三菱東京UFJ銀行貨幣資料館は、名古屋市東区赤塚町にあり日本および世界各国の紀元前からの
珍しい貨幣約1万点が展示されている、日本有数のコレクションで入館料無料です。

所在地

愛知県名古屋市東区
赤塚町25

            新貨幣資料館
 名古屋駅より市バス野名護屋ターミナル7番のりばより「基幹2光ケ丘・猪高車庫」行にて「赤塚白壁」停下車、徒歩1分。

 旧資料館の建物は昭和元年(1925年)に旧東海銀行(三菱東京UFJ銀行)本部として建築され、当時の銀行建築として名古屋を代表するもので、名古屋市都市景観重要建築物に指定されていました。

紀元前から現在までの海外の貨幣や日本の貨幣史にまつわるものなど、約1万点を展示する資料館。
民間では日本一と言われるだけあり、珍しい展示品が多数揃っています。

万両箱
1.千両箱は時代劇などにも登場し、姿・形は広く知られていますが、
万両箱となるとまさに天下一品で、一万両の大金を保管する 
金庫であり、現存する唯一のものです。              
2.この万両箱は江戸時代から明治維新の時まで、京都二条城の 
ご金蔵に格納されていたものと伝えられています。       
3.見るからに頑丈につくられ、外側は鉄帯でからめ内部は一面に 
厚い南蛮鉄が厳重に張られています。              
重量は約150kgもある重厚な箱です。              

1億円束と千両箱

一億円の重さが体感できます。

千両の小判の重みも体感できます

江戸時代の両替模擬店

財布・巾着・札入れ
江戸中期〜明治初期

 

日本の貨幣の歴史

和同開珎より古い貨幣があるとは知りませんでした!

富本銭(ふほんせん)
天武(てんむ)年間(
683年)

日本最初の貨幣とさています。
和同開珎(わどうかいちん)より前に発行されていた可能性が高く、唐の開元(かいげん)通宝をモデルとして製造されていたと考えられています

富本銭と鋳棹(複製)
飛鳥池遺跡出土(奈良県明日香村)
資料所蔵 奈良県文化財研究所

藤原京(ふじわらきょう)の官営工房だった飛鳥池(あすかいけ)遺跡で7世紀後半に鋳造されていたことが明らかになっていますがまだ出土例も少なく、通貨としての価値や流通範囲など、課題も多く残されています。

富本銭(ふほんせん)、日本最古の貨幣をめぐる最新情報
(平成20年3月18日)

藤原宮跡から土器の口に固まって詰め込まれて見つかった九枚の富本銭を奈良文化財研究所が分離したところ、文字の確認ができた八枚は、「富」の文字が、ワかんむりに口、田であらわされていた。

地鎮用、ぶ厚く
藤原宮(奈良県橿原市694〜710年)大極殿南門付近の回廊跡から平成19年11月に出土した
地鎮用とされる富本銭について奈良文化財研究所は3月17日、これまで飛鳥池遺跡
(奈良県明日香村)などで失敗作も含め計560枚以上出土しているものと
字体、厚さなどが異なる新しいタイプと発表されました。

平瓶(ひらか)の注ぎ口に富本銭と水晶が
CTスキャンにより九枚の富本銭と九個の水晶が納められている事が分かった。

以前は我国最古の貨幣と言われていた「和銅開珎」へ話題を戻します。

和同開珎の銭范(鋳型)破片
長門鋳銭司跡出土(山口県)

 和同開珎銅銭(新和同)鋳造に使用された鋳型の残欠です。
製造にあたっては、銭の元型となる種銭(母銭)を粘土版の上に並べ、貨幣の型の間に銅を流す湯道(ゆどう)を作っていく、これに上から粘土版をかぶせ、型が固まってから種銭を取り除いて焼き固める。
 出来上がった鋳型(表裏2枚)を木枠で固定し、湯道から溶けた銅を流し込んで作ります。

