A 二つの自分の戦い

       ひっかかっている人は、必ず心の中に対立する二つの自分があって、
      それらが相争っているものです。その一つは「現実の自分」であり、他
      の一つはそれを「批判している自分」です。それを私なりに整理してみ
      ますと次のようになります。

                       自然          理知

      対立している       現実の自分     批判している自分
      二つの自分     とらわれている自分   治そうとしている自分

      力関係                          小
      普通の人のあり方          (調和)     従
      神経症の人の在り方     従   (不調和)    主

       普通の人のあり方のように、「現実の自分」を主にして、「批判している
      自分」が従の関係になれば、それが本来の姿ですから、基本的に心の
      調和が得られるのです。ところが神経症の人は、本来の主・従関係を逆
      転させているので、そこに根本的な誤りがあるということができます。なぜ
      そういう誤りを犯すようになったのかというと、それは「理知」が自らの分
      をわきまえず横暴になっているためであると言うことができます。つまり「
      過ぎたるは及ばざるがごとし」で理知的過ぎることが、かえって不調和の
      原因を作りだしていると言っていいのであります。

       ところで私たちは、もの心ついたときから、もっぱら理知的であることを
      賞賛され、自らも理知的になることが成長と進歩の証であると信じてきた
      ところがあります。そしてまた、人間が万物の霊長であるといわれるゆえ
      んは、私たちが理知をもち、それを駆使しうる存在だからであると考えて
      います。だから私たちが理知的であればあるほど、より人間的であると言
      ってもいいのであって、その点については疑う余地はないと思われます。

       しかし、ここで私たちが見落としてならない大事なことは、その「理知」な
      るものは、人間の「主人公」ではないし、またどんなことをしても主人公に
      なることはできないということです。人間の主人公は、あくまでも理知の発
      生する以前の自分でなければならないと思うのです。つまり「理知」という
      ものは、人生においてはどこまでも補佐的な役割をもった存在にすぎな
      いということです。これは非常に重要な事実であって、そういう基本的なこ
      とについての認識というか自覚が欠けていますと、私たちはとんでもない
      間違いを犯すことになるのです。

       こういう点についての、事実に基づいた教育とか学習というものが、私
      たちにはあまりにも不足しているように思われます。森田理論の学習に
      よって、そういうことが初めてよくわかるのであります。したがって、元来
      補佐的な機能しかないものが無謀にも主人公になろうとする、その出す
      ぎた働きが私たちを苦しめ、神経症を作りだしている元凶であると言って
      いいのであって、何ごとも自分の思うようにしようとする理知的な態度が「
      とらわれ」を作りだしていると考えられます。

       具体的には、先ほども述べましたように「不快な感じ」を排斥するという
      形で「とらわれ」を作りだしているのですが、一度とらわれてしまうと、とら
      われていること自体が苦しいために、何とかしてその苦境から逃れたい
      と思うようになります。そして、逃げれば逃げるほど苦しみを強めてしまう
      のです。そういう状態は、どう考えても正常だとは思えない、こんな状態
      が続いたら自分は駄目になってしまうに違いない、そういった危機感か
      ら、何とかして「とらわれのない自分」にしなければならないと真剣に考え
      るようになります。

       理知の本性からいっても、不合理なものを合理と認めるわけにはいか
      ないのですから、不合理なものは、あくまでも不都合なものであって、そ
      れは当然取り除くか改善すべき対象になってしまうのです。したがって、
      「とらわれている自分」はあってはならないものであり、それを「治そうとし
      ている自分」に間違いはないという論理は不動のものとなります。だから、
      その論理のなかをいくら探してみても「とらわれている自分」を「良し」とす
      る道理を見つけることはできないのであって、それは合理的な考え方を
      基盤にしている者にとっては、まことに当然なことと言わねばなりません。

