C 神経質の後天的な性格特徴(習慣や癖の部分)

           次に、神経質の後天的な性格特徴について考えてみますと、これは生後
          に形成された「誤った認識」とか「誤った行動」とか「観念的理想主義」とか「幼
          弱性」といったものですから、私たちの努力によって変更することのできるもの
          です。 これらを変えていくことによって、神経症を解決したり予防することがで
          きますので、ここのところはしっかり勉強しておく必要があります。 それらの内
          容を要約して示しますと次のようになります。
     

          誤った認識(事実に基づかない認識)

              ・感情は意志の力で変えることができる

              ・素質は意志の力で変えることができる

              ・気分は常にすっきりしていなければならない

              ・人前で緊張してはならない

                ・人前で震えてはならない

               ・人前で赤面してはならない

               ・人の目を見つめて話さなければならない

               ・夜はぐっすり熟睡しなければならない

               ・仕事や勉強の時に雑念があってはならない

              ・不安な気持ちがあってはならない

               ・いつも安全な状態でなければならない

              ・身体に違和感や異常感があってはならない

              ・その他多数

          誤った行動

               ・誤った認識から発生する全ての行動

          観念的理想主義

              ・現実(事実)よりも理想(理屈)を優先させる癖

          幼弱性

              ・自己中心的である

               ・依存的である

               ・こらえ性が足りない

      以下各項目について簡単に説明いたします。

    
    
C−1 誤った認識 
     
      まず、「誤った認識」についてですが、これは「事実に基づかない認識」で
     あり、「事実から離れて自分勝手に作りだした認識」と言っていいでしょう。一
     般に「……でなければならない」とか「……であってはならない」という「かくあ
     るべし」の形になっているのが普通です。

    そうなった原因には、幼少時からの教育や周囲の影響が大きいと思います
     が、神経質の人は完全欲が強いので、大なり小なりそういった「誤った認識」
     即ち独自に作りあげた「理想像」なるものをもっているものです。その中心に
     なっているのが「感情」に対する認識の誤りではないかと思います。「感情は
     意志の力でコントロールできる」という考えが神経症になっている人にはある
     と思います。 あるいはそれは「感情を意志の力でコントロールしたい」という
     願望であるのかも知れませんが、私たちは永い間、そういう誤った認識に支
     配されてきたところがあると思います。

    これに関連して思い出される森田先生の有名な言葉に、「かくあるべしとい
     うなお虚偽たり、あるがままにある即ち真実なり」というのがあります。 この言
     葉の解釈の仕方はいろいろあるでしょうが、間違いを恐れず私なりに意釈し
     ますと、「かくかくでなくてはならないという、理屈を主にした生き方が一番よ
     くない。 事実をよく観て、そのときに生じてくる感じに従って事実本位に行動
     するのがもっとも好ましい」と言っているのだと思います。 つまり、事実に基
     づかない「かくあるべし」という理屈は、なくしたほうがいいと言っているのです。

        実際に、「かくあるべし」という理屈を主にした生き方をしますと、私もかつ
      ては、そういう生き方をしていましたのでよくわかるのですが、それは単純で
      楽ではあっても、原則とか建前を重視して、目の前の事実に素直に従うもの
      ではないために、かえって周囲の人に迷惑をかけることになるばかりでなく、
      自分自身も窮屈で不自由なものです。これに対し、事実をよく観て、そのと
      きに生じてくる 「感じ」に従って行動するという事実本位の生き方は、原則と
      か建前という理屈がないので、ちょっと考えると面倒なようであっても、実際に
      やってみますととても楽なことがわかります。

        私は、事実に基づかない「かくあるべし」というのを「誤った認識」と称して、
      これを神経質者の後天的性格特徴の柱に据えているのですが、こういった
      「誤った認識」を私たちはみな大なり小なりもっているのではないかと思いま
      す。 そしてこの「誤った認識」は、自分のやりたいことを正当化する都合の
      いいものになっていて、両者が一体になって働いているように思われます。

