ベルンカステルの町と、それをとりかこむ葡萄畑。ドイツほど、葡萄畑とそれにまつわる伝説に満ちている国はないだ
ろう。ここでは日本で既に知られている畑名の由来を中心に、少し掘り下げて取り上げてみた。

目次
1, ベルンカステラー・ドクトール
2. ツェラー・シュヴァルツェ カッツ
3. トリッテンハイマー・アポテーケ
4. 乙女−ユッファー
5. 日時計−ゾンネンウアー
6. 黄金の雫−ゴルトトロプヒェン
7. 裸の尻−ナックトアーシュ
8. 教会の葡萄畑
9. 開墾
10. 地形








ベルンカステルの町と、その背後のドクトールの畑。


モーゼルで最も有名と言って良いこの畑がいつ開拓されたのかは定かではないが、史料に最初に現れるのは17世
紀のことで、クラッツ・フォン・シャーフェンシュタイン家からトリアー選帝侯フィリップ・クリストフ・フォン・ゾーテルンへの
譲渡証書がそれである。『ドクトール』の名称は1677年に初めて登場するのだが、畑の所有者であったゾーテルン選
帝侯が、トリアーのイエズス会神学校で博士号を取得していたことにちなんだ命名であったようだ。

例の伝説は18世紀ごろに民衆の間で成立したものを、1837年にクリスチャン・フォン・シュトラムベルクがラインとモー
ゼルの伝説を含む郷土史を集成した全書に収録し、初めて活字化された。それを1900年にベルンカステルの市長で
あったペーター・ヴィルヘルム・クンツからドクトールの畑の一部を購入したコブレンツのワイン商ダインハート社が、自
社のワインの宣伝に利用したことが、この伝説を世界的に有名にしたようである。

いまさらではあるが、一応伝説を紹介しよう。シュトラムベルクはごく簡単にふれているだけだが、いくつものバリエー
ションがある。きまって登場するのはトリアー選帝侯ベームント二世(在位 1354-1362)だ。ランズフート城にゆかりの
深い歴史上実在する人物として、白羽の矢が立ったようだ。

******

トリアー選帝侯ベームント二世は、あるとき高熱で病の床に伏せっていた。どんな薬も効き目がなく、ついには大司教
としての勤めから身を引き、トリアーよりも閑静で平素から好んで滞在していたベルンカステルのランズフート城に引
きこもり、静養することになった。しかし、容態は悪化する一方であった。

侯の病を治した者には、大金をとらせる。治療薬を持参した者は、すみやかに御前に通すように。そうおふれを出した
ものの、ほどなく誰ひとりとして訪れる者もなくなった。それもそのはず、選帝侯の侍医ほどの名医が手をつかねた病
を、一体他に誰が治せるというのだろうか?もはや再び健康を取り戻すことはあるまい。侯自身、なかばあきらめか
けていたとしても無理はなかった。

その頃、選帝侯が死の床にあるといううわさが、フンスリュックの居城で余生を送っていた老騎士クーノ・フォン・フーノ
ルシュタインの耳に入った。「殿は鍵を手に握っておるというのに、それをどこに差し込んでいいかわからぬとみえ
る!殿のベルンカステルのワインほどの美酒は、この世に二つと無いではないか?この妙薬にして名医をもってして
も殿の病を癒せぬのなら、悪魔に魂をくれてやるわい!」老騎士はかつて、スポンハイマーの戦いで選帝侯に命を救
われたことがあった。恩返しの好機とばかりに、さっそくワインを満たした樽を荷台に乗せ、ベルンカステルへと馬を飛
ばした。村を見下ろすランズフート城のある山の麓から、険しい山道を樽をかついで歩いて登った先では、城門で番
兵が行く手を遮ったが、妙薬を持参したことを告げるとおもむろに城内へ通された。

選帝候は老騎士の来訪に少なからず驚き、来意を問うと、彼はこう答えた。
「殿が重い病に伏せり、いかなる医師も治せずにおると承っておりまするが、所領の御下賜をはじめとする数々の恩
義に報いんが為、再び元のお体にするべく参上つかまつりましてございまする。」
そう言い終わると彼は、持参した樽から杯になみなみとワインを注ぎ、うやうやしく差し出した。候は老人の言うところ
の薬に口をつけたものかどうか、困惑した面持ちで杯を見やった。
「これまで薬という薬が効かなかったのだから、すでに死が定まったも同じ事。もうひとつ試してみても損はあるま
い....。」
口に含むと、思いの外その薬は舌に心地よかった。一滴のこらず飲み干した杯を下げると、候の目に老騎士の笑顔
が見えた。
「殿。この薬は殿の葡萄畑でとれたワインでございます。」
「何、余のワインとな。それではますます飲まねばなるまい!!」
ほどなくして、候の居室では盛大な酒盛りが始まった。酔いがすすむほどに高熱は候の意識から遠ざかり、そのまま
落ちた眠りから翌日目を覚ますと、これまでになく爽快な気分であった。こうして、数週間ほどで候の病はすっかり快
癒したのである。

その後、見事な妙薬として効能を発揮したワインを、選帝候は機会があるごとに「これが余の命を救った名医である」
と賞賛したことから、くだんのワインはベルンカステラー・ドクトールと呼ばれるようになったということだ。


参考文献:
Daniel Deckers (hrsg.), Zur Lage des deutschen Weins. Spitzenlagen und Spitzenweine, Stuttgart 2003.
Karl Christoffel, Die Weinlagen der Mosel und ihre Namensherkunft, Trier 1979.
Christine und Dietmar Werner, Die schoensten Sagen vom deutschen Wein, Husum 1999.







