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宗教と進化論

およそ36億年前に誕生した生物は長い時間をかけて単純なものから複雑なものに進化していきました。生物を対象にした科学の分野は生物学であり,古い時代の生物を対象とするものは古生物学,生命活動を分子レベルで研究するものは分子生物学と呼ばれています。生物学は科学的な知見に基づき,遺伝子を含む生物の化学的な反応の仕組みや進化の道筋を明らかにしてきました。

現代の生物学では進化論を「生物の進化に関する理論の総称あるいは体系。生物が不変のものではなく長い期間をかけて次第に変化してきたという考えに基づいて,現在見られる様々な生物は全てその過程のなかで生まれてきたということを説明している。進化が起こっているということを認める判断と進化のメカニズムを説明する理論という2つの意味がある(wikipedia)」と位置付けています。

wikipedia の進化論のページにはさらに,「生物の進化には進歩する,前進する,より良くなるなどの意味はない」と結んでいます。進化論の最終章には必然的に「ヒトは類人猿から進化してきた」と書かれることになります。進化論においてはヒトは「万物の霊長」や「特別の存在」ではなく,進化の結果生み出された一つの種ということなのです。

このような考え方は創造神によりこの世界のあらゆるものが創造されたという一神教の世界観と対立するものでした。ユダヤ教の聖典である旧約聖書には「神はご自分に似せて人を作られた」と記されています。さらに,「神は彼らを祝福して,産めよ,増えよ,地に満ちて地を従わせよ。海の魚,空の鳥,地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と続いています。

ユダヤ教から派生したキリスト教,イスラム教はどちらも旧約聖書を聖典としており,この世界もヒトも神の御手により作り出されたという確固とした世界観をもっています。長い間,世界も生物も神が創造されたままであり,変化することはないと信じられてきました。

そのため,地動説(地球が太陽の周りを回っている,1543年)は聖書の記述と異なるものとして教会から異端の烙印が押されることになります。また,進化論(生物は少しずつ変化していき環境に適応したものが生きのびていく,1859年)も聖書の記述に反するという批判を受けます。

現代のクリスチャンの中には進化論を事実として受け入れている人々と進化論は聖書を否定するものと考える人々に分かれています。後者の人々は聖書の絶対的な権威と無謬性(聖書のことばには間違いはない)という観点から進化論を否定しています。

聖書の絶対的な権威と無謬性を拠り所とする人々はキリスト教原理主義者と呼ばれています。1979年に起こったイラン革命によりイスラム原理主義という言葉が広く知られるようになりましたが,宗教に根差す原理主義という言葉は最初にキリスト教で使用されたものです。

キリスト教原理主義者にとっては,進化論におけるヒトが類人猿から進化したという考え方は,「自分たちは神に似せられて創造された特別の存在である」という考えを否定するものです。この傾向は特に米国で強く,現在でも55%の米国人は神が人を創造したと考えており,進化論の授業に対する有形・無形の圧力が存在しているようです。

西洋文明に絶望した画家ゴーギャンは19世紀の終わりにタヒチ島に渡りました。しかし,そこも彼にとっては楽園ではありませんでした。貧困と絶望の中で彼が遺書代わりに描いたのが「われわれはどこから来たのか,われわれは何者か,われわれはどこへ行くのか」でした。

現在はボストン博物館に収蔵されているこの139cmX 375cmの大作はゴーギャンの代表作とされており,その意味深長な題名により広く知られるようになりました。彼が画題に選んだ言葉は人類が自分自身に発した根源的な問いかけであり,多くの宗教に共通する最大のテーマでもあります。

科学の進歩により生物進化の仕組みと道筋が明らかになっても,この根源的な問いかけは輝きを失っていません。どれだけ科学的な知見が積みあがろうとも,一人ひとりの人間は自分はどのように生きるべきかについて思い悩むことに変わりありません。そこは科学が立ち入ることのできない領域であり,宗教による救いはその領域にあるべきだと考えます。

聖書の記述が正しければ進化論はまちがっている,進化論が正しければ聖書の記述はまちがっているという二者択一の不毛の議論はそろそろ終止符を打つべきでしょう。神を信じるが,進化論も事実として認めることが宗教の土台を崩すこととにはならないと考えれば,宗教と科学は共存できるはずです。宗教において大切なことは人々の魂の救済であって,科学と対立することでもなければ,科学に迎合して新しい創造神話を作り出すことでもないはずです。

それでも,旧約聖書の創世記の第六日目の記述は重要な意味を含んでいると考えます。そこには,「神は地に家畜,這うもの,地の獣をそれぞれに創造された。神は御自分にかたどって人間の男と女を創造された。神は彼らを祝福して言われた。産めよ,増えよ,地に満ちて地を従わせよ。海の魚,空の鳥,地の上を這う生き物をすべて支配せよ」という記述があります。

創造神は人間を特別な存在としてすべての生物を支配することを認めています。この支配するということはどのような意味をもっているのでしょうか。文字通りすべての生物の生殺与奪の権限をもっていると解釈するのが正しいのでしょうか。創造神はあらゆる生物を人間に奉仕するために作られたのでしょうか。

そうではないと信じたいものです。創造の意図にせよ,進化の結果にせよ,他の生物に比して抜きんでた知能をもつようになった人類は特別の存在であるのは事実です。しかし,地球の支配者となった人類は多くの生物種を踏みつけにしながら破滅の道をひた走っているように見受けられます。

人類に与えられた特別の力は地球という生物の楽園を破壊せず,自然と共存するために使われるべきだと考えます。支配という言葉の意味するところは管理という意味に解釈するべきでしょう。特別な力を手に入れた人類は地球の生態系を維持・管理する責任があるということです。支配と共生は西洋と東洋の思想を端的に言い表しています。自然を征服するのが西洋の文明なら,自然とともに生きるのが東洋の基本思想です。

現実の世界は西洋文明が世界を席巻しています。人類の単独繁栄により他の生物は乱獲されたり,生存場所を狭められて急速に数を減らしています。同時に70億人にも達する人類における貧富の格差は道徳的に許容できない水準にまで拡大しています。

人類が自分たちの責務に目覚めなければ20世紀と21世紀は「人類の引き起こした大絶滅の世紀」呼ばれることになるでしょう。知能が極大化した人類を知性的な生物に導くのが宗教のもう一つの役割ではないでしょうか。