 
    たとえば、不快な感じをなくそうと努力している人は、「感情は意志の力で
      コントロールできる、できないのは努力が足りないからだ」という認識をもって
      いる ものです。 そういう認識をもっていると、誰でも「不快な感じ」をなくそうと
      努力するようになります。 これは明らかにその「認識」が禍の元になっている
      のです から、これを何とかして「事実に基づいた認識」に変えていかなければ
      なりません。 具体的には、「誤った認識」の間違っているところをはっきりさせ
      て、それを事実に基づいたものに修正していくことです。 そのために必要に
      なってくるのが「学習」です。
        私たちは学習によって、認識が事実に基づいているかどうかをチェックする
      必要があります。 認識は行動の指針になるものですから、間違いがあってはい
     けません。 誤った認識は誤った行動を引き起こす元になりますので、現在の心
     のとらわれを克服するためにも、あるいは新しいとらわれを作りださないためにも、
     私たちは誤った認識を正す必要があります。 そこで、先に掲げた各項目につい
     て検討してみることにしましょう。






      「感情は意志の力で変えることができる」
      
       「感情は意志の力で変えることができる」という認識について考えてみますと、
     今まではそれが可能だと信じて、不快な感情をなくそうと努力してきたけれども、
     その効果がちっとも上がらず、失敗ばかり重ねてきたのではないでしょうか。 とす
     れば、そういう考え方自体に間違いがあるのではないかと疑ってみなければなり
     ません。 「感情の法則」を学んでみますと、それがとんでもない間違いであること
     がよくわかります。 感情というのは、内外の刺激によって起こる心の中の自然現
     象であって、それはあたかも水面にできた波のようなものであり、放置しておけば
     自然に消えていきますが、それを無理に消そうとすれば、その消そうとすること
     自体が刺激となって、新しい波を作りだすために、いつまで経っても消えるとき
     がこなくなる性質があります。 一度発生してしまった感情は、意志の力で思うよう
     に変えることはできないのです。 そういった感情の性質に対する無知が原因で、
     神経症になるケースが多いと思われますが、 詳細は「感情の法則」のところで
     説明いたします。

      

      「素質は意志の力で変えることができる」

       「素質は意志の力で変えることができる」という認識も間違っていると思いま
     す。 その理由は前述した通りで、今さら言うまでもないと思いますが、素質は親
     から遺伝的に受け継いだ天与のものですから、それを活かして生きていかなけ
     ればならない大切なものです。 したがって、これを意志の力で変えることなど、
     できるものではありません。 そういった事実に基づいた認識が不足していると、
     無謀にも素質を変えようと努力するようになるのですが、実際には素質を変える
     必要はなく、それに対する「とらわれ」さえなくすればいいのです。その辺の詳し
     い事情については別のところで説明しますが、この場合「素質」を「性格」に置き
     換えますと、状況はかなり変わってきます。 性格のなかには、前述したように後
     天的に付加された「習慣や癖」の部分が含まれていますので、その部分は努力
     することによって変えることができるからです。
      


      「気分は常にすっきりしていなくてはならない」

       「気分は常にすっきりしていなくてはならない」というのも、現実を無視した無
     理な要求です。 それはちょうど、雲ひとつない晴天を常に求めているようなもの
     で、瞬間的にはそういうこともありますが、恒常的にそういう状態が続くというのは
     現実にはあり得ないことです。 このように、客観的なできごとはすぐ納得できるの
     ですが、心の中の主観的なことになると、そう簡単に整理できないのが私たちの
     習性です。 そういうことを要求するのは無理だと理屈ではわかっていながら、そ
     れを求めてしまうところに、神経症にとらわれている人の特異性があると言わざる
     をえません。 そういう当たり前の常識が通用しない状態になっているということで
     す。 これはすべての神経症者に言えることで、そこがまたやるせないところです
     が、その点を解決するためには、理屈ではなく、どんなことをしても自分が求め
     ているような理想的な状態は、実際には得られないものであるということを徹底
     的に体験して、自ら納得する以外にないと思います。