リープフラウウミルヒと並び、もっともよく知られているドイツワインに、ツェラー・シュヴァルツェ・カッツがある。黒猫が
ラベルに描かれ、比較的手頃な価格でスーパーの棚に並んでいるそれは、大抵の人が最初に飲むモーゼルワイン
かもしれない。名前の由来は周知の通り−ワイン商が樽から試飲しようとしたら、黒猫が樽に飛び乗って毛を逆立て
て邪魔をしたとか、ワインを腐らせようとした悪魔を黒猫が追い払ったとか−いくつか伝説があるが、その名が本来
は、とある醸造所の、猫の額ほどの区画から収穫されたワインに付けられたものだったことは、あまり知られていな
い。

*****

1880年頃、モーゼルが大きく向きを変えた先にあるツェル村の、とある醸造所の中庭の日だまりで、一匹の黒猫が
昼寝をしていた。そばを通りがかった女性が猫の頭を軽くなでて、先刻からケラーで試飲の相手をしている弟の様子
を見に行った。相手はベルギーとの国境近くにある町、アーヘンから来たワイン商で、仕入れるワインを選びに来た
のだ。19世紀半ばのその当時、ワインは樽ごと買い取られてワイン商が瓶詰めし、ラベルを貼るのが普通だった。醸
造所の若主人ベネディクト・マインツァーは、ケラーに並んだフーダの樽の一つにホースの一端を差し、反対の端から
一息吸い込んでから口をはなした先をグラスへ入れると、そこからワインがほとばしり出た。瓶詰め前のそれはほの
かに白く濁っていたが、柑橘の香りが馥郁と立ち上った。

先刻の女性は中庭から続く階段を下り、そっと弟のそばに立った。開け放たれたケラーの扉から、静かに春の風が
流れ込んでいた。
「ベニー、どう、商談のすすみ具合は?」
物静かで、人と話すよりも猫と戯れているほうが好きだったベネディクトは、そっと耳打ちする姉のアンナに肩をすくめ
た。
「あちらさんも商売だからね。気の済むまで試飲させるさ....。」
ワイン商は幾たびもグラスを揺すっては口に含み、時々目を閉じて集中していた。ベネディクトの醸造所はツェルに三
つの区画を所有していた。ブルグライ、ペタースボーン、そしてカペルチェンである。葡萄は区画ごとに醸造されたの
で、樽を選ぶことは区画を選ぶことと同じだった。どの樽をとっても悪くない。しかし、ワイン商はどれか一つに絞らな
ければならなかった。一通り試飲した後、これは、と思った樽から再び試飲し、その中からさらに気に入ったものを、も
う一度試飲して絞り込んでいった。

春風に誘われたのか、中庭にいた黒猫が、いつの間にかケラーに入り込んでいた。ベネディクトの足下をぐるりとま
わった後、とある樽の前に立ち止まると、ひょいと樽の上に飛び上がった。それはちょうど、最終的な候補に残ってい
た樽の一つだった。
「おぅ、おまえもワインの味がわかるのか?」
ワイン商は猫に語りかけた。
「私と同じで、こいつの仕事場もケラーですからね。ネズミを捕まえながら、毎日樽から染み出たワインをなめてるん
でしょう。」ベネディクトになでられ、黒猫はゴロゴロと喉をならした。
その様子にようやく決心のついたワイン商は、おもむろに口を開いた。
「よろしい、では、この樽をいただけますか。」
そうして、その年の商談が成立した。

その翌年、アーヘンのワイン商からベネディクトのもとに注文が届いた。
『今年も昨年と同じ区画のワインを購入したいのだが、区画の名前を忘れてしまった。あの黒猫が乗っていた樽なの
だが、おわかりだろうか.....?』
「わかるの?」とアンナ。
「ああ。カペルチェンだ。」とベネディクト。「わかりやすいし、これからは黒猫-シュヴァルツェ・カッツと呼ぶことにしよ
う。」

こうして、ツェラー・シュヴァルツェ・カッツが誕生した。当初はベネディクト・マインツァー醸造所が所有するカペルチェン
と、数年後にそれに加えて隣接するペタースボーン−どちらもツェルの町の背後の急斜面の上部に広がる区画−か
らの収穫を『ツェラー・シュヴァルツェ・カッツ』としてリリースしていたのだが、ワインが評判を呼ぶにつれ、シュヴァル
ツェ・カッツの名前を勝手に付ける醸造所が現れた。ツェルだけでなく、モーゼルの他の村でも黒猫と名乗るワインが
作られ、幾度も裁判沙汰になった。

