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 身分と霊格


 T.身分と霊格の定義

 人には、IQと学力という、2種類の能力がある。
 通常、発想力や本質を見ぬく分析力などはIQに属し、逆に、学び取る能力や人の考えを柔軟に理解する能力は、学力に属する。

 学力とIQを、その本質から端的に表現するならば、次のような言葉でそれらを表すことができる。

 IQ;能動的に着想する知的能力
 学力;受動的に着想する知的能力

 「能動的着想」には、最初に思いつく「発明」などがある。「受動的着想」には、最初のアイデアは他に便り、その先の研究、たとえば「改良」を行うことなどがある。このように、IQと学力は、その本質からして「能動」と「受動」のように、互いに相反する。「水と油」のような関係にある。

 また、別の観点から見ると、部分的には、IQと学力を次のようにも表すことができる。

 IQ;互いに矛盾する事象の間の矛盾を解消し、それらを両立させる解決法を発見する能力。
 学力;互いに異なる条件の間の未知を埋め、答えを導き出す能力。


 IQの最たるものとしては、次の難問が真っ先に思い浮かぶ。この難問は、ローマの英雄シーザーの時代から、2000年の間未解決だったが、1970年代、アメリカのベイリー・ホイットフィールド・ディフィーという人物によって、ようやく解決法が見出された。

 その難問とは、次のようなものである。

 暗号は、通信を行う二者が第三者に対して秘密裏に鍵を共有することで成立する。
 そこで、次の問題が思いつく。秘密裏に鍵を共有するという使い勝手の悪さが解消されれば、暗号をより便利に利用することができる。

 「命題;鍵を公表して秘密通信を行う事のできる暗号の原理を考案せよ。」

 なぜ、これがIQの最たる難問であるのか、その理由は、まさに、「秘密にしなければ動かないものを公表して動かせ」と、矛盾を解く問題になっているからである。言いかえるなら、「油で動くエンジンを水で動かせ」と言っているようなものである。普通に考えるなら、「そんなことできるわけがない」と諦めてしまうだろう。

 しかし、前出のディフィー氏は、これをやってのけた。まさに、IQ型の天才である。
 氏が提案したのは、次のような方法である。

 「一方通行関数」と呼ばれる、順方向には計算しやすいが逆算が困難な関数を利用し、秘密鍵を、逆算が困難なように別の形の値に変換し、これを公表する。秘密鍵は、これにより別の形に変換されていて、且つ公表されている値から秘密鍵を逆算するには非現実的な時間がかかるため、「公になっているが秘密も保たれている」状態を得ることができる。
 そこで、この一方通行関数を利用すれば、秘密鍵を安全に公表して秘密通信ができることになる。

 信じられないが、完全に矛盾が解けている。水でガソリンエンジンが動いている。これが、「IQ」の最たる働きである。因みに、私はこの問題を解け、といわれても、自力で解ける自信が無い。本当に、難問中の難問である。


 一方の学力面では、知識が足りないせいか特に学術上の難問を挙げることが出来ないが、私が学生時代、京大の入試問題で、「京大入試史上最難問」と呼ばれた現代文の難問があった。

 その問題は、次のようなものである。

 森鴎外の著作、「空車(むなぐるま)」をとりあげ、京大の出題者は、受験生にこう問うた。

 「なぜ、この作品のタイトルは『空車(むなぐるま)』でなければならなかったのか。答えよ。」

 興味がおありの方は、1990年前後の京大の入試問題を調べれば、この問題にたどり着くはずである。因みに、私はこの問題を解くことができなかったので、今でも非常に印象に残っている。



 IQは、通常、表に出されず、本人にも知らされない。裏の情報として教師のみがこれにアクセスすることを許可されている。
 表の学力、裏のIQ。身分と霊格も、これに似た状況を持っている。


 霊格と身分を定義すると、次のようになる。


 霊格;理詰めで物事を考える立場。
 身分;心で物事を考える立場。


 IQと学力の関係と同じように、全く相反する、「水と油」の関係であることがお分かりいただけると思う。身分の世界は礼節や忠孝を重視し、逆に霊格の世界では道理が通っているかどうかが重要である。昔から、「筋を通すと道理が引っ込む」と言われているように、理屈と心は互いに相容れない。霊格派の人間が、いわゆる「愚君」に対して反感を持つのは、彼らが、まさに、この「理詰めの能力」に欠けるためである。逆に、身分の高い人間が身分の低い人間に反感を抱くのも、霊格の人間が「心で付き合う」ことをしないためであろうと考えられる。物事を理屈で正しく理解する者にとっては、感情に偏りすぎ、論理的正しさを無視する姿勢の極端な者に対して、反感を持つのは当然であろう。反対に、物事を心で理解する人間にとって、なんでも理屈で解決しようとする人間は、心の冷たい、人間性に欠けた人間に見えることであろう。