和同開珎銅銭(新和同)
奈良時代

我国最古の貨幣
皇朝十二銭

皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)

 日本最初の銅銭とされる和同開珎(708年)から平安時代中期の天徳(てんとく)2年(958年)に乾元大宝(けんげんたいほう)が発行されるまで約250年の間に12種類の銅銭が発行されました。
 これを総称して「皇朝十二銭」(こうちょうじゅうにせん)と呼んでいます。
 貨幣経済を定着させるため、大量の銅銭を必要としましたが、原材料の銅や錫(すず)の産出不足から、改鋳のたびに小型・粗悪化していきました。

武田信玄と甲州金

          両目の単位の元祖
 戦国時代に各地の武将たちは、軍資金獲得のために盛んに鉱山開発に乗り出し、種々の貨幣を作って流通させました。
中でも甲斐の国(山梨県)の武田信玄は領地で採れた「金」で独自の貨幣を制作し、戦場で手柄のあった者には、自らこの金を与えました。
 両目の単位は「両・分・朱・朱中・糸目」と言う4進法で、武田家が滅亡後もこの制度は徳川幕府に引き継がれ、江戸時代の貨幣制度の基となりました。
 これらの甲州金は、江戸時代になってからも甲斐一国だけの限定で製造と流通を許可され、江戸中期まで流通しました。

大判の歴史

ひるも金(蛭藻金=十六世紀

            大判の元祖
 室町時代の中期より、金は砂金から延板状の形にして使われるようになりました。
 これらの重さは不定で、10g前後から150g近いものまであり、秤量使いされていました。
 この形が水性植物の蛭藻に似ているところから「ひるも金」と名付けられました。  これが後の大判へと発展していきました。

天正大判(天正16年=1588

           初めての大判
 天下を統一した豊臣秀吉は、全国の鉱山を支配し、天正十六年(1588)よりそれまでの重量が不定だった蛭藻金(ひるもきん)の金貨幣を統一しました。
 これが天正大判です。
 この制作には、足利将軍家の金工師だった後藤家があたりました。
 品位・量目を一定にして品質を保証する「桐」の極印をうち、表面には「十両後藤」と花押(かおう=サイン)が墨書きされ、大判制作の責任を証明しました。
 なお、裏面の墨書きは、当時受け取った者によるものでした。
          褒美や贈答用、中国との交易に
 高額な貨幣のため庶民が使用するものでなく、褒美や贈答用、中国との交易に使われたと伝えられています。
 中でもこの大判金は長径171_重量165.4cと大きいため、「天正長大判」と呼ばれました。

大判の墨書きについて

            「拾両 後藤」
 大判の表には「十両・後藤」(書いた人の名)・花押(サイン)の順で墨によって書かれています。
 この墨書きは、金座の中の大判座の当主(後藤家が代々世襲)本人が書いて品質を保証するものでした。
 最初は墨だけでしたが、享保大判以降、墨に「漆」(うるし)を混ぜて艶を出し、また書体も装飾的になって豪華な雰囲気を出しています。

私鋳の鐚銭(びたせん)と豊臣秀吉の銀貨

太閤銀銭
豊臣秀吉が島津氏や北条氏との戦いに軍資金・恩賞用として作らせた銀銭です。

江戸時代

慶長大判徳川家康が作らせた大判)
慶長6年(1601

          二代目大判
 天下を統一した徳川家康は「金座」を設置し、豊臣秀吉の天正大判の制度をそのまま取り入れて慶長6年(1601年)から慶長大判を発行しました。
 金座では豊臣氏同様、後藤家に管理させ、大判は「大判座」で小判とは別の管理のもとで作らせていました。

          大判の使い方
 大判は、将軍家・大名・公家達の進物や賞賜などの儀礼用に使われたもので、 小判や他の金銀貨のように取引の決済に使うものではありませんでした。
  使用する場合は、目録とともに渡すもので、財布に入れて持ち歩くものではなかったのです。
  使われない時は、墨書きがかすれて消えないように、真綿や和紙に包んで大事に保管していました。