シュヴァルツェ・カッツは創作名であり、畑名ではないから自由に使用できる、と1926年に一度判決が下ったが、
1929年には逆に特定の区画に対する呼称であるというマインツァー醸造所の主張が認められた。ところが、それでも
事態は収まらなかった。シュヴァルツェ・カッツの名を使いたいという村の他の醸造所の不満を収拾するため、1932年
ツェルの村の背後に広がる葡萄畑全体に名乗る権利を認めることが村議会で議決され、やがて1963年には、さらに
村の対岸や山をひとつ隔てた近郊の葡萄畑までもシュヴァルツェ・カッツの名を付けることが認められた。こうして、元
来の「最上の区画の樽」の意味は限りなく薄まっていった。

その流れに終止符を打ったのが、1971年のワイン法である。ツェラー・シュヴァルツェ・カッツはグロースラーゲ(総合
畑)の呼称となり、複数の村に跨る16のアンツェルラーゲ(単一畑)を含む627haの広さを持つ広大な葡萄畑となって
しまったのだ。現在、元祖シュヴァルツェ・カッツの区画は、ツェラー・ペタースボーン=カペルチェンの31haの単一畑
の呼称として、その名残を残すのみとなっている。


参考文献:
Karl-Josef Gilles, Der Weinlagename "Zeller Schwarze Katz" (Schriften zur Weingeschichte Nr. 130),
Wiesbaden 1999.







トリッテンハイムの町と、対岸にあるアポテーケの畑。


モーゼル河はライヴェン村を過ぎたあたりで180度向きを変え、トリッテンハイム村へと続く。村の対岸に聳えるごつご
つとした岩混じりの急斜面からノイマーゲンに向けて続く畑が、トリッテンハイマー・アポテーケである。アポテーケは
ドイツ語で薬局を意味するが、名前の由来は薬局とは関係がなく、古くはトリアーのベネディクト派修道院ザンクト・マ
ティアスの所有であったことから『アプツベルクAbtsberg』もしくは『アプタイベルクAbteiberg』と呼ばれていたのが、
『アポテーケApotheke』に変化したものではないかと言われている。しかし19世紀末に作成された葡萄畑の格付け
地図にはアポテーケの名は見あたらないことから、20世紀に入ってからベルンカステラー・ドクトールにあやかって命
名された可能性もあるが、定かではない。

トリアーの市立図書館には、1895年と1905年に出版された葡萄畑の地図が所蔵されている。
左が1895年、右が1905年のもの。


畑名は読みにくいが、付属の解説本によれば1905年の当時、トリッテンハイムにはある上等な畑としてあがっている
のはラウレンティウスベルクLaurentiusberg, オルクOlk, パイルPeil, ファーFahr, ガルゲンベルクGalgenberg, ファルケ
ンベルクFalkenbergの6つ。地図にはその他の畑名も記載されているが、アポテーケもアルターヒェンも見あたらな
い。ということは、現在トリッテンハイムを代表するこの二つの畑は、1905年以降に名付けられたとみてよさそうだ。

近年この畑では耕地整理が行われている。これによりは区画と農道の統合整備を行い農作業の効率化が図られる
が、そのために合意をとりつけなければならない区画所有者は、代々にわたる遺産分配を通じた細分化で35haに
300人あまりにのぼったという。耕地整理の過程では、売買や交換を通じて細分化されていた区画の整理がすすめ
られるとともに、アポテーケと同じ岸にありながらもアルターヒェンと名乗っていた15haあまりが、アポテーケに編入さ
れた。確かに土壌の組成も畑の向きも傾斜もおおむね共通しており、地元ではマーケティング上のメリットとして歓迎
している。

トリッテンハイムの村と対岸にある畑の間は、1909年に橋が出来るまでは渡し船が唯一の渡河手段だった。両岸を
結ぶザイルを伝って船が行き来していたのだが、その片方を固定していた岩はフェアフェルス−渡し船の岩−と呼ば
れている。岩の周囲は耕地整理を免れ、1900年当時に植えられた古木から今も葡萄が収穫され、クリュセラート・ヴ
ァイラー醸造所とクリュセラート・アイフェル醸造所の最上のワインとなっている。

それにしても、二つの地図を眺めていると興味深い。葡萄畑の他にも、1905年の地図には鉄道が新たに書き込まれ
ている。1901年にトリアー=ブライ間に開通した鉄道は、モーゼルのワイン産業に少なからぬ影響を与え、モーゼル
全域で葡萄畑は1895年から10年あまりで600ha増えたという。当時モーゼルはボルドーの一流シャトーとならぶ高値
で売れ、1900年当時のワインリストでは、モーゼル下流ヴィニンゲンのリースリングの1.70ゴールドマルク(約6千円)
に対し、シャトー・コス・デストゥネルが1.60ゴールドマルクであった例もあるという。