 これが、身分と霊格の関係における、根本的な矛盾の「そもそもの元凶」だったのである。


 IQと学力は、必ずしも両立しない。IQが高く、学力が低い者もいれば、反対に学力が高く、IQは低い、という者もいる。

 霊格と身分も、これと同じ状況にある、と考えられるのである。そしてそれこそが、「身分は高いが霊格は低い」者が出現してしまう、「古代の社会秩序における矛盾の元凶」だったと考えられるのである。

 ということは、逆に、身分は低いが霊格は高い、という者が存在する、と予測できる。実際、江戸時代、身分が低いとされた商人は、利益になるかどうかで動かなければ自分の店を潰してしまうため、理詰めで考え、気持ちで付き合う傾向に弱かったと予想できる。当然、忠義よりも金になるか否かで動いていたであろう。しかし、この考え方は、明らかに高い霊格の表れを示している。

 このことから、次のように結論付けた。

 「身分が高いと霊格は低く、霊格が高いと身分は低い。霊格と身分は、その本質からして互いに相反するため、通常両立しない。」


 結果として、「低い身分の世界に近づくほど神に近い者が多い。」ということになる。高い身分の世界は霊格の砂漠であり、高い霊格の世界は身分の砂漠、ということである。


 これが、この理論において得られる最初の有効な結論である。これまで知られていなかった、身分制度に対する反感の本当の意味が、ここに来てようやく見えてきた、といえるだろう。





 U.「君主」と「神」

 このセクションにおいて、高い霊格を「神」と表現したのには、勿論理由がある。

 霊格が高いほど、神道でいう「神」に近くなる。逆に、霊格が低いほど、犯罪に手を染めやすくなり、下級霊と呼ばれる世界に近づいていく。
 「反犯罪性」という観点から見て、精神性の高さを意味する霊格は、「神への近さ」、逆にいえば「再犯性の高い犯罪性からの遠さ」と意味付けることができる。よって、霊格は、神に近いか、それとも慢性的な犯罪者に近いか、その度合いを示すことになる。

 ただし、ここでいう神は、あくまでも「如何に社会秩序における『ルール』そのものに近いか」を意味する概念として扱われており、礼儀正しさはそれに含まれない。礼儀正しさは、法令化されない、「心」に属する要素である(※神を礼儀正しい存在と見る傾向は、別の観点による。後述)。


 ここで、神と君主は、次のように定義される。


神の定義;自然法則や、秩序を維持するための法令など、明文化されたものを形式的に遵守する能力の高い存在。


 この概念における法令や自然法則は、あくまでも「形式」であり、且つ明文化されているものである。明文化されている範囲内でこれを遵守する能力を以って、これを「霊格」と定める。すなわち、霊格の頂点は、自然法則そのものである。自然は、たとえ罪の無い幼い子供であっても、一度ビルから落ちれば容赦無く地面にたたきつける。子供だからといって重力加速度を緩める手心を加えない。この冷徹さこそ、「霊格」の最たるものである。法則の守護者たることのふさわしさ、まさに、これこそが「霊格」である。逆にいうと、極端な言い方だが、「人格性、人間性の完全否定」が、霊格の頂点である。


 一方、君主は、神と対を為し、「心」の守護者である。明文化されない部分で互いに心を合わせ、互いに敬意を表し、礼儀正しく付き合う、そうした「心を大切にするあり方」が、身分の高さを表す指標となる。よって、こちらは「人の頂点」となる。


君主の定義;相手の心を理解し、明文化されない部分を気持ちでまとめる指導力の高い存在。


 君主であっても神とはなれない、それが「愚君」の悲しい運命であり、逆に、神ではあっても君主とはなれない、それもまた、身分の不条理に泣くしかなかった低い身分の人々の悲しい運命である。

 学力とIQは、IQが裏の情報、学力が表の情報だが、学力が決定論的な表れ方をするのに対し、IQは非決定論的な表れ方をする。
 身分と霊格では、この関係が半分半分に混ざったような形になる。
 身分では、明文化されない、はっきりしない人の気持ちを理解するため、非決定論的な、IQのような表れ方をする。身分は表の情報なので、学力の公表性とIQの非決定論性が組み合わされた形になっている。
 一方、霊格では、明文化された、はっきりした関係性について考えようとするため、決定論的な、学力のような表れ方をする。霊格は裏の情報なので、IQの秘匿性と学力の決定論性が組み合わされた形になっている。

