E 追記

        申すまでありませんが、私たちがこの世の中で現実に生きていくため
      には、生存競争や経済原則を無視するわけにはいきません。最低限
      度の生活をするためにも、それに必要な収入を得なければならないの
      で、それは精神論だけでは片づかない問題です。そういった点を現
      実の社会の中で有利に展開するためには、どうしても個人の社会的
      な利用価値を高めなければならないと思います。

        そういった生存競争的努力の体験談はよく聞くところですが、分業の
      社会であるからこそ、それぞれの専門分野において、必要な努力は欠
      くことができないわけです。そうして自分が社会に貢献して収入を得る
      のですから、そうするのが当然だと思います。

        とくに、求職者数よりも求人数のほうが少ない現在のような社会にお
      いては、それはむしろ必然的なことだと言っていいでしょう。自分のまわ
      りを見渡してみても、人はそれぞれ、自分の利用価値を高めるために
      懸命に努力しているように思われます。現実の社会では、利用価値の
      高い人ほど歓迎されるからであります。利用価値もいろいろありますの
      で、たんに競争に勝てばいいというものではないと思いますが、人生に
      は、現実的な生活の手段として、どうしてもそうしなければならないとこ
      ろがあると思います。

       だから、利用価値や経済価値が人生のすべてを支配しているのかとい
      うと、そうではないと考えます。たしかに、それらは生活のためになくては
      ならない貴重なものではありますが、人間はそれだけでは満足しないと
      ころがあると思われます。それらを超えたものとして、存在して今生きて
      いること自体に最高の価値を認める「存在価値」なるものを認めたとき、
      人は初めて満足するのではないでしょうか。

        この章の初めのところで、「人間の主人公は、理知の発生する以前の
      自分でなければならない」と述べたのは、そういう意味であります。私た
      ちは、その存在価値を支配するものを「自然」と言ったり、「神」と言った
      りしますが、それは一種の哲学的認識であったり、宗教的感覚であるの
      かも知れません。しかし、私たちには、元々そういったものを求めて止ま
      ない精神的欲求のようなものがあると思われます。

        このように人生には、相対的な利用価値や経済価値を追求しなけれ
      ばならない側面があると同時に、絶対的な精神的欲求をも満たさねばな
      らない側面もあると思います。そういった価値観の調和したところを求め
      ていくのが、現在のような社会における人間の生き方ではないかと思う
      のです。