海軍にのみ存在した特務士官を考える

 

はじめに

 

海軍は、善玉だったのだそうだ。海軍は最後まで太平洋戦争に反対をし続け、海軍士官はみんな紳士で,リベラルで、スマートで、女の子にもモテて、金払いも良くて、教養人でスポーツマンで、非の打ち所のない人物揃いだったのだそうだ。


それにひきかえ、陸軍士官はひどい。陸軍士官はエッチで痴漢で、酒を飲むと軍刀を抜いて暴れるし、人前でも兵隊を殴りつける。女郎屋にも入り浸り、口を開けば、「貴様それでも軍人か!」とか、「皇軍」「玉砕」などと神がかったセリフを吐き、女学生や、子供を苛める。

 

こんなとんでもないデマが、与太話が、いつの間にか戦後日本の常識になりつつある。

特に酷いのが、国営放送と朝日新聞、どういうわけだか、サヨクは海軍が大好きなのだ。

サヨクは,226事件の青年将校も好きである。これは、面白い現象である。

 

補給も、輸送手段も、何も考えることなく、拡げられるだけ戦線を拡げ、あっちこっちの離れ小島に兵隊さんを島流しにした海軍。

その尻拭いを陸軍に押しつけ、結局、陸軍の兵士をみんな、餓死か、玉砕に追いやってしまった無責任海軍。

 

その海軍と、陛下の軍隊を勝手に動かし、陛下の股肱の重臣たちを殺戮した、凶暴無類な、過激思想の青年将校と、マルクス・レーニン主義の信者とに、なにか心の琴線に触れるものがあるのだろうか?


 

半藤一利氏の、「指揮官と参謀」という本に、次の様なくだりがある。

 

「戦後、いわゆる海軍左派の条約派の米内光政・山本五十六・井上成美のトリオを、海軍関係者および海軍シンパが特筆大書することによって、見事なほど陸軍悪玉・海軍善玉が昭和史の上で定着した。それはかならずしも正確ではない。」

 

このように述べて、半藤氏は、石川信吾と、岡 敬純の両名こそが、日本を開戦へと追いやった、元凶の一部と指摘している。

 

昭和の終わりの頃、井上成美ブームが沸き上がり、横須賀の長井の漁港には、井上詣の観光客があふれていた情景を思い出す。

 

確かに、井上成美が、大変な卓見の士で、無類の政治感覚を有する、第一級の教養人であったことに異論はない。堀 悌吉しかり、山本五十六・米内光政・鈴木貫太郎・古賀峯一・高木惣吉、みな、教養人にして、政治感覚・国際感覚の豊かな紳士である。海軍のみならず、日本の逸材であったといって良い。

 しかし、軍人としての能力はどうだったのであろう?

井上成美は、珊瑚海海戦で、なぜ終始へっぴり腰で、陣頭指揮を執らなかったのであろうか?

山本五十六は、なぜ、日本の国力を無視して、はるかソロモン諸島にまで陣を進めたのであろうか?

なんで、あんな愚劣極まる、航空消耗戦を戦ったのであろうか?

ミッドウエイ海戦の敗北が、日本の敗北を決定したと、よく言われるが、それは違うと考える。

ソロモン諸島の航空消耗戦に巻き込まれたことの方が大きい。日本海軍は,常に、最悪の作戦である戦力の逐次導入をくりかえし、文字通り、自滅したのである。

あの、ソロモン・ラバウル・ガダルカナルの消耗戦さえ避けて、陸軍の主張どおり、トラック島の位置まで退却していたならば、太平洋戦争は、もう少し、格好のつくイクサを展開できたはずなのである。山本五十六提督は、愚将ではあるまいか? わたしの見る限り、海軍左派で、名将・勇将として、心から尊敬できるのは、凍れる威海衛に水雷艇の夜襲を敢行した、鬼貫こと、千葉は関宿出身の(生まれは大阪)鈴木貫太郎だけである。?



 

わたしは、戦後の、海軍善玉論に懐疑的である。

わたしは阿川弘之氏や、宮野澄氏の著作のファンであるから、善玉論を全面否定はしない。

なるほど海軍左派がいなければ、おそらくは日本は本土決戦を余儀なくされ、日本人という民族も、皇室も滅亡したと思われる以上、海軍左派の功績を賛美しすぎるということはない。

 

しかし、教養人と、軍人としての能力は別である。軍人は外交官ではないし、なによりも、陛下の赤子を預かり、戦時においては国家の運命を左右するのが軍人である。

 

どんなに無知蒙昧の輩であろうと、戦争に勝つのが良い将軍であり、教養や人格に優れていても、負けた将軍に値打ちはない。

 

太平洋戦争を概観して、海軍は負けてばかりいる。海軍の尻拭いに陸軍が駆り出され、結局、陸軍も自滅してしまう。

極端にいえば、大東亜戦争は、そんな風に推移したのではなかろうか?