 また、学力は、基本的に間違えた問題を見なおし、復習することで高まる。霊格も同様に、同じ過ちを繰り返さないことで、その能力を高めることができるので、霊格は、学力と同じ性質を持っている。再犯性の高い犯罪者が霊格が低い、というのも、これによる。同じ問題を何度も間違えるのは、学力が低いことの表れである。
 一方身分は、知識や経験よりも、自分で能動的に相手の気持ちを考え、配慮することが求められる。これも、自分で考え、着想を得るIQと同じ性質であるといえる。人から教えられなくても自分から礼儀正しく振舞おうとするのは、身分の高さの表れであるといえる。

 これらの対称性も、身分と霊格の関係を、IQと学力に比して考えることの正当性を示している。因みに、アメリカでは、IQの高い少年が弱冠13歳で大学を卒業した、という学位取得の世界記録の話があるが、霊格においても、「霊格が高いほど礼儀を身につけるのが早い」傾向が存在するのではないか、と予測している。


 更に、こうした霊格と身分の定義は、現在知られているいくつかの知識と矛盾しない。このことも、この理論が正しく物事の真実を得ていることを裏付ける、と考えられる。

 たとえば、身分の高い者は高い位の名字を持つ。

 名字の例;
 徳川氏(徳川家康を祖とする、江戸時代の将軍家の家系)
 藤原氏(中臣鎌足を祖とする、平安時代に摂関家として隆盛を誇った家系)


 一方、霊格の高い者は、それを知る手立てが現在のところないのだが、実際には、記紀やそのほかの文献に記されているような、高い霊格を示す、いわゆる「神名」を持っていると考えられるのである。

 神名の例;
 建角身尊(下賀茂神社の祭神)
 
別雷尊 (上賀茂神社の祭神)


 身分が低いと、高い位の名字を名乗ることができない。同様に、霊格が低いと高い位の神名が無い、と考えられる。神名とその霊の意味・働きについては、日本古典中に出現する神名の名義について」のページを参照していただきたい(※この研究は、私の独自の研究成果です)。





 V.身分と霊格、それぞれの考え方の違い

 現在の私の研究結果では、身分で正しくても霊格で正しくなく、逆に霊格で正しくても身分で正しくない、といった、「正しさの逆転現象」が、両方の立場が共存する世界で「非常に高い確率で」発生することが分かっている。本来、身分と霊格が、それぞれ「心」と「理屈」で定義されているので、これも仕方の無いことなのか、とも思うが、ここでは、「身分は高いが霊格は低い」「霊格は高いが身分は低い」それぞれの立場の人々が自分と逆の立場を理解することができるように、私が考えた独自の形式で、この理論から導き出される「解釈」を列挙してみたい。


例題;小泉さんの参拝で有名な靖国神社。A級戦犯が合祀されている。参拝は正しい?間違い?

霊格派;× NO。A級戦犯に対する歴史上の評価は低く、霊格に照らしてこれは正しいとは言えない。
身分派;○ YES。国のために命をかけた、という意味で、その忠節を評価する、というのであれば、それは正しい。

 霊格と身分の公理から理論的に判断すると、このようになる。
 実は、現在国を二分している両論は、身分から見るか、それとも霊格から見るか、立場の相違が原因だったのである。
 理屈で言えば、A級戦犯は、つまり「戦争犯罪人」である。これは、霊格の低さを意味する。よって、霊格の立場から見ると、彼らを神宮に祭ること自体、実は「偏差値30の人間を気持ちで東大に入学させるようなもの」で、道理が通っていない。
 一方、身分から見ると、国を思い、国の威信を高めるため、国に忠節を尽くした「その気持ち」を汲むことが大切、ということになる。現在こちらの立場から主張している人々は、基本的に「身分派」の人々、と考えたほうが良いだろう。反対派は「霊格派」である。分祀派については、後述する。


 身分と霊格、それぞれの立場から見て相反するケースはこれだけではない。他にたくさん存在する。
 考えられるものをいくつか下記に列挙してみる。


Q1;店舗の入り口付近で、「ご自由にお持ちください」と書かれて飴が配られている。明文化された範囲内では、わしづかみにして持ち去っても問題が無いように見える。まとめて持っていくのは、正しい?間違い?

霊格派;○ 正しい。「自由に持っていって良い」と書かれた同意内容上、問題が無い。
身分派;× 間違い。自分以外にも客はいる。傍若無人な振る舞いはあさましく見える。

コメント;身分を上げたい人は、高貴な人がその行為をするのを見たら自分はどう思うだろうか?と、自分に問いかけると、自分が正しいと考える方向性を選ぶと思う。このケースでは、一応、私は身分派の視点に賛成する。理由は、「飴を提供する側から見て、そもそもその意図・目的そのものが、『お客様へのサービス』、すなわち『気持ち』だから」である。


Q2;企業の経営トップに立ち、出す企画はことごとくが上手くいき、独断専行で会社を動かしている。一方社内に対しては、業績を盾に次々に上から改革を断行するが、社員の反感を買っている。この専横は正しい?間違い?