その好景気を背景に、高い収量の未熟な収穫をシャプタリゼーションでごまかした質の悪いワインも横行するように
なったことを、地図と解説本の著者であるコッホは、モーゼルの名声を高めるのはあくまでも量ではなく質であること
を警告している。そして、モーゼルの典型的な味わいについて、以下のように表現している。

『よいモーゼルは軽快な酸味がワインにフレッシュでクールで生き生きとした印象を与え、しかも力強く、豊かな酒躯
とともに、他に真似することの出来ない、スパイシーで繊細かつマイルドなブーケを備えている。そのアルコール度は
さほど高くはないが、それでいてなお酒らしく、気品がある。』(Friedrich Wilhelm Koch, Die Weine im Gebiete der
Mosel und Saar, 2. Aufl., Trier 1904, S. 21)

彼がこの文章を書いて100年以上を経た今日も、モーゼルのリースリングの特徴は変わっておらず、低収量で質を追
求したワインがその名声を高めていることもまた、同じであるように思われる。


参考文献:
Friedrich Wilhelm Koch, Die Weine im Gebiete der Mosel und Saar, 2. Aufl., Trier 1904
F.W. Koch/ Heinr. Stephanus, Weinbau-Karte der Gebiete von Mosel und Saar im Masstabe 1:60000, Trier
1897 (Stadtbibliothek Trier, Sign. Kt.3/103)
Ders., 2. Aufl., Trier 1905 (Stadtbibliothek Trier, Sign. Kt.3/104)
Joachim Krieger, Terassenkultur an der Untermosel, Neuwied 2003
Daniel Deckers (hrsg.), Zur Lage des deutschen Weins, Stuttgart 2003.
(Ich bdanke mich fuer die freundliche Aufnahmegenehmigung der Weinbau-Karte durch Stadtbibliothek Trier.)







1803年にナポレオンにより所領が世俗化されるまで、モーゼルの葡萄畑の大半は教会や修道院が所有しており、そ
の中には女子修道院もあった。しかし所有者が男であれ女であれ、ワインがもっとも重要な収入源であったことに変
わりはなく、また、女子修道院の乙女たち−ドイツ語でユッファーと呼ばれるが、そこには聖職者を坊主(プファッフェ
ン)と呼ぶのと同様、いくばくかの皮肉が込められている−の毎日の食卓に上るワインの量もまた、男の聖職者と同
等であった。

モーゼル川沿いにある女子修道院には、とりわけ風光明媚な土地にあるものが多い。たとえばヨーロッパで最も急な
葡萄畑がある村として有名なブレムの対岸にあるシュトゥーベンにはアウグスティヌス女子修道会修道院が、モーゼ
ル川が大きく弧を描くツェルの近くにあるマリエンブルクにも同派の修道院が、小高い丘から古城が見下ろすコッヘ
ムにはカプチン派女子修道会が、ツルティンゲン村の対岸にはシトー派女子修道院が、ザール川沿いのなだらかな
斜面が囲むフィルツェンにはフランシスコ会女子修道院があった。それらの女子修道院の周囲か、ほど近い位置に彼
女達が所有する葡萄畑があったことは、畑の名前が物語っている。たとえばヴァルドラッハのユングフェルンベルク
Jungfernberg(乙女の山)、ブラウネベルクのユッファー(乙女)Juffer、ベルンカステル=ヴェーレンのノネンベルク
(修道女の山)Nonnenberg、プンダリッヒ=ブリーデルのノネンガルテン(修道女の園)Nonnengarten、ネーフのフラ
ウエンベルク(女山)、カルデンのユッファーマウアー(乙女の壁)など。

葡萄畑のある土地の空気には、ワインを味わう喜びが満ちているとゲーテは言う。その一方で、モーゼルの修道女
達には守らなければならない厳しい戒律があった。その相反する二つの要素のうち、ワインのもたらす開放的な精神
が、いつしか規律の緩みにつながったのか、あるいは宗教革命に賛同する自由な気風を鼓舞したのか、ナポレオン
が強制的に世俗化する前に姿を消した女子修道院も少なくない。例えば1478年にコッヘムの、1515年にマリエンブ
ルクの、1640年にカルデンの、1788年にシュトゥーベンの女子修道院が解体されている。

地元の言い伝えによれば、マリエンブルグの信心深い修道女達のもとには、戦乱の世にあって気性の荒い兵士達
がしばしば訪れ、見目麗しい修道女を連れ去ることが幾度となくあり、次第に人数が減って行ったという。この女子修
道院はトリアー選帝候により1515年に解体されたが、修道院に最後まで残った修道女達には、年金と穀物とともに、
毎年一人あたり年半フーダー(約500リットル)のワインが支給されたという記録が残っている。一日1リットル以上の
消費は中世においてはありふれたものだが、それが修道女達の心を喜ばせたことであろうことは想像に難くない。


