2007/10/9 火曜日

緑の党の結党事情

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Mythen knacken; Darmstadt 1989 S.156-162 松田正雄訳)

25年前右翼の森林保護運動と挫折した新左翼が緑の党をつくった

緑の党の結党事情

クリスティーネ・バッハマイヤー、アレクサンダー・エヴァルト、トーマス・フィッシャー、ザビーネ・ノルトン

 被選挙人名簿運動とはちがって、緑の党という連邦政党の結党は、当初はほとんど保守的な層による環境保護運動の主導で実現したものである。ヘルムート・フォークトはこう書いている。

「連邦政党緑の党の結党にいたる準備段階は、まったく違う星の下にあった。つまり、そのゆりかごは、おおむね極右的な雑多な運動体の集会所に置かれていたのである。」

 すでに1977年の秋には、いろいろな多かれ少なかれ右派的なグループが会合を開いて、環境保護運動における連帯について話し合っていた。当時は まだCDUの議員だったヘルベルト・グルール1)、独立ドイツ旅団(AUD)のアウグスト・ハウスライター、アッハベルク会のヴォルフガング・ハイト、 GLU(環境保護グリーンリスト)のゲオルグ・オットー、そして穏健左派を代表する有名人としてのSB(社会主義ブント)のオシップ・フレヒトハイムなど が、名を知られた参加メンバーであった。BBU(環境保護市民連合)もすでに述べたように、環境保護の運動集合体の結成を支援していくことに乗り気であ り、1978年6月には民主生活運動グループ(DLB)と共同で、「ドイツ環境会議」への参加を呼びかけたりした。この会議には300人から1000人見 当の参加者があったらしい。会議では準備委員会が結成され、懸案となっていた1979年6月のヨーロッパ議会選挙での出馬に向けて組織固めをすることに なった。

 結局1979年の3月17日に、上記の右派グループ、AUD、GAZ(環境運動未来)、GLUおよびシュレースヴィヒ−ホルスタイン州グリーンリ スト(GLSH)、そしてアッハベルグ会など広汎な運動グループの参加をえて、フランクフルトで「その他の政治連盟(諸派)−緑の党」(SPV)が結成さ れた。左翼勢力はこの合同にはごく限られた代表しか送り込まなかった。総数500人の参加者のうち、わずか15人の左派諸グループが認められただけであ る。2月3-4日には準備委員会が会合を開き、いよいよヨーロッパ議会選挙への出馬が最終的に決定された。


Herbert Gruhl

 左翼側は環境政党の結成にはさほど特別な関心を示していなかった。SPVの準備委員会が1979年2月にヨーロッパ議会選挙への出馬を決定したあ とにも、BLW(民主環境リスト)、GLH(グリーンリスト・ヘッセン)、そしてAL(オルタナティブリスト)-西ベルリンの代表者たちは、これでは単に 小運動グループのブロック化、大合同にすぎないと踏んでいた。これは避けるべきである、なぜならこの運動が将来政党となり、きっちりとした綱領をもつよう になっては、むしろ他の政党があとから環境運動に参加しにくくなるだろうと予想したからである。あきらかに左翼勢力は、結党のプロセスを遅らせるように努 めていた。彼らは貧乏くじを引くのを恐れたのである。

 しかし、このような左派の態度は、SPVが1979年6月のヨーロッパ議会選挙で、3.2%の得票を獲得し、成功を印象づけたことによって、変 わっていった。このあとには1980年の連邦選挙に向けて、連邦政党としての結党努力がはじまった。SPVの代表者たちにとっては、この流れがドイツの政 党政治の中で第4の政党を形成する潜在力を秘めていることが明らかになったばかりでなく、5%条項を突破するためには左翼やオルタナティブ勢力の参加が不 可欠であることもまたはっきりしたのである。