霊格派;○ 正しい。能力が高く、信頼性が高く見える。
身分派;× 間違い。傍若無人はあさましい。

コメント;学力で回答を提示するように会社の選ぶべき道を示すのは、考えが断定的である、という意味で、霊格の高さを示す。「主張が明文化され得る」ことは、ルールを自分で示す、という霊格のもう一つの表れ方に当たると考えられる。
 しかし、場合によっては、それが、明文化されるのが難しい部分を踏み潰していることがある。それに気づかないと、経営者として「身分のエラー」を起こしていることになる。
 一見すると理屈で正しいように見えるからといってそれを押しとおし、「自分を正義」と勘違いすると、「自分の知らない部分」でエラーを起こしている危険性に気づかず、おもわぬ落とし穴にはまることになる。
 このような場合は、身分で考える方が正しい。自分の考えが全てのエラーを克服し尽くしたものであると勘違いし、それを専横的に押しとおそうとすると、予測されなかったエラーに遭い、周りの反感を強く買うことになる。正しい「謙虚さ」は、身分の高さに属する。明文化されない、未知の部分への配慮は、身分に属する能力だからである。



Q3;平安時代、貴族は謀略の限りを尽くして権力争いを繰り広げた。この「謀略」は、正しい?間違い?

霊格派;× 間違い。精神的にあさましく見える。汚いやり方は、やられる方も納得がいかない。
身分派;○ ばれなければ問題が無い。それで、隠れてやる。

コメント;お互いに「権力が欲しい」と気持ちを通わせ、汚いやり方で権力を奪取する、ということをやると、精神性の低さから反感を買う。これは当然のことで、霊格のエラーとなる。また、通常立場の高い人は聖人君主が理想なので、そのような汚いことはしないのが当然となっているため、言っていることとやっていることが異なっているという点でも、霊格面でエラーとなる。




 W.神である君主、君主である神

 一般的に、身分の世界では霊格が問題であり、逆に霊格の世界では身分が問題である。
 身分の世界の場合、君主の理想とされる聖人君主は、霊格の高さを意味する。同様に、霊格の世界では、高貴な神ほど、礼節を重んじることが求められる。如何に神でも、机の上に足を投げ出してふんぞり返っているようでは高貴に見えない。通常どちらか一方しか持ち得ないために、いずれの世界においても理想のレベルに達し得ないのが、現実である。



 しかし、君主といえるほどの高い身分、神といえるほどの高い霊格、その両方を兼ね備えた者が稀にいる。
 そして、それは、霊格の世界と身分の世界、それぞれにいる。
 例を挙げると次のようになる。

 霊格を備えた君主
 皇室(武家に政権を奪われて権力争いから遠ざかって以降、皇室は、その霊格の高さから人々の尊敬を集めてきた。)

 身分の高い神
 天照大御神(伊勢「神宮」の内宮の祭神。皇室の祖先(つまり、『身分が高い』)とされる。高い身分と高い霊格の両方を備えた、日本神道の最高神。)

 先の靖国神社の話で、分祀派は、この「両方を持つ」側に分類される。
 何故か?
 「分祀」は、身分についても霊格についても、行きすぎないからである。問題のある部分を、その部分だけ取り除くという考え方は、癌治療を例に取れば分かりやすいだろう。
癌を治すのに、健康な部分を必要以上に切り取りはしない。「癌を避けるために」首から下を全部切り取っては生存できない。A級戦犯を避けるために、その他の犠牲者まで全て否定する(参拝反対)のは、これに近い。行き過ぎとなる。
 同様に、癌を切り取らずにそのまま放置するのは、自殺行為である。これは、「参拝賛成派」の考えに当たる。

 よって、行きすぎず、軽すぎず、最も適切なところを突くならば、分祀が、その最適解、ということになる。勿論、分祀を前提として現況参拝反対も、こちらの意見となる。




 X.身分と霊格、それぞれの適性

 身分派と霊格派、それぞれに、仕事の適性が存在する。
 求められる能力の内訳から、大雑把だが下記に挙げてみる。



 霊格の高い人に適した仕事
 ・商品開発(厳密性が求められる。明文化され得るプランが必要で、高い霊格を求められる。)
 ・医療(学力と霊格は、同系統の能力の組み合わせになるので、最も効果が強く表れる。)