 

海軍の差別意識

 

「海軍はリベラル」という評判は根強い。しかし、この評判を声高に言う人を見ていると、そのほとんどが、海軍予備学生出身者である事が多い。

 

予備学生・予備生徒は、当時の日本の社会では、数パーセントに満たない、高学歴の教養人である。戦後の社会をリードして来た人ばかりである。戦争中、海軍は、選りすぐりの人材を、根こそぎ海軍予備学生や、短期現役の主計科士官・軍医科士官・法務科士官に採用した。そのため、予備学生出身者や短現は、マスコミにも、政界・官界・経済界・法曹界・学会・医学界にも、多く在籍し、みな、主要ポストを占めていた。

 

この人たちの発言力は大きい。この人たちが、旧海軍を懐かしみ、回顧録を書くと、たちまち洛陽の紙価が上がり、海軍の良いイメージだけが定着する。

 

陸軍にも、同じくらい多くの教養人が軍籍を置いたにもかかわらず、なぜか、誰も陸軍を懐かしまない。そのため、陸軍の評判は改善しない。

 

なんで、こんな現象がおきるのだろうか?

 

一言で言えば、海軍が学歴絶対主義で、高学歴者を優遇したためである。

 

ちょっと、陸軍の甲種幹部候補生と、海軍予備学生の三期生までの簡単な比較をしてみよう。
(予備学生も四期以後は、二等水兵で入団している。)

 

陸軍                  海軍

 

入隊時の階級     二等兵            上等兵曹の上 兵曹長の下

あつかい      殴る 蹴るの屈辱      ときに制裁あるも、士官のあつかい 

指導する人     上等兵におびえる      下士官兵に制裁を受ける事はない

内務      古兵の私的奴隷・休まる暇なし  全員が同期生で、他人の世話は不要

将来の希望    幹候に不合格なら兵のまま   はじめから士官候補生のあつかい

俸給        超安月給            士官並みの高給

休暇・外出     めったにない。外泊不可     毎週日曜日は外泊も可

 

            

ようするに、陸軍は、高学歴者も一般人も、みな全員を同じ待遇で取り扱ったのである。

その待遇は、内務班という、刑務所以下の最低の待遇であった。

特に、高学歴者を苦しめたのが、古兵へのゴマスリを強要させる点と、官物の不足や盗難による、員数合わせ、であった。

 

演習が終わると、上等兵殿の巻脚絆を争って取る、古兵殿の靴を磨き、下着を洗濯し、少しでも可愛がられるように、はいつくばって愛想を売る。

そこまで自主的に働いても、坊ちゃん育ちの悲しさ、どうしても気が利かない。痒いところに手が届かない。また、兵営内はドロボウだらけで、ちょっと目を放した隙に、官品を盗まれてしまう。
紛失した官給品は、自分の才覚でどこからか、調達しなければならない。もちろん、初年兵にそんな才覚のあろう筈はなく、結局、親切な戦友殿に頼る以外にない。官給品の窃盗は、軍隊内では犯罪ではない。これを「員数合わせ」という。サシクル・馭してくる・ガメル・員数をつける・みんな同じ意味である。しかし、世話好きな戦友を持たない初年兵は哀れである、員数を合わせられないばっかりに、古兵殿からは、陰湿に、毎夜のように苛め抜かれる危険も大きい。

 

当時の日本社会の徒弟制で一般に見られた現象であるが、オンバ日傘育ちの、高学歴初年兵にとっては、涙が出るほどの屈辱であったはずである。

 

海軍予備学生には、この内務班がない。どこを見ても、同期生である。また、士官から制裁を受けても下士官兵から虐められることはない。

 

私が思うには、この、「陸軍式の絶対平等」(水呑み百姓のせがれも、貧乏漁師も、日雇いも宿無しも、大学生も、華族の若様ですら、全員平等で、ただの新兵・初年兵・ショネコーと言う、凄まじいまでの平等世界・内務班生活の事)くらい、誇り高い大学生の心を傷つけたものはあるまいと思う。

 

当時、大学生はスーパー・エリートであった。村で、中学に行くものは、クラスで1−2名という時代である。大学に進学する者など、村で10年に一人いれば良いほうである。

 

大学生になるくらいの資産のある家ならば、女中の数人はいるのが当たり前、田舎の地主ならば、小作人の数十人はいるのが当然。

子供のころから、人に頭を下げた経験のないのが、当時の大学生であった。 

 

戦前の社会は、現在では想像もつかないほどに、階級社会であった。

 

その厳しい階級社会の中で、生まれついて特権を有し、その特権が、当たり前のものと認識できた、ごく限られた幸せな人たちが、大学生という集団ではなかったろうか??