参考文献:Karl Christoffel, Die Weinlagen der Mosel und ihre Namensherkunft, Trier 1979







ヴェーレナー・ゾンネンウアーの日時計。


モーゼルではおなじみの畑名で、日時計を意味するゾンネンウアーは、ノイマーゲン、マーリング、ヴェーレン、ツェル
ティンゲン、ユルツィヒ、ポンメルンそれとブラウネベルクにある。

時間を計ろうとする人類最古の試みである日時計はオリエントで発明され、ヘロドトスによればカルデア人により紀元
前575年頃にギリシアへもたらされたという。もっとも、晴れている時だけ時を示すそれは、すでに百年以上前から実
用的な意味を失っており、ワイン村のあちこちの家の南向きの壁に、太陽の恵みをシンボル化した飾りとして見られ
る程度になっている。それら日時計にはしばしば古くから伝わる格言がラテン語で刻まれており、太陽が太古に神と
して崇められたこととの類似性を伺わせる。曰く『太陽なくして何も無し Sine sole nichil』『太陽は全てを照らす Sol
lucet omnibus』。

日時計は豊富に陽光を必要とする葡萄畑に、太陽の恵みをもたらす一種の聖像として、目立つ場所に設置されてい
る。葡萄畑の栄えある一角に位置を占めると、その周囲の畑は大抵日時計と呼ばれるようになった。中部モーゼル
の名所のような案配のヴェーレン、ツェルティンゲン、ユルツィヒの日時計を目にした時、昂揚しつつもなぜか時の流
れとともに朽ちていく現世のむなしさが、荒れ果てた古城に立つ時のように脳裏をよぎった。夏の象徴である葡萄畑
の中の日時計が、太陽の恩寵で満ちた秋の夕暮れ、ゆっくりと沈みゆく陽光の最後の閃きとともに別れを告げる光
景を思い出したからだろうか。

参考文献:Karl Christoffel, Die Weinlagen der Mosel und ihre Namensherkunft, Trier 1979







ピースポートの村とゴルトトロプヒェンの畑。


モーゼルで最も有名な畑ひとつにピースポーター・ゴルトトロプヒェンがある。1837年にモーゼルの歴史家クリスチャ
ン・フォン・シュトラムベルグが、当時の主要なモーゼルの葡萄畑をリストアップしているが、その中にピースポータ
ー・ゴルトトロプヒェンは見あたらないことから、畑名の発祥は19世紀半ば以降と思われる。ゴルトトロプヒェンは『金
色の雫』を意味する。それがワインの色から発想されたとしても、一つには上出来のワインをちっぽけな雫と名付ける
ことはワイン農民らしからぬ発想であるのと、いまひとつには『ゴルト』と名の付いた畑はゴルトベルク(金色の山)、
ゴルトヴィンゲルト(金色の葡萄園)、ゴルトグルーベ(金色の坑)、ゴルトボイムヒェン(金色の小木)などがあるが、
いずれもワインではなく葡萄畑と結びついている点から、ゴルトトロプヒェンの命名は少し変わっている。

そこでより理にかなった説明として考えられるのは、完熟した葡萄に小さな斑点となってあらわれる、貴腐のついた
葡萄から得られる金色の雫からイメージされた名前ではないかということだ。正式にはボトリティス・シネレアと呼ば
れる貴腐菌は、葡萄にとって敵であると同時に味方でもある。熟し始めたばかりの段階で繁殖すると、灰色カビとし
て収穫に大きな痛手を与える一方、北国の太陽のもとで完熟した状態のリースリングにつくと、非常に高貴で甘美な
ワインを造ることができる。ボトリティスは熟した葡萄の果粒を茶色っぽく変色させ、ビロードのように果皮を覆う。葡萄
品種にもよるが、60〜80エクスレに達していれば、水分の蒸発により干し葡萄のようにしぼみながら半分近くまで重
量が落ちる一方で、果実に蓄積された糖分とエキス分の割合は相対的に増える。ボトリティスは成熟過程で果汁の
成分を変化させるとともに発酵にも影響を与え、甘口ワインの品質を独特なかたちで向上させるのである。

ゴルトトロプヒェンの畑名が貴腐のついた高貴な葡萄に由来するとすれば、中世以来の教会関係施設−トリアーの
ザンクト・マキシミン修道院、ザンクト・パウリン教会、ザンクト・アグネーテン修道院、カルトホイザー修道院、司教座
聖堂参事会、さらにメットラッハ修道院、キル渓谷のザンクト・トーマス修道院、ヒンメロート修道院とエバーハート隠
修修道院、そしてプリュム大修道院など−がこぞって区画を所有したワインの質の高さともうまく結びつく。

