初めての海外出張セイロン(長文)
 

  古い話ですが、入社して7年目の昭和40(1965)年、業務命令とは残酷なもので英語もロクに出来ないのに、初めて、海外出張に、しかも一人、孤立無援で放り出されました。行先は、仏の眉間の真珠と言われたセイロン(現スリランカ)のコロンボです。
  本当は直行便があったのですが、他の部署が準備する資料が間に合わず、行きも帰りもシンガポールでワン・オーバナイトする羽目になったのです。さらにややこしいのは、羽田〜エアフランス〜香港〜キャセイ〜シンガポール〜BOAC〜コロンボ、とフライトも全部違いました。
  当時は、社内でもあまり海外出張はなく、小生上司から餞別をもらい、羽田空港には上司・同僚が見送りにきて、心細い気持ちで飛び立ちました。
  エアフランスでは、五月みどりの新婚旅行で乗り合わせという余録もありましたが、和英・英和のコンパクト辞書と首っ引きで、孤軍奮闘、緊張の連続で、死ぬことを除けば、こんな難儀な事は他には無いと真剣に考えました。
  道中、初体験は沢山ありましたが、終わってみれば、直行便ではなく、行き帰りにワン・オーバナイトをともなう乗り継ぎ行程だったことが、かえっていい経験になりました。
  写真をこれからスキャナで取り込みますが、何しろ35年昔のもので、変色したものもあり、選定に手間どっています。取り敢えずセイロン島の地図で今回は、お茶を濁します。御免なさい。
  この出張期間は、昭和40(1965)年6月17日〜6月25日でした。

セイロン島地図
  コロンボは
   左側面下方

▼  昭和40年6月17日香港に着いたら飛行機変えにゃいかんのだけど、どうしたらいいのかサッパリ分からず、取り敢えずエアフランスから降りて、乗客の後にくっついて空港ビルへ入るとカウンターのところまで来てしまいました。日本人らしき人にどうすればいいか聞いたら、パスポートとかフライト・チケットとか持ってるもんをみんな見せりゃいいというもんで、それらを見せて無事通過しました。
  香港・啓徳空港に着いたのが昼過ぎで、乗り換え便のキャセイ・パシフィックが、夕方出発というスケジュールでしたが、早速、キャセイのカウンタへ行き、日本語で相談可とありましたので、そこの女性に話しかけたら、日本語はさっぱり通じないことが分かりがっかりしました。でも、ごたごたと話している内に18:00受付けが始まる頃に、同じカウンターにくれば良いことを理解しました。それから5時間ほど飛行機の発着や市街方向を眺めたり、空港の中で、ぶらぶらしていました。

香港・啓徳空港
  1965.06.17

  やがて18:00近くなったのでカウンターに行くと白人女性(英国人?)の受付係がいて、パスポート、チケットを出して手続きをしてもらったのですが、英語の早口でぺらぺらやられて、何言っているのかさっぱり分からないのです。スピークモア スローリーといっても通じないので、5回ほど同じ事を言われ、やっと渡されたチケットで出発のゲートインまでに最寄りのレストランで軽食を食えという意味をキャッチしました。空港のレストランでサンドイッチを食べて、20:00頃キャセイで香港を離陸したのでした。
  キャセイのシンガポール便は、結構満員で、隣にターバン巻いたインド人がいたのですが、臭くて閉口しました。機内では夕食が出て、腹一杯になりました。彼はベジタビリアンの食事をしていました。
  シンガポールについたのは、小生の時計では、、もう夜中の2時頃だったでしょうか。当時ワン・オーバナイトの接続の場合は、前側というか乗客を運んできた会社が、ホテル代を負担しますので、当方は無料でした。まあ、それはいいのですが、迎えに来る筈のデーラーは来ていませんで、困り果てました。取り敢えず指定のホテルに行け、と言うメモが伝言板にありましたので、新婚のアベックが後ろに、小生が運転手の横にの案配で、真暗い道をタクシーでシンガポール市内のホテルへ行きました。
  小生が泊ったホテルは今日乗ってきたキャセイ航空指定のホテルでしたが、分厚いホテル台帳に長々と書き込みさせられたのには閉口しました。
   でも、荷物も無事ついて来たし、凄いデラックスな部屋で、やっと自分一人の世界になり、シャワーを浴びると今までの今日一日の緊張感から解放されたせいか、疲れがどっと出て、ぐっすり寝込んでしまいました。