 

だとすれば、陸軍の絶対平等社会は、エリート意識から抜けられない大学生たちにとって、おぞましいほどの生き地獄であったろうと思う。

 

陸軍の幹部候補生は、(甲種も乙種も)中学卒業以上から希望者を採用する。

しかし海軍は、大学生が予備学生、専門学校生は予備生徒と厳然たる学歴差別があった。

 

海軍において中学卒では、何の特権もない。(例外として師範学校卒に、短期間で下士官になれる特典があったが、これはいずれまた)

 

陸軍の学歴軽視は、中卒の甲種幹部候補生合格を可能にしたが、同時に、大卒の幹部不適も多く輩出させた。

 

一番苦しい初年兵時代、どうしても極限の生活を強いられることによって、人間性が、あらわになる。なまの人間性をじっくりと観察して、中隊幹部が相談して、候補生の合否を決定した。

 

資料によって異なるが、陸軍の場合、大卒も、中卒も、選抜基準に学歴による差異はなかったという。

大雑把に言えば、志願者のうち、1〜2割が甲種幹部候補生合格  3割が乙種幹部候補生合格 残り半分が、幹部不適任と、いったところであろうか??

 

(きけ、わだつみのこえ などどいった、サヨクによって歪められ、アカ思想にかぶれた本だと、「志願していないのに将校にさせられた」とか、「白紙答案を出したのに、甲幹合格だった」というような、ヨタばなしが多い。

しかし、断言しても良い、日本陸軍は左様に甘い軍隊ではなかった。のどから手が出るほどに足りなかった、軍医の採用ですら、軍医予備員を志願しない者は、どしどし徴兵して、兵卒のままで、戦場に送っているのである。)

 

 

学歴という、自分最大の誇りや自慢が、全然、評価されず、まったく顧みられないのであれば、誰も、そんな組織を懐かしむわけがない。

 

日本のエリート階級が、陸軍を懐かしく思わない最大の理由がこれである。

 

(さすがの陸軍も、学歴を無視したのでは、優秀な人材が海軍に流れてしまい、人材の確保に支障をきたすと考えたのであろう、昭和19年から、特別甲種幹部候補生・特甲幹 という制度をはじめて、海軍予備学生なみに、はじめから士官の卵として優遇する制度を開始した。

しかし陸軍は頭が固いと言おうか、頑迷固陋と言おうか、与えられた階級は上等兵とあっては、海軍予備学生とは比較にもならない。 もっとも、陸軍予科士官学校を卒業して、士官候補生になったときの階級が上等兵では、どうにも仕方がない。宮様殿下だって、上等兵から始まるのだ。

海軍兵学校では、入学したとたんに、昨日までの中学生が、上等兵曹の上、兵曹長の下という、とんでもない階級を貰う。)

 

特務士官とは?

 

海軍は学歴至上主義であった。

 

下士官兵からは、絶対に将校には、成れなかったのである。

海軍将校とは、海軍兵学校・海軍機関学校卒業生だけを言うのであるから、叩き上げではなれない。

 

事実、明治時代には、叩き上げの最高階級は、兵曹長であった。

 

ややっこしいが、明治時代の兵曹長とは、海軍少尉と同等の階級である。

准士官の階級は、上等兵曹であった。

 

どんなに優秀な者でも、学歴のない者は、兵曹長で頭打ちになる。

ただし、戦時特例で、下士官から将校になれる道はあった。

 

そんなときの辞令は、

海軍兵曹長 ×山 凹吉  海軍中尉に任じる

 

というように、少尉をすっ飛ばして中尉になった。明治時代の兵曹長と、少尉が同階級だったからである。

 

