陸軍士官学校

 

陸軍将校を大別すると、大きく二つに分けられる。

 

現役将校と予備役将校である。今回は現役将校についてのみ述べる。

 

現役将校は学歴によって、さらに二つに大別される。

陸軍士官学校卒の将校と、兵隊から叩きあげた無学歴将校である。

(陸軍士官学校の中では、陸軍ドカン学校という言い方がよく使われた。「なんだ、それでもドカン出の将校か!」という使い方もする。土官でドカンである。)

 

さらに、職務によって、歩兵や騎兵、輜重兵と云った兵科将校と、衛生部・獣医部・経理部・軍楽部に属する各部将校がある。

 

戦前に於いて、原則として、現役将校は辞任する権利を持たない。すなわち、陸軍の将校になることは、一生、その身を陸軍に捧げたことになり、死ぬか、定年になるか、陸軍が辞めろと言わない限りは、軍務に服するのである。

(そうは云うものの、実際は健康上を理由にして、陸軍を辞める者も多く存在した。

詩人の三好達治、作家の山中峯太郎などは、陸士出の現役将校であった。)

 

今の自衛隊員が、「いつでも辞めてやらあ」とケツをまくるのとは大いに異なるのである。

 

したがって、現役将校のことを「永久服役」と言った。

 

今の自衛隊は、一般大学卒業者でも将校にしてくれるが、昔の陸軍は、陸軍士官学校卒業者以外は、まず将校にしてくれなかった。

(もちろん、軍医や獣医、薬剤官、技術将校などは全員が、一般大学の出身者である。

昔は、陸軍経理学校がなかったので、主計部の士官にも一般大学出身者がいた。

しかし原則は、陸軍士官学校卒業者が、途中で経理部に転官して、主計部士官となる。)

 

今の自衛隊は、陸曹出身者でも士官(幹部という。自衛隊では士官を幹部と言うが、昔の陸軍は下士官以上を幹部といった。陸軍と自衛隊とで同じ用語で意味が異なっている。実にややっこしい。)に昇進するが、昔の陸軍では、これは実に難しかった。

 

大正時代の中頃までは、下士官から将校になることは、戦時特別昇任以外はあり得なかったのである。下士官から将校になる制度のことを「少尉候補者制度」と言ったが、いずれ、機会があれば詳細に説明したい。ここでは簡単に、超人的な刻苦勉励に加えて、人格円満、まじめ一筋、職務第一の、人類の良き見本のような人物でない限りは、兵隊から将校には成れなかったとだけ述べておきたい。

 

したがって、現役将校の大部分は、陸軍士官学校卒業者である。

 

「士官とは将校のことか?」と聞かれることがあるが、実は違う。

 

陸軍では、その昔、佐官のことを上長官・尉官のことを士官と言っていたのである。

 

したがって、陸軍士官学校とは、「陸軍尉官養成所」の意味だったのである。

さらには、昭和一五年以前は、兵科将校のみが「将校」であり、各部将校のことを「将校相当官」と称していた。

 

この、士官と将校の用語の使い方は実に難しく、海軍だと、陸軍とは全く異なって使われる。そのうち、海軍の用語解説も行いたいが、簡単に述べると、

海軍将校とは、海軍兵学校出身者のみをいう。海軍機関学校出身者は、はじめは機関科将校と称していたが、昭和17年に、兵科と機関科とが統合したために、のちには海軍兵学校出身者と海軍機関学校出身者(もうその頃には、海軍兵学校舞鶴分校になっていた)のみが「海軍将校」であった。

軍医・薬剤・歯科医科・軍楽科・主計科・技術科などは、将校ではなく、将校相当官になる。したがって、これらは海軍士官であっても、海軍将校ではない。

海軍の場合、さらに学歴差別で、下士官から昇進した士官のことを「特務士官」と称した。

 

べつに、特別任務に就く士官のことではない。無学歴士官が、「特務士官」なのである。

 

これら特務士官は、たとえ砲術科や水雷科の兵科であっても、絶対に「海軍将校」ではありえない。詳細は別の機会に述べる。

 以上は余談。

 

陸軍士官学校の教育制度は実に改正がおびただしく、いちいち解説できるものではない。

そこで、きわめて大雑把に述べると、以下のようになる。

 

明治元年 八月 陸軍兵学校、京都に開校。

明治 二年 九月 大阪に移転 大阪兵学寮と改名

     一二月 陸軍兵学寮 と改名

   四年一〇月 東京市ヶ谷台に移転 

   七年一〇月 陸軍士官学校と改名

   八年 二月 旧制  一期生入学

  二二年 七月 旧制 一一期生卒業

  二三年 七月 新制  一期生卒業

昭和二〇年 六月    五八期生卒業  最期の卒業式となる

昭和二〇年 八月 陸軍士官学校 廃校 

         在学生は本科に五九・六〇期 予科に六一期・六二期

 

さて、旧制はフランス式の教育であった。陸軍士官学校入学希望者は、試験に合格すると指定された歩兵聯隊で、士官候補生の身分を受け、数ヶ月間、兵卒としての勤務を行う。

ただ、全くの兵卒ではなく、聯隊将校団の薫陶を受けながら、将来の陸軍を担う骨幹として、内務を学ぶのである。

 

その後、その聯隊から派遣という形で、陸軍士官学校に学ぶ。

卒業後は、聯隊に戻り、見習士官として勤務し、半年後に聯隊将校団の許しを得て、少尉に任官するのである。

 

新制は、プロシア式の教育であった。

陸軍士官学校に合格すると、まずは陸軍予科士官学校の生徒となる。予科士官学校は基礎学問の数学や物理化学や語学のみを勉強する。生徒は正式の軍人ではないので階級はない。星のない「赤タン」の階級章を付けている。