 身分の高い人に適した仕事
 ・政治家(色々な人の意見を聞く必要がある。人の心を大切にしなければ、人を惹きつけることはできない。)
 ・小学校教諭 (子供は、心を育てることが大切なので、身分派の人に適した職業であるといえる。)

 霊格と身分の両方が必要な仕事
 ・裁判官(霊格、身分、共に必須。霊格が無ければ公正に判断することはできず、身分が無ければ人の心を納得させる判断を下すことができない。)
 ・大規模旅客輸送業(航空、鉄道)の経営(霊格と身分の両方が必要。霊格が無ければ安全性を維持できず、身分が無ければ乗客をもてなすサービスができない。)



 勿論、どんな仕事をするにも、身分と霊格、両方あるに越したことはない。また、どのような業種でも、人の上に立とうと思えば、必ず身分と霊格の両方が必要になってくる。もし、霊格、身分のいずれかが弱いなら、鍛えて能力を高めることが必要である。

 この理論において最も重要な点は、ある意味この点かもしれない。霊格と身分の正体が理論的に解明された今、努力によって、身分と霊格の壁を超えることが可能なのである。




 Y.今後の展開について

 IQと学力、身分と霊格という、二元論で議論を進めてきた。
 実は、二元論で地固めした上で、これを更に三元論に展開できるのでは、と予想している。

 まず、学力とIQのほかに、「進学力」と呼ぶことのできる能力があるのではないか、という予想が、一つである。
 進学力は、たとえば、大学からその先の大学院に進学するような、進学に関する能力である。進学力が低い場合、一流高校に進みながら大学へ進学することが出来ない、といった事態が発生すると考えられる。
 これが、進学力の存在に関する予想である。

 この進学力と学力、IQの三元論が、知力に関する新しい三元論の考え方である。

 一方、身分と霊格においても、もう一つ、「格の上下」が存在する、と予想している。

 それは、種族の格、「種格」である。どの種族が種格が高い、ということは、現時点で判明していない。しかし、種族は、身分、霊格とは別に存在する、もう一つの「格」の指標である。
 事実、日本人でも白人でも、それぞれの中に、身分と霊格それぞれの高い者・低い者が存在する。したがって、霊格や身分の高さは種族とは関係が無い。種格は、身分、霊格に次ぐ三番目の格であると考えられる。
 現時点で予想されることは、アジア系ほど身分が高く、白人系ほど霊格が高い、ということである。現在、環太平洋諸国の間では、アメリカと中国という二大多民族国家が台頭しているが、中国は、古くから身分の高さによるリーダーシップで多民族国家を維持してきた。アメリカは新興国だが、霊格の高さ(=経済力の高さ)で、同様に多民族国家を経営している。
 因みに、中国では漢民族系、アメリカではアングロサクソン系が主導権を握っているが、こうした同一国家内での民族の優位性もまた、種格がそれに影響しているのではないか、と考えている。

 種格は、その定義さえ現時点ではっきりしていないが、いずれ、理論的にまとまり次第、公表したいと考えている。



・補足1.種格と進学力について(2006年12月25日)

 単純に考えるなら、種格とは「種族に関する能力」と考えることが出来ます。
 カナダの古生物学者、デール・A・ラッセル博士は、恐竜から進化した知的生命体「ダイノサウロイド」の仮説を提唱しています。恐竜の時代は既に過ぎていますが、もし、この地球上に、我々人類の後発となる知的生物種が、何十万年、何百万年後に現れたら、我々は彼らをどう受け入れるべきでしょうか。
 基本的には、同じ知的生物種として同列に考えることが望ましいと考えられるでしょう。しかし、価値観や生活習慣などの違いから共存に支障をきたしたら、我々はどうその問題を解決するでしょうか。

 知的生物種の種族間の問題を事前に考えるために、この種格の概念に関する研究は重要であると考えています。

 同様に、進学力についても、定義が必要です。学力やIQが無くても、実は進学力という未知の能力に長けていることが自分でわかれば、人生設計を上方修正する人が現れるかもしれません。これまでIQと学力しか見てこなかった社会の、そういった人達に対する見方も変わるかもしれません。

 そういう意味で、進学力に関する研究も非常に重要であると考えています。

 では、進学力と種格とは、それぞれどういう能力なのでしょうか。

 最初に進学力について考えますと、進学力とは、文字通り「進学する能力」、ということが出来ます。
 それでは進学する能力とはどういう能力なのか、といいますと、それは、実際に進学というものについて考えることでその意味が見えてきます。

 たとえば、中学校の理科では力の単位としてキログラム重が用いられますが、高校の物理ではより専門的なニュートン(N)という単位が用いられます。重さの概念は、これにより、単なる重量という概念の中学レベルの考え方から、質量×重力加速度という「力」として捉える高校レベルの考え方へと、高度化していきます。

