで雨に弱いという欠点はあるものの,人類文明でもっとも早い時期から使用され,現在までほとんど同じように使用されいる建築材料です。

日干し煉瓦の起源はメソポタミア文明とされていますが,ここでは日干しレンガとともに焼成レンガが使用されるようになりました。焼成レンガは呼称の通り,日干しレンガを窯の中で焼いて製造されます。そのため,大量の木材あるいはアシなどの植物が燃料として使用され,文明崩壊の一因となっています。

同じようなことは18世紀後半の産業革命時にも起きています。産業革命を支えたのは鉄と石炭です。当初は製鉄に木炭が使用されていました。英国は森林資源が豊富でしたが,それで製鉄を賄うのはとても無理でした。鉄1トンを精錬するためには2トンもの木材が必要であったとされています。

気候が近い北海道の森林蓄積量で計算してみましょう。北海道には554万haの森林があり,森林蓄積量は7.2億m3となっています。単位面積当たりでは130m3/haとなります。半乾燥木材の比重を0.5とすると森林蓄積量は65トン/haということになります。

1haの豊かな森林をすべて燃料にしても生産できる鉄は30トンほどということになります。3000トンの鉄を生産するためには1km2の森林をすべて燃料にしなければなりません。

16世紀の英国の鉄生産量は数万トンでしたから毎年10-20km2の森林がなくなる計算です。実際には大きな樹木が選択的に伐採されたと考えられますので森林の荒廃はずっと広範囲におよんだものと推定できます。これでは森林資源がすぐに枯渇してしまいます。

石炭を焼成したコークスが製鉄に使用されるようになって,英国の森林は残されるようになりました。人類の文明の当初からエネルギー資源が人類の活動の最大の制約条件であったとが分かります。

それに対して日干しレンガは粘土をこねて,型枠で同じ大きさに整形し,それを天日で乾燥させると出来上がりますので,いくらでも簡単に製造することができます。必要とするのは人力と太陽エネルギーだけです。

また,日干しレンガを積み上げるとき,同じ材料の泥はつなぎとして使用できますし,表面の仕上げ材として使用することもできます。天井には木材などで梁を渡し,その上に細い横木を置き,さらに木の葉や藁などを敷いてから,日干しレンガと同じ材料で屋根を造ります。

このような住居は雨には弱いのですが,乾燥地域では数年に1度くらいの補修で十分耐えられそうです。日干しレンガの家は壁の厚みがありますので,夏は涼しく,冬は暖かいという機能性を有しています。


ソロバン(第48話)

パリヤの縁談相手のウマルが何か手伝えることがないかと町にやってきます。羊の世話,水運び,レンガ造りの他にそろばんができるというので重宝されます。町の女性の評価も悪くありません。

残念ながらパリヤが結婚のために作っておいた布の大半は戦闘のときに焼失してしまいます。パリヤはカルルクの父方の祖母バルキルシュの厳しい指導に音を上げながらも,ウマルのことを思い浮かべながら全力で布支度にかかります。

第48話では「中央アジアにソロバンがあるの」ということになりますが,あります。キルギスの商店の店先で写真にあるちょっと変わった算盤(ソロバン)を見つけました。

各桁の玉数は10個,日本のように5を表す玉はなく10個の玉が連なっており,5番目と6番目の玉は色違いとなっています。玉を通す金属棒は中心部が高く少し湾曲しています。

目的は違いますが日本で小さな子どもたちが数字や数の概念を理解するときに使用する10玉のソロバンと類似しています。日本の10玉ソロバンは玉を左右に動かします。ロシアソロバンは玉を上下に動かすのか,左右に動かすのかは不明ですが,「そろばん普及協会」のサイトでは左右に動かすような配置の画像があります。

このソロバンはロシアソロバン(ショティ)と呼ばれており,現在も使用されています。そのルーツは中国にあるとされています。しかし,文明の始まりから人類は数をどのように表し,どのようにしてすばやく計算するかに心を砕いてきました。ソロバンも小石を並べて計算する方法をコンパクトな器具にまとめたものなので,複数の地域で同時進化したものなのかもしれません。


シュバシコウとハリネズミ(第49話)

第49話ではカルルクとアミルが久しぶりの遠出に出かけます。昼食の時間になり,アミルはお茶とパンのセットを広げます。肉は現地調達であり,弓矢を持って狩猟に出かけるアミルはとても生き生きしています。

馬上の二人を高い木の上から見ているのは「シュバシコウ(朱嘴鸛)」です。コウノトリの仲間はユーラシア大陸の東西に分布しており,西のものは「シュバシコウ」,東のものは「コウノトリ」です。

見分け方はくちばしの色です。シュバシコウは名前の通りくちばしが赤ですが,コウノトリは黒に近い色です。

コウノトリは中国やロシアの極東地域に2000羽ほどしか生息しておらず,絶滅が危惧されています。日本列島にはかつて留鳥としてコウノトリが普通に生息していました。しかし,明治期以後の乱獲や巣を架ける大きな樹木の伐採などにより生息環境が悪化し,野生種は1971年に絶滅しています。

その後,多摩動物公園や豊橋市のコウノトリ保護増殖センターでは中国や旧ソ連からコウノトリを譲り受け,飼育下での繁殖に成功しています。2005年にはコウノトリ保護増殖センター周辺地域の生息環境を整備し,5羽のコウノトリが野生に戻されました。

絶滅危惧所の「コウノトリ」に対して「シュバシコウ」はヨーロッパや中央アジアに数十万羽が生息しており絶滅の心配はありません。主たる繁殖地はヨーロッパや中央アジアであり,高い樹木の上だけでなく,高い塔や屋根に営巣し,子育てをする習性があります。

この習性により開発の進んだヨーロッパでもシュバシコウは繁殖できるため,生息数を維持しています。また,ヨーロッパでは「シュバシコウが赤ん坊をくちばしに下げて運んでくる」るいは「シュバシコウが住み着く家には幸福が訪れる」という言い伝えがあり,保護されていたという側面もあります。

帰り道で二人は「ハリネズミ」を見かけます。とげをもった姿かたちからヤマアラシの仲間かと思われるかもしれませんがまったく近縁関係はありません。どちらも哺乳網に属しヤマアラシはネズミ目(げっ歯目)であり,ハリネズミはハリネズミ目です。

また,ハリモグラはは単孔目(カモノハシ目)であり,同じような針のような毛をもっていても大きく異なる種です。

ハリネズミの自然分布地域はアフリカ,中近東,ロシアがになっているので,世界的にも特別に珍しい動物ではありません。日本でもペットショップでこの仲間が売られています。

私はウズベキスタンのタシケントの民宿で洗濯機の中で飼われているハリネズミを危うくつまみ上げるところでした。夜行性ですので昼間は寝ており,バスルームの灯りがつくとモゾモゾと動き出します。ペットショップで売られているのですから,ヤマアラシのようにトゲを武器に使うようなことはなく,素手で触ることができます。