ヒトとサルが分かれた日

6500万年前の巨大隕石の衝突により恐竜が絶滅し,その空間的な隙間を埋めるように哺乳類が大繁栄を開始します。恐竜時代末期の哺乳類はネズミかせいぜいリス程度の大きさであり,恐竜の寝ている夜間に活動していました。この夜間の活動が聴覚と脳の発達をもたらしました。

恐竜絶滅後の哺乳類の中から霊長類→真猿類の共通祖先を経て類人猿(ヒト上科)が誕生したのはおよそ2500万年前とされています。現在の類人猿はオランウータン,テナガザルがアジアに,ゴリラ,チンパンジー・ボノボがアフリカに生息しており,どちらの地域で類人猿が誕生したかは論争になっています。

アフリカでは2500-1700万年前の化石はたくさん出ていますが,1300-700万年前の類人猿の化石はほとんど見つかっていません。一方,アジアではいくつかの化石が出ており,類人猿のアフリカ起源説・進化説はこと化石に関する限りでは必ずしも優位とはいえません。

しかし,化石の一貫性からするとアフリカ起源説が主流となっています。アフリカ起源説では大型類人猿はアフリカで進化し,アジアに広がっていったと考えられています。2500万年前にアフリカで誕生した類人猿は1800万年前頃にはアラビア半島からアフリカ南端にまで広がっていたと考えられています。

超大陸パンゲアの分裂以来,アラビア半島を含むアフリカは長い間孤立した大陸でしたが,1800万年前頃にはユーラシア大陸に接近し陸橋ができていたと考えられます。類人猿は生息場所をヨーロッパ,南アジア,中国などユーラシア大陸の各地に広げていきます。皮肉なことにこの時期からアフリカではほとんど類人猿の化石が見つからなくなっています。

そして,700万年前頃までにヨーロッパ,南アジアの類人猿は絶滅したようです。これは,ヒマラヤ山脈の形成により世界的な気候の変動が起こり,類人猿の棲息に適した環境が縮小したためと考えられます。現在の類人猿は他の旧世界猿に比べると明らかに衰退種のようです。テナガザルは10数種としても,残りは1属1種の状態です。

ともあれ,アフリカで進化した類人猿からヒトが誕生しています。ヒトがチンパンジーと分かれたのは500-600万年前とされています。この年代がほぼ正確に分かるようになったのはミトコンドリアDNAの解析によるものです。ミトコンドリアは細胞内に大量に存在するため,遺伝子解析には非常に都合のよい素材なのです。

ミトコンドリアは真核生物の細胞内の小器官であり,その遺伝子は細胞の核とミトコンドリア内に分かれて存在しています。ミトコンドリアDNAとはミトコンドリア内のものをいいます。母親の卵子には当然ミトコンドリアが含まれています。しかし,精子鞭毛基部にもわずかに含まれる父親のミトコンドリアは受精後に破壊され,結果としてミトコンドリアは母親からのものだけが子孫に受け継がれます。そのため,集団間の遺伝的な近縁性をみるにはとても都合がよいのです。

ミトコンドリアDNAは真菌類と同じように環状をしており,16,569塩基で構成されています。ミトコンドリアDNAの93%は遺伝子として使用されている領域であり,むだな(遺伝的に意味をもたない)塩基配列はわずか7%しかありません。ヒトの核のDNAは23対の染色体に分かれて存在し,総塩基数は30億対もあります。しかし,そのうち実際に遺伝子として働くものは5%程度です。

ミトコンドリアDNAは約1.7万塩基対とコンパクトにできていますが,これをすべて解析するには大変な時間と費用がかかります。そこでDNAの中のDループ(約1000塩基対)に着目して解析が行われています。Dループ領域は遺伝子としては使用されておらず,その変化速度は通常の領域の5倍ほどもあり,比較的短い時間の変化を見るのに適しています。

遺伝子解析では二つの種について特定の遺伝子を調べ,塩基配列が何ヶ所違っているかを数値化します。この数値により二つの種がどのくらい近い(遠い)関係にあるかが分かります。また,近縁の種であれば,二つの種が共通の祖先から分岐してどのくらいの時間が経過しているかを表しています。

この考え方を分子時計といいます。分子時計という考え方は遺伝子の塩基配列の変化は突然変異により起こり,その発生確率は一定であるという前提に基づいています。一つの塩基配列が変化する確率時間(t)が分かれば,(n)個の変異が起きるのに必要な時間は(nt)ということになります。

この分子時計を使用して類人猿の中でオランウータンが分岐したのは1250万年前,ゴリラが分岐したのは800万年前,チンパンジーとヒトが分岐したのは600万年前というように経過時間を含めた系統樹を作ることができます。この分子時計は理論値であり,実際の系統樹には化石などの具体的な証拠が必要です。

初めに二足歩行ありき

ヒトとは何かと問われると,脳が発達しており火や道具を使うことができる(チンパンジーやオランウータンも簡単な道具を使います),複雑な言語を使用することなどがあげられます。しかし,他の類人猿にはみられない大きな特徴は直立二本足歩行をすることです。直立二足歩行はヒトの体型を類人猿と大きく変えるとともに,手の発達,脳の発達を促しました。

チンパンジーやその近縁種は現在でも森で樹上生活をしているので,ヒトとサルの共通の祖先も樹上生活をしていたと推定されます。それどころか,東アフリカに森林が残っている間は人類の祖先は地上の二足歩行と樹上生活を使い分けていたと考えられています。

どうしてヒトが二足歩行を始めたかははっきりとは分かっていません。一つの仮説はアフリカ大地溝帯の活動が活発になり,その西側に高地が形成されたため,東側の森林地帯は乾燥化しサバンナになったことが影響していると考えられています。この乾燥化のため大陸の東側では森林からサバンナへと生活環境を変えざるを得なかったのが二足歩行を促したというものです。

この仮説はヒトの化石がアフリカ大陸の東側に集中して出ることから支持を集めていました。しかし,最新の報告では2001年にチャドの砂漠で発見された「トゥーマイ猿人」は700万年前のものとされ,二足歩行というヒトの特徴を有する最古の化石とされています。

大地溝帯の西側で最古のヒトの化石が見つかったことから,大地溝帯による乾燥化が二足歩行を促したという仮説は見直しを迫られています。とはいうものの,およそ1000万年前に活動を始めた大地溝帯は東アフリカに多様な環境を生み出し,人類の進化に大きな影響を与えたことはまちがいないでしょう。