 それゆえ、政党を成立させるかどうかは最終的には左翼の決定にゆだねられたのである。一方の左翼側には、今しも走り出さんとするバスに乗り遅れて はという恐れもあったので、彼らは最初に躊躇したあと、思い切って政党結成に合流することになったのである。こうして1979年の6月から9月にかけて、 グリーンリストやオルタナティブリストの代表者たちは、これまでSPVを引っ張ってきた幹部たちと会合を重ね、連邦議会政党としての緑の党という計画につ いて話し合った。1979年11月には、GAZ議長のヘルベルト・グルールが連邦政党の結党を声明した。その直後に、社会民主党系のBGL(ブレーメン・ グリーンリスト)が大きな成果を挙げた。グリーンリスト2)としてははじめて5.1%の得票をえて、市州議会に議席をもつことになったのである。この選挙 結果は左翼勢力の背中を改めて押すこととなった。なぜなら、彼らは上述したように、このリストには参加しておらず、別個に候補者を立てた末に無惨に敗退し ていたからである。ブレーメンの結果は左翼陣営に、5%条項を突破するには彼らにも右翼勢力にも単独では不可能であることを思い知らせた。それゆえ、環境 保護運動によって望む成果を挙げたいのなら、両者の協同に前向きとなるのが得策のように思われた。

 エコロジー運動の世界には、躍進的な気分がみなぎっていた。SPVには信じられないくらい多くの新しい参加者が押し寄せた。1979年10月末か ら1979年12月までだけで、党員数は2830人から10000人へとふくれあがったのである。もうそれだけで明らかであった。左翼側としても、より多 くの国民に影響力を行使したいわけで、新しい党に参加すべきだという圧力も日増しに高まってきたのである。


Gründungsparteitag 1980

 緑の党の結党にむけての一連の大会では、右派陣営と左派陣営の間ではげしい議論が戦わされた。1979年の11月4日にオッフェンバッハで開かれ たSPVの連邦総会では、主導権はまだ明らかに保守勢力の側にあった。だから左翼側には相対的にわずかしか影響力が見込めなかったわけである。左派陣営か らの参加者には、はじめから対等な形での会議への参加は拒否された。彼らはまだSPVの正式なメンバーではなかったからである。彼らには連邦政党としての 緑の党への参加資格はないとされた。

 加えて、右翼側は最後のあがき的な抵抗として、連帯不可能決議まで試みたのである。これは組織化されたKグループ(新左翼の共産主義諸派)を新組 織から排除しようとしたものであった。しかしながら、彼らの当面のもくろみは成功しなかった。348対311という僅差の多数決により、動議は否決された のである。この総会によって、将来までつづく党の発展路線が据えられたと言える。左翼側には自分たちが影響力をもつには、SPVに合流しなければならない ことがはっきりした。連帯不可能決議による部分的排除の試みも、穏健左派(SPD)の協力によってもはや障害とはならなかった。

 こうして新左翼勢力もSPVに勇躍して参加することになったのである。ハンブルクでは、1979年の末までに、民主環境レインボーリストに所属し ていた400人から500人の活動家やシンパが緑の党へと移籍した。ベルリンでは、KPD(新左翼のドイツ共産党)の強い影響下にあったAL(オルタナ ティブ・リスト)のメンバー総会において、満場一致でSPVへの参加が決定された。1980年の1月中旬までに、約600人のALメンバーが緑の党に入党 したのである。急進的なヘッセンのGLHからは120人、シュレースヴィヒ−ホルシュタイン州LDU(民主環境リスト)からは50人が新たに入党した。
 
 SPVへの参加には異論がないわけではなかった。たとえば、KB(共産主義ブント)においては、この問題が内部分裂の危機さえもたらしたのである。KB のメンバー——なかんずくハンブルク・レインボーリストの幹部たち、彼らはSPVへの合流を呼びかけていた側だが——はKB内部で中央派(Gruppe Z)と呼ばれる派閥を形成していた。この問題についての論争は、1979年12月に開かれたKB総会でその頂点を迎える。約200名を数えた中央派は、 KBの内部で独立した派閥として承認されようとした。彼らの目標は「ますます増大しつつある緑の党の政治的影響力を、エコロジー社会主義の立場にたつ勢力 の共同溝あるいは受け皿として利用すること」にあった。この立場は、この時点でまだ700名を擁していたKBの中では、多数派とはいえなかった。なぜな ら、緑の党に内在する右翼的な流れに対する懐疑がまだまだ大きかったからである。それで、この約200名の中央派は、KBから除名されてしまったのであ る。KB多数派と中央派の見解の違いは、他の多くの西側の左翼陣営での議論と同様に、純粋に戦略的なものであった。

