(2) とらわれの克服

      次に大事なのが、すでに発生している不安感に対する「とらわれ」をいか
       にして克服していくかという問題です。これは神経症を克服するうえでとて
       も重要なことですが、「不安な感じ」に対する「とらわれ」ですから、そこで理
       論をいくら働かせてもまったく役に立たないのであります。
        具体的には、「とらわれた状態」をなくすのではなく、「とらわれた状態にな
       りきる」とか「とらわれた状態を受け入れる」とかして、とらわれていることを問
       題にしない人間になることによって解決されていくということです。

        そこで、どうしたらその「とらわれている状態」になりきったり、それを受け入
       れることができるのか、ということになりますが、それを実行するための具体
       的な方法についての私見を少し述べておきます。

        もともと、「とらわれている状態」はそれ自体が苦しいので、何とかしてその
       苦境から逃れたいと思って悪戦苦闘しているものです。それを「受け入れよ
       」というのですから、そう簡単に承知するわけにはいかない、それが現実です。

        これに対して森田理論は、「とらわれを克服するには、とらわれになりきれば
       よい」というのです。「とらわれになりきる」ということは「とらわれを受け入れる」
       ことと結果的には同じなんですが、それを具体的に言いますと、そのときの「
       苦しい」という感じで心の中を染めてしまうことです。

        心の中を「苦しい」一色にしてしまって、比べるものがない状態にすることで
       す。そうなりますと、「感情の法則」によって「苦しい」という感じがなくなって、と
       らわれから解放されます。自分から意識を集中させて、苦しい感じの中に入り
       込んでいけばそうなります。

        そういう体験は、日常の欲求実現活動のなかで経験するのが普通ですが、
       森田理論ではそれを「恐怖突入」といっておりますが、「とらわれになりきる」と
       いうのはそういうことです。口でいうのは簡単ですが、現実はそんなにやさし
       いものではありません。そのへんのところは、先に「感情の法則3」の項でも説
       明しましたが、いま少し補足しておきます。

        私たちが「とらわれた状態になりきる」ということは、その結果がどうなろうとい
       っさい成り行きに任せることであり、最終的には生死も問わない、というところ
       まで腹をくくることです。それを「捨て身の態度」といいますが、それは意志的
       な努力の限界を超えていますので、そう簡単になれるものではありません。

        ところが、境遇や環境が煮詰まって、逃げるに逃げられない、はからう余裕
       のない状況になりますと、開き直ってそういう態度になります。もうこれ以上ど
       うにもならない、万策尽きたというとき、初めて「とらわれている自分」と運命を
       共にする態度になるのであります。そのとき、私たちは「とらわれている状態」
       にまったく反抗しない態度になりますが、それが「とらわれた状態になりきった
       姿」だと思います。その点については「悩みがとれない人のために」の後半の
       ところを参照ください。

        それはまた、必死必生の体験でもあります。その「必死」はたんなる必死で
       あり、必生を約束された必死ではありません。必生の可能性がまったく否定さ
       れ尽くしたときの必死ですから、先ほど述べたとおり、境遇や環境がそうなら
       なければ、その境地になることはできません。

        ところが、一度その境地になりますと、はからいと葛藤がなくなり、比較相対
       から離れて、その場が自由で平和な絶対的な世界になり、必生が実現して神
       経症のとらわれから解放されるのであります。実際の体験場面は、そんなに
       単純なものではありませんが、このような体験は、万に一度の偶然としてでは
       なく、神経質の人が、症状をもったままなすべきことをなし、前記の欲求実現
       活動を真面目に進めていけば、そのうち必ず立場上とか責任上の成り行きで
       、やむを得ずそういう場面がやってくるものです。

        これに対して、「とらわれた状態を受け入れる」というのは、結果的には同
       じことになるのですが、やり方が違います。それは実際に、「とらわれた状態」
       を受け入れようとしてみればすぐわかるのですが、受け入れようとすればする
       ほど、受け入れることができないで、とらわれている状態とますます対立してく
       るのであります。

        なぜそうなるのかと言いますと、「受け入れようとする心」が邪魔になって、受
       け入れることができない状態になっているからであります。(ここでも自意識過
       剰が禍いすることになるのですが)、ですから、私たちがとらわれている状態を
       受け入れるためには、とらわれている状態を前にして、それを「受け入れようと
       する心」をなくさなければならない、つまり「無心」にならねばならないということ
       です。

        そのとき「無心」になれれば、すなわち「捨て身の態度」になれれば、すっと受
       け入れることができるのですが、それは現在の私たちにとっては無理な話です
       から、そこで注意の転換を図って、間接的に「無心」状態を作りだそうとするの
       が、「苦しいままに行動を起こす」というやり方です。

        行動を起こすと、いくらかでも注意が行動のほうに移ります。その分だけ「受け
       入れようとする心」が少なくなって、無心状態を作りりだし、対立しているものを
       受け入れるようになります。普通は、行動=仕事と考えてもいいわけですから、
       仕事に励めば励むほど、無心状態を増やすことになり、それだけ「とらわれて
       いる状態」を受け入れていくことになります。

        このように、対立している嫌なものを受け入れていくのは、実際にはとてもつら
       いことなんですが、やってやれないことではないのであって、その過程で私たち
       のわがままな態度が少しずつ削りとられていくのだと思います。このように、「とら
       われている状態を受け入れているとき」には無心になっていますので、そのこと
       を意識することができないのですが、こうして私たちは、嫌々ながら「とらわれて
       いる状態を受け入れ」それを問題にしない人間になっいくのです。とらわれてい
       る人に対して、「症状のあるままやるべきことをやる」ように言うのは、そういった
       効果が期待されるからでもあります。

        このように、とらわれを克服していくには二つの方法があるわけです。「とらわ
       れになりきる」のは状況の展開がなければなかなか得られませんが、とらわれて
       いる状態を「受け入れていく」のは日常生活のなかでいつでも実行できますの
       で、普通は成り行きに任せながらも、後者のほうを選ぶことが多くなると思います。

        こうして一つの「とらわれ」を克服しますと、また新しいものに「とらわれる」場合
       があります。それは、自分のなかにまだ残っている「反抗心」や「わがままな心」
       がそうさせていくのですから仕方がありません。そういった根が尽きてしまうまで、
       それが繰り返されるのを覚悟しなければなりません。
        こうしてとらわれが克服されるわけですが、その方法を煎じ詰めてみますと、初
       めに述べたように「欲求実現サイクルの推進」にほかならないのであります。



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