予科士官学校卒業の、百日前に兵科と原隊が決定される。これを百日祭と言い、生徒は希望する任地や兵科に入れるように、「任地大明神」や「兵科大権現」に祈りを捧げて大騒ぎをする。なにしろ、このときに陸軍将校としての一生が決定されるのである。

 

特に、輜重兵の希望者は皆無に等しく、輜重兵に兵科の決定された者は、数日間は泣き明かしたという。

 最も人気があったものは、軍の主兵と称えられた、歩兵(大体、卒業生の半数は歩兵になる)、一部、熱狂的な希望者が群がる「騎兵科」、理数系が得意な人間が殺到する「野戦砲兵」、それに「航空科」などは花形であった。

 人気の無い兵科の代表は、「輜重兵科」「工兵科」「要塞砲兵」などであった。

「兵科の歌」というのがあり、それぞれ、百日祭の時などに高歌放吟される。

輜重兵にだけは歌がない。日本陸軍の後方軽視はここまで凄まじかったのである。

 

ガダルカナル、ニューギニア、フィリッピンで大量の餓死者を出した背景は、こんな所にも散見される。

 

陸軍士官学校の区隊長は、せいぜい中尉か大尉クラスの青年士官が勤めるが、区隊長のウデの見せ所は、「如何にして、自分の区隊から輜重兵を出さないか」に尽きたという。

 

区隊は20〜30人、区隊長は小学校の担任教師と考えても良いだろう。一人も輜重兵を出さない区隊長は、士官候補生たちから、絶大な信用を得たという。

 

では、どんな士官候補生が輜重兵になったかというと、騎兵を熱望する人間が真っ先に選ばれた。しかも、中学校卒と陸軍幼年学校卒との間には、厳然たる差別が存在し、幼年学校卒業者は、絶対に輜重兵科には行かなかった。

 

輜重兵と云っても、日本の輸送部隊は、すべて馬匹に頼っている。輜重兵将校の格好は、騎兵将校と寸部も変わらない。乗馬本分であることはもちろんである。

「どうだ、馬に乗れるのだから、輜重兵でも本望だろう」と区隊長は候補生を説得したそうである。

 

ここで百日際で歌われた、各兵科の歌を概観してみよう

はじめは、日本陸軍の主兵である歩兵から。

歩兵のあだ名は「バタ」である。バタバタ歩くから歩兵なのである。

 

歩兵科の歌(勇敢なる水兵の節で) 岸田国士 作詞 (中央幼年学校9期)

 

中央幼年学校とは、明治時代に一時期存在した学校である。幼年学校卒業者が入校し、その後、中学校卒業者と共に士官学校に進学した。

 

浜田か、鯖江か、村松か、飛ばされそうで気にかかる

何しろ足は十二文、肩には小銃(つつ)が五つ載る

 

区助はいつでも俺に言う おまえはバタが最適任

うまくいったら天保銭 花と散るのが能じゃない

 

           あるいは(左に散れが能じゃない)

 

浜田は島根県浜田市のあった歩兵第二一聯隊のこと、鯖江は福井県鯖江市、新潟県の村松の事、当時三大僻地といわれ、すべての候補生の恐怖の的であった任地である。

 

なぜ、士官候補生の任地がここまで重要な関心事になるのか?

それは、最初に士官候補生となった部隊が「原隊」になるからである。

陸軍士官の場合、すべての人事権は陸軍大臣が握っている。しかし、陸軍大学を卒業した者に限り、人事権は陸軍参謀総長が所轄する。

 

ということは、逆に言うと、陸軍参謀本部に勤務するためには、陸軍大学を卒業していることが必須となってしまう。(若干の例外はあるが)

 

実際は、陸軍の中央官衙(陸軍省・陸軍参謀本部・陸軍教育総監部など)に勤務するためには、陸軍大学卒業の学歴は絶対に必要である。

 

陸軍大学を卒業していないと、参謀適任証も与えられないから、師団参謀になるのも、陸軍大学を卒業していなければならない。

 

そうなると、陸軍大学卒業者以外の勤務場所は、第一線の部隊に限定されてしまうことになる。

 

結局、士官候補生として派遣された原隊に、見習士官として戻り、そのまま隊付勤務を続け、中隊長、大隊長と年老いてゆき、ほとんどの者は「聯隊付佐官」か、その地方の「聯隊区司令官」または、「大隊長」か、「軍法会議判事長」かの中・少佐で、待命・予備役編入となって陸軍を去って行くのである。

 

ごく少数の者だけが大佐に昇進し、原隊の聯隊長となって、「聯隊将校団」の団長になり、人生に錦を飾るが、そんな人はむしろ例外である。

 

士官候補生にとって、原隊とは、そこで骨を埋める場所なのである、第二の生まれ故郷なのである。

士官候補生が「任地大明神」を信心するはずである。

 

さらに歌詞の説明をすれば、

 

何しろ足は十二文、肩には小銃(つつ)が五つ載る

 

昔の日本人の足の大きさは、十文であった。十二文といえば、深田恭子なみのドタ足である。肩に小銃が五つ載るとは、並みの体力ではない。なにしろ小銃は四キロあるのだ。

 

まさに歩兵にふさわしい。

 

しかし、如何に機械化されていないとはいえ、日本陸軍の歩兵は人間の限界を越えるような、一言で言って、超人・鉄人集団であった。

 

歩兵は、75p間隔で歩く。小休止も含めて、一時間4qが平均の歩行速度である。

 

ところが強行軍となると、一時間6qになる。これは、ほとんど走っている状態である。手ぶらで走っているのではない。歩兵の装備品は、完全武装で約30s、戦時であれば、さらに糧食が増加するし、歩兵砲中隊や重機関銃中隊の兵であれば、これらの重量兵器も携行しなければならない。

 

歩兵砲の砲身は、約100s。それを一人の兵が担うというのだから、日本陸軍は現在の日本人からは理解できない、超人集団である。

 

現在の日本人は、農家の若者であっても、米一俵(60s)を担げない。そこで農協では三十s入りの紙袋を使用しているのだ。

 

ふつうは、歩兵砲や重機関銃のような重量物は馬が担う。馬は、人間の十倍の体重があるが、人間の三倍の体力(馬力か?)しかない。

人間の方が効率は良いのである。

 

その馬さえも、行けないところにも日本陸軍は進出した。

 

それどころか、標高五千メートルのオーレイ・スタンレー山脈を踏破し、豪雨のアラカン山脈を越えるのである。しかも、メシも食わないで!!