元禄大判(五代将軍徳川家綱の在代)
元禄八年(
1695

 徳川幕府は初めての金銀貨の改鋳を行いました。
 この時大判も他の貨幣同様、金の純度を落として発行されました。
 この元禄大判だけには、発行年代を示す「元」の刻印が裏面に打たれています。
 この大判は純度が低いので、後に良質な享保大判が発行されるとほとんど交換されてしまいました。

享保大判(享保の改革・八代将軍徳川吉宗の時代)
享保十年(1725

       純度を慶長大判まで戻す
 新井白石や八代将軍吉宗が活躍した正徳・享保の改革で発行された大判です。
 元禄の改鋳で純度を落とした大判を慶長大判の品質まで戻した良質の大判となっています。
 この大判は享保十年(1725)6月から翌年の9月までに約8,500枚が発行され、その後は113年後の天保大判の発行まで制作されなかったために、墨書きの書き直しが行われ、第12代から17代までの6人の大判座当主の墨書きが存在しています。

天保大判(天保九年=1838

 天保大判(てんぽうおおばん)とは天保9年(1838)6月24日より発行された大判である。
 吹替え(改鋳)によるものではなく、享保大判と同形式であり金品位も近く、吹増大判(ふきましおおばん)あるいは吹継大判(ふきつぎおおばん)とも呼ばれる。
 天保8年(1837)8月から鋳造された五両判はもともと大判座の後藤十五代真乗が発案したものであったが、通貨であることを理由に金座に鋳造担当を奪われたことから大判座の財政難対策に苦慮していたところに登場した大判鋳造であり、大判座救済策の意味合いもあったとされる。

小判の歴史

慶長小判(初代将軍徳川家康の時代)

      統一通貨(金・銀貨)の発行
 徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利し、翌年の慶長六年(1601年)「金・銀貨」を統一し、全国通用の貨幣制度をスタートさせました。
 この慶長小判は、足利将軍家の金工師であった「後藤家」に請け負わせ「江戸・京都・駿河・佐渡」の金座で製造し元禄期まで約100年間、製造流通しました。

天保五両判発行(天保八年=1837

              経済発展による通貨不足対応
 天保期(1830年代)に入ると全国人口は約2,700万人、江戸の人口は100万人を越す大都会となり、貨幣の供給量の増加が必要となってきました。
 天保8年(1837年)に金貨の表面にも五両の刻印を打ち、金84%と品位の高さを売り物にした
「天保五両判」を製造しました。
 しかしながら重量はわずか34g(天保小判は11g)のため評判は悪く、一方、当時の江戸は高額な取引には、1両小判の50枚包、100枚包が普及していたこともあって、6年後の天保14年まで約3万4千枚発行し製造中止となりました。

江戸時代の銭貨
寛永通宝・長崎貿易銭

江戸時代の銀貨
丁銀と豆板銀

 元禄丁銀
元禄八年(1695年)
品位   銀  64%
     その他 36%

 慶長丁銀
慶長元年年(1601年)
品位   銀   80%
     その他 20%

慶長豆板銀
慶長六年(1606年)
元禄豆板銀
元禄八年(1686年)
ッ宝豆板銀
宝永三年(1706年)
ッ宝豆板銀
正徳三年(1711年)

鋳放し銭 寛永通宝(日本・江戸時代)

宝永通宝鋳造の坩堝

 

銭さし

   銭 刀 (ぜにがたな)