      「人前で緊張してはならない」

      「人前で緊張してはならない」というのも、人情の自然を無視した、たんなる
     理想論にすぎないと言わざるをえません。 人は誰でも人前で恥をかきたくない
     ものです。 恥をかきたくないから緊張するのです。 ですから人前では緊張する
     のが当然で、緊張しながら必要なことをやるのが普通であるにもかかわらず、緊
     張しないでやろうとしたり、緊張しない人間になろうとするから、おかしくなってくる
     のです。 そういう考え方を押し進めていけば、緊張している場面を人に見られる
     のを苦にするようになり、緊張する場面を避けていきますから、日常生活にも支障
     が出るようになるわけです。神経質者は、欲求が強いうえに小心で負けず嫌いな
     ところがあるために、そうなってしまうのも解りますが、そういった点をよく反省して
     、緊張するままに「やらなければならないこと」や「やりたいこと」をやっていくように
     なれば、それが当たり前ですから、苦労はしてもおかしくはならないのです。 私ど
     もは、緊張状態を「なくす」ことはできませんが、緊張状態に「慣れる」ことはできる
     のです。 そうすることによって自分が鍛えられて忍耐力のある人間に変わってい
     きます。 これはすべての神経症者に言えることですが、症状を克服するためには
     、できないことをしようとするのではなく、できることをしていかねばなりません。
     そのためには、できないことと、できることを学習によって知らねばなりませんが、
     たいていの場合、いつも「慣れる」ように心がけていけばいいと思います。 それと
     反対に、無理に緊張しない人間になろうとすれば、それはできないことですから、
     自分自身も苦しくなって、結果的に人並みの生活さえできなくなってしまいます。



      「人前で震えてはならない」
      

       「人前で震えてはならない」というのも、自分勝手な理想論と言わざるを得ま
     せん。 震えの原因はいろいろ考えられますが、一般に緊張と深い関係があります。
      人前に出たときとか、人前で話をするときとか、人前で字を書くときとか、人にお
     茶を出すときとか、お酒をつぐときとか、異性の前などで緊張するのは、人間とし
     て当然のことです。 小心な神経質者はことのほか緊張するのが当然です。 その
     ときの緊張と震えは同じもので、緊張状態のひとつが震えだと思います。 なぜ緊
     張するのかというと、恥をかきたくないからです。恥じらいの元になっている価値
     観はいろいろあって、小心者と思われたくないとか、物事に動じない人間でありた
     いとか、かっこよくしたいとか、悪く思われたくないとか、いい評価を得たいとかい
     った自己中心的な思惑が働いている場合が多いと思います。 そういった思惑が
     働けば、たいていの人が緊張するものです。 その緊張が震えとなって現れてくる
     わけです。 ひとたび震えが起きますと、その震えたことを不甲斐ないことと考えて
     苦にし、ますます震えない人間になろうと努力するようになります。 けれども、そ
     ういう努力をすればするほど震えはひどくなってくるものです。 もともと小心なの
     が原因で起きている震えですから、治るはずがありません。 にもかかわらずそう
     いった努力を続けて疲れ果てているのが、震え恐怖症になっている人たちだと思
     います。

      そのように震えることを問題にする態度の裏には、これが治らなければ社会的
     に悪い評価をされてしまう、という恐怖心があるからではないでしょうか。 ですから
     そういう人たちが自分の震えを許せないのも理解できますが、最終的には、緊張
     したときにはどうしても震えるものだという、自分の心理的・生理的事実を認めなけ
     ればならないのです。 それは人間としての自然現象ですから恥ずかしいことでは
     なく、むしろそれを自分の特徴と考え、震えながらやるべきことをやり、必要に応じ
     て必要なことをするようになるしか手はありません。 それが震えることを受け入れ
     るということであり、受け入れることによって、それを問題にしない人間になってい
     きます。 この場合も、「慣れる」ということが中心になっているのは言うまでもないこ
     とです。 詳しいことは別の機会に話しますが、震えるままの人生であっても、けっ
     して捨てたものではありません。