 

もう、なんて表現したらよいのか、空前絶後・世界最強・精強無比の軍隊としか言いようがない。

日本陸軍に不可能はない。

ターボ・チャージャー無しでも成層圏を飛行し、潜水艦を作ってフィリッピンまでも航海し、航空母艦まで運用し、シベリアの雪原から赤道直下のジャングルまで、ありとあらゆる場所を征服した。

 

日本陸軍が行かなかったところは、おそらく宇宙空間のみであろう。

 

 

区助はいつでも俺に言う おまえはバタが最適任

 

区助とは区隊長のことである。同様の言い方として、中助(中隊長)大公(大隊長)

聯公(聯隊長)というバリエーションが存在した。

 

うまくいったら天保銭 花と散るのが能じゃない

 

天保銭とは、水野忠邦の天保の改革の時に、幕府財政再建の時に発行された貨幣である。

楕円形の大きい物で、幕府は百文で流通させようとした。

 

しかし、銅の含有量の問題やら、あまりにも多く発行しすぎたためとか、新通貨に対する不信感の問題などが重なって、実際は八〇文くらいの価値でしか流通しなかった。

 

そのため「百文に少し足りない」イコール「少し頭の足りない」の意味になり、「あいつは、どうも天保銭だぜ。」などという言い方が、戦後の下町では残っていた。

 

また、明治になってからは、天保銭は一銭にもみたない八厘で流通するなど、価値の下落はもの凄く、天保銭とは、なりばかりが大きくて、無価値な物の代名詞になってしまった。

 

陸軍大学を卒業すると、右の腹に、ちょうど天保銭と大きさや形の同じような、「陸軍大学卒業徽章」を佩用する。この陸大卒業徽章のことを、俗に「天保銭」と呼んだのである。

 

すなわち、陸軍大学卒業者のことを「天保銭」組、卒業していない者は「無天」組という。

 

天保銭は、中央官衙と隊付勤務を交互にこなし、あるいは師団司令部の要職に付くなどして、少将以上の昇進が保証される。すなわち、必ず閣下になれる。

 

無天は、運が良くて「営門少将」、つまり退官のその日に、名誉進級して「閣下」になるわけである。営門を出た瞬間だけの将軍である。

営門将軍を笑うなかれ、ほとんどの無天は中佐以下で軍歴を終えるのである。

 

したがって無天の大佐、しかも「営門将軍」といえば、学歴はないものの、まじめな努力の人、あるいは人望ある実務の人、戦争の神様、部下に慕われる人格者、などの苦学力行の人が多かったという。

 

山本七平氏に依れば、

 

「無天の大佐は少将に勝り、たたき上げの少佐は大佐に勝る」という言葉があったそうである。

           あるいは(左に散れが能じゃない)

 

第一次世界大戦前までは、歩兵の戦闘の華、すなわち散兵線は中隊を単位にしていた。しかし、機関銃という大量殺戮兵器が戦場を支配するようになると、散兵線は下士官を長にする分隊が戦闘単位となった。

 

中隊を戦闘単位としていたときには、中隊長を先頭にして、中隊員は将校に引率されて左に散開した。「左に散れ」は、古き良き明治の時代の、号令なのである。

 

砲兵の歌は以下の如し   (軍艦行進曲の節で)

 

大した気炎を吐く奴だ  言わせておけばつけ上がる

承知の通りこの方は   砲兵志願の剛の者

三千六百 曳火弾    近し遠しは言い飽いた

 

ちっとも分からぬエネルギー  ヨコの座標をタテに見て

お目玉食らったこともある   いくら何でもニュートンが

大砲いじったことはない    やっぱり俺は砲兵だ

 

現在の視点で、この歌を歌うと、砲兵射撃の、あまりの射程の近さに驚きを感じる。

たった三千六百メートルの地点を射撃しているとは!!

 

現在の砲兵射撃は、20q以上が常識になっている。

 

曳火弾とは曳火射撃の時に使用する榴弾である。曳火射撃は砲兵の華と云われた、特殊な射撃法である。これは、敵の散兵壕の頭上、20〜10メートルで榴弾を破裂させるもので、敵歩兵の殺傷を目的にする。

 

散兵壕にこもった敵歩兵というものは、相当強力な砲兵射撃によっても、なかなか殲滅できない。これは第一次世界大戦の時の教訓である。一週間にわたって、昼夜を問わず重砲弾を浴びせても、歩兵の散兵壕にはさほどの損害は生じなかったという。

 

そこで、散兵壕は頭上が丸アキであるから、曳火射撃が考案された。敵歩兵の頭上から砲弾の破片を降らせようと云うものである。

 

しかし曳火射撃は、信管の調整が微妙で、かなり高度な技術と、完璧な計算が要求される。

 

砲兵射撃で計算しなければならない要素は、およそ素人には想像を絶するもので、風力・火薬の量はもちろんのこと、火薬の温度、湿度、気温、標高、その地点の引力、地球の自転速度、空気の密度、砲身の発射回数、摩耗の程度、火薬の製造年月日に到るまで、ありとあらゆる不確定要素を、可能な限り確定要素に置き換え、完璧な測地を行い、その上で砲弾を発射するのである。