 刀は金入れ道中差といって財布の用をも兼ねた旅行用の刀です。
  昔は今の旅行と違って江戸から京都への東海道の旅は十数日もかかり、参勤交代で幕府や土佐から江戸までやってくるのには1ケ月以上の日数を要しました。
 江戸時代の長旅で、一番気を付けねばならないのは財布や巾着などがすられないことです。
 そこで考案されたのが、この「銭刀」です。
 武士や名字帯刀を許されている裕福な商人はこれに金貨の一分金や二分金を仕込んで旅をし、 その装置は鯉口(こいぐち)のところに爪をかけて刀身に平行に引き出すと金貨が2〜30枚
でてくるようになっています。

符合泉志(ふごうせんし)の版木
一揃16枚 江戸時代(文政10年・
1827

        昔からコイン収集はあった!
  平安時代から江戸時代の初期に流通していた中国の宋銭や明銭などの渡来銭は、 寛永通宝の発行後は通貨としての機能を失い、収集の対象となっていきました。
 この「符合泉志」全3冊は、中国宋時代の貨幣を拓本で表した木版印刷の本で、文政十年(1827年)に名古屋枇杷島の住人山田孔章(こうしょう)によって編纂され、 宋朝銭を分類できる唯一の参考書でした。
 これは、その本を印刷する版木で貨幣の細かな特徴まで精密に表現しており、全3冊がすべて揃っています。

徳川家の定紋付千両箱

           殿様の手元用千両箱
  千両箱は金貨(大判・小判・分金)などの保管・貯蔵のために使われた箱で、城内のご金蔵の奥に保管していたり、 また裕福な商人の土蔵の中に保管されていました。 
 金貨を陸路で輸送する場合は千両箱を馬の背に縛り付け、また海路は船に積んで運びました。
  千両箱、こうした用途を考えて構造や外観はその要所要所に鉄帯や金具を付けるなど頑丈に作られていました。
 この徳川家の定紋付千両箱は、特に美しく装飾され殿様のお手元用で上と横に金蒔絵で5個の「葵」の定紋が 付いており、錠前にも紋が刻まれた美しく格式の高いものです。

包 銀(つつみぎん)
 1. 江戸時代の銀貨は高額な取引の場合、 梱包したままの状態で使用
        され、これを「包銀」と呼んでいました。
 2. 銀貨の塊を和紙で頑丈に包み、表面には金額と封印者の名前が書
        かれ、中身を確かめることなく封印者の信用力で流通していました。

包 銀     包 銀      包 銀
 銀 五百目包  銀 五百目包(本両替 井筒屋包) 一分銀 二十五両包

天保一分銀  100個・・・合計 25両
(天保八年・1837年)

嘉永一朱銀  100個・・・合計6両1分
(嘉永六年・1853年)

天保二朱金  8個・・・合計1両
(天保3年・1832年)

江戸時代の藩鋳貨幣

文久貨泉 銅銭 当百
文久元年(1861年)
睦中(岩手県) 文久鉱山通用
文久貨泉 銅銭 半百
文久元年(1861年)
陸中(岩手県) 文久鉱山通用
秋田藩 銅山至宝 当百
文久三年(1863年)
盛岡藩 八匁銀判
慶応四年(1868年)

幕末の藩鋳貨幣と木札

木札
幕末には通貨事情の悪化によって、各地では小額貨幣が不足してきました
そこで、急場しのぎのために金属貨幣や藩札の代用として、
小さな木の板に焼印を押した「木札」が使われました
駿河国(静岡県)
島田宿

島田通用木札
百文(大井川)

越後国(新潟県)
柏崎駅

木札銭 25文

越後国(新潟県)
与板宿

木札銭 二百文

各藩・宿場で発行された貨幣
仙台藩 細倉
当 百
文久二年(1862年)
米沢藩生産局
角型 鉛銭
慶応二年(1866年)
仙台藩 生産局
丸型 鉛 銭
慶応二年(1866年)
加越能 

七百通用銭
幕末 金沢藩

碓氷峠(群馬県)
鉛切手銭
目方八匁
・代二十四文幕府
薩摩藩
琉球通宝

半朱文久二年(1862年)

藩  札

 