      「人前で赤面してはならない」     

     「人前で赤面してはならない」というのも自分勝手な考えで、人情の自然を無視
     したものだと言わざるを得ません。人は普通、恥ずかしい思いをすると赤面します
     が、それは人間としての自然な姿です。自分の未熟さを自覚すればこそ恥ずかし
     いと思うのであって、そういうときに赤面するのは、むしろ身のほどをわきまえたもの
     として、人は快く思いこそすれ悪く思ったりしないものです。 これはお世辞でも何
     でもない人間性についての客観的な事実です。 人は恥じないよりも恥じたほうが
     いいし、赤面しないよりも赤面したほうが感じがいいというものです。 それを赤面し
     ないようにするわけですから、人情の自然に反するばかりでなく、かえって人に対
     して無礼になる場合があります。赤面さえしなければ、他のものを犠牲にしてもい
     いというところがもしあるとしたら、その点は改めねばなりません。 「赤面してもやる
     べきことはやる」というようにならなければ、一人前の大人とはいえないのです。人
     はやるべきことをやりさえすれば、おおいに恥じ、おおいに赤面すべきであると言
     ってもいいと思います。 赤面するのはけっして恥ずべきことではありません。赤面
     恐怖の人にこんなことを言っても受け入れてもらえないのが普通ですが、理屈で
     はなく、自ら体験して納得しないと解決しないのは、他の神経症の場合と同じです。

       赤面とは反対に、顔が蒼くなるのを苦にする人もいますが、顔色にとらわれてい
     る点では赤面の場合と同じです。基本的には前記の「赤面」のところを「蒼面」に置
     き換えて考えればいいわけです。 要するに、人の値打ちは顔色で決まるものでは
     なく、何をするかによって決まる、ということを忘れないで精進することです。
     


      「人の目を見つめて話さなければならない」 

       「人の目を見つめて話さなければならない」というのも、人情の自然に反した無理
     な要求であると言わざるをえません。 というのは、私たちは長時間一点に注意を
     集中しておれないようにできているからです。 私の子供の頃の遊びに「にらめっこ」
     というのがありましたが、それは、お互いに目を見つめあって、先に目をそらしたり、
     まばたきしたほうが負けになるゲームで、永く一点を見つめているのがむつかしい
     ということを確かめるような遊びでした。

       私たちの注意力は、必要に応じ自然に働くようになっています。 ですから、人
     と会話しているときに相手の目を見るのは、その必要を感じたり、会話の内容を
     確かめるときだけで、ずっと見ているわけではありません。 なかには人の目を見
     つめて話す人もいますが、いつも人の目を見つめていると疲れるのが普通ですし
     、とくに目上の人に対しては、目を見つめることが失礼になる場合もあるわけです。

       これに対して、視線恐怖の人は、「見る」ということにこだわって見つめてしまい
     ますので、自然に力が入って目がきつくなり、目のほうにばかり注意がいくため、
     会話の内容が乏しくなりがちです。 そんなときには、見つめるのをやめて、話の
     内容を正確にすることに注意を向け、相手がどう受け取ったかを確かめるときに、
     ちょっと目を見る程度にするのがよいと思います。 気持ちが逃げているときには、
     それもなかなかできないものですが、そんなときには、ひとまずそのことの対策は
     棚上げにして、日常生活を充実させるためにプラスの行動をすることに力を注ぎ、
     そこで逃げずに必要なことができるようになれば、怖くても必要なものは見るように
     なり、視線の問題も自然に解決してくるものです。 実際は口で言うほど簡単なもの
     ではありませんが、努力方向としては間違ってないと思います。