「トゥーマイ」の暮らしていた環境は森林と水系を有する草原の境界であり,水系の食べ物を求めて二足歩行を始めたという考え方が自然のようです。もっとも,肉食動物から身を守るためチンパンジーのように,樹上に寝床を作っていたと考えられています。

ともあれ,二足歩行はヒトとサルを分けた決定的な要因として考えられています。二足歩行の結果,手を自由に使用することができるようになり,複雑な作業もこなすことができるようになりました。それは,脳の発達にもつながったことでしょう。

ただし,脳はとても大食の臓器であることを忘れてはなりません。現代人の脳は体重の2%程度にもかかわらず消費エネルギーの約20%を占めています。重量比でみると他の臓器の10倍ものエネルギーを消費するのです。したがって,脳を大きくするためにはまず食料事情の改善が必要だったということになります。

二足歩行の基礎と手の使用は類人猿が樹上生活で身に付けたものと考えられています。樹上生活では木に登ることと枝をつかむことは必須の能力となります。霊長類に限らず,種内の進化が進むとしだいに大きな種が生まれてきます。樹上生活の霊長類でもその傾向が見られ,枝をつかむ能力を身に付けたと考えられます。

現在の霊長類の手足の指は4本が同じ方向に向いており,親指(拇指)だけは他の4本に対して45度から90度横に向いています。このような構造を拇指対向性といいます。この構造により親指と他の指を接触させることができ,ものをつかむのにはとても役に立っています。

ところが,ヒトの足指は5本の指が同じ方向を向いています。もちろん霊長類の足指は手指と同じように拇指対向性をもっています。足指の拇指対向性は類人猿にも共通している構造です。ヒトの足指が拇指対向性を失ったのは進化の結果かそれとも退化によるものなのかが議論になっています。

退化だとすれば,二足歩行を始めることにより足指はものをつかむ必要がなくなり,拇指対向性も必要なくなったと解釈できます。一方,進化したと考えると別の解釈が可能となります。

チンパンジーと同じように樹上生活をしていた集団から突然変異により拇指対向性を失った集団ができました。この集団は他のチンパンジーほど樹上生活に適応できないので劣勢となり,食料を求めて地上に降りたとも考えられます。真実がとちらにあるのかはわかりませんが,興味深い議論だと思います。しかし,全身骨格の発見された猿人(アウストラロピテクス)の想像図を見る限りでは,足指の拇指対向性は失われていません。

もうひとつ,霊長類にはあって類人猿にはないものが尻尾です。旧世界猿の多くは長い尻尾を枝に巻きつけたり,飛び移るときにバランスをとるなど,第5の手足として活用しています。ところが類人猿は尻尾をほぼ完全に失っています。これは,体重が重くなったため移動や保持は手足に頼るようになり,尻尾の価値が低下したしたためと考えられています。

類人猿は樹上生活の中で体を直立させる体の構造も進化させていました。ある程度の体重をもった類人猿が樹上生活をするためには直立する骨格が必要であったと考えられています。木に登るために直立する骨格が必要であり,オランウータンは手でバランスをとりながら,細い枝の上を歩くことも知られています。樹上生活でも直立することは食料の採取や移動にとって有利に働いていたようです。

このように,樹上生活で直立する骨格と二足歩行の準備ができていたので,ヒトは地上という新しい環境に適応できたと考えられます。初期の猿人はチンパンジーやゴリラのような腰を曲げて手を突いて歩くナックルウオークからスタートしたのかもしれません。

おそらく,トゥーマイのように樹上と地上が半々の生活だったと推測されます。直立二足歩行はナックルウオークに比べてはるかにエネルギー効率が良い歩き方です。直立二足歩行によりヒトは長い距離を歩く能力を身に付けました。

東アフリカでは1000万年前あたりから大地溝帯の活動が始まり,300万年前から乾燥化が進んだとされています。700万年ほど前にヒトの祖先が二足歩行を始めてから森林環境がサバンナに変化していく時期までヒトの祖先も地上と樹上の生活を使い分けていたようです。

300万年前から東アフリカのサバンナ化は進み,森の暮らしにのみ適用していた類人猿は東アフリカのほとんどの地域から駆逐され,二足歩行を始めたヒトだけが新しい環境で生きのびることができました。

NHKスペシャル「病気の起源」では,どうしてサルから進化した人類が体毛を失ったかについて新しい学説を紹介していました。人類の祖先はチンパンジーのように樹上生活をしていたため,直射日光にさらされることはあまりありませんでした。

ところが森林からサバンナに生活環境を変えるとき汗腺による体温の調整機能が不十分であったため簡単には適応できなかったとされています。人類は体毛を減らし,汗腺を発達させることにより,直射日光下でも歩き回れるようになったそうです。

しかし,体毛を失った結果,皮膚が紫外線に直接さらされるようになり,その防御手段としてメラニンを発達させました。メラニンは皮膚,髪の毛,眼の色を決める色素で,メラニンが多いと褐色の肌になります。

褐色の肌は体を紫外線から防御するのにとても役立ちましたが,ヒトの活動地域が広がると致命的な欠点にもなります。ヨーロッパのような高緯度の地域では冬季の日射量は非常に少なくなり,それに比例して紫外線も少なくなります。

ヒトの体の中では紫外線を利用してビタミンDを合成しています。ビタミンDはカルシウムの吸収に欠かせない物質であり,不足すると骨の生育が阻害されくる病になります。このため,ホモ・サピエンス(現生人類)はヨーロッパの入り口にさしかかっても,肌の色が褐色の間は簡単にはヨーロッパに進出することはできなかったと考えられています。

ホモ・サピエンスがユーラシア南部に進出したのは6-7万年前と考えられていますが,ヨーロッパ最古の化石は4万年前になっています。この間に少しずつメラニンの調整が行われたのだと考えられています。

現生人類のメラニンにはユーメラニンとフェオメラニンの2種類があります。ユーメラニンは褐色から黒色のメラニンであり,フェオメラニンは黄色から赤色のメラニンです。ユーメラニンは紫外線をよくブロックし,活性酸素も吸収してくれます。つまり,ユーメラニンは強い紫外線から皮膚を保護し,皮膚がんの重要なバリアーとなっているわけです。一方,フェオメラニンは紫外線のブロックも活性酸素の吸収能力も劣ります。