奈良府(奈良県)
銀 札 一貫文 百文 五十文

越前(福井県) 福井藩
銀 札 十匁 四匁  寛文元年(1661年)

武蔵通商司商社
銀 札 三匁七分五厘   明治二年(1869年)

米切手(米手形)

1.「米切手」の発生
  米切手は各藩の蔵米10石(1,500kg)に対する約束手形で、17世紀(八代将軍徳川吉宗の時代)から使用され
  た。
  諸般の収入の大半は米であり、消費は通貨で支払うため、米を換金する必要があった。

2.米切手による資金調達
  そこで大名は物資の大集散地である大阪に蔵屋敷を置き、国元から収納米を輸送し、堂島の米会所で売りさ
  ばいたのであるが、未着米(米蔵に到着前)に対しても先物の米切手で売却したので、大名は前金・無利息で
  資金を調達することができた。

3.米切手の形式
  米切手は下工面(25俵、30俵など)と発行もとの蔵名(各種の米蔵名)を大きく表示し、他に発行日・札番号・
  受取人などが書かれている。

4.米切手の運用
  米切手は主として持参人払いであったので、財産の秘密を保持するために都合がよく、また米の相場があが
  れば巨額の利益となり、転々として売買することができたので投資物件として役立った。

藩札の版木

1.お札の製造では、偽造されにくいことが第一の条件で、
  版木は文字や図柄を精巧に作る必要がありました。

2.版木は表・裏を別の版木に彫刻し、簡単なものは一度に数枚
  印刷できるよう、何枚かを並べて作られたものもありますが、
  多くの場合数種に分割して保管できるように組み合わせて
  印刷できる版木が作られました。

3.お札の発行は、その藩や地域の経済に大きな影響を与えるた
  め、その製造・保管・手順は厳重な管理の下に行われていまし
  た。

藩 札  500枚封
丹波国(兵庫県) 柏原藩
銀 一匁札

明冶時代

太政官布告偽金禁制の高札

 明治初年に流通していた貨幣は製造に特殊な工夫が施されていなかったので、 偽金や偽札が横行しました。
  そこで政府は偽造貨幣の防止対策として偽造者の捜査につとめ、 各地に高札をたてて市民に協力を仰ぎました。
 これは明治5年に出された太政官布告の偽金禁制の高札です。

明治時代の金貨

   試鋳金貨
 通貨の様式が決定するまでには額面・大きさ・デザインを含めてさまざまな試作品が作られます。
 この金貨は、まだ極印を作る前の初めての試作品で、文字・デザインが手で彫り込まれています。

  一円金貨    一円金貨   二円金貨   五円金貨    十円金貨  二十円金貨
  
明治7年 純金量 1,5g 明治4年 純金量 1,5g 明治4年 純金量 3g  明治3年 純金量 7,5g 明治4年 純金量 15g 明治3年 純金量 30g
   明治9年 純金量 1,5g

新金貨(金本位制確立)
明治30年(1897年) 金1.5g=2円

明治30年(1897年)に「貨幣法」が発布され「金本位制度」が確立しました。
これと同時に「円」の金平価は2分の1に切り下げられ、従来の金1.5g=1円の価値基準が2倍の2円に改められました。
従って、新金貨は従来の半分の金量の「20円・10円・5円」の3種類が発行されました。
こおれにより、以後旧金貨の額面の2倍での通用となりました。

太政官札・民部省札
(明治政府最初の紙幣)

西洋式の紙幣第一号
(明治通寶札)

旧国立銀行紙幣

旧東海銀行の前身銀行発行の紙幣
第十壱・第百三十四(尾張名古屋)国立銀行

第十壱国立銀行 旧東海銀行(現三菱東京UFJ銀行)発行の紙幣

明治時代の政府の紙幣

10円券(発行 明治十六年)