      「夜はぐっすり熟睡しなければならない」

       「夜はぐっすり熟睡しなければならない」という認識も、もっともなようで間違ってい
     ると言わざるをえません。たしかに人間は眠らなければ、健康を維持できないばか
     りか、生存すら不可能になるでしょう。ですから人間は眠らなければなりませんが、
     この点について森田先生は、「人間は無理に眠らなくても、生理的に必要な睡眠は
     身体自身が自然に採るようになっていて、だいたい6〜7時間身体を横にして休養
     すれば充分体力を回復し、意識的な眠、不眠に関係なく、起きて働くことができるよ
     うになるものである」と言っております。この場合、気分の善し悪しを言っているので
     はありませんので、誤解しないでほしいと思います。

       不眠症の人の問題点は、意識的に睡眠状態を作りだそうとしているところにありま
     す。 睡眠状態は意識がなくなっていくのと並行して自然に訪れるもので、意識がは
     っきりしていては睡眠状態になることはできません。にもかかわらず、不眠症の人は
     意識して睡眠状態を作りだそうとするために葛藤を生じ、いつまで経っても眠れない
     状態になるわけです。 それを解決するには、「眠れても眠れなくてもいい」という態
     度になることです。そのためには、森田先生が言われるように、眠、不眠はすべて
     身体に任せて、6〜7時間横になって休養すればよしとして、気分の悪いのは我慢
     し、日中は仕事に励むという生活を続けていけば、やがて「眠れても眠れなくてもい
     い」という態度になってきます。 そうなると自然に眠るようになり不眠症から解放され
     ることになります。 このような不眠症克服の「こつ」は、そう簡単ではないにしても、す
     べての神経症克服の「こつ」でもあるわけです。


      「仕事や勉強のときに雑念があってはならない」

      「仕事や勉強のときに雑念があってはならない」というのも、現実を無視した無理
     な要求だと言わざるを得ません。 そもそも「雑念」とは、いかなるものでしょうか。 私
     は、雑念とは「邪魔になる想念」だろうと考えています。 たとえば読書をしていると
     きに、何も考えず頭の中を白紙の状態にして本を読めば、読んだものがどんどん
     頭に入ってくるけれども、何か気になることがあって、そのことが頭の中に居座った
     状態で本を読むと、注意が二分されて本の内容が頭に入りにくくなります。 前者の
     場合を無念の状態といい、後者の場合を雑念がある状態というのではないでしょう
     か。 そうだとしたら、雑念というのはその人にとって必要があるから発生していると
     考えられますので、それは雑念でなく「必要念」とでも言うべきものではないかと思
     います。 そう考えると、雑念というのは空に出没する雲のようなものではないかと思
     います。 雲は自然現象で必然的なものですから、私たちがどうこうできるものでは
     ありません。 雑念も心の中の自然現象ですから、どうすることもできないものだと思
     います。 雑念恐怖の人は、雑念のないすっきりした状態を強く求めますので、少
     しでも雑念があればそれを問題にしていきますが、普通の人は、忙しくて雑念など
     に関わっている暇がなく、結果的に雑念が起きるままに放置しているわけですから、
     雑念も自然に起き自然に消えていって、何も問題が発生しないのです。そういうわ
     けですから、すべてを自然の成り行きに任せて、雑念を消そうとすることなく、雑念
     のあるままにやるべきことをやっていけばよい、ということになります。 そうしていれ
     ば、雑念は自然に起き自然になくなっていくのであって、それでもなくならなかった
     ら、それは雲のように必要があるから続いているのだと思います。