大正時代になって、優秀なエキスパートを、兵曹長でクビにしたのではもったいないという議論が起きた。海軍の機械化や近代化が進み、実務家の地位が上昇したのである。同じ頃、陸軍でも、優秀な特務曹長は、抜擢して少尉にしてやろうという制度が生まれた。これを、少尉候補者制度といい、大正七年に発足する。
陸軍の凄いところは、少尉候補者出身者も、陸軍士官学校出身者も、少尉に成れば、全て平等に扱ったところにある。なんと、少尉候補者出身者でも、陸軍大学校の受験資格を与えた。事実、少尉候補者出身であって、陸大の再審まで行った人は何人もいる。残念ながら、入校できた人はゼロであったが、叩き上げであっても、大隊長や師団砲兵隊長に成った人は珍しくない。陸軍は、実にリベラルである。

 

このとき海軍も、陸軍のように、叩き上げも一本化して将校にしてしまえば良かったのに、学歴差別の大好きな海軍当局は、将校とは別に、特務士官と云う制度を作った。

 

兵曹長(大正時代の兵曹長は、准士官となり、上等兵曹は廃止された)から昇進した者は、海軍少尉ではなくて、海軍特務少尉とした。そして特務士官は、大尉までとした。

 

このとき、兵曹長は、少尉待遇であるから、特務士官制度ができたときに、各人の経歴に応じて、特務大尉〜少尉に昇進させている。

はなはだしい人は、兵曹長から、いきなり海軍特務大尉になった。

 

なんで特務士官制度を作る必要性があったのであろうか?

いくら考えても理由がわからない。骨の髄までしみこんだ、学歴差別意識という他はない。

 

特務士官制度なんかがあるから、軍令承行 などという、実に不合理な問題が生じる。

 

軍令承行とは、戦時における指揮権の委譲を定めたものである。

具体的に言うと、以下のようになる。

 

兵科将校 →  機関科将校 → 予備役士官 → 特務士官 

 

の順で指揮権が委譲されるのである。

さらに、原則として、独立した指揮権を有する者は、海軍将校に限定された。

激戦で士官の大半が死んで、洟垂れ少尉と、機関大佐が生き残った場合、少尉が指揮をとるということになる。

陸戦隊を編成するとき、特務大尉と少尉がいた場合、独立した指揮権は海軍将校のみが把握するのだから、少尉が中隊長になるわけである。

なんだか、腸ねん転が起きそうな話である。

 

富岡定俊 海軍少将は(敗戦時の軍令部第1部長)

「自縄自縛を絵に描いたような規則であった」と、軍令承行を述懐しているそうである。

 

ちなみに、二等兵曹と、軍医大佐が生き残った場合は、どちらが指揮をとるのだろうか?

軍医に指揮権はないから、当然、二等兵曹が指揮を執るのである。

 

もちろん、陸軍にこんな馬鹿げた規則はないから、陸軍の場合、階級が絶対になる。

 

兵学校選修科学生

 

准士官(兵曹長)は、5年以上勤務すると、特務士官に選抜される資格を有する。

 

しかし、それ以外に特務士官に昇進する道として、兵学校に行くと云う超エリートコースもあった。

 

これは、一等兵曹・兵曹長から試験をして選抜するもので、兵学校生徒に準ずる教育を施した。

同じ特務士官であっても、選修学生出身者は、サムライ配置につくことができる。

ふつうの特務士官は、パートのエキスパートであるから、業務全体を統括する職務にはつけない。

すなわち、砲術科であれば、掌砲長は、大砲管理の実務のエキスパートだが、砲術長の職務を補佐して、砲術全体を指揮監督する職務ではない。

そのような全体統括の仕事は、海軍将校の配置である、砲術士である。

士がつくから、サムライ配置なのである。

 

サムライ配置の例を述べると、以下になる。

 

砲術科  砲術長  砲術士         掌砲長

航海科  航海長  航海士         掌航海長 信号長 操舵長

水雷科  水雷長  水雷士         掌水雷長

機関科  機関長  機関士         掌機長 機械長 電気長

通信科  通信長  通信士         掌通信長 

 

軍医科  軍医長  軍医長付き       掌看護長

主計科  主計長  庶務主任        掌経理長 掌衣糧長

 

本来、特務士官は、掌長配置に限定されるのだが、兵学校選修学生出身者に限り、サムライ配置につけたのだから、大変なエリートであった。

 

大正9年から、選修学生制度は始まったというから、特務士官制度の発足とほぼ同時期である。

 

昭和八年ごろまでは、毎年30名程度しか採用にならなかったというから、いかに選りすぐられたかがわかる。

教育期間は一年八ヶ月であったが、のちには短縮された。

成績優秀者には恩賜の短剣が授与されたというから、あつかいは、兵学校卒業生と同等であったといえる。 

 

実際、のちに特務大尉から少佐に進級するものが相次ぐが、それらの多くは選修学生出身者であった。

 

