比較文化A

料理の比較解剖学

第2講(2004年4月15日)

 

第1講のおさらい

前回の授業では、教室の後ろで立ったままの聴講になってしまった方、教室に入れず廊下で黒板も見えない状態での聴講になってしまった方などが、続出してしまいました。ほんとうに申し訳ありませんでした。そうした方々のために、今日は、まず、前回の授業の要点をざっとおさらいすることから始めたいと思います。

前回の授業では、まず最初に、「比較文化」という学問にどのような可能性があるのかを見ました。「比較文化」には大きくわけて2つのタイプがあり得ることをお話しました。

ひとつは、様々な地域の様々な文化・文明のあいだの「違い」や「隔たり」を強調するタイプのもので、こちらのタイプについては、東洋と西洋との食事の出し方の比較の例を引いて説明しました。西洋では、料理が、前菜、主菜、デザート、コーヒーというように時間軸にそってひとつひとつ出されるのに対して、東洋では、すべてのお皿がひとつの空間のなかに初めからいっぺんに出されるという話です。こうした事例から、例えば、西洋では空間概念よりも時間概念を重視するのに対し、東洋では反対に時間概念よりも空間概念を重視しているのではないかといった、「ものの考え方」や「ものの見方」のレヴェルでの「違い」や「隔たり」を引き出すのが、「違い」や「隔たり」を強調するタイプの「比較文化」だという話をしました。このタイプの「比較文化」は、9・11の事件を「文明の衝突」(サミュエル・ハンチントン)と見なすようなタイプの考え方に近いかも知れないという話もしました。9・11事件のような「衝突」が起こらないようにするには、様々な「文明」あるいは「文化」のあいだの「違い」や「隔たり」をきちんと認識しなければならないという考え方です。

これに対して、ぼくがこれからみなさんと進めていく「料理の比較解剖学」では、むしろ、様々な地域の様々な料理に共通するもの、あるいは、それらの料理が分ち合っているものを見定めていくような「比較文化」だということもまた、前回の授業で話しました。世界中の様々な地域の料理を比較し、それらの料理に共通するものを把握することによって、「料理とは何か?」、あるいはより正確には、「料理を作るとはどのようなことか?」といった問いにひとつの答えを出すことが、この授業の目的だということです。すべての料理に共通する「基本構造」を見定め、そこから料理を作りの「原理」を引き出すことによって、みなさんに「なるほど、料理を作るというのはそういうことなのか」と納得してもらい、みなさんを新たな料理の創造へと駆り立ててみたい、そんなところに授業の目的があるということを話しました。

「比較解剖学」とはそもそも何かということについてもお話しました。19世紀初頭に生物学の分野で始められた「比較解剖学」は、《博物学=自然誌》(histoire naturelle)と呼ばれるような、それまでの生物学におけるパーツ(部分)のレヴェルでの生物どうしの類似・相違の比較ではなく、新たに、それぞれの生物の体を構成するパーツのあいだの総体的な関係性そのもの、すなわち全体的な「構造」のレヴェルで生物どうしを比較する試みであることを説明しました。パーツから「構造」への転換、これが「比較解剖学」の登場とともに19世紀初頭に起きた生物学における大転換です。ただし、このように「構造」を比較する「比較解剖学」にも、様々な生物のあいだの「違い」や「隔たり」を強調するタイプのものと、様々な生物に共通する「基本構造」を引き出そうとするタイプのものとの2つがあることを、ジョルジュ・キュヴィエ(Georges Cuvier)とエティエンヌ・ジョフロワ・サン=ティレール(Etienne Geoffroy Saint-Hilaire)という2人の生物学者のあいだの論争を通じて確認しました。ヒトをお臍のところで折り畳むとタコになるかどうかという、とても面白い論争でした。キュヴィエは、ヒトとタコとでは別々の「門」に属している(それぞれ「脊椎動物門」と「軟体動物門」)ので、ヒトはタコになれないと主張しましたが、ジョフロワは、「ヒトの体を臍のところで折り曲げると、パーツの幾何学的配置がタコと同じになる」という説を支持しました。ジョフロワは、すべての生物が一枚の同じ「折り紙」からなっているということ、生物の多様性はこの同じ「折り紙」の折り畳み方の多様性であるということ、すなわち、生物の多様化の運動(進化)は一枚の同じ「折り紙」が様々なかたちで折り畳まれていく運動であるということ、そうしたことを主張したのです。これをぼくたちは「動物=折り紙」説と名付けました。