ピースポートはローマ時代からフンスリュック山地とヴィットリッヒの渓谷を結ぶ街道の要所で、371年にアウソニウス
もその詩に謳っている。
『さて葡萄畑に目を移せば 
バッカスの賜物なる眺めに陶然となることだろう 
急斜面をうねり縁取る荘厳な頂のもと 
急峻な岩壁 陽光あふるる山腹 なだらかにうねる斜面が 
葡萄に彩られ 自然の劇場のように広がっている』(アウソニウス『モゼラ』152-156行)

ピースポートが当時からワインの産地としても重要であったことは、ピヒター、カレル、パルツ、アウレンクンプというラ
テン語由来の昔の畑名が示している。なかでもアウレンクンプはアウレア・クッパaurea cuppa−黄金の杯に由来して
おり、今日のゴルトトロプヒェンも、そこから導かれた名前であるのかもしれない。


参考文献:Karl Christoffel, Die Weinlagen der Mosel und ihre Namenherkunft, Trier 1979
Daniel Deckers (hrsg.), Zur Lage des deutschen Weins, Suttgart 2003







『クレーファー・ナックトアルシュ』。クレーフ村の裸のお尻という奇妙な畑の名前が何に由来するのか、定かではな
い。ある人は昔、葡萄が植えられる前の山の、こんもりと盛り上がって何も生えていない様子がお尻のように見えた
からだと言い、ある人はナックトは盛り上がった岩石を意味する古ドイツ語の"ヌックNuck"に由来し、アーシュは古語
では茂みを意味していたと言う。しかし最も有名なのは、以下の言い伝えである。

その昔、クレーフの葡萄農民は葡萄畑の領主であった修道院に収穫の大半を年貢として納めなければならなかっ
た。年貢の一部は労役によって代替されることもあったが、ともあれ修道院は労賃として無料の食事を提供するとと
もに、年に一度だけ、夜明けから決まった長さのろうそくが燃え尽きるまで、修道院の所有する畑から葡萄を収穫し
て自分のものとしてよいことになっていた。当然のことながら、葡萄農民はいつものなまけぶりと違って、その日ばか
りは見違えるように猛烈に熱心に働いた。その有様に大いに立腹した修道院の代官は、とある企みを思いついた。

その翌年、年に一度の葡萄農民に収穫が許される日、代官は生のまま水に漬けた豚肉を食料として与えた。水道
の無い当時、生水といえば不衛生の代名詞のようなもので、とりわけ衛生事情の悪かった都市の住民はもっぱらビ
ールかワインで喉を潤していたほどである。さて、その不衛生な豚肉は、代官の思惑通りてきめんに効果を現した。
農民達はゴロゴロと鳴り続けるおなかのせいで、ひっきりなしに作業を中断し、用を足しに行かねばならなかった。そ
のうち、この腹具合が農民の一人が代官の豚肉のせいであることに気が付いた。まんまと罠にはまったことを知って
頭に来た彼は、そうは問屋がおろさんぞとばかりにやおらズボンを脱いで上着をまくし上げ、お尻の用事をものともせ
ずに、垂れ流しでひたすら葡萄を摘み続けた。この有様を見た代官は『裸の尻にはかなわんわい』と大笑いし、これ
が畑の名前そもそもの言われとなったそうな。


参考文献:Christine und Dietmar Werner, Die schoensten Sagen vom deutschen Wein, Husum 1999.





トリアー大聖堂中庭の回廊。



ナポレオンが1803年に修道院所領を競売にかけるまで、教会関連組織はモーゼルにおける最大の葡萄畑所有者で
あった。中世において葡萄栽培に向いた村には12あるいはそれ以上の教会関係の所有地がひしめき、ゴシック様式
やバロック様式の立派な醸造施設が、今日に至るまで村の景観を特徴づけている。

ワインで有名ないくつかの大修道院は、モーゼルのワイン文化の先導者として9世紀のカロリング朝と12世紀のシュ
タウフェン朝に急速な発展を遂げた後も、17世紀の30年戦争で荒廃した葡萄畑の復興に尽力した。ライン左岸のトリ
アー選帝侯領における教会関係施設の所有する葡萄畑の割合は、1720年の時点でも25.4%と世俗諸侯の11.2%より
多く、当時選帝侯が100万本以上の葡萄を所有していたのを筆頭に、ザンクト・マキシミン修道院が60万本、次いで
ヒンメロート修道院の55万6千本であった。

ナポレオンの修道院領世俗化の後、教会関連組織のワインづくりの規模は縮小され、村の教区教会、トリアー高位
司教座聖堂(ホーエ・ドームキルヒェ)、司教座聖職者養成学校(ビショフリッヒェ・プリースターゼミナール)および神学
部(ビショフリッヒェ・コンヴィクト)、イエズス会が運営していた大学の後継組織であるトリアーのフリードリヒ・ヴィルヘ
ルム・ギムナジウム、そしてベルンカステル・クースのクザーヌス修道参事会において続けられるのみとなった。