肌の色は2種類のメラニンの比で決まります。ユーラシア南部に進出したホモ・サピエンスの肌の色はサバンナの強烈な太陽にさらされていたので褐色でした。彼らがヨーロッパに移動する過程でフェオメラニンの比率を高めて次第に白い肌になったと考えられています。これにより,弱い太陽光でもなんとかビタミンDの合成が可能になりました。

それから数万年後に大航海時代となりヨーロッパ人の子孫は世界中に拡散していきました。その結果,低緯度地域に居住するようになったヨーロピアンにとっては紫外線による皮膚がんの増加は避けては通れない問題となっています。逆にヨーロッパに移住したインド人にとっては冬季のビタミンD不足は深刻な問題となっています。

類人猿から猿人に

直立二足歩行を始めた人類の祖先はアルディピテクス属(580-440万年前),アウストラロピテクス属(400万-200万年前)とつながっていきます。左側の「人類の進化の系統」ではここを区別しないで猿人としてまとめてあります。Bのアファール猿人あたりが二つの属の境界になります。

猿人は身長は120cm-150cmくらい,脳容積は400cc程度であり,二足歩行をするチンパンジーというイメージでした。その大半の生存期間は石器などの道具は使用していなかったと考えられています。

霊長類では体格に性差が見られ,類人猿ではその傾向が大きいようです。霊長類でみると性差はゴリラ>チンパンジー>ボノボ>テナガザルとなっています。ゴリラは体格を大きくすることにより淘汰圧に対応しましたが,さらに一夫多妻の社会が雄同士の体格競争をもたらし,雄はさらに大きくなったと考えられます。

チンパンジーの社会は乱交という形態をとったために,雄同士の争いはそれほど激しくなく,体格の性差はゴリラより小さくなっています。一夫一妻型であるテナガザルは同種間競争がほとんど生じないため性差もほとんどありません。

初期の人類であるアルディピテクス属,アウストラロピテクス属ではチンパンジーと同じように雄は雌に比べて(体重が)50%ほど大きかったようです。ということは,彼らもチンパンジーと同じような社会形態をもっていた可能性が高いようです。ちなみに,現代人の性差は15%程度であり,初期の猿人に比べて大型化はしていますが性差は縮小しています。

アルディピテクス属,アウストラロピテクス属の種はその食料をほとんど植物だけに頼っていたようです。これでは脳を大きくするための食料事情は改善されなかったことでしょう。実際,両者を合わせて約450万年の間,脳はほとんど大きくなっていません。

脳が一段大きくなったのはホモ・ハビリスとホモ・ルドルフエンシス(250-200万年前)の時期からです。発見当時の脳容量は750ccとされていましたが,その後の再計量により530ccに変更されています。

ホモ・ハビリスは「器用な人」と意味しており,簡単な石器を使用していました。アウストラロピテクス属のアウストラロピテクス・ガルヒ(ガルヒ猿人)は石器を使用していたと考える学説もありますが,石器の使用が確認されたのはホモ・ハビリスからとされています。そして,ホモ・ハビリス,ホモ・ルドルフエンシス以降の種がヒト属ということになります。

ホモ・ハビリスの仲間はまだ機能的な発汗機能,腕より長い脚,少ない体毛など後のヒト属がもつ多くの特徴を欠いていると推定されており,ヒト属に含めるかについて激しい論争がありました。つまり,アウストラロピテクス属とヒト属の中間的な形質をもっていたようです。とはいうものの,石器の使用により彼らの食生活が変化したと考えられています。

アウストラロピテクス属の時代はほとんど植物食でしたが,ホモ・ハビリスは肉食動物の食べられない骨髄を食べていたと思われる証拠が発見されています。石器は骨を砕くのにも利用されていたようです。骨髄は動物の死後1週間くらいは腐らずに食べることができたので,肉食動物の食べ残しからごちそうを取り出すことができたわけです。

地上に降りたチンパンジーに近かったホモ・ハビリスの時代には狩猟をすることはほとんど考えられません。取り立てて足が速いわけでもないし,強い武器をもっているわけではないので,狩猟以前に他の肉食動物の餌食になる確率の方がはるかに大きかったことでしょう。ともあれ,肉食の開始により食料事情は少し改善され,脳が大きくなる素地ができたようです。

ホモ・エレクトスの拡散

不思議なことにヒトの進化の舞台はほとんど東アフリカとなっています。なぜアフリカだけが新しい人類発祥の地になるのかは分かっていません。約250万年前に出現したホモ属は石器を作り,肉食を始め,異なる環境へ適応できるようになりました。しかし,ホモ属が森林を離れサバンナに進出したのは180万年前に出現したホモ・エレクトスの時期からです。文献によってはホモ・エレクトス以降を真正のホモ属としているものもあります。

肉食による栄養状態の改善は脳の巨大化,複雑化に大きく寄与したであろうと考えられています。また,植物だけを食料としていた頃に対して,その生息範囲を大きく広げることが可能となりました。実際,東アフリカの気候変動により森林は消滅し,森林に頼る生活はできなくなったことが進化の要因だったのかもしれません。

ホモ・エレクトスは脳容積が950ccから1100ccにまで増大しています。また歯はより小さく現代人に近いものになっています。 彼らはそれ以前の人類よりも精巧な石器を作り使用していました。150万年ほど前には火を使用していた痕跡も見つかっています。サバンナ生活に適応していましたのでホモ・エレククトスは機能的な発汗機能,腕より長い脚,少ない体毛などよりヒトに近い姿になっていたと考えられます。

サバンナに適応したホモ・エレクトスは何を食べて大きくなった脳のエネルギーをまかなっていたのでしょうか。現在のサバンナほどではないにせよ,当時の草原には彼らが食べることのできる柔らかい植物や果物は非常に少なかったと推定できます。

おそらく彼らは食料を植物質から肉食に切り替えていったのでしょう。草原には小型の草食獣が増えたのでなんとか狩猟により肉を確保していたと考えられます。ホモ・エレクトスの遺跡の中からは多くの動物の骨が発見され,それらの骨には解体した跡があることから,仲間同士で獲物を分配しあっていたようです。

しかし,肉食は高カロリーの食料を提供してくれる反面,植物食に比べずっと広い縄張りを必要とします。肉食は植物食に比べてざっと10倍くらいの面積が必要です。現在のサバンナでは肉食動物は非常に広い縄張りをもっています。

