『 東海道を歩く ー 鳴 海 宿   』


知立宿から有松の間に、国指定史跡の阿野一里塚と桶狭間古戦場がある。 
間の宿の有松は、尾張藩が奨励した絞り染めで有名になった。 今でも、絞り問屋の建物が残っている。
鳴海宿は、隣の有松とともに絞りの産地として栄えたが、近代化が進み、そうした家屋は残っていない。


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知立宿から間の宿・有松へ

逢妻川平成19年3月14日、今日は、知立宿から有松まで歩く予定である。 今年は雪を見ないで終わりそうな暖冬だが、今週は寒い日が続き、今日も、北風が強く、肌に強く感じる寒さである。 家から近いのと歩く距離が短いので、遅い時刻の十時前に自宅を出て、名鉄知立駅に行き、知立宿(池鯉鮒宿)の境に流れる逢妻川まで歩いた (右写真)
今日の旅はここからである。 知立宿から鳴海宿までに、二つの川を渡るが、一つ目の川は、
密蔵院 この川で、もう一つは境川である。 逢妻川に架かる逢妻橋を渡り、逢妻町交差点で、国道1号線と合流した。 ここからしばらく、国道を歩く。 西丘町から刈谷市になる。 右側の狭い道を入って行くと、密蔵院という寺に出た (右写真)
三河三弘法の第参番で、敷地も広く、ゆったりとしたお寺だった。 このあたりの細い道は、
今岡町歩道橋 東海道だったのかも知れない。 一里山新屋敷交差点に出て、また、国道 を歩く。 この交差点のあたりに、一里塚跡の碑があると思ったが、確認できなかった。 一里山は一里塚の別称で、静岡県や滋賀県でも、そう呼ばれている。 少し歩くと、右側に上州屋があり、その先の今岡町歩道橋のところで、左側の細い道に入った (右写真)
これが東海道で、この先には、連子格子の古い家が点在している。  国道から少し入った
洞隣寺 だけだが、昔の情緒を残している。 交差点の左側には、屋敷門がある家があった。  少し歩くと、道は左にカーブするが、その手前の道の左側に、子安観音尊霊場の石碑と常夜燈が建っていて、その奥にお寺が見えた。 洞隣寺である (右写真)
天正八年(1680)の開山、刈谷城主、水野忠重の開基と伝えられる曹洞宗の寺院である。 道の脇の常夜燈には、寛政八年(1796)と刻まれている。  本堂の隣には、地蔵堂、行者堂、
中津藩士の墓とめったいくやしいの墓 秋葉堂が並んで建っていた。 お堂の裏にある墓地に入っていくと、奥の方に、豊前国、 中津藩士の墓とめったいくやしいの墓が並んで立っている (右写真)
寛保弐年(1742)、帰国途中、今岡村付近で、渡辺友五郎は牟礼清五郎を突然斬りつけ、二人とも亡くなった。   二人の遺体は、洞隣寺に埋葬されたが、二人の生前の恨みからか、いつの間にか、 反対に傾き、何度直しても傾いてしまうので、墓地を整理し、改めて葬ったところ
いもかわうどん発祥の地 傾かなくなった、という。 寺から少し行くと、右側に、小さな社と常夜灯が建っている。 そこに、芋川うどん発祥の地と、書かれた木札があった (右写真)
江戸時代の東海道名所記に、 「 いも川、うどん・そば切りあり、道中第一の塩梅よき所也  」 と、あったところで、ひもかわうどん(名古屋のきしめん)の源流といえるところだが、現在、そうした名物の店がここにある訳ではない。  傍らの説明板には、 「 江戸時代の紀行文に、
乗願寺 いもかわうどんの記事が多くでてくる。 名物のいもかわうどんは、平打うどんで、これが東に伝わり、ひもかわうどんとして現代に残り、今でも、東京ではひもかわと呼ぶ。 」 、と書かれていた。   信号のない交差点を過ぎ、左にカーブする手前には、古い家が多く残っている。  その先の左側に、乗願寺という寺がある (右写真)