 対する右翼陣営は、SPVに押し寄せる大量入党の波にももちろん感激ばかりはしていられなかった。彼らは結党集会となるはずの次期総会前に、改め て共産主義者たちとは手を組まないことを確認し合った。GAZ議長のヘルベルト・グルールは、「毛沢東グループ」の代表者たちと共に活動することを拒否し た。GLSHの保守的なエコ農民であるバイドゥル・シュプリングマンは、「緑の緑の党」と「赤い緑の党」をはっきりと区別すべきだという意見を述べた。 BGLのオラーフ・ディーネは、左翼過激派を入れなくても成功した「ブレーメンモデル」に戻ろうと訴えた。

 これに相応する形で、MLグループ(新左翼のマルクス・レーニン主義派)3)との共闘いかんという議題が、結党集会でもある1980年の1月12 -13日にカールスルーエで開かれた大会での主な争点となるはずであった。カールスルーエに参集してきた254名のオルタナティブ・リストやレインボーリ ストの参加者たちには、総会での投票権は与えられなかった。彼らはSPVの党員ではないのであるから。この大会では他の政治組織との二重加盟禁止が貫かれ た。しかし、いつの間にか新左翼側はすでに有利なポジションを得ていて、右翼側の圧力にも対抗しうる程になっていたのである。左派リストからは4人の代表 が連邦綱領委員会のメンバーに選ばれていた。名前を挙げれば、エルンスト・ホプリチェック(ALベルリン)、ユルゲン・レーント(BuLiハンブルク)、 マンフレット・ツィーラン(GLH)といった面々である。この委員会が来るべき連邦政党としての綱領草案を準備するのである。この4人を今一度解任すべき だという動議は、カールスルーエ大会では否決された。このことは、すでに左翼勢力が緑の党内部においても自らの立場を守れるだけの票数を用意できることを 意味していた。多数派・少数派の関係は、徐々に右翼陣営に不利なものへと傾斜し始めていたのである。

 この段階では緑の党で中道派に位置する代表者たちに、左翼勢力を党につなぎとめておく役割が期待された。元SPDの党員で、アメリカ合衆国では大 統領候補ロバート・ケネディの選挙対策本部にもいたことがあるペトラ・ケリー、あるいは1979年に東ドイツから亡命してきた、過激なSED(社会主義統 一党、DDRの政権党)批判者であったルドルフ・バーローのような人物が、この決定的な段階で党の統合を象徴するキーパーソンとしての役割を果たした。両 者ともに徹底的な反共産主義者であると同時に、エコロジー改革にささげる情熱においては原理主義的でさえあった。だから、MLグループを最後には服従させ る仕事にはお誂え向きだったのである。それにもかかわらず、彼らは緑の党にあの過激なオーラを付与することもできた。その熱狂の大波に乗って、最終的には 1983年の3月に連邦議会にも入場することになったのである。


Rudi Dutschke

 1975年末にはSDS(ドイツ全学連)の活動家だったルディ・ドゥチュケ4)が左翼陣営の統一を訴えるキャンペーンを開始していた。ヨーロッパ 議会選挙の前には、超党派の連合を働きかけ、その運動の中心にはサバイバル(生き残り)という具体的人権、民主と社会主義を置くとした。ドゥチュケや他の 有名な新左翼活動家による介入によって、のちにはMLグループをも傘下に置くことになる。ドゥチュケの考えでは、急進左派による連合が成立してこそ、(人 々の)伝統的な旧左翼への固着を排除できるはずであった。1979年秋のブレーメン市州議会選挙後のあるインタビューで、彼はこう言明している。