 

慣れた砲兵将校は、これらの計算を、瞬時に、しかも暗算で行ったと云うから、驚異としか言いようがない。

 

数学嫌いでは、とうてい、砲兵はつとまらないのである。

ちなみに、もっとも将官への栄達の可能性が高いのは、砲兵とされていた。

 

次に騎兵。騎兵は格好がよい。騎兵のあだ名は「バキ」という。「馬キチガイ」の略である。

 

騎兵は、猛烈に志願する者が多かったが、なにしろ時代遅れである。採用人数は一番少ない。

 

第一次世界大戦では、騎兵は全く役に立たなかった。戦場の偵察斥候として期待されたが、飛行機の登場で、それすら役に立たなかった。

 

騎兵は、二メートル以上の背の高さになる。高性能の小銃が登場するようになると、これでは敵の標的になってしまう。しかも、維持に金がかかる割には、戦場の役には立たない。

 

機械化が進めば、騎兵最大の特徴である「機動力」も、ずいぶんと色あせてしまった。

 

「銀翼空を翔るとも、われに千里の駿馬あり」とは、単なる強がりでしかない。

 

騎兵無用論は、大正時代にずいぶんとやかましかった、しかし、騎兵出身の某少将が悲憤して割腹自殺を遂げると、騎兵不要論は止んでしまった。

 

しかも、満州事変で騎兵は大活躍をする。古賀聯隊が、数十倍の敵を相手に玉砕したのがマスコミで大いに称えられ(実状は、古賀中佐の功名心に駆られた、暴虎馮河の類の蛮勇であり、死んだ兵隊は気の毒としか言いようがない)、支那事変でも、山西省や黄土高原などの山岳地帯で騎兵は活躍する。結果として、この騎兵の活躍が、日本陸軍の機械化を遅らせたのかもしれない。

 

一説に依れば、将校は別として、騎兵くらい、つらい兵隊はなかったそうである。

 

人間よりも何よりも、馬が一番大事な兵器である。人間には休みはあっても、馬には一日の休みもない。日曜日に外出しても酔っぱらって帰営しても、どんなに演習で疲れ果てても、どんなに空腹でも、眠くても、必ず馬を優先しなければならない。

 

馬の手入れは一日三回、馬の足を藁でこすり(藁束・ソッコーという物でこする)馬に水を与え、(飲んだ回数も数えて記録する)、蹄鉄の泥を落とし、腹を藁でこすり、体を洗い、毛をブラシでとき、糞尿にまみれた寝藁を干し、新しい藁と交換し、食餌を与える。

 

馬の食べる量は、文字どうり牛飲馬食、出る糞の量も、一晩で荷車一杯になるという。

 

それらの馬の世話が終わってから、兵器の手入れ。ところが騎兵は兵器が多い。騎兵銃に軍刀、近衛騎兵だと、それに騎兵槍が加わる。

騎兵は長靴だから、手入れも時間がかかる。

 

初年兵だと、それから古兵殿の下着の洗濯や、飯上げ、内務班の掃除、いつ寝たのだろうか?

 

しかも、騎兵の訓練は半端ではない。

 

馬を見たこともない兵隊が、入営から三ヶ月、一期の師団長の検閲が行われるときまでに、馬を全速力で走らせながら、抜刀突撃ができるようになるという。

 

閲兵を受けるときには、騎乗したままで、一列に整列して、そのまま一時間も馬を微動だにさせないほどに、馬術に熟達するという。

 

いったい、どんな訓練をしたのであろうか、きっと戦後の人間には想像もできないような訓練であったに違いない。

 

騎兵の歌 (ボーイスカウトで歌われる、ユッパイデ・ユッパイダの節で)

 

今度は俺だ 俺は騎兵 お馬の好きな俺だもの

 

速足すすめ 前足旋回

 

ハイハイ ドウドウ おっと危ない

 

前橋(ぜんきょう・鞍の前の部分)つかんで すまし顔

 

大きな奴の 背中の上で 右へ左の大舞踏

 

それでもなんだ いくさの時にゃ

 

真っ先かけて功名手柄 金賜勲章 お手のもの

 

フランス革命前のパリの士官学校では、貴族は必ず騎兵になり、平民は砲兵か工兵になったという。歩兵はどちらからでも成れたそうだ。

 

大体、陸軍士官になろうとする者は、馬上豊かな若武者を夢見て陸軍に入るのである。

騎兵こそ、「陸軍の華、戦場の華」なのである

 

しかし、それだけに他兵科からの騎兵に対する反発も、もの凄いものがあった。

 

まずは騎兵に憧れる歌の紹介

 

待たるる哉や今年の五月 ああ憧がるる我が兵科

 

待たるる哉や今年の五月 われは夢見る騎兵隊

 

手綱を執らんアラビヤの駒 うがつはグシャ長 緋の袴

 

胸に纏うは 肋骨五条 腰には光るグルメット

 

 

グシャ長(なが)とは、胴の革が柔らかく、グシャとつぶれてしまう乗馬長靴を言う。これは騎兵の将校が好んだ物である。常識で考えれば、長時間の乗馬には、胴が堅い長靴が適しているのだが、不思議なことに騎兵はグシャ長を好んだ。逆に、歩くのが商売な歩兵将校は、わざわざ行軍に乗馬用の長靴を履き、堅い胴の長靴で歩くのだから、日本陸軍の将校とは理解しがたい人種と言わざるを得ない。

この歌は、おそらくは日露戦争前にできた歌だろう。日露戦争前の騎兵の服装は、五条の肋骨服に、緋のズボンであった。佩刀を釣るのは、革ではなく、美しく編んだ銀の鎖であった。この鎖のことをグルメットと言った。

 

本来は、グルメットは騎兵将校にのみ許された物であったが、格好が良いことから、他科の将校にも流行し、昭和になると、ほとんどの青年将校はグルメットを愛用するようになった。