ジョフロワの「動物=折り紙」説のすごいところは、何よりもまず、それを聞いた人を新たな生物の創造へと駆り立てるところにあるという話もしました。すなわち、「なるほど、もしも動物が一枚の同じ折り紙からなっているのなら、新たな折り畳み方を発明することによって、ぼくにも新たな動物を発明することができるかも知れないぞ」と人々に思わせるようなところがあるということです。前回の授業でみなさんに感想を書いてもらいましたが、そのなかの一枚に、「そんなことを言ったって、新たな折り畳み方を考えつくのはとっても難しいと思う」というようなものがありました。もちろん、ゼロから新たな折り畳み方を考えるのは難しいでしょう。でも、ジョフロワが言いたいのは、すでに折られたものにさらに新たな折り目を付け足すというようなことでもあるのです。例えば、ヒトがタコになるためには、ヒトのかたちに折られた折り紙を、その真ん中のところでもう一度だけ折り畳むだけでいいのです。それ以外にも、ツルのかたちに折られた折り紙の羽のところに小さくカメを折るといったことも考えられるでしょう。漫画「天才バカボン」に登場する「うなぎいぬ」のようなものを考えてもよいかも知れません。実際、今日のバイオテクノジーにおける「遺伝子組み換え」といった技術は、そのようなかたちで行われており、これによって、まさに「うなぎいぬ」のような新たな生物を産み出しているわけです。

このように、様々なものを横断する、すべてに共通の「基本構造」を引き出すようなタイプの理論は、人々を創造行為へと駆り立てるのに非常に適した理論なのです。ジョフロワの説は、それを聞いているだけで、生物の多様化の運動のまっただ中にぼくたちも引き込まれそうな感じがしてきます。「料理の比較解剖学」で行いたいと思っていることも、このジョフロワのような、すべての料理に共通する「基本構造」を引き出すタイプの「比較解剖学」です。

以上が前回の授業でお話したことのおおまかな要点です。今日は、これから、すべての料理に共通する「基本構造」のお話に具体的に入っていきたいと思います。

 

キリスト磔刑図と焼き鳥

次の絵を見て下さい。これは、チマブーエ(Cimabue, 1240-1302)という13世紀の後半に活躍したイタリア人画家の筆によるとされる「十字架」(crucifix)あるいは「キリスト磔刑図」(crucifixion)のひとつです。チマブーエは、いわゆる「ルネサンス」が始まる以前の人物で、ビザンティン様式の伝統を受け継いだ最後の画家のひとりであると一般には言われています。チマブーエは、存命中に5枚あるいは6枚の「磔刑図」を描いたとされていますが、いまみなさんに見ていただいているこの「磔刑図」は、フィレンツェにあるサンタ・クローチェ教会(Basilica di Santa Croce)のために1272年ごろに制作されたもので、現在はサンタ・クローチェ教会付属美術館に展示されています。料理を論じるためになぜ「磔刑図」の話をしなければならないのかは、みなさんにもすぐにわかっていただけると思うので、ちょっと付き合って下さい。

このような「磔刑図」は、たいていのキリスト教の教会(ただし、基本的にはカトリックの教会のみ。「聖書主義」をかかげるプロテスタントの教会では「偶像」とされ「磔刑図」は掲げられないことが普通)に飾られており、キリスト教の信仰においてとてつもなく重要な役割を果しているわけですが、それは具体的にはどのような役割なのでしょうか。キリスト教の信仰の仕組みを簡単におさらいしながら、それを説明したいと思います。

キリスト教の教典である聖書は「旧約聖書」と「新約聖書」という2つの部分からなっていることは、みなさんも知っているかも知れません。「旧約聖書」と「新約聖書」にはどのよ、な違いがあるのでしょうか。その最大の違いは、一言で言えば、「旧約聖書」が「言葉」(ロゴス)を信じさせるために書かれたものであるのに対して、「新約聖書」は「肉」を信じさせるために書かれたものであるという点にあります。わかりやすくこれを説明してみます。