天正十五年の創建で、当初は真宗を内に、外向きは浄土宗としていたが、後、真宗木辺派
茶屋本陣か に改めた。 水野忠重の位牌を祀る。 なお、真宗木辺派の本山は、滋賀県野洲市にある 錦織寺である。  少し歩くと、右側に立派な家が現れた。 連子格子の凄く立派な家で、門付きの家だが、閉まっていて覗くことはできないのは残念!! (右写真)
江戸時代、ここ今岡町は立場で、茶屋があったところである。  この家はもしかすると
今川歩道橋 茶屋本陣ではないのか?  この先にも、屋敷門があり、格子を黒く塗り、白い漆喰の壁の家があり、門から覗くと、二宮尊徳の像があった (右写真)
前述のいも川うどんのいも川とは、今川町のことと思われるが、案内板があったところは 今岡町であった。 小生の推理だが、隣の今川町が発祥の地で、茶屋があった今岡町で 旅人に供され、その名が拡がった、と考えれば辻褄が合う。 
今川歩道橋 この先の交差点の手前に倉付きの屋敷門のある家があり、ここを越えると今川町に入る。  次の交差点で左折すると、名鉄富士松駅。 駅前のロータリーの噴水には、サッカーを興じるレリーフがある。 刈谷市はサッカーが盛んな地区なのである。 
少し歩くと、県道と交差するが、ここは今川歩道橋を渡る (右写真) 
道は右にカーブし、少し歩くと下り坂になり、国道1号が見えてくる。 
今川交差点 国道に出ると、今川交差点。 正面にシキシマパン刈谷工場が大きく見える (右写真)
そちらに渡りたいのだが、歩道橋や横断歩道がない。  道の進むと、左側に降りる道があり、国道の下を川と一緒にくぐる。  国道の右側の道に入り、シキシマパンの駐車場の前を通り、小さな橋を渡ると、サウナやパチンコなどの店がある。 
境川 ラーメン屋で、ラーメンを食べたが、けっこう美味かった。 食事後、出発するとすぐに、二つ目の川に出会う (右写真)
三河と尾張の国境に流れる境川である。  それ程大きな川ではないのに、川を挟んだ両側で、住民の気質がかなり違う。 最近は、他県からの流入者が増えたので、以前ほど顕著な違いは感じられないが、小生が来たころははっきりしていた。 一言で言えば、尾張は、豊臣秀吉の性格同様、派手というか、見栄ぱりで、三河は、徳川家康同様、質素で堅い。 言葉も、
境橋 みゃあみゃいうのは尾張で、三河は、どんくさい(もっときたない)し、荒い言葉に思えた。 結婚時に自宅前で菓子をばらまくという風習は尾張(名古屋以西)だけである。  それから数十年経過した結果、小生も同化したのかあまり違いが分からなくなっている。  橋を渡ると、三河国今川村から尾張国東阿野村(現豊明市)に入る (右写真)
境橋は東海道の開設時に、三河と尾張の立会いのもとで作られた橋だが、当初は、三河側は
藤原光広の歌碑 土橋、尾張が木橋をほぼ中央でつなぐ継ぎ橋だった。  その当時の橋を詠んだ歌碑が橋を渡った右側の川岸に残っている (右写真)
   「   うち渡す   尾張の国の   境橋 これやにかわの  継目なるらん  」 
詠んだのは、烏丸殿と呼ばれた公家の藤原光広で、寛文六年(1666)である。 その後、橋は洪水で度々流された。 やがて、継橋は一続きの土橋になった。  明治に入って欄干付きになった。 現在の橋は、平成七年なので、新しい。  少し先に、愛知万博開催時に開通した伊勢湾岸
名鉄豊明駅 道路が見える。 ここは、国道1号、国道23号、県道などが交差する交通の要路である。 東海道は、この道路が並ぶ反対側にある。  街道は下りになり、二百メートルほど先で、国道1号の下にあるトンネルをくぐり、左側の道に出て、国道1号に合流する。 ここから、国道を名鉄豊明駅を左に見ながら歩く (右写真)
国道1号には車が多い。 左側を歩いて行くと、パトカーが止まっていて、バイクの青年が