 

次に、騎兵を軽蔑する歌 兵科の歌で、他の兵科を馬鹿にしたりそしったりする歌は非常に珍しい。唯一の例が、次の歌である。

 

非馬狂 (ひばき) 歩兵の本領の節で

 

騎兵志願のその人よ    伊達の眼鏡は六〇度 

腰には錆びたグルメット  萌葱も可笑し スタの色

 

頭の中は無一文      敵情判断 何ごとぞ

敵を見つけて 待ってくれ 双眼鏡をかけるから

 

コザック兵がシベリアで  バキついたのは古いこと

今の世紀は20だよ    空には飛行機 飛んでいる

 

実施学校ありゃ何じゃ   日本スタコロ大学か

前の世紀の遺物なら    博物館に並ぶべし

 

陸軍は、コロが好きである。幼年学校出身者は、中学出身者を「デーコロ」と言う。

これは説明が必要で、幼年学校出身者は「Cさん」と呼ばれる。すなわち、英語の CADET の意味である。正式な将校生徒は、幼年学校出身者に限るというエリート意識なのである。

 

中学出身者は、Cよりも劣るから、「Dさん」なのである。さらに、より軽蔑の意味を示すために「コロ」を付ける。イヌコロのコロである。

 

かくして、「Dコロ」なる極めつけの侮辱語が生まれる。

 

スタは劣等生のこと(詳細は後述)劣等生への極めつけの侮辱語は、スタコロとなる。

 

実施学校とは、騎兵実施学校のことである。

 

余談だが、KO大学普通部では、幼稚舎出身者以外は「Dコロ」と呼ばれているという情報があるが、真偽のほどは定かではない。

騎兵将校は頭が悪いという陰口は、洋の東西を問わずにささやかれているが、そんな事実は無いのはもちろんである。

 

ただ、フランス陸軍などでも、「騎兵将校は、脳味噌まで馬に預けてしまっている」と言う常套句があるそうである。

 

工兵は、あだ名を土方(ひじかた、ではない。)という。そのものズバリという気がする。工兵は人気がなかった。何となく、縁の下の力持ちという感じのせいだろう。しかし、砲兵と同じく、きわめて専門性の高い技術兵科であり、理数系の弱い者では話にならない。   フランスのグランドゼコールのひとつ、エコール・ポリ・テクニーク(フランス理工学院)は世界的な名門校であるが、そもそもは砲兵・工兵将校の養成のための学校であった。

  工兵は、すべての近代兵科の母と言われる。航空兵も戦車兵も、船舶工兵も、通信兵も、すべて工兵科から巣立っていったのである。

そのためだろうが,アメリカ陸軍では,最優秀の士官学校生徒は,みんな工兵になったという。

 わが国に,ありがたい「平和憲法」なるものを,ご下賜たまわれた,ダクラス・マッカーサー元帥様は,工兵出身である。(なんで,日本の憲法信者が,マッカーサー神社を作って,日夜,礼拝しないのか,わたしは,常に疑問としている。)

  日本でも,はじめて大空に飛んだ陸軍将校は、ふたりとも工兵であった。

  工兵くらい、幅広い任務を持つ兵科は希であろう。鉄道の運転管理から、塹壕の掘削、橋の架橋から、通信網の整備運用、舟艇、要塞の建設、敵の建造物の爆破、道路の開削補修、数え上げればきりもない。

ところが,日本の工兵は,まったく機械化がなされていない。したがって,工兵作業の内容たるや,ほとんどが人力で,その能率の悪いことは,現代人の想像を絶する。

現在の自衛隊では,深さ2メートルの散兵壕を100メートル掘削するのに,工兵一個小隊(30人とシャベルカー2台・ドーザー2台・ダンプなど)が六時間を要する。

旧軍では,工兵一個中隊が指導にあたり,歩兵一個連隊2000人を投入して,三日を要する。

この程度の規模の散兵壕では,歩兵一個中隊程度しか利用できないことを考えれば,実戦で有効利用に耐える野外築城など,人力では,ほぼ不可能である。

日本の工兵は,例によって,移動や運搬も馬力に頼るのが精々であった。

器材を持たない工兵は、最低の歩兵に劣る、という格言はあるが、器材といってもせいぜい、人間が携行できる程度のものであった。すなわち大円匙・大十字鍬、それに若干の爆薬である。

材料のほとんどは現地調達になる。トラックもないから、材料の運搬も人力である。

工兵の気の荒いのも有名である。人力の作業では,シロウト衆は,ほとんど役に立たない。そこで,もともと、地方で土方や沖仲仕、大工や工事人夫をしていた者を集めたのであるから、ある意味でもっともな話ではある。

  さらに、工兵は重量物の運搬を行い、危険な爆発物を取り扱うために、ぼやぼやしていると大けがを負う。注意を喚起するために怒鳴り合うため、粗野なイメージができたのかもしれない。

  日本陸軍で一番、猛烈な私的制裁があった部隊は、津田沼の鉄道聯隊であったという。(現在の,津田沼駅前の千葉商科大学が,鉄道聯隊の跡地である。)

その凄まじさは、大円匙(えんぴ)で殴りつけるという、信じがたいほどのものである。もちろん、大円匙のシャベルの部分で殴れば、即死してしまうから、柄の方で殴ったのであろうか?