かつて教会所領であった葡萄畑は、畑を所有していた教会や修道院の守護聖人の名前にちなんだ畑名にその名残
を残していることが多い。また、畑名に神父から枢機卿へ至る教会のヒエラルキーの反映を見ることも出来る。教会
に縁の深い畑名の例としては、キルヒベルク(ハッツェンポート)、キルヒライ(エルンスト)、プファールガルテン(司祭
の庭、ブルッティヒ-ファンケル)、プファッフェンベルク(聖職者の山、エディガー)、アルテァヒェン(小祭壇、トリッテン
ハイム)、アルターベルク(祭壇山、エレンツ-ポルタースドルフ)、デヒャンツベルク(主席司祭の山、カルデン)、ヘレ
ンベルク(共住聖職者の山、19村にある)、ドームヘル(司教座聖堂参事会員、ピースポート)、ドームヘレンベルク
(司教座聖堂参事会員の山、トリアー、ゼンハイム、エレンツ-ポルタースドルフ)、マキシミン・プレラート(マキシミン
修道院の僧正、カステル-シュタート)、プレラート(僧正、エルデン)、ドームプロブスト(司教座聖堂主席司祭、グラー
ハ)、ビショフスシュトゥール(司教座、コッヘム)、クアフュルスト(選帝候、エレンツ-ポルタースドルフ)、カーディナル
スベルク(枢機卿の山、ベルンカステル・クース)、クロスターベルクおよびクロスターライ(修道院の山、11村にあ
る)、クロスターガルテン(修道院の庭、ライヴェン、ブラウネベルク、コッヘム)、クロスターホーフグート(修道院所領
農園、ヴェーレン)、クロスターカマー(修道院の小部屋、ザンクト・アルデグンド)、アプツベルク(修道院長の山、メル
テスドルフ、グラーハ)、アプタイ(大修道院、ヴェーレン)、アプタイベルク(大修道院の山、メスニッヒ)、ミュンスター
ベルク(司教座聖堂の山、カルデン)、ベネディクティーナーベルク(ベネディクト会の山、トリアー)、イェズイーテンヴィ
ンゲルト(イエズス会の葡萄園、トリアー-オレーヴィヒ)、イェズイーテンガルテン(ヴァルドラッハ)、ドミニカーナーベ
ルク(ドミニコ会の山、カーゼル)、カルトホイザーホーフベルク(カルトホイザー(=シャルトリューズ)会の山、アイテル
スバッハ)、ドイチュヘレンベルク(ドイツ騎士修道会の山、トリアー、ツェルティンゲン-ラハティヒ)などがある。

農耕中心の時代には、ワインは人生の楽しみに重要な役割を果たすとともに、聖職者にとって禁欲生活の息抜きに
欠かせないものでもあったから、ワインを飲むことを正当化する神学的・哲学的口実まであった。中世における神学と
薬学の権威であったアルノルド・フォン・ヴィラノヴァ(1240-1311)は、『ワインは思索を洗練し、思考速度を速めるもの
であるから、神学者が好んで上等なワインを飲むのは正しく、その理由も容易に説明できる。なぜなら、彼らは至高
にして難解極まる問題に取り組まねばならないからだ。』と書いた。また教会に従属していた葡萄農民は『司教杖の
下にはよい生活がある』と言い習わし、ワインにより教会が富むことに貢献した。


参考文献:Karl Christoffel, Die Weinlagen der Mosel und ihre Namensherkunft, Trier 1979






ザールのシャルツホーフベルク。この名も、開墾に由来する。


ワイン村の歴史にとって最も重要な出来事として、開墾による葡萄畑の拡張があげられる。苦労して森、湿地、いば
らの茂みや荒れ地を葡萄畑へと作り替えていった村人達の記憶が、葡萄畑の名前に刻まれているのだ。中でももっ
とも古いものにピヒターPichterという畑名がある(メーリング、ニーダーエンメル、ミンハイム、ヴェーレン、ユルツィヒな
ど)。『収益をもたらすもの』という意味のラテン語Petituraから導かれたその語は、その土地が開墾すべく領主から
貸与された所領であったことを示している。

ピヒターに類似した畑名としてはプレンターPlenter、プレンテルPlentel、プランテルトPlantertなどがあり、新たに植
えることを意味するラテン語plantariumから導かれている。ノイベルクNeubergすなわち新山という畑名(エンキルヒ)
や、アルテンベルクAltenbergすなわち古い山という畑名(トリアー、クレッテナハ、オーバーエンメル、フィルツェン、カ
ンツェム)もまた開墾に由来する。

開墾Rodungから派生した畑名にはその他ローテルトRotert(ノイマーゲン)、ロートライRotlay(トリアー)、イム・レット
ゲンIm Roettgen(ヴィニンゲン、ギュルス)、イム・レーダーIm Reder(ユルツィヒ)などが挙げられる。ぱっと見には分
からないが、サングSang(アイテルスバッハ)、フォーゲルサングVogelsang(ゼーリヒ、キルシュ)もまた開墾に由来し
た畑名だ。サングはドイツ語の『センゲンsengen(焦がす)』に由来しており、森を焼き払って畑にしたことにちなんで
いる。センゲンはジンゲン(歌う)と似ていることから、フォーゲルサング(鳥のさえずり)という畑名が生まれた。