1-2頭のオスと数頭のメスとその子どもたちで構成されるライオンのプライド(集団)が必要とする面積は100-400km2にもなります。ホモ・サピエンスはライオンほど大型の動物ではありませんし,植物食も併用していたと考えられますが,それでも大きな縄張りが必要だったはずです。

そのため,ホモ・エレクトスは出現と同時に縄張り問題に直面したはずです。初期のホモ・エレクトスがどの程度の大きさの集団で暮らしていたかは分かっていませんが,75万年前のイスラエルの遺跡ではすでに社会生活が行われていた痕跡があるとされています(ナショナル・ジオグラフィックニュース)

おそらく,ホモ・サピエンスはある程度の大きさの集団に分かれて拡散していったと考えられます。その原動力となったのは縄張りという種内の淘汰圧力ですから,拡散というよりは分散といった方がよいかもしれません。

180万年前はすでに氷河期に入っており,北半球では長い氷期と短い間氷期が交互に起きていました。東アフリカの気候は乾燥化が進み,ホモ・エレクトスは北と南に拡散してきました。アウストラロピテクスやホモ・ハビリスはほとんど東アフリカだけに生息していましたが,ホモ・エレクトスはアフリカ全土に広がるとともに,アフリカ外にも進出していきました。

この拡散はホモ・エレクトスの初期に始まり,森林の豊かなコーカサスからは175万年前の化石骨が発見されています。肉食を始めることにより,特定の植物に依存する必要がなくなったので,拡散は相対的に容易だったのでしょう。

ホモ・エレクトスは中東,コーカサス(175万年前),ヨーロッパ,南アジア,東南アジア(100万年前),東アジア(78万年前)と生息範囲を広げていきました。しかし,ホモ・エレクトスはアフリカやヨーロッパでは60万年前にはホモ・ハイデルベルゲンシスやホモ・ネアンデルターレンシスにとって代わられました。アジアでは進化を続けましたが20万年前には絶滅しています。

ところが,2003年にオーストラリアとインドネシアの合同チームがインドネシアのフローレス島の洞窟で3万8千年から1万3千年前の人骨7体と獲物と考えられる象(ステゴドン)の骨,石器などを一緒に発見しました。合同チームは分析の結果,2005年にヒト属の新種であると発表しました。

新種はホモ・フローレシエンシス(Homo floresiensis,フローレス人)と名付けられ,全身骨格が見つかったものは成人女性であり,身長は1mほどしかありませんでした。それに比例して脳容積も380ccと小さいとされていますが,火や精巧な石器を使っていたと考えられます。

一般的に孤立した島ではしばしばウサギより大型の動物の矮小化とネズミのような小さな動物の巨大化が起こります。これを島嶼化といいます。食料が限られた島では小さな方が生存に有利ということです。一方,小さな動物にとっては天敵がいないことからより大きくなった方が個体の生存に有利ということになります。フローレス島にはステゴドンなど数種類の矮小化した動物が存在していました。

しかし,脳と体躯をつかさどる遺伝子はまったく異なっており,体が小型化しても,脳はせいぜい2割程度までにしか小型化しないといわれています。ホモ・エレクトスも脳容積は900ccを超えていますので,これはありえない縮小化ということになります。そのため,調査チーム島嶼化ではなく新種という判断をしたようです。

しかし,この新種に関しては次のような反論が出されています。
(1) 矮小化したあるいは発達障害をもったホモ・エレクトス
(2) 現存のホモ・サピエンスの亜種
(3) ホモ・エレクトスより以前のホモ属の子孫
(4) ヒト属ではない

議論百出の状態ですので遺伝子分析により進化上の位置づけが判明することが待たれます。小柄な人種としてはアフリカの熱帯雨林で暮らすピグミーの人々がいます。彼らの平均身長は150cm以下であり,女性ではホモ・フローレシエンシスとそう変わらない体格の人もありえそうです。環境によりホモ・サピエンスでも体格に大きな差異が現れるのは事実であり,それはこれまで考えられていたより大きいのかもしれません。

研究チームでは今回特定されたホモ・フローレシエンシスの骨が1万8000年前のものだとしながらも,この新種の人類が500年前までこの島に生存していた可能性を否定していません。というのは,地元では「洞窟に小さな人間が住んでいて,村人たちは彼らのために食べ物をひょうたんに入れて家の外に置いていた」という言い伝えがあるからです。現生人類がホモ・フローレシエンシスと共存していたというのは微笑ましい話です。

2008年にはミクロネシアのパラオ諸島で小さな体の人類の化石が発見されました。化石は1400-3000年前に島に住んでいた現生人類(ホモ・サピエンス)のものですが,新種とされるホモ・フローレシエンシスと共通する特徴がいくつかあります。ミクロネシアの小さな体の人類は何らかの理由で身長が縮んだ人類の個体群のものである可能性が高いとされています。(ナショナル・ジオグラフィックニュース)。

アフリカ単一起源説

ホモ・エレクトスがアフリカ大陸全域とユーラシア大陸に拡散したのは確かなことであり,化石骨により確認されています。それでは,現生人類の祖先はだれであるかという議論が始まります。

かつて,人類はそれぞれの地域で個別に進化してきたと考えられていました。例えば北京原人が東アジア人に,ネアンデルタール人がヨーロッパ人に進化したという考え方です。これを多地域並行進化説といいます。

多地域並行進化説では180万年前に拡散を開始したホモ・エレクトスの子孫が各地域で原人→旧人→新人という段階を踏んで同じように現代人に進化したということになります。これは通常の進化では考えられないことです。また,全ての現代人集団が遺伝的によく似ていることをまったく説明できません。

多地域並行進化説は多くの科学者を納得させることはできず,現在はアフリカ単一起源説が主流となっています。主流というよりはもう定説となっているといった方がよいかもしれません。それによると,アフリカで20万年前に出現したホモ・サピエンス(新人)が世界各地に拡散し,旧人とおきかわって,各地域の現代人になったということになります。

ホモ・サピエンスがアフリカを出たのは7-10万年前ですので,現代人の集団の遺伝子が近いのは当然のことになります。それでも,例えばヨーロッパではネアンデルタール人とクロマニヨン人(ホモ・サピエンス)が1万5000年もの間同じ地域に共存していたことが知られており,ある程度の混血があった可能性は高いと考えられています。