「旧来の(政治)カテゴリーが有効ではなくなっているのを誰もが知っている。それにはもちろん階級的利害という考え 方も例外ではない。(・・・)この路線は、レーニン・スターリン主義的な伝統を排除する。しかし、この方向はすべての勢力との連合を可能にする。ブルジョ ア革命の伝統に立つ者、キリスト教(社会主義)の伝統に立つ者をも含めて。」

 今やドゥチュケのような左翼の元カリスマ的指導者までがMLグループに批判の矛先を向けたのであるから、グループ側としてはいわば壁際に追いつめ られたも同然だった。しかし、決定打となったのは、ルドルフ・バーローによる干渉であった。彼は人間の解放というビジョンに目覚めたがゆえにDDR官僚政 治の犠牲になった人間という権威を用いて、緑の党のカールスルーエ結党大会の場で、MLグループを完全にやりこめたのである。大会後に発表された公開書簡 の中では、彼はMLグループを批判しつつ、こうまで書いている。

「君たちのようなレーニン主義——こう言っては悪いが、他の時代から、なかんずく全く違った歴史的空間から借りてき ただけの拠り所、いわば借り物の杖、ウラジミール・イリイチ・レーニンの成した世界史的業績へのある種の茶番——こんなものは、全くの弊害にしかならな い。環境プログラムに密かに別の立場を持ち込もうとするものだ。(・・・)君たちはもはやその勢力を温存させておくことなどできはしない。君たちは自分た ちでけりをつけるのだ。」

 バーローがここで言ったことは、すでに多くのMLメンバーが内心考えていたことでもあった。加えて、彼は環境プログラムの形成に影響力を行使する チャンスを彼らの目の前に示して見せたのであるから、彼による介入は、ML側の最後の留保をも打ち砕く役割を果たしたと言える。

 これに対し、ペトラ・ケリーは論争的というより和解的に働きかけ、結党大会においても、日一日と環境カタストロフィーが迫っていること、切実な社 会問題があることをよく肝に銘じて、けっしてわずかな政治的立ち場の違いによって、環境プロジェクトの成立自体を危うくさせることがないようにと警告し た。彼女自身は緑の党のもつ使命をこう表現している。

「わたしたち緑の党は一種の歴史的な実験です。その実験とは『運動』でありつづけ、また同時に『政党』でもあろうと いう試みなのです。そして、この『政党』とは、支配システムの中で忘れられ、虐げられている人々のための政党という意味です。そのように、わたしたちは、 自分たちをわけても、少数者、差別されている人々、病人、社会的弱者、子供たち、次の世代となる者たち、あるいは動物や植物の代表でもあると考えていま す」

 ケリーは最大公約数の小さい集団による政治に最も首尾一貫した表現を与えた。彼女の個人的な魅力と、この政治の方向性を情緒的にも知的にも説得力 をもって具現してみせる卓越した能力が、彼女が緑の党で果たした傑出した役割をも可能にした。この後、彼女はずっと党内の右と左のいざこざを調停していく ことになるのである。


Petra Kelly

 こうして、飴とムチを用いて、新左翼の自己解体は完了したのである。もちろん、左翼を緑の党に統合したことによって、右派と左派の緊張がなくなっ たわけではない。むしろ、この両者の緊張は党内において制度化されてしまったきらいがある。新左翼は党内の一派閥となり、彼らのすぐ眼前には、緑の党を通 じてより急進的な政治を現実に押し進められるという目標があった。しかしながら、間もなく次のことがはっきりしたのである。彼ら左翼には緑の党内において も、緑の党の外側にいた頃と同様、より穏健な勢力の圧力に抗する術がないということであった。

 緑の党における左派の流れは、その数多い党員数に応じて党執行委員会でも多数派であったにもかかわらず、実際の政治面においては、格別言うほどの 影響力を持たなかった。これは結党約十年を経た今日では異論のないところである。だから、左派の代表者、つまり緑の党の「エコ社会主義的」な流れの代表で あるトーマス・エバーマンも、1989年初頭に『コンクレート』誌とのインタビューにおいて、こう慨嘆している。