その他、バッテリーベルクBatteriberg(エンキルヒ)も、シーファーの岸壁に発破をかけて開墾したことから、バッテリ
ー(砲兵隊)の山と名付けられた。

ドイツの葡萄畑で最も有名なヴィルティンゲンのシャルツホーフベルクScharzhofbergもまた、その名を開墾に由来し
ている。1314年の古文書に"in monte ibidem vulgariter nuncpato Schayrt(住民にShayrtと呼ばれる同山にて)"と
いう記載があるのだが、Shayrtはモーゼルロマン語のscartisすなわち『開墾において』という意味の語に由来する。
同名の畑はフェル、カーゼル、デッツェム、リーザー、エンキルヒなどにもあったが、現在ではヴィルティンゲンに残る
のみである。


参考文献:Karl Christoffel, Die Weinlagen der Mosel und ihre Namensherkunft, Trier 1979.






モーゼルのワイン農家では、葡萄畑をヴァインベルクWeinberg(ワイン山)ではなくヴィンゲルトWingert(ワイン園)とも
呼ぶ。ヴィンゲルトという語は古高ドイツ語のwingartoに由来し、今日の英語ヴィンヤードvineyardの語源である。これ
はローマ時代にモーゼルの葡萄畑は集落内の庭園か平地にあったこととも関連があるようだ。

ライLayまたはレイLey(例えばベルンカステラー・ライ)という畑名は、ギリシア語で石を意味するラースlaasに語源が
あり、それはガロロマン語にライアlaiaとして受け継がれ、岸壁あるいは石(モーゼルではほとんどがシーファー(スレ
ート粘板岩)であるが)を意味した。ライと同じく岸壁を意味する畑名フェルスFels(例えばヴィルティンガー・ブランフェ
ルス)は古高ドイツ語でfelis(フランス語で巨岩を意味するfalaiseに通じる)、その語源はギリシャ語のペラpellaであ
る。

石を意味するシュタインSteinの語も希に用いられており、ヴァイセンシュタイン(Weissenstein[白い石]/クース)、フォ
ン・ハイセン・シュタイン(von heissen Stein[熱い石]/ライル)、シュタインヒェン(Steinchen[小石]/カッテネス)、アウ
ソニウスシュタイン(Ausoniusstein/レーメン)がある。

ラテン語で酒器を意味するcuppaに由来するクップの畑名はアイル、
ヴィルティンゲン、オックフェン、ザールブルグ、トリアー、ヴィットリッヒ
にあり、その他クロイツヴァイラーにはシュロス・トーナー・クップ、ヴィ
ルティンゲンにはブラウネ・クップの畑がある。いずれも大地に杯を伏
せたような形状の畑だ。

ヘルドHeld、ヘレHoelle、ヘーレHoehleという畑名は炭坑を意味する
ハルデHaldeから来ている。ヘルドと呼ばれる畑はメスニッヒ、ケン、
ペリッヒ、ケヴァリッヒにあり、ヘレはヴィルティンゲンとアルフに、フッ
クスヘーレ(きつねの穴)はコバーン・ゴンドルフにある。テルニッヒに
あるリッチRitschという畑は滑落を意味するルッチruetschに由来し、
中高ドイツ語のsteinrutzeすなわち岸壁から導かれたものと思われ
る。

ヴィニンゲンのハムHammはラテン語のhamusすなわち湾曲を意味
し、牛のくびきやツェルでモーゼルが湾曲するあたりもハムと呼ばれ
る。グラーベンGrabenあるいはグルーベGrubeも畑の形状に由来する
が、ドイツ語でグラーベンは『掘り下げる』を意味するものの、大抵は
逆に日当たりの良い斜面にある(ベルンカステラー・グラーベン、ブラ
ウネベルガー・マンデルグラーベン、ノイマーゲナー・エンゲルグルー
ベ、エンキルヒャー・エレングルーブ、メスニッヒャー・ゴルトグリューブ
ヒェン)。恐らくは周囲の畑と相対的に引っ込んだ地形だからであろう
か。

絶壁を意味するハングHangの語は、モーゼルでは急斜面が多いにも
かかわらず、伝統的な畑名には用いられていない。唯一コッヘム近
辺の集合畑(グロースラーゲ)にローゼンハング(バラ色の絶壁)とい
う名があるが、1971年にグロースラーゲがドイツワイン法で定められ
た際に考案されたものである。同様にヒューゲル(丘)という畑名もモ
ーゼルにはない。

ラテン語由来の畑名にはブレムのカルモントCalmont(calvus mons,
禿げ山)が有名だが、禿げ山ではなく熱い山(calidus mons)に由来す
るという説もある。
ザールのヴィルティンガー・ブラウネ・クップからの眺め。


参考文献:Karl Christoffel, Die Weinlagen der Mosel und ihre Namensherkunft, Trier 1979.


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