  ▼  昭和40(1965)年6月18日、このシンガポールで一夜明かしたホテルの朝のメニューもグーでしたが、何を食べたかは記憶にありません。なにしろ35年前の事ですから。
  その日は、確か午後1時くらいの出発便でしたから、午前中は暇だったので、こうなると好奇心の虫が騒ぎまして、ホテルにたのんで、タクシー観光をやることにしました。
  運転手は年配のチョコレート・ブラウンに短い白髭のマレー人でしたが、小生のつたない英語にも良く応対してくれ、TIGER BALM GARDENあたりを廻りました。彼は戦時中、山下奉文大将のお抱え運転手だったとかで、不思議な因縁に驚きました。

  Singaporeシテイホール
  1965.06.18
  若かかりし小生
  1965.06.18
  Hindu Tenple
  1965.06.18
  ポリネシアン部落
  1965.06.18
  Tiger Balm Garden入り口
  1965.06.18
  ゴリラ・モニュメント
  1965.06.18
  大鵬・柏戸の前で
  1965.06.18
  ホテルからの眺望
  1965.06.18
  Singapore博物館
  1965.06.18
  ホテルからの眺望
  1965.06.18

  観光から一旦ホテルに引き揚げ、時間があるのでランチを済ませました。タダのチェックアウトを済ませて、タクシーで空港に行く頃には、これから後がビジネスの本番というのに初めての海外出張にしては、気持ちのゆとりがあるというか、あまり悲壮感はありませんでした。

  中国色豊かな町並
  1965.06.18
  空港近くの椰子並木
  1965.06.18
  英国乗客とセイロンへ
  1965.06.18
  Singapore上空
  1965.06.18
  マレー半島の
  蛇行する川
  1965.06.18
  セイロンももうすぐ
  (インド洋上)
  1965.06.18

▼  BOACのコメット機(この機種は両翼の根元にジェットエンジン搭載)で、SINGAPORE 空港を飛び立ち、KUALA RUMPUR 空港経由、インド洋をひとまたぎして午後4時頃でしょうか、CEYLON 島の COLOMBO 空港に無事着きました。  南洋の孤島にてスコールの後のむんむんした暑さの中で、家畜の匂いが漂う鄙びた田舎の飛行場という雰囲気でした。同じ飛行機には、英国の老婦人団体の観光客が大勢搭乗していました。さて問題の入国審査ですが、ここは持ち金を全部申告して、財布の中まで調べるのです。出国の際にもまた持ち金をチェックするのです。つまり、滞在期間に比して、お金の消費が多いとこの国は有名な宝石の産地なので宝石を隠していないか調べます。また、お金の消費が少ないと闇ドルを持ち込んだのだろうと追求されます。いずれにしてもお金の消費は滞在期間に照合して、リーゾナブルでなければならないのです。手続きの書類は、とても多くて難しく、係官に何度も聞きながら書き込みました。かの英国の老婦人団体の観光客がごった返す中、小生の入国審査は誰よりも早くパスしてしまいました。こうして空港出口で、別途日本からやってきていたビジネスマンとやっと合流できたのでした。CEYLON島のCOLOMBO 空港の通関で財布の中味をチェックする話の続きですが、当地で合流した日本人ビジネスマンは、仕事の関係で日本〜 COLOMBO 間をよく往復しているとのことでしたが、ある時、怪しまれて別室に連れられて行き、服を脱がされて全部調べられた由でした。滞在ホテルに宝石売りや女性の紹介屋がくるのですが、当地の人間は色は黒いし、口の中が真っ赤で、白いぎざぎざの歯をしていて、なんとなく気味が悪かったのです。