陸橋手前で左に入る ヘルメットをかぶらなかったため、捕まっていた。  お気の毒!! でもヘルメットなしでは危険だからしょうがないか?!  やがて、県道が通る陸橋が見えてくるが、その手前で、道が二又になるので、左の道を行く (右写真)
ここには、 「 国指定史跡阿野一里塚200m 」 の表示板があった。  二百メートル歩くと、阿野一里塚に到着した。 道の両側に、一里塚は残っていたが、塚の部分は崩されて、 
阿野一里塚 原形を留めているとはいえない。 木を植えられ、小公園のようにして、大事にされていた。 左側の一里塚の中に入ると、歌碑がある (右写真)
   「   春風や   坂をのぼりに   馬の鈴   」 (市 雪) 
ここから、前後(地名)に向かって、上り坂になっているが、 「 春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる 」 と、いう意である。 
東海道の松並木 愛知郡下之一色(現名古屋市)の森市雪の作で、嘉永元年(1848)の名区小景に、載って いる。  その下に、文化五年(1808)の折れた道標があった。  一里塚を出ると、その先の交差点からやや急な坂になり、左側に大きな松の木が見える。 
豊明小学校の前に一本だけあるのは、東海道の松並木の生き残りである (右写真)
その先の左側にある三田皮膚科クリニックの隣の建物は立派なので、足を止めた。 
塀に囲まれ、門が閉まっているので、入れない。 外から覗くと、文部省と書かれた高札、 
明治天皇御小休所跡 そして、隣に、明治天皇東阿野御小休所跡という石碑が見えた。  明治天皇は、明治元年から弐年にかけて、東京と京都の間を行き来した。 明治維新で、京都から江戸に遷都するためと、京都に戻り、再度、東京に戻るためであったが、その際、三田邸で休息をおとりになったようである (右写真)
少し歩くと、前後駅前交差点。 その先の坂部善光寺あたりで、上りは終わった。 
前後駅前交差点 左側は、スーパーが入る高層ビルが建っていて、その一角に、名鉄前後駅 (右写真)
前後という地名は珍しいが、桶狭間の戦いのあと、織田方の雑兵が、褒賞をもらうため、自分が倒した敵方の首を切り取って、前と後に振り分け荷物のようにして、肩に担いだという、話から名が付いた、といわれる。 神明社の石柱と常夜燈を右に見て進むと、落合公会堂の前に、寂応庵跡の石碑があった。 
中京競馬場前 このあたりは、古い家と新しい家が混在している。 
それを見ながら進むと、左にカーブする正面に、マンションが建つ。  ここで、再び、国道1号に合流した。 前後駅前から千五百メートル位か?  三叉路の交差点の右側に、馬蹄の上に疾駆するサラブレッドの姿をしたレリーフが立つ (右写真)
名鉄の高架をくぐると、右手に中京競馬場駅がある。  中央競馬が開催される土曜、日曜には、
藤田学園本部 周囲が大混乱するが、今日は静かだった。 左側の三番目の角に、香華山高徳院の案内板が立ち、右側には桶狭間古戦場100mの表示がある。  東海道は直進だが、桶狭間古戦場跡に向かう。  左折すると、左に橙茶色の立派な建物があり、なんだろうと思ったら、藤田学園本部とあった (右写真)
沓掛でキャンバスを持つ藤田保健衛生大学の本部だった。 
史跡桶狭間古戦場 その隣に、史跡桶狭間古戦場と書かれた石柱があり、桶狭間古戦場公園で、傍らの説明板には、 永禄六年(1560)五月十九日、今川義元が織田信長に襲われ、戦死したところと伝えられ、田楽狭間とか館狭間と呼ばれていると、ある (右写真)
今川義元、松井宗信、無名の人々の塚があり、明和八年(1771)七石表が建てられた。 文化六年(1809)には桶狭間弔古碑が建てられた、とあり、ここが有名な田楽桶狭間である、