日本銀行発行の最初の紙幣

10円券(発行 明治18年)
図案 大国天

1円券 (発行 明治18年)
図案 大黒天

明治の二銭銅貨 100個・・・2円

貨幣製造用刻印

造幣局銀貨鋳造の坩堝(るつぼ)

悲惨な第二次世界大戦の歴史

幻の貨幣「陶貨」
第二次世界大戦に突入した日本は、戦争激化とともに資材は軍事産業へ
優先され、金属不足になり、昭和20年春頃から極秘のうちに「瀬戸・京都・
有田」の民間陶器工場で「十銭、五銭、一銭」の3種類の陶器の貨幣が
製造されました。 しかしながら発行する前に終戦となり、流通しないまま
廃棄されました。

ここからは世界の貨幣を紹介します。

世界の貨幣

古代ギリシャ最古の貨幣
リディア王国・3分の1ステーター金貨

(エレクトラム貨幣)
発行年 紀元前650〜651年

古代ギリシャで発行された最古の貨幣。
当時のギリシャは都市国家の集合体で、リディア王国は現在のトルコの一部に繁栄した国家の一つ。

当時は精錬技術が未熟なため、金と銀との自然合金(エレクトラム)が貨幣として使用されていました。

表面は獅子頭、裏面は押し型(インキューズ)が打刻されています。 他に高額面の1ステータ金貨があります

古代ギリシャ最大の銀貨
シラクサ・デカドラクマ銀貨
発行年 紀元前405〜380年

古代ギリシャ時代二発行された最大の銀貨。シラクサは、
地中海のシシリー島に繁栄したギリシャの植民都市。

通貨単位の”デカ”は、ギリシャ語で10を意味します。
通常、銀貨の最高額面はテトラ(4)ドラクマで、デカ(10)
ドラクマは滅多に発行されることなく、中でも展示品は
特に有名なものだそおです。

表面のデザインは、4頭立ての走る馬車(戦車)の上に
勝利の女神ニケが飛んでいる。裏面は、月の女神
アルテミスの頭部を4頭のイルカが飛んでいます。

古代ギリシャ・コインの中で、当時の文化水準の高さを
象徴する最も美しい代表的な貨幣と言われています。

古代ローマ最大の銅貨
アース・グラーブ
発行年 紀元前240年〜225年

共和制ローマ時代の紀元前300年頃から発行されていた銅貨で
「重い青銅貨」を意味します。この名前から後の帝政期(紀元前27年以降)の
銅貨の通貨単位「アス」の名称が生まれる。

表面は、双頭の神ヤヌスを表し、裏面は船の舳先をデザインしています。
当初400g程の重量であったが、時代とともに軽量になり
(展示の品は約240g)、約600年後のディォクレティアヌス帝(在位283〜305)
の時代には、重さ6.5g、直径も24mm程の貧弱なものとなりました。

この事実からも、古代から既にインフレーションが起こっていたことが
うかがえます。

エジプト・プトレマイオス朝
クレオパトラ女王の銀貨

生存年:紀元前69〜30年     在位:紀元前51〜30年
テトラ(4)ドラクマ銀貨       発行年:紀元前36年 
 
クレオパトラ女王(クレオパトラ7世)は、エジプト王朝(プトレマイオス朝)最後の
女王で、絶世の美女として世に知られています。
当時のエジプトは、王朝内の権力闘争と強国ローマ野が威圧に苦しんでいました。
彼女は国内の政敵を倒すと、エジプトの殖民地化をねらうローマに対向するため、
シリアへ遠征してきたローマの執政官アントニウスと結婚し、エジプトを共同統治しました。

これに反対するローマの元老院およびオクタピアヌス(後の初代ローマ皇帝)とので
敗北し、オクタピアヌスに幽閉されついに自殺しました。
ここにエジプト王朝は滅亡し、エジプトはローマの植民地となりました。

この貨幣はエジプト王朝の滅亡と、古代ローマが共和制から帝政へ移行する過渡期の
歴史的背景を象徴する代表的な貨幣で、表面にはクレオパトラの肖像が描かれ、
裏面には共同統治したアントニウスの肖像が描かれいます。