  宿泊ホテル庭
  左側インド洋
  1965.06.20頃
  ホテル横の芝生
  左側インド洋
  同左
  ホテル前
  同左
  ホテル前交差点
  同左

  ▼大平洋戦争中、インド洋沖の孤島にアンダマン諸島というのがあって、日本の兵隊が、食人種の土着民に食われたとの話を聞いていたのが、頭にこびりついていたのでしょうね。夜は何をするともなく、数人が暗がりにじ〜っとたたずんでいたりするので、その風貌と共に気持ちの悪さひとしおだったことが、記憶の底に残っています。 現地のレストランで海老の天ぷらを食べた時、見かけは美味そうだったのですが、実際食べると椰子油で揚げてあるので特有な匂いがして、あまり美味くはなかったです。なにしろ食用油は椰子油だけですから、滞在中、体に椰子油の匂いがしみ込んで閉口しました。 セイロン島は英国領の故か、町はホテルなども英国風なところが多い様に思いました。泊ったホテルの横には広い芝生の庭が、海岸まで伸びていて、廻りの風景も小生には異国情緒タップリでした。真っ赤な火焔のような花が咲いた火焔木という潅木が、あちらこちら生えていました。

  コロンボの2階建バス
  1965.06.20頃
  オフイス前
  赤い火焔木の花
  同左
  オフイス前で記念撮影
  同左

  ▼ 行きと帰りに2日かかるので、コロンボには全日程の半分、4日滞在し、やっと帰国の日がきまして、また一人で帰ることになりました。 土産は、ささやかに買ったアクオマリーン1個とムーンストーン数個の宝石でした。行きと同じBOACのコメット機(後で聞いたら、コメットはよく落ちたらしい)で、馬糞の匂いがする南洋のセイロン島はコロンボ空港を後にした時は、達成感に満ち満ちて、まるで凱旋将軍に気持ちはこのようなものであろうと、意気揚々としていました。シンガポールの空港に着いた時、これで東洋に戻ってきたという開放感に満ち満ちていました。また、オーバーナイトして帰るだけですから、同じ企業系列のM商事会社に連絡したら、夕食をご一緒にということになりまして、小生中華料理には目が無いもので、たらふく食べさせてもらいました。町も案内してもらって、現地のマレーシア人は、女房を質にいれても食するというドリアンを買い、会社の車でシテイホ−ルのある広っぱに行き、ここでかの果物を食べたのです。 M商事会社の人は宿にだけは絶対に持ち帰らないようにと釘をさされました。あの匂いは毛蟹じゃないけれど、広範囲に広がり、西洋人の居るホテルでは持ち込みは御法度とのことでした。同類項がいるのか、付近にドリアンのイボイボの皮がいっぱい落ちていました。さすがに例の甘ったるいバターのようで、匂いのきついドリアンを全部は食えず、お抱えの運転手にプレゼントしたら喜んでいました。先に紹介しましたが、この日の宿は、BOACが世話してくれた、ゴージャスなホテルでした。CATHEYで香港まで、それからはJALで台北の懐かしい松山空港、那覇空港のトランジットを経て、無事に日本に帰着したのでありました。「初めての海外出張」は、この辺で終わります。長々とお付き合い戴き、有難うございました。m(_"_)m

  帰途のコロンボ空港
  大任果たし心が躍る
  1965.06.24
  想い出残し
  セイロン離陸
  同左
  途中クアラで小休止
  1965.06.24
  台北松山空港
20年ぶりの生まれ故郷
  1965.06.25

 

  ▼  COLOMBO での仕事は、何しろ35年前の事で、結局商談はその後何故か不成功に終わった。しかし、自分にとっては、死ぬことを除けば、こんな苦労は無いと思ったものの、今までの生涯で初めての貴重な海外体験を得たので救われた。なんと入社7年目のひよこ社員が、英語もろくに出来ないのに国際会議に行かされたのだ。当時のレポートを御紹介する。

                  ー記ー

   セイロン雑感        

                     昭和40年12月14日   やまと

  今年の初めに入札が行われた Ceylon Petroleum Co.(CPC) の日産38,000バーレルの石油精製プラント一式(プロセス、電気、石油タンクと配管、土建)が、これに応札した日本のエンジニアリング会社T社とイタリアのエンジニアリング会社E社の二者競合となっていた。 既に6月初旬にCPC対イタリアのE社の技術打ち合せが終わったのをうけ、CPC対日本連合のtechnical negociation が現地で行われることになり、日本側の取纏め役である総合エンジニアリング会社のT社から傘下の電機メーカーT社、総合建設のT社、Fエンジニアリング、K建設の各社に参加要請があった。電気関係一式を担当していた当社として、小生がこの業務に従事すべく、去る6月中・下旬にかけてセイロンの首都コロンボに滞在したので、その時の模様を述べる。