七石表之一 と記されていた。 園内に入ると左側に、細長い標石が立っている (右写真)
これは、七石表の一つである。  七石表は、今川義元の戦死した場所を明示する最も古いもので、明和八年(1771)十二月、鳴海下郷家の出資により、人見弥右衛門等により建てられたもので、この標石には、北面に、今川上総介義元戦死所、東面、樋峡七石表之一、南面、明和八年辛卯十二月十八日、と刻まれている。 その他の七石表も境内にあり、その前に、花が手向けられていた。 
義元の墓 七石表の先の樹木に囲まれたところが、義元が亡くなったところと伝えられ、塚になっていたが、有松の人が主唱し、明治九年五月、墓を建てた、とあるが、遺骸はない訳だから、慰霊碑といった方が正確なのではないか? (右写真)
その先の古戦場案内板の脇に、大きな石碑が建っている。  桶狭間弔古碑と呼ばれるもので、文化六年(1809)五月、津島神社社司、氷室杜豊長が、建てた桶狭間合戦の戦記である。  左側には、香川景樹の歌碑があった。 
 「  あと問えば  昔のときのこゑたてて  松に答ふる   風のかなしさ  」 景 樹 
義元の墓 香川景樹は、桂園派の巨匠で、江戸で己の歌風を広めようと上府したが、迎えられず、失意のまま帰途の途中、ここを通り、今川義元の無念を思って、この歌を詠んだ、という。 
義元の墓はもう一つある。  公園の隣の高徳院の斜面にあるもので、これは、万延元年(1860)、義元の三百忌に建てられたもので、これには、法名が刻まれている (右写真)
斜面の左側に、小さな石仏が並んで立っていたが、その中に、徳本上人の名号碑が
石仏群 あった。 寺の石段を上って行き、山門をくぐると、義元本陣の跡と書かれた石柱が立っていた。  敷地には、敵味方の戦死者を弔う石仏群がある (右写真) 
桶狭間合戦の跡に建つ高徳院は、昔からここにあると思っていたが、意外に歴史は浅い。 「 もとは、高野山にあった寺で、空海が高野山を開創して頃、河内国高貴寺より、本尊の高貴徳王菩薩を勧請して建立された寺だが、明治維新の神仏分離で、高野山にあった多くの
松井宗信の墓 院坊が廃寺され、この寺も、同じ運命を辿るところを東京本所吾妻橋の遍照院の僧侶、諦念和尚が、この地に本尊、仏具、法具等を移転し、存続された。 」 と、いうのが、寺の由来である。  墓地に、遠州二俣藩主で義元に従った松井宗信の墓があった (右写真)
二十年前に訪れた桶狭間古戦場は、ここではなく、ここから二キロ程南の名古屋市緑区桶狭間北にある同名の公園だった。  桶狭間古戦場は二ヶ所にあり、それぞれが主張しているのである。 政府は、昭和十二年、これまでの伝承と江戸時代に建てられた七石表< を基に、ここを
桶狭間古戦場として、国史跡に指定しているが、「 突然の攻撃により、義元の部隊は散り
合戦図 ばらばらになり、ここを抜けて、沓掛方面に逃げた部隊が多いが、反対の大高方面に逃げた部隊もある。 両地とも、桶狭間古戦場であり、ここが、義元の本陣とは特定できない。 」 、と学者で異論を唱えるものがいる (右写真ー合戦図)
どちらが正しいのか分からないが、狭間(はざま)と名が付いていることから考えると、
狭間 林や藪や湿地帯になっているところに、小道が通っていて、見通しが悪いというところだった訳で、特定するのは難しいだろう (右写真)
戦場というのは跡が残らないので、このようなことがおきる。  東海道に戻り、歩き始める。 この先に、左へ入る細い道があるが、すぐに歩き終わり、国道に合流してしまった。  大将ヶ根の交差点で、国道を別れて、右側の細い道に入ると、有松に入った。 
小生は有松から鳴海までは、平成十七年五月に歩いているので、今回は足早に見ながら、
有松駅に向かった。 



後半に続く( 鳴 海 宿 )