アフリカ単一起源説は現代人の遺伝子分析からも強く支持されています。ここで再び活躍するのがミトコンドリアDNAです。現代人の中から多くの地域に居住している人々の遺伝子を調べると,それぞれの地域集団の近縁関係が分かります。また,ヒトとチンパンジーが分岐した時期を算定した分子時計の考え方も適用できるので,ホモ・サピエンスの出現した時期も算定することができます。

現代人をアフリカ人,西ユーラシア人,東ユーラシア人,サフール人(オーストラリア先住民とニューギニア先住民),アメリカ先住民に大きく区分して遺伝子の近縁関係を調べると,アフリカ人集団内部の違いは他の地域集団同士の違いより大きいことが分かりました。さらに,分子時計から現代人のミトコンドリアは20万年前のただ一人のアフリカ女性から引き継いだものであることが分かりました。

この結果はアフリカ単一起源説を支持するものです。多地域並行進化説では共通祖先は少なくとも150万年前にはアフリカを出ていることになりますし,地域が遠い集団の遺伝子の違いが大きくなるからです。

また,発見された新人の化石もアフリカ単一起源説を支持しています。新人のもっとも古い化石(約20万年前)が発見されたのはエチオピアです。西ユーラシアではネアンデルタール人がその地域からいなくなる前にクロマニヨン人が出現しており,ネアンデルタール人がクロマニヨン人に進化したという仮説は成立しなくなります。

このような多くの証拠からアフリカ単一起源説は定説となっています。もちろん,ホモ・フローレシエンシスのような例外的な事例はこれからも発見される可能性はありますが,アフリカ単一起源説はゆらぐことはないでしょう。

アフリカ単一起源説の大きな根拠となる最初のDNA分析は,カリフォルニア大学バークレー校のグループによって行われました。彼らはできるだけいろいろな地域の人々を含む147人のミトコンドリアDNA(Dループ)の塩基配列を解析しました。

この解析結果から,彼らは147人のミトコンドリアDNA系統樹を作成しました。系統樹の始まりはたった一つの遺伝子であり,それがまず二つの大きな枝に分かれています。大枝の一つはアフリカ人のみからなるものであり,もう一つはアフリカ人の一部とその他すべての人類集団からなる枝でした。

ミトコンドリアは母方のものだけが子孫に伝えられます。核内の遺伝子のように交叉(生殖による遺伝子の組み換え)することがありませんので,集団間の類縁関係を調べるのに都合がよいわけです。

ミトコンドリアDNA系統樹から分かることが二つあります。一つは,現在の人類の共通祖先はアフリカで進化し,そこから世界の各地に拡散していったこと,もう一つは現生人類のもっとも近い女系の祖先がアフリカにいたということです。分子時計から算定してこの女性はおよそ20万年前に存在していたと考えられます。

このセンセーショナルな内容からこの女性はマスコミにより「ミトコンドリア・イブ」と名付けられました。この愛称から旧約聖書のアダムとイブになぞらえて,現生人類の共通祖先あるいは全人類の母のように誤解されることがしばしば起きています。

正しい定義は「ミトコンドリアのイヴは女系のみを通してあらゆる現生人類の祖先と言える最も年代の新しい女性」だということです。彼女が生きていた時代にも他の多くの女性や男性がおり,その多くの人たちの遺伝子は現在の私たちにも引き継がれているはずです。

ミトコンドリアDNAを現代までに伝えるためには,その間のすべての世代に少なくとも1人は女性が産まれなければなりません。ある女性Aが娘を産んでも孫の世代が男性だけになると,その時点で女性AのミトコンドリアDNAはその先には伝わらなくなります。

ミトコンドリア・イブの生きていた時期にも多くの他の女性もいたはずですが,イブ以外の女性のミトコンドリアDNAは系統が途絶えて,私たちには受け継がれなかったということを意味しています。しかし,そのような人たちの遺伝子は他のルートを通じて私たちに受け継がれているならば,私たちの祖先ということができます。

簡単な例で説明してみましょう。2世代前に遡るとAさんには4人の祖父母がいます。しかし,Aさんのミトコンドリアの祖先となるのはそのうち1人(母方の祖母)ということになります。3代前に遡るとAさんには8人の曽祖父母がおりますが,ミトコンドリアの祖先となるのは1人しかいません。

しかし,Aさんの核には8人の曽祖父母の遺伝子が含まれているはずです。ミトコンドリア・イブは現在を基準に女系という特別な経路をたどった場合に見つかったものであり,他にも無数の祖先は存在するわけです。

ミトコンドリア・イブはたまたま自分のミトコンドリア遺伝子を現在にまで伝えることのできた幸運な女性に過ぎません。もし,彼女のミトコンドリアがどこかで途絶えていたら,ミトコンドリア・イブは複数になるのかもしれません。

ホモ・サピエンスの拡散

アフリカ単一起源説では現生人類はすべてホモ・サピエンスであり,6-10万年前にアフリカ大陸を出て世界各地に拡散していきました。まず,アフリカ大陸から出たのは1度か複数回かという問題があります。ミトコンドリアDNAの分析結果は現代につながる系統はアフリカを出た一つの集団であることを示唆しています。しかし,それほど単純な話ではないかもしれません。

たとえば,成功を収めた集団の前にもアフリカを出た集団がおり,彼らは各地に生息していたかもしれません。しかし,後からやってきた成功集団に飲み込まれてしまい,結果的にミトコンドリアDNAには残らなかったという可能性も否定できません。

現在発見されている最古のホモ・サピエンスの化石骨はエチオピアで発見された19.5万年前のものです。16.5万年前には南アフリカ南端の海岸洞窟で暮らした痕跡も見つかっています。彼らは精巧な細刃の石器を使用し,海産物も食べていたことが分かっています。海産物の利用は肉食動物との競合がない都合のよい食料であったと考えられます。

また,オーカーという石を削って顔料を作っていた痕跡もあります。顔料は岩絵に使用されたり,体に塗ったりしていたと考えられます。ホモ・サピエンスはその初期段階から文化的な萌芽があったようです。

アフリカ東海岸のホモ・サピエンスの痕跡からは時期は同じではありませんが,顔料,ビーズなどの装飾品,衣類などが発見されています。つまり,ホモ・サピエンスはアフリカを出る以前から文化の原型をもっていたということになります。