「旧約聖書」は、アブラハム、モーセ、ダビデといった預言者たちを通じて神の「言葉」を伝えるもので、こうして伝えられる神の「言葉」の内容は、もっとも簡単に言えば、いつの日にか、ひとりの「救世主」(ヘブライ語でメシア、ギリシア語でキリスト)が実際に生を受け、人々に永遠の幸福をもたらすだろうというものでした。重要なことは、「旧約聖書」では、「救世主」(キリスト)というものが、まだ実際にこの世のものとはなっていない、ただ預言されるだけの未来のもの、すなわち、純粋な「言葉」のレヴェルにとどまっているという点です。「旧約聖書」が「言葉」を信じさせるために書かれているというのは、この意味においてのことです。ところが、あるとき、イエスという名前のひとりの男が、自分こそが「旧約聖書」のなかで預言されている「救世主」(キリスト)であると言い始めるのです。すなわち、イエスは、これまで「言葉」でしかなかった「救世主」(キリスト)が、イエス自身の「肉(体)」という目に見えるかたちで、実際にこの世のものとなったと言っているのです。これを、西洋では《incarnation》(受肉)と呼んでいます。イエスは「受肉した《言葉》」(le Verbe incarné)だというわけです。「新約聖書」は、「救世主」(キリスト)としてのイエスが実際にこの世にいたのだということを記録した書物です。「新約聖書」が「肉」を信じさせるために書かれた聖書であると言うのは、この意味のことです。「新約聖書」では、随時「旧約聖書」からの「言葉」が引用され、同じことがイエスの肉体によって実際に生きられたということがしつこく強調されています。

「救世主」(キリスト、メシア)をあくまでも「言葉」のレヴェル、預言のレヴェルのみで信じようというのが、「旧約聖書」のみを教典とするユダヤ教です。ユダヤ教において、「聖書」とは、この「旧約聖書」の部分のみを指します。反対に、「救世主」(キリスト)を実際にこの世に現れた者として、すなわち、イエスの肉体に「受肉」したものとして信じようというのが、新旧両方の聖書を教典とするキリスト教なのです。「新約聖書」には「ヨハネ福音書」と題された部分があるのですが、そこには、キリスト教がこのような「肉」への信仰であることをこの上なくはっきりと示す、次のような有名な一節があります。

この言葉(ロゴス)が肉となって、しばらく私たちのあいだに住んでおられた。これが主イエス・キリストである。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ福音書・第1章・第14節)(『福音書』岩波文庫)

キリスト教の教会は、そのライバルであるユダヤ教の教会との関係から考えても、何が何でも、「救世主」(キリスト)がたんなる「言葉」や預言ではなかったこと、すなわち、「言葉が(実際に)肉となったこと」を人々に信じさせなければなりません。キリスト教の教会は、そのためにありとあらゆる手段を動員してきました。イエス・キリストの「肉」(「聖体」)だとして教会で信者の口にパンやワインを放り込む、「聖体拝領」と呼ばれる儀式などは、その好例のひとつでしょう。そして「磔刑図」もまた、まさに同じ目的のための、すなわち、イエス・キリストという「肉」を信じさせるためのこの上なく重要な装置のひとつのなのです。

イエスは、自分が「救世主」(キリスト)すなわち「受肉した《言葉》」だと言い張ったために、審問にかけられ、最終的には磔刑に処せられることになりました。少なくとも「新約聖書」ではそう説明されており、その処刑の様子を表現したものが「磔刑図」だとされています。ただし、これは、あくまでも、物語のレヴェルで「磔刑図」が「表象している」(représenter)ものです。キリスト教の教会における「肉」を信じさせるための装置については、つねに、物語のレヴェルと、感覚により直接訴えかけるレヴェルとを区別しなければなりません。パンやワインを実際に食べさせることで信者たちの肉体に直接働きかけようとする聖体拝領の場合(聖体拝領にも、「最後の晩餐」におけるイエスの発言という《物語のレヴェル》もあります)もそうですが、キリスト教の教会は、つねに、物語のレヴェルとは別に、より直接的なかたちで人々の肉体や精神に訴えかけることで、物語だけでは信じられないような大衆にも、どうにか「肉」を信じさせようと努力してきました(古い教会にある重低音の出るようなパイプ・オルガンなども、物語を超えたところで人々に直接訴えかけるためのひとつの装置でしょう)。これは、キリスト教というものがそもそも「言葉」や「物語」への信仰ではなく「肉」への信仰であるということに鑑みれば、ある意味で、当然のことかも知れません。この、物語とは別のレヴェル、より直接的なレヴェルを、ここではとりあえず、「感覚」のレヴェルと呼んでおくことにします。