 実は、こうした一見些細に見えるところにも、既に進学力の意味が見えています。通常、中学の学力に慣れた人は、より高度な高校物理の考え方を見て、「難しくなっている」と感じるでしょう。

 こうした形の難易度の上昇についていく能力が、「進学力」であると考えられるのです。

 では、この実例を元にした進学力の本質は、と言いますと、それは、「IQと学力の中間」のような能力、と表現することができます。

 最初に進学力では、現象のより高度な構造を予測します。今の例で言いますと、単に「重い」という考え方から、「重さは重力加速度が生み出す力である」という考え方へと、現象の構造・原理を高度化し、厳密化しています。

 この最初の「予測する」部分に、IQ的な要素が現れます。そして、その後の「厳密化する」という部分に、学力的な要素が現れます。

 それで、進学力は、IQと学力の中間、両者の融合した能力、という形で定義されます。IQを帰納する能力、学力を演繹する能力とするなら、進学力は「分析する能力」がその本質である、といえます。

 実際、進学するにつれて、現象の説明はより複雑に、高度になっていきます。高校の物理で単純な一次又は2次方程式として説明されていた、加速度を持つ物体の運動は、大学で微分方程式で説明されるようになります。より高度な分析力が無ければ、その本質を捉えて理解することは出来ません。これが、「進学力」です。



 種格も、この進学力に関する考察から考えれば、「身分と霊格の中間に位置する能力」と予測することが出来ます。

 進学力は最初にIQ、次に学力が現れました。そこで種格は、最初に身分、次に霊格が現れる能力であろうと予測できます。
 身分を一言で表すなら、その本質は「配慮」です。霊格は、「厳格性」です。そこで、配慮と厳格性の融合に当たる種格は、「順応」と予測できます。異なる社会システム、異なるルール、異なる考え方と出会ったときに、その明文化されていないルールを予測し、次に厳密化して理解する、そういう「順応する」能力であろう、と予想されます。

 この種格の定義に関する予想は、次のような二つのケースに関する考察から、おそらく正しいと考えています。

 ・ケース1
 金庫の中に札束があり、この札束は会社の規則によってAという人物しか触ることが出来なくなっているとします。
 この条件下で、Bという人物が金庫の中身を移動させたとします。
 それを知ったCという人物は、「それは規則に反するだろう!」と、Bに対して憤っているとします。
 しかし実際は、BがAに自分が金庫の中身を移動させても良いという確認をCが知らない間に取りつけていて、Cはそれを知らずにBを「規則違反」と断ずるエラーを起こしている、というケースです。


 一見すると、人物Cは霊格が高く、規則の遵守を主張しています。この「規則の遵守」という点で、霊格から見てCは正しく見えますが、一方確認を怠ったという点ではCの霊格のエラーにも見えます。

 更に別の角度から見ると、Cは「自分の知らないところでAとBが合意を結んでいる」という未知(の条件)に対する配慮が無いので身分のエラーにも見えますが、反面、これは会社の規則に関連する問題なので、やはり身分ではなく霊格の問題に見えます。

 では、反対に、次のようなケースも考えてみましょう。

 ・ケース2
 金庫の中に札束があり、この札束は会社の規則によってAという人物しか触ることが出来なくなっているとします。
 この条件下で、Bという人物が金庫の中身を移動させたとします。
 それを知ったCという人物は、「多分AがBに許可を出したのだろう」と考え、Bを信用して放置したとします。
 しかし実際は、Bが会社の金を着服し、そのまま姿を消してしまった、というケースです。
Aは、「自分がそんな重要な規則をないがしろにするような好い加減なことをするわけが無いだろう!」と憤っています。


 このケース2は、ケース1におけるCの考え方を霊格型から身分型に変えただけのものになっています。
 このケース2では、一見するとCが身分の高い考え方の持ち主で、BとAに対して、それぞれ「横領なんてする人ではないだろう」「Bを信用して許可を出したんだろう」と、両者の霊格を配慮しているように見えます。しかし一方では、結果的にAの考え方である「厳密性、厳格性」に対する配慮が無いため、今度は反対に身分のエラーにも見えます。
 他方霊格の面から見ると、Cは「Aに確認を取る」ということを忘れているので霊格のエラーにも見えますが、この「確認をとる義務」が規則として明文化されていなければ、これは霊格のエラーとはなりません。

 これらのケースは、種格を説明するのに非常に良い例だと考えています。霊格のエラーに見えるが霊格のエラーではなく、また身分のエラーに見えるが身分のエラーで無い、そんなケースが存在するのです。

