シュタイナーは人種差別主義者、あるいは民族主義者であると言う

非難に対する反論



++ Home ++   

    

      










>だけど、それはそれ、これはこれって考えればいいんじゃないかと思います。
>業績の方をどんどん記載していけばいいのでは?
なるほど、そう言ったクールな対応もあろうかと思います。
結局はそれしかないのかも知れません。それが一番いいの
かも知れません。特に相手が故意にシュタイナーを揶揄して
やりたいと思っている破壊的な願望をもった人の場合は。
しかし、その様な意見はもしかしたら
傍観者の利己主義かも知れません。
少なくともはっきり何が正しい事なのか、
もっと探究してみる必要があると思います。
●>金髪碧眼の人種こそ霊統が高い、
という発言について、私は知りません。
もっとその前後を含めた全文が知りたいです。一体どの本で読まれたの
ですか?
●このウィキの記述が一方的であるにせよ、根本的に誤謬だとか捏造だとか
いうことはないんじゃないかと思います。 と言う事ですが、私はそうは思いません。
明らかに誤謬や捏造と分かる様な誤謬や捏造であれば、おろかもののそれです。
普通は、もっともらしくそうするから、効果がある訳です。
これらの記述が根本的に誤謬だとか捏造だとかいうことはないと言う意見は、
果たして正しくシュタイナーを理解していない人間の言う事ではないか、と
感じています。そもそも、わざわざこの様な記述をする輩は、最も卑劣な
連中だと思います。
●また、
>シュタイナーはユダヤ人、フランス人、中国人、日本人、アボリジニ、
>アメリカ・インディアン[5]退廃種と位置づけ、これ以上発展する可能性が
>ない用済み人種とした。
というのは根本的に誤謬だとか捏造だとかいうこと
はないと言えるでしょうか?
いいえ。明らかにひどいまちがいです。
●いずれにしても、おっしゃるとおり、シュタイナーの意見がどう
あろうと、我々は正しいと思う道を行けば良い訳ですし、シュタイナーの
いい所だけ学べばいいのだし、それが最も重要な事ではあるでしょう。



シュタイナーはたびたびフランスやイギリスを強く非難しましたと言う事ですが、
ドイツであろうがどこであろうが、まちがった事については、国など関係なく
批判しています。
●上記五つ(ユダヤ人、フランス人、中国人、日本人、アボリジニ、
アメリカ・インディアン)は文化期としては名前が出てこないので、そういう意味
ではまったく根拠がない、ということではないかもしれません、
などと言う事が問題なのでは
ないと思います。気に入らない奴をやり込めようとする卑怯な根性の奴は、
ろくろく相手を理解せずして、やり込める為の論拠として利用出来そうな事を
ご都合主義的に切り取って、その断片を悪意に解釈して、何も知らない人間を
も相手の敵=自分の味方にしようとするものです。
(ちなみに、よく取り上げられる北方系の原インド期、原ペルシャ期、エジプト=
カルディア期、ギリシャ=ローマ期、以外に、
南方系の原スメル期、原イラン期、ツラン=スキタイ期、中国期があり、
その二つの流れから、沢山の派生が生じ、その中に日本も含まれている。
と言う自説を高橋巌氏は、出している。
一つの個々の文化は、決して単独で今日に至った訳ではなく、さまざまな文化の
流れの多様な混合と統合の結果生まれた多様な花であって、単純に優劣を
決められるものではない。その様な短絡的解釈と非難は、シュタイナーを全然理解
していない証拠である。)


●最も大事な事は、実際にシュタイナーが人種差別的行動をとったかどうかです。
そうすれば、まったく逆で、シュタイナーが人種差別を厳しく批判した事は明らかです。
ユダヤ人を迫害したナチスに対しても、最も良心的に戦った人だと言えるでしょう。
それにはっきりと、民族霊は、利己主義の最高形態とは言えるが、民族の個性や文化
を大事にすると言う事であって、もはや国際主義に立脚しなければならない時代に
突入しており、自分の民族だけを支持する様な民族主義は間違いであると何度も注意
しています。そして異民族同士が友好関係を築く事こそが最重要な課題であると
しています。それこそが社会三層化思想を発表した最も大事な動機に他なりません。
そしてポーランドの民族紛争に対しても、どんな民族の場合でも、民族同士
の友愛関係の構築が最も大事であると言っておりますし、東洋と西洋の統合友好関係の
構築がこれからの大事な課題であるとしました。
そう言った事から、シュタイナーが人種差別者だ、などと言う批判は、まったく逆の
卑怯きわまりない連中の言い分である事は明らかです。