繰り返しますが、「磔刑図」の目的は、イエス・キリストの「肉」を信じさせることにあります。したがって、「磔刑図」は、「感覚」のレヴェルにおいて、この「肉」をより力強く生き生きとしたものに感じさせるための工夫が必要です。別の言い方をすれば、この「肉」の力を最大限に引き出す必要があるのです。そこで、ちょっと、想像してみて下さい。もしもイエスの肉体が十字架に打ち付けられておらず、例えば、地べたにでれんと横たえられていたとしても、イエスの肉体が十字架にしっかりと打ち付けられている「磔刑図」と同じぐらいに、この「肉」の力を引き出し得たのか。イエスの「肉」が、十字架という柱に吊り下げられることなく、そのままだらりと地べたにおかれていたとしても、「磔刑図」におけるこの吊り下げられた「肉」と同じぐらいの存在感を持ち得たのか。

この点について、とてつもなく面白いことを言っている人がいます。アイルランド出身の画家、フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1909-1992)です。ベーコンは、ある非常に有名なインタヴュー本(デイヴィッド・シルヴェスター+フランシス・ベーコン『肉への慈悲:フランシス・ベーコン・インタヴュー』筑摩書房)のなかで、先に挙げたチマブーエの「磔刑図」を引き合いに出したりしながら、「磔刑図」がすごいのは、まさに、「肉」が十字架に吊り下げられているからだと言っているのです。

ヨーロッパの美術にはたくさんの偉大な「磔刑図」があり、そこでは、十字架が一種の素晴らしい甲冑(かっちゅう:armature)のようなものとして機能しており、この甲冑には、ありとあらゆるタイプの感覚(feeling)や知覚(sensation)を釣り下げることができるのです。(David Sylvester, Interview with Francis Bacon, Thames and Hudson, 1995, p.44

すなわち、ベーコンは、「磔刑図」における十字架の機能を「肉」を吊り下げるための「甲冑」だとみなしているのです。逆に言えば、イエス・キリストという「肉」を十字架という「甲冑」に吊り下げることによって初めて、「磔刑図」は、この「肉」が潜在的にもっている力を、あるいは、この「肉」の存在感を引き出し、感覚可能なものとしているということです。ベーコンは、「肉」と《それを吊り下げるためのもの》という、この「磔刑図」におけるのと同じ「構造」を、まったく別の絵画のなかにも見い出しています。エドゥガール・ドゥガ(Edgar Degas, 1834-1917)というフランスの画家の筆による「浴後、体を拭く女」(After the Bath: Woman Drying Herself, 1903, National Gallery, London)というパステル画です。チマブーエの「磔刑図」とドゥガの「浴後、体を拭く女」とを見比べながら、ドゥガのこのパステル画についての次のような発言を聞いてみて下さい。

ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある、ドゥガによる背中を拭く女の有名なパステル画のことは、きっと御存じでしょう。背骨(spine)の一番上のところを見ると、背骨がいまにも肌を突き破って出てきそうになっていることに気付かれるでしょう。このことによって、ドゥガが背骨を自然に首へと至るように描いていた場合に比べて、体を支えようとする様子や、体のねじれといった、体の残りの部分の脆さが、より意識できるようになっているわけです。ドゥガは、背骨が肉(flesh)から突き出るようにして、背骨の自然な描写を破壊しているのです。ドゥガ自身がこれを意識的にやっているかどうかにかかわらず、このことによって、このパステル画はより素晴らしいものになっています。というのも、これによって、いきなり、背骨と肉とを同時に意識することができるようになるからです。(Interview with Francis Bacon, p.47