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の貨幣

ローマ帝国の貨幣

イスパニア銀貨

ドイツ連邦共和国

大航海時代のコイン
15世紀後半に中東がオスマントルコに支配されると、
地中海貿易ルートが敬遠され、その結果各国は、
大西洋貿易ルートを開拓するようになりました。
これが大航海時代の始まりです。

大航海時代が始まると、地中海国家からスペイン・ポルトガル
へ勢力が移り、コロンブスのアメリカ大陸発見や、アフリカ大陸の開拓を通じて東洋への海のルートが確立されてきました。その後オランダ・イギリスが勢力を伸ばしてきました。

古代中国の貨幣

1.世界最古の貨幣は中国から
中国文化の歴史は大変古く、そして中国貨幣もまた3.000年の長い歴史を持っています。
中国大陸に面する海は黄海と呼ばれ、黄色に濁った海でその浜辺には
白砂がなかったので美しい「貝」はいませんでした。

2.貨幣の元祖は「貝」であった
光輝く美しい「貝」は遠く南の海から珍しい宝物としてもってこられ、これが装身具となり、
また同時に物と元を交換する道具としての「貨幣」のや蔵利を果たしたのです。
そしてその証拠となるものは何か?それは今も我々が使っている漢字の中でお金に関係のある文字、
例えば「貨・財・買・購・貯・販・貴・賃・費・負・債・質・償・貧」など、
中国貨幣の元祖たるものが「貝」であったことを物語っています。

3.青銅貨幣の鋳造
その後、青銅器の鋳造が盛んとなり周代には金属貨幣があらわれ、それはちょっと変わった形の
魚弊・盤弊・布弊・刀弊などと呼ばれる青銅貨幣でした。
それらの貨幣は干魚・漆器・農具・刀の形にできており、これらのお金が使われたのは
春秋戦国時代(「紀元前8世紀から前3世紀)のことでした。

紀元前の中国貨幣
殷・周・秦(B.C.1766−206)

  左の方:刀の形の貨幣  中央は:農具=鍬の形の貨幣  右上は:干し魚の形の貨幣

 銅製貨幣 石製貨幣 骨製貨幣 加工貝貨幣 世界最古の貨幣(タカラ貝)殷時代

 鋳放し銭 光緒重宝(中国・清時代1875年〜)

前漢・新・後漢・三国
南北朝・隋

大型馬蹄銀
重さ 1830g(488匁)

印子金(中国 明時代)
日明貿易・南蛮貿易を通じて、日本に持ち込まれた中国明王朝時代に金貨中国では宋王朝の時代(9世紀〜3世紀)にすでに同様のものが発行されており、高額な取引や海外貿易の決済資金として信用がありました。
日本ではこの形が後の豊臣秀吉によって作られた備蓄用の「法馬金」や江戸時代の秤の「分銅」へと発展していきました。

華僑貿易銀
五両 重さ 180g

鋳放し銭 光緒重宝(中国・清時代1875年〜)

   壯泉四十銭   漢半両の石笵(せきはん=石製鋳型)
                     前漢 西暦前175年

安南(ベトナム) 安南(ベトナム)
   十両銀貨 390g            十両銀         
(19世紀)                (1870年)

南洋マーシャル群島の貝貨
(19〜20世紀初頭)

超大型銅板貨幣
(スウェーデン フリードリッヒT世時代)

左:1ダーレル銅貨・1733年          右:2ダーレル銅貨・1734年

インド土候国の銅貨
(16〜19世紀)

よく漫画などで見かける石の貨幣

この建物が銀行だった頃から据え付けられていた大金庫

自分の体重と背の高さを一万円札に換算できる楽しいコーナー

 

じっくりと見ると半日は掛かります。ぜひお出かけください。

最後までご覧いただきありがとうございました。