 このケース1、2は、結論を言いますと、「未だ明文化されていない未知の規則」に対する理解、または配慮、という特殊な位置付けになります。それで、身分の持つ「配慮」の要素と、霊格が持つ「遵守」という性質の融合した中間的位置付けになっています。

 この身分と霊格の中間に位置する新しい能力は、その能力がより高いほど、発展しつつある社会の法整備・統治面でより高い地位に立つことが出来ると考えられます。新しい産業分野の出現に合わせた法令の整備など、未知の条件の出現に対して高い能力を発揮すると予想されるためです。つまり、霊格の神、身分の君主に続いて、この能力の頂点に立つ者は「盟主」です。因みに、ケース1は「霊格型の種格のエラー」、ケース2は「身分型の種格のエラー」となります。

 なぜ、この身分と霊格の中間に位置する新しい能力が種格と考えられるのか、それは次のような理由によります。
 多民族国家の場合、その頂点に立つには、個々の民族に固有の考え方の混ざり合う「最適解」を政治的に導き出すことが必要です。そのためには、異なる価値観の中に自分をシミュレーション的に置いてそれをおもんばかり、そこから祖の価値観に対する理解を得るという手続きを経る必要があります。この手続きは、まさに種格の能力の性質そのものです。
 従って、この政治的能力の最も優れた者をより多く輩出する民族は、平均的にこの能力の高い民族、と考えられます。

 アメリカ合衆国におけるアングロサクソン民族、中華人民共和国における漢民族は、その種格の能力の高い民族で、そのためそれぞれの国で高い地位を民族として占めている、と考えられます。

 それで、この能力は「種格の能力」と考えられます。

 先述のように、身分の高い者は高位の名字を、霊格の高い者は高位の神名を持ちます。では、種格の高い者はどのような名を名乗るのでしょうか。
 一つは、民族の名前がそれに当たるでしょう。しかしもう一つ、個人の場合には、ローマ法王のように、即位と同時に高位の名前を名乗る実例が挙げられます。
 盟主は、このローマ法王のケースや、中国の皇帝や日本の天皇に死後おくられる諡号に近い名を、存命中、または在位中、または退位後、または死後に名乗ることが考えられます。「民主主義的な君主」が、ある意味盟主を最も良く表現する言葉でしょう。

(※2009年8月14日追記)
 新しい解釈により、この種格の予想はエラーであるらしいことがわかりました。新しい種格の定義は、「誠意の種格(礼儀正しさなど、人に対する誠意の高さ)」、「熱意の種格(救助・助力など、人に対する熱意の高さ)」となっています。詳しくは、「神名の名義解釈について」のページをご覧ください。


・補足2.未知の種族の性質についての予測(2006年12月25日)

 デール・A・ラッセル博士の「ダイノサウロイド」のように、霊長類以外の種族から進化した知的生命体は、どのような性質を持っていると考えられるのでしょうか。

 人類において、霊格と身分が、両立しない相補的な関係(身分が高いと霊格が低く、逆に霊格が高いと身分が低い)にあるという点に着目し、同一種族におけるこのような交換関係から、つぎのような仮説を立てました。


 仮説1.
 「知的生物種は、霊格、種格、身分のうち、いずれか1つを固定すると残り二つの能力が交換する。」


 どういうことかといいますと、「種格を固定すると身分と霊格が交換し、身分を固定すると種格と霊格が交換し、霊格を固定すると身分と種格が交換する」ということです。

 従って、我々人類を含めて知的生物種を複数集め、同じ身分の者を集めて比較すると、種格が高いほど霊格は低く、逆に霊格が高いほど種格が低くなり、また同じ霊格の者を集めて比較すると、種格が高いほど身分が低く、逆に身分が高いほど種格が低くなる、と予想されます。


 このことから、仮に地球外知的生命体が存在して地球と同盟関係を結び、共和的連邦を組織した場合、その組織が抱える問題点を、次のように予測することが出来ます。

 連邦なので、頂点に立つのは種格の高い種族になると考えられます。問題は、種格のエラーを起こしやすい種族に対する差別が発生した場合、その原因が種格のエラーと特定されず、単なる偏見として処理される可能性があることです。その場合、問題の本質が過去の経験から霊格のエラーと勘違いされ、問題解決から遠ざかってしまう可能性が無いとも言えません。