      「不安な気持があってはならない」

      「不安な気持ちがあってはならない」という認識も、現実を無視した理想論だと
     言わざるをえません。 不安という感情は、求めるものが得られないかも知れない、
     また嫌なことが起こるかもしれない、と思うときに発生する不快な感情です。 もし私
     たちに不安感がなかったら、危険を察知することができなくなりますし、あらかじめ
     準備もしなくなって、何をするにも成功する確率は小さくなるでしょう。その結果、
     私たちの寿命はもっと短くなるにちがいありません。 不安を感じとる機能があるお
     かげで、私たちは危険を避けて安全に生きていられるわけです。 ですから不安
     感は、生きていくためになくてはならない大切なものです。 問題は、そういった「
     不安感」にどう対応したらいいかということです。

       不安感というのは前述のように、自分がより危険な状態にさらされる可能性がある
     ことを予知する感情ですが、だからといって私たちは、不必要に不安感に支配され
     て苦しむ必要はありませんし、また不必要に命を危険な状態にさらすこともないわけ
     です。 したがって、そういった感情が発生したときには、それが生活のために必要
     なものかどうかをよく判断しなければなりません。 そういった判断の適切さが常に求
     められているところに、人生のむずかしさがあると言ってもいいと思います。 これは
     選択の自由を獲得した人間の、宿命みたいなものですから、私たちは経験を積む
     ことによって、その判断の適切さを身につけていく必要があるのですが、いずれに
     してもこういう在り方は、不安感を素直に受け取って、それを欲求実現のための準
     備などに活用している普通の状態だということができます。

      これに対して、不安神経症の人のように、ある特定の不安感を少しも許さないとい
     うことになりますと、日常生活に支障をきたすことになります。 たとえば北国では冬に
     なると、建物の上から氷の破片がいつ落ちてくるかも知れず、ビルの谷間を歩くのは
     危険です。 その不安全さを絶対に避けるのであれば、そんなところに買い物に出か
     けることはできなくなります。 そんな状態を永く続けていたのでは生活に支障をきた
     しますから、私たちはやむを得ず、その不安感を抱いたまま、用事を満たすために
     不安全な街に出て行かざるを得ないのです。 それが普通の人の生活の実態である
     ということができます。 通常、人はそんなことをいちいち意識しているわけではありま
     せんが、細かく説明するとそういうことになっています。 そういうのは一般に異常だと
     は言わないのですが、そういった状態を不安に感ずるのは間違いではありません。
      むしろ危険を危険と感じないより、危険と感じたほうがよいのです。 ただ現実には、
     生きていくための必要性に応じて、どこまでそれを犠牲にするかという選択の問題
     が常に生じるわけで、そのときに適切な判断が必要になるのは先ほど述べたとおり
     です。 したがって、不安な気持ちがあってはいけないのではなく、あるのが当然で
     すから、それに対する適切な対応の仕方を身につけていけばよいということです。

       ところが、ここでちょっと付け加えておかなければならないのは、今まで述べてきた
     のは、自分のそとに原因がある場合の話であって、それとは別に、原因が自分の中
     にある場合の不安ということになりますと、まったく様相が違ってきます。原因が内に
     あるというのは、不安感そのものを不安の原因にするようになることです。 そのような
     形の不安を「神経症的な不安」というのですが、そのように不安を不安がるようになり
     ますと、留まるところがなくなり、エンドレスのベルトのように装置が止まらないかぎり回
     りっぱなしになってしまうのです。 そうなりますと、その不安は解決できないものになっ
     てしまうことになります。 神経症でとらわれてしまった人はたいてい、心配することを心
     配し、恐怖することを恐怖し、気にすることを気にして苦しんでいるものです。 そうな
     ってしまったら、その状態をそのまま無条件に受け入れていくしかないのですが、そ
     れを具体的に実行する方法としてお奨めするのが、そのまま仕事をするというやり方
     です。そうすることによって、その状態を無条件に受け入れ、とらわれていることを問
     題にしない人間になることができるのですが、詳細については別のところでお話する
     ことにします。



