●俳人/医師 井上士朗

井上 士朗
井上士朗宅跡(現大光寺一帯)
(日蓮宗 名古屋市東区泉二)
大光寺の句碑、士朗晩年の作
「山里の月夜を運べ(はこへ)庭の松」
昭和42年4月建立

「尾張名古屋はシロでもつ」、「シロ」は名古屋城を指しているが、江戸時代寛政の頃、井上士朗の名声が高まると「シロ」は「士朗」とされた。
寛保2(1742)年守山に誕生、名を正春、通称専庵、初号を支朗(士朗)、住まいに因み琵琶園(びわえん)、朱樹叟(しゅじゅそう)、隠居後は松翁(しょうおう)を名乗り文化9(1812)年5月16日、旧下街道鍋屋町通り少し奥まった現大光寺辺りの住まい71歳にて没、菩提寺は朝日山照運寺。
士朗の出自は城下東郊守山、正春を名乗っていたと言うだけで詳らかではないが、一説には尾張藩家老犬山を領した成瀬氏配下守山小幡村在住久保田某氏の一族だとも言わる。
そこで思い出されるのが前頁拙稿「御土居下同心と廿軒家の隠れ同心」の半農を装った隠れ同心の存在。詳細は前ページに譲るが、尾張藩火急に備えた在地隠れ同心の結束は固く、またその存在理由から身分を明らかにすることはなかったと言いう。養家井上家へ入る以前の経歴は現在では推測の域を出ず、当時においても士朗の出自を語るのは憚られていたと思われる。
士朗は名古屋城下、叔父で医師井上安清の養子となり医術を吉益東洞に学び後、新進の産科を賀川玄悦に学ぶ。穏和な性格で藩の重鎮から町人まで治療し名声を博し門前市をなす賑わいを見せ、号専庵からこの辺りを専庵横町と呼ばれる程で有ったと言う。また国学を本居宣長に絵画を長崎の勝野范古、平曲を萩原検校に学びそして俳諧を久村(加藤)暁台(きょうたい)に学ぶなど趣味人ぶりを発揮。
江戸時代中期以降蕉風復興を担った蕪村を中心に東の大島蓼太(りょうた)、西の久村暁台(別号:買夜、暮雨巷(ぼうこう))と言われ、尾張藩士でもあった暁台が隠居し京に移りその留守を預かるが、暁台没後一門を同門俳友の臥央に譲り独立。彼の住まいに因み号を朱樹叟、枇杷園、松翁を名乗った。「足軽のかたまりて行く寒さかな」、寒空の中手などさすりながら行く足軽の一団を生き生きと詠い、平明に写実を詠い従来に比してやや軽く低俗という誹りはあるものの彼の俳句は町人文化が台頭してきた時代に喝采を浴びて受け入れられた。また現在では式目の複雑さなどから衰退ぎみの俳諧連歌(連句)においては俳句に勝る高い評価を得、士朗の門人は東は奥州から西は九州と全国に及びその名声は大変な物であったという。
寛政期名古屋は俳関と言われ、各地を行脚する俳人が必ず立ち寄る所と言われ上記「尾張名古屋は士朗(シロ)でもつ」と言われ、一目置かれた俳都であった。



写真左 井上士朗菩提寺「照運寺」
今は墓域を市内千種区平和公園に移しビル内に移り照運寺ビルとなっている。(曹洞宗 名古屋市東区東桜)
写真右 平和公園照運寺墓域「井上士朗墓碑」
表面に「松翁先生之墓」と記された60cm程の小さな墓石。(碑陰(裏面)には尾張藩学者恩田仲任の手による「ただに医術のみならず兼ねて俳諧を善くす。物を状するの妙口をつらねてすなはち佳なり。海内之を貴ぶこと、泰山北斗ごとし、声名謁然として千載に朽ちず」と刻されている。(原文は漢文147文字、風化のため判読不能)。名古屋市千種区)


写真左 妙安寺「士朗塚」
士朗の代表作「万代や山の上よりけふの月」
文化元(1804)年5月16日、士朗存命中に建立。中央が士朗、奥が同門俳僧岳輅源恵の歌碑。臨済宗妙心寺派、別名沢の観音。名古屋市熱田区新尾頭二
写真右 住吉神社「三吟塚」
 「夜の雪を見んと暮雨巷に具せられて」の題辞に続き、月と雪と大地のたらぬ今宵かな 圃暁/この芦原に川千鳥なく 暁台/たのみある一木は松にあらはれて 士朗(享和3(1803)年3月建立、名古屋市熱田区新尾頭一)


写真左 蕉風発祥の地「名古屋三俳人句碑」
くさめして見失うたる雲雀哉 也有/椎の実の板屋を走る夜寒かな 暁台たうたうと滝の落ちこむ茂りかな 士朗(平成4年10月12日野いち会建立、名古屋市中区錦)
写真右 二村山(標高71.6m)山頂句碑
「み佛は大同二年すゝきかな」。(鎌倉街道沿いの同山は歌枕の地として知られ、暁台門下俳僧岳輅源恵と二村山に月見に訪れた際に読んだと思われる。昭和60年2月建立、愛知県豊明市)

※士朗碑は他のも多くあると思われ、守山区内竜泉寺にも門下の五雄が文化10年(1813年、士朗が亡くなった翌年)に建立した高さ1m弱の「士朗先生遺愛碑」がある。



参考文献
服部徳次郎 著「暮雨巷の門人」愛知学院国語研究会 発行
服部徳次郎/市橋 鐸 著「中京俳人考説(文化財叢書第71号)」名古屋市教育委員会 発行
市橋 鐸 著「東海俳文学史稿(文化財叢書第79号)」名古屋市教育委員会 発行