1.会議の内容:
技術上の打合わせ経過は紙面の都合で割愛するが、technical negociationは、セイロン側がCPCの Chairman ,project manager に本プラントの総合立案を受け持ったフランスの Institute Francais du Petrole(IFP) の技師と女性速記秘書の4名、日本側は、総合エンジニアリング会社のT社を総代とする各社代表各1名の計5名で行われた。
面白いことに参加者全員の母国語ではない英語で会議が行われたことは、海外出張経験初めてで、しかも初級英会話すらろくに喋られない小生には幸いであった。というのもCPCの技師も小生がついて行ける程度に話すし、主にセイロン側の説明役を代行したIFP の技師は、フランスなまりの英語ではあったが、一言一言区切って、ユーモアを交え、ゼスチュアたっぷりにやってくれて、我々の日本式英語も結構通用し、双方とも極めて和やかな雰囲気の中で会議が進行したからである。
ピンチになったら筆談でやれば事足りた。丁度そろばんを持っていたら、それは何かと質問されたので、咄嗟に " Japanese Calculation Computer "と思いつくまま怪しげな英語で答えた一幕もあったが、肯いたところを見ると、何んとか通じたのだろう。
日本側が提出した技術仕様書はCPC側ですでに検討していて、ポイントを議題に取纏めていて、これをもとに打ち合わせて会議速記録で確認、翌日にはもう立派な議事録として、我々に手渡されるという具合で至極効率が良く、短時間ながら充実した会議であった。日頃社内で会議の非能率是正が云々されている折りから、学ぶべき点が多かったと思う。

2.雑感:
セイロンは、途中シンガポールでのオーバーナイトを入れて片道2日、時差は日本より約3時間半遅れ、赤道より若干北の印度半島の南端に位置する、北海道より少し小さな常夏の島で、カナダと同じ英連邦の一つで、首都は有名な港湾都市コロンボである。
ものの本によると、印度が赤茶けた殺伐とした風土であるのに比べ、セイロン島は仏の眉間の真珠とか、常緑の別天地とかで形容されているあが、確かにその通りで、風光明媚な孤島である。ところが原住民は一種独特の風貌をしていて気味が悪く、とっつきのいい人種ではなかった。紅茶の産地であるのはいうまでもないが、世界有数の宝石の産地であることを行くまで知らなかった。外貨不足の関係から、1日滞在につき20米ドルを Ceylon Bank に送金した証拠がないとビザを発行してくれない。ヤミドルの持ち込みと、宝石持ち出しを恐れ、空港税関検査は、今まで聞いた中では最も厳しく、ボデイ・タッチから、財布の中身までチェックする。同行の日本人技師の中には、別室で全身検査された者もいる。
現地人は他の後進国と同様に貧富の差が激しいのと同時に、教養の程度も、英国留学の経験者から文盲まで相当バラエテイがある。食事は椰子油、唐辛子、胡椒をふんだんに使った奇妙な料理が多く、ほとんど我々日本人の口には合わないが、海老、蟹類が豊富だったのは意外であった。気温は35℃位あるが、海洋性気候で湿度が少ないだけ比較的凌ぎ易く、現地人は午後1時頃から3時頃まで午睡を取るようである。水質は悪く、暑いのでついホテルで水を飲むと腹を壊す。
総じて開発が遅れている国との印象を受けたが、本プラントもセイロン国繁栄の一助を担うものであるのは過言ではなく、一日も早く日本側に凱歌が上がらんことを念じつつセイロンをあとにしたのであった。

追記:
(1)この打合わせは、機器個々の内容に対するものではなく、先にCPCに提出されたエンジニアリング会社T社とイアタリアのE社の仕様内容が相当異なるため、両社のものをなるべく同一の線に合わせて、CPCがが再度評価するために仕様の調整を図る形で行われた。帰国後本打合わせにより、修正仕様書を提出することになった。
(2)現地情報によれば、イアタリアのE社は、既に伊国政府の強力なバックアップ による営業活動をしており、エンジニアリング会社T社側も遅れ馳せながら、現地 M物産より日本大使館を通じて円借款を認めさせるべく強力な政治工作を行っているが、獲注は予断を許さない。 以上


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