●以上から、シュタイナーの差別発言とされる言葉は、私達日本人が外国人の奇妙に映る
習慣を冗談めかして軽口で話題にして、その場を和ませようとする様な類の悪意のない
また主題からそれた所での軽口にすぎないのであって、それを取り上げてやり玉にあげよう
などとする行為自体が、卑怯な事だと言わざるを得ません。
私の知る範囲ではそうではない、人種差別として非難すべき所はただの一つもありません。
例えば、現代社会の循環論法的思考への批判をする為と言う趣旨で、
中国人が自分の辮髪(べんぱつ)をつかまえようとして、ぐるぐる回る様を想い浮かべさせる、
と言った類のものです。そんな事まで人種差別だと言うなら、現代ですら多くの芸能人や
一般人が非難の対象とされる事でしょう。
実際は、人種差別とは全く逆の方向の為に人生を捧げ貢献した人である事をわすれては
いけません。
それを見ずして、あらさがしして攻撃する輩こそが、本質的に人類愛など持ち合わせていない
了見のせまい連中なのです。


●ここで一つはっきりしておかなければいけない事があります。
それは、人間の成長や進歩と言う事を考えるならば、必然的に誰かが誰かより進歩している
と言う事にならざるを得ないという事実です。それを否定するならば、もはや人間には成長も
進化もないと言う事になってしまいます。あらゆる善悪判断も否定する不毛な無理念に転落
せざるを得ないと言う事です。たとえば私達は、先進国とか、後進国という表現を誰でも使い
ます。またあの人は人格者だ、あの人はまだまだだ、と言います。民族に対しても何々人は
何々人よりこの点で優れているとか劣っている、とか言う表現を、すべての現代人がして
います。それは差別でしょうか?
そう問うてみると、人種差別者かどうかの判断の基準となるべき事は、そう言った比較による
優劣判断とは、別の所にあると言う事がわかります。優劣が出るのは問題ではないのです。
それは避けがたい現実です。


その優劣をどう判断するか、人間と人間の関係の上下や権力支配関係と結び付けるかどうか、
すなわち自分より優れた者や劣った者に対して、どんな態度を取るべきと考えているか、それ
こそが問うべき問題なのです。
そうすると、シュタイナーの場合どうかと言うと、これ以上ないと言う位、立派なものです。
人間の能力の優劣などいっさい関係なく、すべての人が互いに友愛を持って接するべき
と考え、人類全体が助け合える様な関係を構築せんとして、骨折りした人物です。
むしろ、大抵の人は、理想主義すぎる、夢物語だと言って非難したのです。


(しかし、シュタイナーは理想や精神の重要性を述べたけれども、人間が
理想的にふるまうなどとは言っていないのです。ただ各個人が自由意志で
理想に向かって努力出来る社会、それを妨害しない社会を実現する必要性
を述べているだけなのです。)


そして、そう批判した同じ人間が、シュタイナーを人種差別者だとも中傷攻撃したのです。
要するに正義などどうでもいいから、シュタイナーを侮辱したいだけなのです。
しかし、その様な普遍的な愛や慈悲の理想と、人種差別は、全く相容れない正反対なもの
である事に気付かないでいるのです。本当の所は、その様な連中こそが、差別主義者なのです。
無責任な単に自己の保身の為には、自己の一貫性や自己の正義などかまわず、卑怯な手を
使ってでも相手を侮辱しうる、いいかげんで自己中心的な権力願望の性質の人間なのです。
けれども本当の所は、自分達こそが、いざとなると平気で人を侮辱する人種差別者
なのです。