      「いつも安全な状態でなければならない」

       「いつも安全な状態でなければならない」というのも、現実を無視した理想論であ
     ると言わざるをえません。 これは前の「不安な気持ちがあってはならない」というの
     と似ていますが、よく考えてみますと、厳密な意味でこの世の中に完全に安全な所
     などないわけです。 現実は常に不安全と思われる面をもって変化しており、自分
     の命だっていつどうなるか保証の限りではありません。 私たちは、社会的にも個人
     的にもたえず不安な面をもちながら、それを参考にして安全を確保しているという
     のが現実です。 それはちょうど車の運転とよく似ています。一歩運転を誤れば事
     故を起こしますが、そうならないように運転することによって、はじめて安全運転がで
     きるわけです。 私たちは、そういう事実を素直に認めなければならないと思います。

      不安神経症で悩む人たちは、いつも完全な安全状態を求めていますので、ちょ
     っとした不安でも見のがさず、それを問題にしていく傾向があります。そのこと自体
     は別に悪いことではないのですが、それが日常生活に支障をきたすようになると問
     題になります。 そういった不安感にとらわれてしまうと、前項の場合と同様に、その
     まま仕事をして「とらわれている状態をそのまま受け入れる」か、または恐怖突入し
     て「とらわれになりきる」か、いずれかの体験が必要になりますが、それについての詳
     しい説明は別のところでいたします。



      「身体に違和感や異常間があってはならない」

       「身体に違和感や異常感があってはならない」というのも、現実を無視した理想
     論であると言わざるをえません。 たしかに私たちの身体は、どこかに異常が発生
     すれば、原則としてすぐそれを感覚でとらえるようになっています。 そのおかげで
     異常を発見し、治療をして健康を保っているわけです。 そういう意味で違和感や
     異常感は、なくてはならない大切な感覚であるといえます。 ですから、常に自分の
     身体的な違和感や異常感に注意するのは当然のことです。 しかしそのことにとら
     われて、そういった感じが少しでもあってはならないということになりますと、日常生
     活に支障をきたします。

       「過ぎたるは及ばざるが如し」で、何ごともとらわれることなくやればよいのですが、
     神経質の人は何ごとも徹底的にやろうとするために、違和感や異常感を見つけ出
     しては苦にし、それにとらわれるようになりがちです。 したがってこの場合も、適切
     な判断というものが大切になってきますので、経験を積んでそれを会得する必要が
     あります。 この程度の感じにはこの程度の対応をしておけばよい、ということが体験
     的にわかってくるはずです。

     しかし、神経症というのは、異常ではないものを異常だと思いこみ、それを取り
     除こうとして苦しんでいるわけですから、その感じがなくなるわけではありませんし、
     またなくなってはいけないのです。そういう意味で、その感じは一生なくならないも
     のです。 要は、そういう感じがなくならなくても、それに対する「とらわれ」がなくなれ
     ばいいのであって、これはすべての神経症について言えることなんですが、そのた
     めには前項と同様に、「とらわれになりきる」とか「とらわれを無条件に受け入れる」こ
     とが必要になってくるわけですが、それについては別のところで説明します。

 
    以下は「その他多数」として省略していますが、こういった類の事実に基づかな
     い「誤った認識」を数え上げればきりがありません。これらはすべて「……でなけれ
     ばならない」という形になっていて、たとえば人前で赤面するのを嫌がる人が「赤面
     は恥ずべきことである」という認識をもっているように、自分が嫌だと思う「感じ」を排
     斥するのに都合のいいものになっているのが普通です。 神経質者は自分が嫌だ
     と思う「感じ」のない状態を徹底的に求めていくために、ことさらその「嫌な感じ」を意
     識するようになり、その感じに反抗して苦しむのですが、それは自分で原因を作っ
     ておいて自分で苦しんでいると言っていいのです。 その原因になっているのが「か
     くあるべし」という誤った認識ですから、そんな認識はできるだけなくしたほうがいい
     ということです。



     

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