 もしこの仮説が正しいならば、多民族的組織を運営するための理論として、この理論が機能することが期待されます。

 たとえば、想像してみてください。映画「エイリアン」に出てくる人の脳を食い散らす生物種に似た知的生命体がいて(性格は映画と異なります)、王や皇帝に匹敵するような高い身分と、核開発への転用が可能なために海外への輸出が禁止されているような高度な精密機械を自力で開発してしまうほどの高い霊格を両方持ち合わせているとしましょう。
 しかし、種格は低く、そのため他の文化に対する理解や多様な個性の共存する企業の経営など、種格に属する政治的能力が欠如しているとします。
 このような種族は、完全に我々が会ったことの無い種族です。言うなれば、仕事と上下関係は得意だが人間関係は苦手、という状態ともいえます。
 地球上では稀にしか現れ得ないような高い霊格と高い身分を両方持ち合わせる人が、一つの種族として大量の個体数で存在している、ということを、この理論は主張します。

 この広い宇宙の外にどのような人々が存在するのか、その姿の一端を、この理論は垣間見せてくれます。


 補足3.身分、霊格、種格の「科目」について(2006年12月25日)

 学力には、個々の分野ごとに科目が設定されています。
 そこで、身分、霊格、種格にも、科目が存在すると考えられます。

 最初に、学力における文系・理系の別に当たる区別を設定してみます。

身分 霊格 種格
学力の「理系」に当たる能力 武官系の身分 労働系の霊格 産業系の種格
学力の「文系」に当たる能力 文官系の身分 家庭系の霊格 文化系の種格


 それぞれ具体的に説明します。

 身分における「武官系」と「文官系」の別は、日本でいう「武家」と「公家」の別に相当します。
 武家の身分は人を統率する能力に相当し、この能力に長けていると、部下の考えをまとめて意見を集約したり、必要な物や資金を与えて仕事をさせるなど、我を捨ててリーダーとして振舞う資質に富むと考えられます。
 公家の身分は人をまとめる能力に相当し、この能力に長けていると、部下の失敗をフォローしたり、知識や経験から必要な助言を与えるなど、人を惹きつけるカリスマ性の資質に富むと考えられます。
 余談ですが、戦国時代の有名な武将・織田信長には、この公家の身分が無く、そのため部下の失敗を執拗に責めたりと、武家の身分のみが際立つ傾向をみることができます。中国の秦始皇帝も激烈な性格の持ち主として有名ですが、織田信長と似たような傾向を持っています。

 霊格における「労働系」と「家庭系」の別は、いうなれば「男性」と「女性」の区別に等しいものです。
 労働系の霊格では、「実行すべきことを的確に実行する」ことが、特に重要な事柄として挙げられます。仕事の上で、たとえば時間が決められている場合には時間厳守、ノルマが設定されている場合はノルマを必ず達成するなど、「与えられた責務を遂行する」ことが、その能力を測る物差しとなると考えられます。
 家庭系の霊格では、家族関係を維持するために守るべき規則を遵守する能力がそれに当たる、と考えられます。この概念は、「労働」との対称関係から予想されるものです。
 そのためこれは完全に仮説なのですが、結婚は、おそらく家庭系の霊格です。たとえば、初恋を大切にする男女が結ばれるのに、どちらか一方がその大切なものを既に喪失していたりすると、これが霊格のエラーになると考えられます。
 いうなれば、男女関係や親子関係を維持する上で遵守すべきルールを遵守する能力が家庭系の霊格の能力、と考えられます。こちらも余談ですが、「容姿の美しさ」は、この家庭系の霊格の能力の高さを表しているのではないか、と予想しています。現段階で完全に仮説の段階ですが、容姿のレベルの高さは、恋愛に関する霊格の高さを表し、容姿が美しいほど恋愛において遵守すべきルールを遵守する能力が高い(初恋など、自分が大切にしているものを守り通す意志が強い)と予想しています。

 最後に、種格の「産業系」「文化系」の別は、文明における「産業」「文化」という最も大きな二つの側面において、それぞれ定義される能力です。
 産業系の種格は、異なる業種の価値観や考え方を、実際にその職業に就くという観点から理解し、的確にその職種の意味を見ぬく能力であろう、と予想しています。従ってこの種格の高い人物は、政治面でいいますと、主に産業系省庁の仕事に就くと、その能力をより発揮できると考えられます。
 一方文化系の種格は、逆に、異なる文化の価値観や考え方を、実際にその文化の中に自分を置いて考えるというシミュレーションの中から理解し、的確にその文化の特性や本質を見ぬく能力であろう、と予想しています。従ってこの種格の能力の高い人物は、同様に政治面でいいますと、主に文化・教育系省庁の仕事に従事することで、その能力をより発揮できると考えられます。

 学力における文科系科目と理科系科目が相補的で、通常理系は文系の科目を、理系は文系の科目を苦手とすることから、身分・霊格・種格においても、この学力と同じ相補性が成立するのでは、と予想しています。


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