●シュタイナーは、弱肉強食の社会的ダーウィニズムを激しく批判しました。
それは弱肉強食は、物理的物質レベルにおいて働いている力の自然法則に過ぎず、
それを、より高次の魂のレベルや、スピリチュアルのレベルに適用する事は、
由々しい問題を引き起こすからです。逆もまた真なりです。
ところが唯物論者は、必然的にすべてを自然的物質法則としてとらえますから、
民族霊などと聞こうものなら、それはすなわち排他的な民族主義だと思い込むの
です。しかし、そう言う思い込みは、自分の特性を相手に見ているのであって、
本当は、唯物主義が、民族を排他的な民族主義にしてしまうのです。
●また民族というものを、精神的文化的なものとして見る視点を喪失すると、
すぐに民族愛は、狭量で排他的な国家主義に結びつきます。
ですから、民族問題を精神的、文化的レベルで考える事が大事なのです。
シュタイナーの霊的(精神)史の観点から歴史を見る事の意味もその辺にあります。
土星紀は、熱すなわち、意志のみがあった。
太陽紀は、感情が生まれ、意志+感情の世界であった。
月紀は、思考が生まれ、意志+感情+思考の世界であった。
そして、現在の地球紀は、その3つに、愛の力が加わるべき時代である。
であるから、シュタイナーの民族論は、普遍的な愛や慈悲が大前提である。


●またシュタイナーの認識は、人類の歴史は、血族主義・民族重視から、
非血族・人類愛の方向へ進化して行く。
血縁や、人種や、国家や、民族は、次第に重要性を失い、より大きな人類
全体の調和が時代の課題となるととらえている。
個人→家族→民族→人類→霊的存在と進化して行く。現代はすでに人類全体の調和の実現
の時代に入っているのである。であるから、これからはお互い異なる民族の個性の相互尊重と
調和が課題なのである。その為の民族霊の認識であって、排他的な民族主義や人種主義
などの為ではないのである。精神を見ようとしない快楽主義的利己主義的唯物的な意識を、
霊的、魂的なレベルに持ち込み結び付ける事によって、
閉じた排他的な愛、感情的な愛に、愛は退化する。
人智学が民族問題を取り上げる時は、そういう感情的、主観的な態度から、どれほど客観的に
自分の民族を見、そして没我的な広い人類愛の観点に立てるかが、時代の課題なのである。


●シュタイナーは、例えば民族主義や人種差別や国家間戦争など、悪の発生と戦う時に必要な
問いかけ、
○何が他人への関心を失わせるのか?
○何が無意識に相手の弱点を探して、相手を支配しようとさせるのか?
と言う2つの問題について、
精神的な幻想にふけり本当の現実を見ようとしない(ルツィフェル的な悪)が、
他人への関心を失わせ、
物質的な快楽と欲望に囚われる事(アーリマン的な悪)が、
無意識に相手の弱点を探して相手を支配しようとさせると見ている。
●以上の様に、シュタイナーを民族主義、人種差別主義ととらえるのは、
全くシュタイナーを理解していないからであり、
自分がその様なレベルでしか考えられない人間だからであるにすぎない。


●シュタイナーの社会三層化に関する社会運動をしていて、いつもぶつかり、
今回の件でもぶつかる問題として感じる事は、自由とは一体何なのか?
と言う事です。言論の自由、言論の自由と言うけれど、今日の状況は
あまりにも皮相で間違った有害な思想と言論が到る所で堂々と流布していると
言う事です。
間違った考えは、有害です。ですから、なんとかしようとすると、言論の自由の侵害、
押し付けだと言う反発に出会う訳です。ならばほっとけばいいのでしょうか?
なるほど、個人の言論の自由、思想の自由は、法的に守られなければなりません。
しかし、何を言ってもいいと言う訳でもありません。
考え方は人様々ですが、やはり死すべき間違った考えと、至るべき正しい考えは
存在するでしょうし、てんでばらばらではどうしようもない訳です。
●そこで避けられない必要な過程が、
統一と調和の為のせめぎ合い、議論と対立の過程です。
その結果、統一どころか、間違った方向に行く事も多々ありますが。
真理を描く絵は色々描けるけれども、真理はひとつのはずです。
仏教の五正道で言う正思と言う事、いかにして社会を正しく認識するか?
いかにして人間を人間にふさわしく認識するか?
その事が可能な方法を見出し、それを選択する。
いくら自由自由と言った所で、生きる為に必要な取捨択一は絶えず行われていますし、
たくさんの意見の中からどれか一つ選択しなければならない訳です。
その道を見失っているのが現代であり、その道を見出すのが我々の課題でしょう。
社会であれ、人間であれ、認識を深めて行く事、その過程での議論であり、
対立です。
●何を言っても良い無秩序な自由から、自己の最奥の理想、真理に自ら向かう自由への転換。
すなわち、
個人の自由意志と、助け合い・理想への努力・調和との両立が可能な道を、本当に見出し、
日常生活の只中に、創造するという困難な大事業に、本当に取り組む社会意志が
今求められている事の様に思います。





++ Home ++