  鉄道聯隊では朝食後、演習のために初年兵が作業服装で整列すると、週番上等兵が、全員に猛烈なビンタを張ったという。

これは、作業で気を抜くと大変な事故が起きることから、初年兵に気を入れるため、毎日行われた。

事実、鉄道のレールは兵隊が手で運搬する、かけ声で一斉にレールを持ち上げ、一斉に手を放す、ちょっとでもタイミングが合わないと、レールで手や足をつぶしてしまうという、危険きわまりない作業であった。(重量物の運搬は,工兵のお家芸であるが)

  現在の新京成電車は、その昔、鉄道聯隊の演習線として建設されたものである。

そのために、ぜんぜん必要のないところにカーブがあったり、なんだか無理のある作りとなっている。

自衛隊でも、昭和四十年のはじめまでは鉄道聯隊が存在したが、今の戦場は、悠長に鉄道輸送ができるものではなく、廃止されてしまった。

  鉄道の輸送力は、トラックとは比較にならないが、整備補修に手間がかかり、空からの攻撃には無防備である。また、一度破壊されると復旧が困難であり、これも時代の趨勢であろうか。

  工兵の歌

  だいぶ議論がやかましい 測図演習の講評に

  忘れもせんが良好なりと 褒められたのは俺ひとり

地学はいつでも一八点 築城土工はもってこい

工兵志願の理由はこれだ 奴(やっこ)軍曹 俺のマグ

マグとはマグネットのことである。「ひいき」のことをマグという。

奴軍曹とは、陸軍士官学校の助教のことであろう。実際の工兵作業の実習は助教の下士官が担当した。助教の下士官がひいきにしてくれるという意味であろうか?

最後に輜重兵を語らなければならない。

陸軍士官学校史によれば開校以来、自ら輜重兵を志願した人は、たった二人だったそうである。

なんでこんなにも輜重兵が嫌われたのであろうか? どうにも理解ができない。

その理由のひとつに、輜重輸卒の存在があるのではなかろうか?

西南戦争の時、軍需物品の輸送や負傷兵の後送には、軍夫といわれる民間人を使用した。

ところが、軍夫の給金は兵隊の10倍であったために、その支払いには莫大な予算が費やされ、実に戦費の半分を占めるに至った。

そこで、ケチな日本陸軍は、タダ同然で使える兵隊を軍夫の代りに徴兵する事になった。

 どうせ軍夫の代用なのだから、体格の良い兵隊は要らない。

補充兵役にある、第二乙種あたりから引っ張ってきた。

これを輜重輸卒と云う。

仕事は馬の口とりと、荷車押しだから、軍事教育も不要である。

階級も二等兵のままで、進級はない。

しかしその代りに、一般の兵士が二年の兵役の所を、三ヶ月に短縮した。そして、戦時に限り、輜重輸卒を動員することにした。

ところで、輜重兵と輜重輸卒は全く異なる。

輜重兵は、他の歩兵や工兵と同じように甲種合格者の中から選ばれる。

輜重兵の仕事は、輜重輸卒の指揮・監督と護衛である。そのために、輜重兵は乗馬して長剣を持ち、背中には騎兵銃を持つ。一見したところ、騎兵と寸部も変わらないスタイルであった。

もちろん、兵役も二年である。

輜重輸卒は、帯剣・巻脚絆、銃は持たない。

軍服はお古のぼろぼろで、支那事変の時中国人は、輜重輸卒の事を「日本苦力兵・イーベンクーリーピン」と呼んで笑ったと云う。

ところが、輜重輸卒制度は支那事変の時にがらりと変わる。

泥沼の戦闘が続くうちに、三ヶ月で復員交代する事など不可能になってしまう。

また、苛烈な近代戦では、前線と後方の区別もなくなり、輜重輸卒も銃を取って戦わなければならない事態が続出した。

それどころか、八路軍(パーロー)は、日本軍の軍需物資の略奪を主目的にしたから、輜重兵・輜重輸卒の戦死も相つぎ、もっとも危険な任務が輜重隊になってしまった。

そこで、輜重輸卒制度を廃止して、兵役を二年に延長する代りに、輜重輸卒からでも将校や下士官に昇進できるようになった。

 もともと輜重輸卒は、体格が劣るために一般兵としての徴兵を逃れたものばかりである。

そのためか、高学歴な者が多く、幹部候補生試験の合格者も多かった。

陸軍には、輜重輸卒の他にも、補助担架卒といった雑卒もいたのだが、このときにすべて廃止になった。

 ところで、輜重兵の士官候補生ほどヒマな生徒はなかったと云われる。

戦闘訓練と云えば、馬や荷物を中心にして、輪形の自隊防衛戦闘になるが、これなどは歩兵から見たら遊びのようである。

また、輜重兵が防衛戦闘をする事態になったら、もうあとはない、全員が死ぬときである。

 馬への駄載訓練などは、数回もやれば充分だし、とりたてて技術を要するのはトラックの運転だけである。

やることがないので、馬の好きな奴は、日なが乗馬訓練をし、機械の好きな奴は、トラックの分解整備や運転訓練をしていたと言う。

輜重兵のあだ名はミソという。ミソや米を運ぶからである。

なんとなく味噌っかすのようだが、陛下の、自動車での行幸の時の供奉将校は、近衛輜重兵将校である。サイドカーの運転も輜重兵が担当した。しかし,近衛歩兵が担当する場合もあったらしい。

柴又 帝釈天門前の 飴の松屋さんのご隠居は,私が知る限り,柴又から,初めて近衛兵に選抜されたというエリートである。

(わたしは,子供のころ喘息で,ずいぶん苦しんだが,松屋のせき止め飴のおかげで完治した経験を持つ。お世話をいただいたご隠居は,残念ながら今は故人となられている。)