少佐への進級とは、実に、海軍部内においては驚天動地の事態であった。

 

少佐になれば、将校である。兵学校卒と同等になる。あの、軍令承行のしがらみからも脱け出せるわけで、もう、洟垂れ少尉の指揮下で、苦汁をなめる事もない。

 

海軍始まって以来、叩き上げで少佐になった者、第1号は、昭和二年の事であった。名誉の昇進者は主計科であった。その後も、何人か少佐になったが、ほとんどが団門少佐で、実際、少佐としての職務に就いた人はいなかった。

名実共に、海軍少佐となり、航空隊の副長などといった地位に就く人が出たのは、支那事変以後の事である。

昭和19年には、叩き上げから、中佐が三人出現する。

 

その中で、壇原 袈裟由(だんばら けさよし)という人は、明治40年に海軍五等水兵になり、35年に及ぶ精勤の後に、海軍中佐になった。

昭和13年に、特務大尉から少佐に進級している。

勲章は、驚くなかれ、旭日の八等と、瑞宝章の三等を授与されている。

旭日章は、下士官のとき、第1次世界大戦の戦功で授与され、瑞宝章は、多年にわたる職務精励で授与されたという。

ふつう、三等は大佐クラスで与えられる。少将になっても、三等は珍しくない。稀には中将で三等もいるのだから、少佐で三等とは、恐れ入ったほどの職務精励ぶりである。

 

海軍の兵隊元帥(五等兵から少佐までは、13階級。少尉候補生から元帥までは11階級だから、実際は、兵隊元帥は、ただの元帥よりも、はるかに偉い。)は以下の三人であった。

 

壇原 袈裟由         昭和13年11月15日 海軍少佐

               昭和19年5月1日   海軍中佐 終戦まで現役

 

三沢 千一          昭和15年11月15日 海軍少佐

               昭和19年10月15日 海軍中佐

               昭和19年12月5日  予備役編入  即日召集

 

酒井 常十          昭和14年11月15日 海軍機関少佐

               昭和19年10月15日 機関将校たる海軍中佐

               昭和19年12月5日  予備役編入

 

ヤクルトの名監督として名高い、広岡氏の厳父は、5等機関兵から累進して、終戦のとき、

ポツダム中佐になったという話を聞いた事がある。真偽は確認していない。 

 

戦局も末期になり、敗戦の色が濃くなるころ、特務士官から、海軍将校へ転官する道も開かれるようになった。

昭和194月、飛行予科練習生の出身者に限り、「海軍航空特務大尉から、海軍大尉」へ特別選抜する制度が作られ、6人の 航空特務大尉が、海軍大尉に転官した。

さらに、昭和205月には、航空特務中尉・少尉からも、海軍中尉・少尉に転官の道が開かれた。(この時点では、航空特務士官という呼称は無いのだが、現実には、特務士官たる中尉、というような言い方で残っていた)

特攻などという、必死隊を作って、人材の無駄遣いを繰り返してきた海軍が、いまさら何を! という気もするが、とりあえず飛行機乗りに関しては、特務士官と将校との壁は低くなったのである。

もっとも、冷静に考えれば馬鹿馬鹿しい。このように、わずかながらも特務士官の待遇改善が行われたときには、国土は焼夷弾で丸焼けになり、海軍には動く軍艦も無くなり、惨めな敗戦5分前の事であった。海軍は、その期に及んでまでも、まだ制度の抜本改革ができなかった。

日本人は、つくづく、自己改革のできない民族なのだと、痛感するのみである。 この原稿を書いているとき、(平成15年1月)芙蓉出版から、存在そのものが幻と言われていた昭和十七年の海軍義斉会 会員名簿が復刻発刊された。少佐の欄を見ても、中佐の名簿を見ても、壇原氏や酒井氏の名前がない。はっと気がついた。結局、佐官に成ったとはいえ、扱いはあくまでも特准(とくじゅん)であったのではなかろうか? 海軍は、最後の最後まで、叩き上げを将校とは認定しなかったのである。なんと恐ろしい組織であろうか?

 

さて、最後に特務下士官とは何か?

 

下士官の最高地位は、先任衛兵伍長であった。艦内や部隊の風紀取締りの元締めである。

先任衛兵伍長の下に、衛兵伍長がいる。これらの人は、兵科の下士官であった。

 

軍艦の総人員の三分の一は、機関科である。機関科には甲板には無い、独自の生活や風習があり、兵科の人間には分からないことも多い。

そこで、機関科の風紀取り締係りの下士官の事を、特務下士官と言ったのである。


戻る