ここで、ベーコンが、「磔刑図」における十字架とドゥガのパステル画における背骨とを同じものと見なしているということ、すなわち、十字架も背骨も、ともに「肉」を吊るすためのもの、また、そのように「肉」を吊るすことによってこの「肉」の潜在的な力を引き出すためのものであると考えていることは明らかでしょう。ところで、この同じインタヴュー本のなかでベーコンは、日本語レヴェルではあまりはっきりと区別されていない2つの英単語、《flesh》と《meat》とを使い分けています。ベーコンが《flesh》と言うとき、それは、十字架や背骨に吊り下げられているかどうかに関わらない、純然たる素材としての「肉」を意味しており、反対にベーコンが《meat》と言うときは、「肉」が十字架あるいは背骨に吊り下げられている状態、すなわち、「骨付き肉」を意味しているのです。したがって、ドゥガのパステル画に描かれた女性は《meat》(骨付き肉)であり、十字架に磔にされたイエス・キリストもまた同様に《meat》(骨付き肉)だということです。ちなみに、こうした「肉」と「骨付き肉」との区別は、英語以外の西洋の言語にもあります。例えば、フランス語でも、純然たる「肉」は《chair》と呼ばれ、「骨付き肉」は《viande》と呼ばれます。

さて、それでは、チマブーエの「磔刑図」ともうひとつのまったく別の映像を見比べてみましょう。これは、みなさんもよく知っている、日本の「焼き鳥」という料理です。「焼き鳥」と「磔刑図」とをよく見比べてみて下さい。そして、両者に共通する「構造」がどんなものかを考えてみて下さい。「焼き鳥」と「磔刑図」とに共通しているのは、いうまでもなく、両者がともに「骨付き肉」となっているということです。すなわち、「磔刑図」ではイエス・キリストという「肉」が十字架という「骨」にくっつけられているのであり、まったくこれと同様に、「焼き鳥」では「肉」が串という「骨」にくっつけられているということです。こうして「焼き鳥」もまた、「骨付き肉」となっているわけです。

なぜ焼き鳥は串に刺さっているのでしょうか。串に刺さっていないほうがひょっとしたら食べやすいかもしれないのに、どうして焼き鳥はあくまでも串に刺さった状態で出されるのでしょうか。串に刺さっているほうが焼くときに楽だから、というような理由が考えられますが、もしそうだとすれば、皿に盛るときは、食べやすく、串から外して盛ってもいいはずです。しかし、実際には、そうではありません。たまに「焼き鳥丼」という焼き鳥が御飯の上にのった料理を見かけますが、この焼き鳥丼のときですら、焼き鳥は串に刺さったままであることが大半です。それはなぜなのでしょうか。焼き鳥は、串から外された途端に、「焼き鳥」としてのアイデンティティを失ってしまいます。すなわち、もはや「焼き鳥」ではなくなってしまうのです。したがって、「焼き鳥」という料理にとって、「肉」が串に刺さっているということは、「肉」が焼かれているということ以上に、重要なことだと言えるかも知れません。「焼き鳥」を作るというのは、何よりもまず、「肉」を串に刺すということなのです。すなわち、「肉」を「骨付き肉」にするということです。「肉」に串という「骨」を与えることで、「肉」が潜在的にもっている力を引き出すということなのです。もしも焼き鳥が串からばらばらに外されたかたちで出されたとしたら、そんなことを想像してみて下さい。もし串から外されているとしても、そのもはや焼き鳥とは呼べないばらばらの食べ物は、串に刺さったままの「焼き鳥」と同じぐらい「美味しい」ものとなり得るでしょうか。「肉」が潜在的にもっている「美味しさ」は、先に「磔刑図」において見たのと同じように、この「肉」が串に刺されることによって初めて、すなわち、串という「骨」を与えられ「骨付き肉」となることによって初めて、引き出されるのではないでしょうか。

あらかじめ言っておけば、ぼくが「すべての料理に共通する《基本構造》」と呼んでいるものは、まさにこの「骨付き肉」のことです。「料理を作る」ということは、「肉」に「骨」を与え、この「肉」を「骨付き肉」にするということなのです。ただし、もちろん、すべての料理が串刺しになっているわけではないし、また、すべての料理が普通の意味での肉料理であるわけでもありません。しかし、ある意味においては、やはり、すべての料理が「骨付き肉」なのであり、すべての料理作りに共通する基本的な「原理」は《「肉」に「骨」を与える》ということなのです。次回からの授業では、様々な地域の様々な料理を具体的に引き合いに出しながら、このことをより詳しく説明していくつもりです。

最後に焼き鳥について、一冊だけ、素晴らしい本を参考文献として挙げておきますので、興味のある人は読んでみて下さい。200111月末まで東京の麻布十番というところにあった「門扇」(もんせん)という焼き鳥屋の御主人が、この店を閉店した後に書いたもので、『焼き鳥「門扇」、一代限り』(講談社)という本です。■

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