昭和初期の近衛兵という者は,家柄も良く,小学校の成績や素行は優秀で,人格穏健・真面目第一で,かつ,眉目秀麗・体格にも優れていなければならなかった。

しかも,親類一同に,たった一人でも前科者が居ても,近衛兵には選ばれない。 時代や地方によっては,多額納税者の一家でないと,近衛兵には成れなかったともいう。

ご隠居が近衛兵に召されるというニュースが流れると,柴又中の大騒ぎになったという。

「これで,あいつの嫁の来ての心配はなくなった。」と,若い衆はみんなうらやんだそうだ。

昭和天皇の即位式の時には,ご隠居は,近衛歩兵第3連隊の上等兵で,サイドカーを運転して,陛下の供奉にしたがった。

愛車のハーレー・ダビッドソンを汽車で京都に運び,隣に近衛将校を乗せて,都大路を走ったそうである。ピカピカの乗馬長靴に,ゴーグルという粋な姿であったという。

沿道には,袴姿の男女の小学生がゴザをしいて正座し,金モールをきらびかせた文武百官が陛下の鹵簿を待つ。

通りに面した家々の玄関は開け放たれて,金屏風を背にした家父長を中心に,家族全員が正装して陛下をお迎えする。

「あんな晴れがましいことはなかったな,おれの愛車を一目見たくて,イガグリ頭の小学生が,夢中でバイクの後を追ってきたものだ。」

老近衛兵は,懐かしそうに昭和大礼のお話を聞かせてくれたものである。

士官候補生と見習士官の区別

世間では、どうも士官候補生と見習士官の区別が付かないらしい。

ひどいのになると、それに加えて陸軍予科士官学校生徒と陸軍士官学校生徒も加わり、ゴチャゴチャになる。

陸軍士官への出世スゴロクは、中学を卒業して、第一歩が始まる。

1・陸軍予科士官学校生徒  この段階では階級は無い。つまり軍人ではない。

    予科士官学校は、普通学だけを教育する。服も軍服ではなく、生徒独自の変な服を着ている。

2・予科士官学校卒業とともに、士官候補生となる。

士官候補生は、上等兵・伍長・軍曹の三階級があり、まずは上等兵になって隊付勤務になる。隊付勤務は三ヶ月。一ヶ月ごとに階級が上がる。

3・隊付勤務が終わると、軍曹のまま、陸軍士官学校に入学する。建前では、原隊から学校に派遣と云う事になっている。

4・陸軍士官学校生徒は、(俗に本科生徒)士官候補生・軍曹のまま軍事教育を受けて、卒業とともに曹長に任官する。

5・曹長・見習士官で原隊に復帰する。半年間、将校団の薫陶を受け、将校団が将校適任と認めれば、少尉に任官する。

部隊によっては、見習士官への任命と同時に、将校勤務者を命じる。

将校勤務の見習士官は、准尉の上・少尉の下と云う待遇を受ける。腕に、将校勤務者章をつける。

  予科士官学校卒業に際して、兵科と任地が決まれば、「士官候補生」になる。このとき上等兵の階級を貰う。 下士官以上の階級章の星は、金属製であるが、上等兵以下は黄色の羅紗である。

  予科士官学校の生徒が、士官候補生に任官して、上等兵の階級を与えられると、ここで彼らは、初めて軍服を着ることになる。 肩には「カボチャの花」が三つ咲いている。

  憧れの原隊に到着すると、内務班に編入され、一般の兵隊と共に生活する。とはいえ士官候補生は、「最右翼の上等兵」ということになっている。

(街頭宣伝車に乗って、ゆすり・たかりを商売にしている人種のことではない。もっとも優秀な人を最右翼と云う。左に行けば左遷である。)

二年後には、見習士官となって帰ってくる上等兵なのだ。

中隊将校室の隣りに、士官候補生室も設けられている。将校の昼食は、将校集会所に於いて、聯隊長を中心に全員が集まり、毎日会食するのだが、士官候補生も将来の聯隊将校団の一員として末席に連なる。

  ことあるごとに、聯隊将校団の薫陶を受け、その伝統を教授される。

  下士官も一目置くのは当然であるし、わずか三ヶ月の隊附勤務で、階級は伍長・軍曹と進む。

  旧皇族の某宮様は、人生で一番嬉しかった日は、士官候補生として伍長になった日であったと回想されている。

  下士官の階級章は、金属の星と金線である。そっと肩章に頬ずりすると、金属の冷たさで頬がひやりとする。それが何とも嬉しくて、あきることなく、何度も階級章に頬ずりしたという。

  期日が過ぎれば、今度は軍曹の階級章をつけたまま、陸軍士官学校本科に入学する。

  今度の教育は、各兵科ごとの陸軍将校の特別教育に変わる。

物理や数学や、古文漢文といった科目はなくなり、毎日、各兵科の操典をたたき込まれる。あるいは戦術に明け暮れる。ただし、語学の授業だけは残る。

  士官学校を卒業すると、いよいよ見習士官となる。肩には曹長の階級章が載る。

  いままでは、外出の時にはゴボウ剣を下げていた。

それが見習士官になると、将校と同じ軍刀になる。(騎兵と輜重兵の士官候補生・陸軍士官学校本科生徒に限っては、ゴボウ剣の代わりに、32式下士官刀を下げて外出していた。)

  見習士官の服装は、ちょっと独特なものである。

  まず、軍服は下士官兵と同じものである。将校は刀帯を上衣の下に締めるが、見習士官は尉官用の正刀帯を、上衣の上に締める。刀緒は尉官と同じものを使用する。

  演習時や作業時は、下士官兵は巻脚絆であるが、見習士官は私物の革脚絆を用いる。

ただし靴は、下士官兵と同じ編上靴である。

  襟には、見習士官の象徴である「星」をつける。

陸士出の現役見習士官は金の星、軍医や経理部の現役見習士官は銀星、学生上がりの予備役見習士官は、座金の付いた金星をつけた。

  余談だが、今の自衛隊は、曹候補生が金の桜、幹部候補生が座金の付いた金の桜になっている。昔の陸軍の常識からすれば、奇異と言うほかない。

  見習士官の期間は半年だが、戦争中は三カ月以下に短縮された。

  見習士官の職務は、初年兵の練兵教官である。文字通り、初年兵と共に中隊内に泊まり込み、寝食を初年兵と共にして、訓練を指導した。

  年齢からすれば、見習士官も初年兵もあまり変わりはない。陸士で習ったとおりの猛烈な訓練を施す見習士官は、兵隊たちの恐怖の的であった。 少尉・中尉のベテランの初年兵教官は、あまり無茶なことはやらない。