「我々は・・・実際緑の党のほとんどすべての公けの活動領域において、その政治的な主張の面で、あるいは党の内実においても、ずるずると保守化しつづけてきたと言わざるをえない」

 かつてはこの党のレゾン・デートルだったはずの政治的主張、たとえばNATO反対の姿勢を放棄したことや、州政府レベルで赤−緑連立政権を形成し たこと——その下でヘッセンでは1985年から86年にかけて原子力発電が拡充され続けたのだし、ベルリンでは1989年4月には警察の手による不法占拠 住宅5)の一掃が実施された——これらの一連の成り行きは、当初こそ緑の党に向けられた期待を急速にしぼませるものであった。なかんずく、比較的急進的と 思われていたベルリンの市州議会議員団でさえ、SPDとの連立協定において、ほとんどすべての重要問題について社会民主主義者の立場を優先する決定を下し てからというもの、つまりSPD政治に共同責任をとるという決定を下してから以降は、緑の党の政治がはっきりと際限のない右旋回の傾向を秘めているという 事実は、もはや見過ごしがたくなっている。

 問題は、この同調圧力がどこから来たものなのかということである。この質問に答えて、よく挙げられるのは、政治家たちのキャリア志向にまつわる物 質的誘惑と、議会政治がもつという統合圧力である。この圧力の下では、ほとんど自動的に過激な原理主義者からも従順な官僚まがいが生まれるのだという。上 述したインタビューの中でも、たとえばトーマス・エバーマンはこういう感想を述べている。「このきわめて豊かな社会とその国家がもつ、イデオロギー的なら びに物質的な統合装置がいかに強力か」に彼自身驚いたと。たしかに、市民社会とその諸制度がものすごい同調圧力を加えてくるのは、争いがたい事実である。 しかしながら、緑の党がこの圧力に——結局彼ら自身初めから気づいていながら、抗することができると思い込んでいた——繰り返し屈服することになったとい う事実は、緑の党自体の政治戦略にかかわることである。この党が見せた一連の保守化傾向を理解するためには、緑の党の理論と実践をもっと仔細にルーペの下 で分析してみることが必要であろう。

(了)
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訳注
1) Herbert Gruhl『収奪された地球』東京創元社(1984)という著書の邦訳あり。結局彼の右派グループ(約1/3)は1981年には緑の党を脱退し、ドイツ独立環境党(UÖD)という新たな政党を作るが、今現在も1%以下の得票率しかない。
2) グリーンリストという同じ名前を使っていても、地域によって、これを運営している勢力、党派は異なったらしい。右派、社民系、共産系、新左翼系とそれぞれがあった。
右Achberger Kreis
共AL Altanative Liste
右AUD Aktionsgemeinschaft Unabhängiger Deutscher
社BGL Bremen Grüne Liste
左BLW Bunte Liste - Wehrt Euch. Initiativen für Demokratie und Umweltschutz
右GAZ Grüne Aktion Zukunft
左GLH Grüne Liste Hessen
右GLU Grüne Liste Umweltschutz
左LDU Liste für Demokratie und Umweltschutz
社SB Sozialistischer Bund
3) KPD/ML ドイツ共産党/マルクス・レーニン主義。新左翼の一派。当初は毛沢東主義、のちにはアルバニア路線をとった。KPD(戦前のドイツ共産党)やDKP(戦後のドイツ共産党)とは別。
4) Rudi Dutschke ドイツで学生運動の嵐が吹き荒れた1968年当時のSDS(全学連)の議長。東ドイツ出身。当初はキリスト教社会主義の立場から出発し、次第に新左翼運動 の中で頭角を表した。往時はカリスマ的な人気を誇ったが、以前受けたテロ襲撃の後遺症で1979年12月に亡くなる。(Youtube動画
5) 住宅占拠運動。1970年代末から80年代にかけて、インフレで高騰した家賃と社会システムに抗議する形で、学生や移民、労働者によりフランクフルトやベ ルリンなど大都市の住宅が数多く不法占拠された。学生たちは、こうした住宅で共同生活を営み、コミューンと称して周囲の住民とは交際しないのが常であっ た。

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