研究者によっては,長い間交流のなかった南部アフリカと東アフリカの現代人集団の中に類似した言語をもつものがいることから,ホモ・サピエンスの早い段階で言語に近いものがすでにあったとする人もいます。

欧米の学説ではヨーロッパにおけるオーリニャック文化(4万-1.5万年前)がホモ・サピエンスによる文化の始まりであるとしていますが,文化の原型はすでにアフリカでできていたという発見は,彼らのプライドをちょっと傷つけたかもしれません。

アフリカ外のホモ・サピエンスの最古の化石骨はイスラエルのスフール洞窟で見つかった10万年前のものです。12万年前は数千年間の間氷期があり,サハラにも一時的に緑が増えた時期があります。彼らはその時期に動物を追って北上し,アフリカを出たと考えられます。

「BBC地球伝説」という番組では,彼らはスフールに数千年は留まりましたが,短い間氷期が終わり再び氷期が訪れ,サハラやこの地域が乾燥化したため拡散することなく絶滅したとしています。

しかし,10万年前の人類の骨を探し出すことは非常に難しいので,まだ他の地域では見つかっていないという可能性は否定できません。もっとも,そのような集団もあとからやってきた数の多い成功集団に吸収されると遺伝的な多様性は失われ,出アフリカは1度に見えることになります。

ホモ・サピエンスの出アフリカは複数回あったかもしれませんが,中核となる成功集団がアフリカを出たのは1度だけと考えられます。この集団がアフリカを出た時期は85,000年前あるいは70,000-60,000万年前という2つの説があります。

この2つの時期の間にはスマトラ島のトバ火山の大噴火(74,000年前)という初期現生人類にも大きな影響を与えたイベントがあります。この超巨大噴火(VEI=8)は1991年のピナツボ噴火(VEI=6)の100倍以上の規模であり,過去100万年で最大の噴火です。スマトラ島の動植物の大半は絶滅し,インドでも数10cmの火山灰が降り積もりました。この火山灰が74,000年前のマーカーとなります。

インド南部のジュワラプラム遺跡では中期石器を使用した集団がトバの噴火前および噴火後も引き続いて暮らしていたことが確認されています。この時期に中期石器を使用していた集団はホモ・サピエンスの可能性が高く,そうすると彼らがアフリカを出たのは74,000年前より前ということになります。

8万-6万年前の北アフリカは乾燥化しており,12万年前のように北ルートでユーラシアに移動することは考えられない状況です。ビクトリア湖からスーダン,エジプトを流れ下る白ナイル川もこの時期はまだ開かれていませんでした。

唯一,考えられるルートは紅海によって隔てられているアラビア半島です。紅海のもっとも狭いところは「嘆きの門」と呼ばれている幅50kmほどの海峡となっています。ここは氷期には海面が低下し10kmほどに狭まり,木をつなぎ合わせた簡単な筏のようなものでも移動できた可能性があります。ホモ・サピエンスは早い時期から海産物を食料としており,海岸線に沿って移動していったという考え方は南方出アフリカ説と呼ばれています。

南方出アフリカ説を補強する材料としてはイエメンには精巧な石器を製造した痕跡が残されており,それは7万年前に遡るとする研究もあります。また,アラビア半島の南部海岸には現在は海底に沈んでいますが真水の噴き出す泉が多数あることから,アフリカを出た集団は海岸線に沿って移動できたと考えられています。オマーンから先はところどころにオアシスの点在する環境でした。

アフリカを出た集団は海水面の低下により地峡のようになったホルムズ海峡を渡りイランに到達します。これでホモ・サピエンスの集団は砂漠に隔てられていないユーラシア南部に到達したわけです。

ここから集団は少なくとも3通りに分かれ,一つは海岸沿いに東に,一つは海岸沿いに西へ,もう一つは中央アジアに向かいました。ただし,当時の寒冷で乾燥した気候のため西ルートの先にあるレヴァント地域(肥沃な中東の三日月地帯)は砂漠化しており,1.5万年ほどは遅れたものと考えられています。

東に向かった集団はインドの西海岸でしばらく留まり,数を増やしていきました。その後,西海岸を南下し,途中でインドを横断し,ベンガル湾の沿岸を通り,およそ5万年前に東南アジアに到達しました。

その過程でも少なからぬ集団は環境のよい土地に留まることを選択しました。そのような集団はさらに別の地域に移動することもありましたが,中にはそこで長い間,外部との交流なしに孤立して暮らしてきた集団もあります。そのような集団にはアフリカを出た時の特徴がよく残されています。

5万年前の東南アジアは現在とはまったく様子が異なっていました。マレー半島,スマトラ島,ボルネオ島,ジャワ島が陸続きであり,巨大なスンダランドを形成していました。オーストラリアとニューギニア島も陸続きでした。人類はスンダランドに入ったのは確かですが,インドネシアにおける化石骨はボルネオ島のニア洞窟(3.5万年前の頭骨と石器類)以外は見つかっていません。

スンダランドから先の移動ルートはよく分かっていません。海水面が下がっていたとはいえ,チモール島とオーストラリアとの間には200kmの海が存在していました。どのような方法でここを渡ったのか,どうしてその先にオーストラリアがあることが分かったのか,一部の集団はおよそ4万年前にオーストラリアに到達(漂着)し,アボリジニと総称される先住民族となりました。ミトコンドリアDNAの分析でも彼らもまたアフリカを出たホモ・サピエンスの血統であることが確認されています。

ユーラシア南部から海岸沿いに西に向かった集団はイラン→レヴァント→アナトリア→東欧,もしくはイラン→コーカサス→東欧のルートでヨーロッパに入ったと考えられます。確実な足跡が残っているのはアナトリア・ルートです。

しかし,アフリカのサバンナ起源のホモ・サピエンスはヨーロッパの寒冷な気候と,冬季の日照時間の不足に悩まされたことでしょう。また,ヨーロッパ全体に広がっていたネアンデルタール人も競争相手として立ちふさがっていました。

ヨーロッパにおける最古のホモ・サピエンスである(クロマニヨン人)の頭骨はルーマニアの洞窟で発見されたもので,4万年前のものと判定されました。頭骨をもとに頭部を復元したところアフリカ系,アジア系,ヨーロッパ系の中間の風貌であったとされています。肌の色は分かっていません。

一方,ネアンデルタール人はヨーロッパに適した白い肌と頑丈な体躯をもち,精密な石器を使用し,狩りの技術もホモ・サピエンスとそん色なかったようです。海産物も食料にしていました。にもかかわらず,ホモ・サピエンスとの生存競争に敗れて,2.5万年前には絶滅しています。