       理知は、元来合理なものを「善」とし、非合理なものを「悪」とする性質
      があります。それが自己中心的に展開しますと、合理が合利となり、非合
      理が非合利となって、合利なもの(すなわち自分に利益となるもの)を「善
      」とし、非合利なもの(すなわち自分に不利益となるもの)を「悪」とするよ
      うになります。とくに心が何かに「とらわれ」ていると、誰でも無意識的にそ
      ういう傾向に流されてしまうものです。

       そこで私たちが心の世界において、本当に合理や合利を徹底的に追
      求していったら、どういうことになるかというと、それはもう「神経症」になる
      以外にないであろうと思われます。だから神経症の人は、自己中心的な
      合理と合利の塊であると言っていいのであります。

       このように私たちのやっていることは、合理的で論理的には正しいのだ
      けれども、本来的には本末を転倒しているところがあるということになります。
       これは非常に困ったことであって、正しいと思って命がけでやってきたこ
      とが、本当は正しくないというのですから、誰でも「自分はどすればいいん
      だ!」と叫びたくなります。

       ところが、私たちの日常生活のなかでは、「理論的には正しいが、現実
      的には間違っている」というケースは意外に多いものです。たとえば、「神
      経質の人の性格特徴」のところで述べました「誤った認識」に基づいた行
      動などがそのいい例です。そんなときに私たちがやる一般的な方法は、
      一度その「理論」から離れて、全体を眺めてみることです。自分のやって
      いることが、全体のなかでどいう関係になっているのかを確かめてみること
      です。そうして、自分の行動を本来の目的に沿ったものに軌道修正すれ
      ばいわけです。

       ところが、実際にそういうことができるのは、すでに「とらわれ」から抜け出
      している人の話であって、現実には、そうやりたくてもできない人、「とらわれ
      」から抜け出していない人の場合      は、どうすればいいのかというこ
      とがいつも問題になります。この章の目的も、その点を解決するところにあ
      るわけです。

       そこで、そのへんのところをどうやって改めていけばいいのか。どうしたら
      そこから抜け出すことができるのか。自分は良いけれども相手が悪いという
      対立した態度を、どうしたら改めることができるのか。自分のなかを二分して、
      こちらは善いがあちらは悪いと言って争っている間違いを、どうしたら正すこ
      とができるのか。 

       元々一つである自分を二つに分けて差別すること自体がおかしいのです
      が、どうしたらそれを止めることができるのか。このように考えてきますと、こ
      れはもうたんに神経質者だけの問題ではなく、そういう傾向をもった人間全
      体の問題であると言わねばならないのであります。

       そこで、これを解決するにはどうすればいいかというと、先ほども述べまし
      たように、すでに分かれてしまったものはそのままにして、両者の協調体制
      を作っていくしかないのであります。別々のものを共存させながら、しかもそ
      れが一つになって働くように解決するしかないのです。その場合に避けて通
      れないのが、先に述べました「現実の自分」と「批判している自分」との主・従
      関係の正常化なのであります。

       そうなると今度は、実際にそんなことができるのか、合理なものと非合理な
      ものを一緒にするなんてことが果たして本当にできるのか、今までの経験が
      証明しているように、とてもそんなことができるとは思えない、それができるの
      であれば自分が今も悩んでいるはずはないと思うのです。

       たしかに、心の中で合理的にそれを達成しようとしても、それは不可能なこ
      とです。意識的にそれを達成しようといかに努力しても成功することはないと
      思われます。そのやり方の根本的な間違いは、合理的に意識的にそれを達
      成しようとしているところにあります。なぜかと言えば、合理的な世界の中で
      は、そんな非合理なことは起こりえないからであります。

       ところが、体験の世界においてはそれが可能になるのです。対立している
      非合理なものを自分が受け入れるという形で、それが実際に達成されるので
      あります。繰り返しそれを体験して「慣れる」ことによって自然にそれが達成さ
      れるのです。私たちは、そういう体験を通して、合理と思われるものの中に非
      合理なものを受け入れることができますし、あるいは、非合理なものの中に合
      理なものを受け入れることができるようになるのであります。