  映画やテレビでは、兵隊が「見習士官殿!」と呼びかけているが、これはとんでもない侮蔑的な表現であった。

  古い下士官などが「ふん、士官の幼稚園児が偉そうに!」という、どうにもならない反感を込めて、「俺はおまえなんか眼中にないぞ!」という意味で呼びかけるときに「見習士官殿」という言い方を使う。

  ふつうの兵隊が呼びかけるときには「教官殿」が正しい。

  見習士官を半年やると、聯隊将校団の諮問と推薦を経て、晴れて少尉に任官する。諮問といっても、落第する者は皆無なので、同期生は一斉に、かならず少尉に任官する。

  そして少尉任官と共に、正八位に叙任され、はじめて無位無冠の身から、天皇の官吏となる。

  大礼服という、きらびやかな服装も許される。宮中に参内する資格もできる。

少尉任官と共に、中隊付将校になり、戦時には小隊長として、部下の生殺与奪の権を持つ。

天保銭を目指すものは、初年兵の練兵などそっちのけで、すでに猛烈な受験勉強を始めることになる。そして、この日から青年士官は、長い長い、官界の荒波を乗り切っていかなければならないのである。

(天保銭とは、陸軍大学校卒業徽章のことである。右の脇腹付近に佩用した。大きさは天保通宝くらいである。

226事件のあとに廃止された。そもそも陸大を出ていない将校は、絶対に参謀には成れない。

参謀本部や陸軍省と云った中央官庁はおろか、師団司令部にすらにも勤務できない。すなわち、一生を僻地の部隊勤務で終わることになる。

「天保銭にあらずんば人にあらず」

だいたい、10〜15%の将校だけが、天保銭を佩用することができたのである。)

任官元年の歌 (リパブリック賛歌・おたまじゃくしはカエルの子・の節で)

任官元年春の風        市ヶ谷台でそよそよと

  いずこも同じトリンケン    騒ぐ前祝い

メンコ数えた茶目時代     年間行事の百日祭

お江戸のお酒も飲み納め    二度の都落ち

一メートルの直刀で      兵隊さんを脅しつけ

昨日のスタもぱりぱりで    通る練兵場

いよいよ命課のリュートナン  日本晴れの正装が

津々浦々にきらきらと     光る年の暮れ

  トリンケンとは、ドイツ語で「飲む」ことである。

見習士官どもが、任官の前祝いで一杯やっている情景が目に浮かぶ。

  メンコとは兵食のことである。明治時代の兵食は、檜の曲げ物で作った、「面つう」という器に盛りつけて、一人づつ配食した。

内務班で、飯を盛りつけるようになったのは、大正時代になってからである。昔は、炊事班で一人分づつ、盛りつけたのである。

「面つう」は、元来、乞食の持つ食器であった。これがメンコ飯の由来となった。

  茶目時代とは、予科士官学校時代を言う。予科茶目などという言葉もあった。

なぜ「都落ち」かは、もうお分かりであろう。原隊が地方ならば、士官候補生時代と、見習士官になって、二回田舎まわりをする。もっとも、無天の将校ならば、その田舎の地で一生を終わることが多い。

「われは、ここにて老ゆるなり」という軍歌すらあった。

  「スタ」とは STEIN KOPF すなわち、ドイツ語で石頭のことを言う。劣等生のことをスタと言った。優等生のことは「グシャ」と言う。語源は、「愚者」に由来するようだが、何で、愚者が優等生になったのかは不明である。

  どんなスタでも、見習士官になれば、晴れがましいのはもちろんである。

  命課とは、命課布達式を言う。明治四一年に軍隊内務書で制定され、昭和一八年に廃止された。これは実に荘厳なものであり、命令者に対して服従を誓うための儀式であった。

  映画「大日本帝国」(三浦友和・高橋恵子・あおい輝彦出演)の冒頭で行われていた儀式が、命課布達式である。

(この映画は、やたらと意味もなく高橋恵子が脱ぐので、子供と一緒には見られない。ほとんど色情狂の世界である。サイパン島の夜襲も、ほとんどヤクザの殴り込みのノリという、不思議な映画であった。)

  陸軍将校になり、部隊指揮権を持つ者は、命課布達指揮を経て、部下に指揮権を発動する。

  まず、聯隊長が抜刀して、被布達者と刀礼を交わす。

そして肩に刀の姿勢で(これは陸軍将校が命令を授与するときの姿勢である。命令に不服従の者は斬殺するという意味を持つ。)

  「天皇陛下の命により、陸軍歩兵大尉 石原莞爾 第七中隊長に補せらる。よって同官に服従し、その命令を遵法すべし。」

と、聯隊長は高らかに宣言する。

第七中隊長の部下は全員礼装をして、「捧げ銃」の礼を行い、閲兵を受ける。聯隊長と被命課者は互いに敬礼を行う。

  命課布達式は、陸軍将校の花舞台である。憧れの「命課のリュートナン」が陸軍将校の人生の出発なのであった。

  こんな手の込んだ儀式は、将校はもちろん嬉しいだろうが、兵隊には迷惑な話である。特に、将校は偉くなればなるほど、年中ポストが変わって行く。

  下手すると、師団長や旅団長は一年未満で替わってしまう、そのたびに、部下全員が礼装しては命課布達式を行っていたのでは、戦争にならない。

  よく、昭和一八年までこんな事を行っていたものと感心する。

  蛇足だが、リュートナンとは、英語の LIEUTENANT すなわち、少尉さんである。

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