何がホモ・サピエンスに味方したのかはよく分かっていませんが,ホモ・サピエンスの方が社会性(小集団間のつながり)が強かったので,気候変動などに対応できたのではという説もあります。

ユーラシア南部から北に向かった集団は4万年前には中央アジアさらにはシベリア南部に進出しています。2.5万年前に始まる最寒冷期に比べるとこの時期のシベリア南部は夏の草原に支えられた大型動物が多く,寒さを除けば狩猟を主にするホモ・サピエンスにとっては住みよいところだったのかもしれません。

マンモス,毛サイ,トナカイなどが彼らの食料であり,トナカイの毛皮をまとうことにより,寒さに対応しました。住居は半地下で丸太の骨組みにトナカイなどの毛皮をかけたものが使用されたようです。そのような暮らしは現在のシベリア東部でトナカイと暮らす人々のものと類似していたと考えられます。

彼らは「国立科学博物館・日本人はるかな旅」ではマンモスハンターとして紹介されています。マンモスハンターは寒さに適応した人々でした。2.5万年前の最寒冷期にもイルクーツク市の北西80kmにあるマリタ遺跡で定住生活を営んでいました。

ここからは,多数の石器とマンモスの骨と牙,トナカイの角などが集積したテント式住居の跡が数多く見つかりました。推定48-60人,8-10軒の家で構成された集落は何度か引越しをしながら長期間この地に存在したようです(日本人はるかな旅より)。

熱帯生まれのホモ・サピエンスは寒冷なシベリアで徐々に適応していき,北方系アジア人となりました。寒さに適用した彼らの身体的特徴は次の通りです。
(1) 体温の発散を防ぐために身体はずんぐりし手足は短くなる
(2) 顔の凍傷を防ぐために鼻は低くなり平面的な顔立ちになる
(3) 皮下脂肪が発達して,まぶたは厚く一重になる
(4) 氷雪の照り返しから守るため眼はアーモンド型になる
(5) 男性の体毛が薄い(ひげが少ない)

彼らはしだいに南下して6000年前頃には中国の優勢集団となっています。それ以前の中国では古モンゴロイドが優勢集団となっていましたが,北方系アジア人により周辺部に追いやられてしまったと考えられています。この集団の入れ替わりにより東アジアの優勢集団となった北方系アジア人を新モンゴロイドと呼びます。新旧には古い,新しい以外の特別な意味はありません。

問題は古モンゴロイドがどのような集団であったかがはっきりしていことです。従来は南方系アジア人であろうと考えられてきましたが,そうすると日本人の遺伝子の基質には南方系のものが含まれているはずです。

日本列島に人類が住み始めたのはおよそ3.5万年ほど前のことであり,当時の海面水位は現在よりも数10m低く,琉球列島,日本列島,樺太が弧状に大陸とつながっており,日本海は大きな湖のような状態でした。したがって,当時の華北の優勢集団(古モンゴロイド)が朝鮮半島を経由して日本列島にやってきて縄文人の基盤となったというのは自然な考え方です。

縄文人の原型を考える上で,遺伝子解析は有力な手段となります。母方からしか伝達されないミトコンドリア遺伝子は現生人類の拡散の過程を調べるのによい指標となります。一方,父方からしか伝わらないY染色体(男性染色体,女性はXX,男性はXYとなり遺伝的な性別が決定されます)も集団の類縁関係を調べるのに適した方法です。

現在の日本人のY染色体はD2型が30-70%(地域により異なります),O型が0-56%(地域により異なります)を占めています。D2型は朝鮮人にわずかに残されている以外は,どこにもない珍しいものです。D型をもつ集団はチベット人(50%),雲南の少数民族イ族(20%),チュルク系アルタイ(10%),D祖先型はアンダマン諸島の人々(ほぼ100%)となっています。

大陸におけるD型のY染色体の分布を考えると,日本人のD型は古モンゴロイド由来のものだということになります。そう考えると4万年前に中央アジアから東に向かったD型集団があり,華北の優勢集団(古モンゴロイド)は彼らではなかったかという考え方が出てきます。このD型集団は,その後の北方系アジア人(O型集団)の南下により周辺に追いやられたり,吸収されてしまいます。日本列島はその時期には孤立した島となっていたためD型が特異的に残ったと考えられます。

現在の日本人のY染色体におけるD2型の高い割合から考えると,縄文人の基盤となったのは大陸から朝鮮半島経由で入ってきたD型の集団であり,それに樺太経由の北方系アジア人と琉球列島や黒潮経由の南方系アジア人の集団が加わっていると考えると,(少なくともY染色体の特異性は)よく説明がつきます。

間氷期に入り日本列島や琉球列島が大陸から孤立することにより,外部から新しい人々が流入することが少なくなくなります。彼らは気候が温暖で植物性の食料に恵まれた日本列島で共存・混血し,縄文人を形成しました。1万年以上にわたり孤立した集団となったため,縄文人は比較的,遺伝子の均一な集団となっています。縄文時代の日本列島の人口は下表のように気候変動により増減しています。(鬼頭宏・人口から読む日本の歴史)。

時期 人口(万人) 気候
縄文早期(8000年前) 2 現在より2℃ほど低い時期が続く
縄文前期(5500年前) 11 現在より1℃ほど高くなる
縄文後期(3500年前) 26 人口がピーク,寒冷化が始まる
縄文晩期(3000年前) 8 食料不足により人口は激減する
弥生時代(2000年前) 59 人口流入と水田稲作により人口急増

2300年前頃から数百年にわたり中国大陸の各地から水田稲作技術とともに北方系アジア人の渡来人がやってきます。渡来人と縄文人は混血し,現在の日本人が形成されます。O型のY染色体は渡来人によりもたらされたと考えられます。渡来人と混血の少なかったあるいはなかったアイヌの人たちにはほとんどO型は見られません。

現在の日本人は混血が進んでおり,地域的な差異は小さくなっていますが,遺伝子のレベルで調べると有意の地域差が出ています。渡来人との交雑が少ないと考えられる琉球の人々とアイヌの人々の遺伝子は近縁度が高いことも分かっています。最近の人類学の結論としては,現代の日本人は弥生系が7-8割,縄文系が2-3割の比率で混血しているそうです。