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旧千代田小学校界隈と旧南一條通

                                  加藤正宏

1、千代田小と育才中学

@ユニークな千代田小の教育 

奉天の千代田小学校には宮武城吉先生がおられた。彼は小学校の東に隣接する満洲教育専門学校を卒業された方だ。彼の授業はユニークであった。「『縮める』『引き伸ばし』ということを課しました。ある文章をできる限り『縮める』とは、文章の大意を簡潔にまとめるということ、『引き伸ばし』とは、ある文章の傍線の部分を解釈するのに単なる解釈ではなく、もっと広く深く考えて、連想を重ねてできる限り長く、それも飴のように長く答えるということ。それは時間中に口頭で皆の前で発表させ、異論反論も出て賑やかな討論会になったりしました。まったくユニークな授業でした。 これも要するに『自分で考える』訓練を課したものでしょう。はじめは戸惑いましたが、慣れてくると薀蓄を傾けて次から次へと連想が飛んで、実に楽しい時間だったと思い出します。」と三重野 康(元日銀総裁)氏が『安部公房展』注@で記載されている。このような授業の中で、安部公房の優れた発想力、感性が養われたのだろうと、授業の中での安部公房のエピソードも三重野氏は紹介している。まさに、現在の教育界で重視され始めてきているディベートが行われていたのである。

現在の小学校では、或いは欧米では珍しくはないであろうが、教室での机の配置も当時にあってはかなりユニークなものであった。教壇に向かって生徒の机が配置されているのではない。「教壇に向かって横向きに並んでいて、給食のときのように八つの机を向かい合わせて四つずつ二列したグループが、月曜組から土曜組まで六つありました。」「各組にはリーダーと、学習、体育、訓練、図書、清潔、理科、工作係があって、組の中の役割と同時に、その曜日にはクラス全体の連絡指揮にあたり、授業が円滑に進むようにするのです。全員がいずれかの係になっている自治活動だったといえると思います」と三重野 康氏は書かれている。

千代田小学校は現在でいう教育大学の附属小学校というところであったのだろう。つまり、満洲教育専門学校の研究実験校で、教育面における先進的な様々な取り組みがなされていたようだ。私にはこのような日本人の先進的な取り組みの雰囲気は満洲全体にあったように思う。自分たちの国土であったかどうかは別にして、今尚残る広場と放射線状になった道路などのインフラ、様々な建物の遺構などから、日本ではできなかった新しい取り組みがなされてきていたことを強く感じる。

『師の傘寿を記念して』という冊子が宮武城吉先生の教え子たちによって編まれていて、先生のお嬢さんである山根カリミさんがお持ちだという。お借りして、いつか読んでみたいものだと考えている。

 

A育才中学

千代田小学校同窓会会長の遠藤和子さんに連絡が取れ、『千代田・最後の生徒たち 奉天1945年―残像を紡ぐ― 奉天千代田国民学校 終戦時在校生の記録』『エピローグ』の冊子を頂き、いろいろと当時の様子をお教えていただいた。また、遠藤さんの紹介で、宮武城吉先生のお嬢さんで千代田小の同窓生でもある山根カリミさんとも電話やFAXで連絡が取れ、彼女にもまた多くのことを教えていただいた。

冊子に記載されていたことや彼女たちにお聞きしたこと、現在その敷地に建つ育才中学で私自身が見聞したことをもとに、少し千代田小学校の紹介をしておこう。 

3年滞在(2004〜7年)した瀋陽から、私はこの8月に帰国してきた。

何度か道路からは見てきた育才中学(中国では日本の中学と高校に相当)が気になっていた。ここは嘗て満鉄附属地時代には教育研修所と千代田小学校のあったところである。育才中学の正門近くの壁には、学生たちの進学の成績や、学科の全国コンテストで優秀な成績をとった生徒の名前がいつも掲示されていた。物理でコンテスト一位になった生徒が北京大学に受け入れられたと書いてあったこともある。

育才学校の進学速報

帰国直前の7月末、山田高志郎さん(育才中学の日本語教師)の案内で、校内に入って見学してきた。正門で待ち合わせしていた時に見た掲示には、「東北育才学校2007高考快通訊」の表題の下、2007年の大学入試速報が掲載されていた。一部を翻訳してみると、次のようになる。「2007年、教師学生全員の努力の下、わが校は高い水準の教育の質を維持継続し、50名近くの学生が卒業後、アメリカ、イギリス、カナダ、日本、シンガーポールなどのそれぞれの国の世界的に著名な大学に入学した。国内の大学入試でも、良い成績をあげ、統計結果が示すように、大学入試前に22名の学生が清華大、北京大、復旦大、浙大、上海交通大、中国科技大など有名大学に推薦されて入学、15名の者が語学院校に受け入れられた。大学入試後には更に27名の者が清華大、北京大に合格した。わが校の趙天○、李双辰の両名は瀋陽市の2007年大学入試で文科理科のそれぞれのトップを取った。」と。速報1で紹介されていた。07年に合格した日本の大学は名古屋大、東京大、京都大、東京工大、一橋大、早稲田、横浜国立大であった。阪大などの名がないが、きっと年度によって変ってくるのであろう。アメリカでは耶魯大学などと記載されていたが、これはエール大学のことであろう。 

掲示を見るかぎり、瀋陽市きっての受験有名校と言うところであろうか。初期の育才中学で教鞭をとった王長喜さんの回顧の記事が瀋陽日報(2007年8月23日)に掲載されていた。学生は幹部の子弟で、一週間の学習が終わる土曜日の夜には子供の出迎えにやって来た車で中山公園の北側の壁一杯に車が並んでいたという。1948年の初頭、瀋陽が国民党から共産党の手に渡ったとき、現政権ではこれを解放と言うのだが、そのとき瀋陽解放の中心となった陳雲や張聞天などの革命家の配慮の下、奉天千代田小学校の跡地に東北育才学校が創られた。高崗の夫人が校長となり、副校長以下教員には全国から優秀な人材を集めた。このようにして始まった学校である。学校は1年生から6年生までで、各学年一クラス、学生は全て中国共産党東北局、遼寧省の指導者や幹部の子弟であったのだそうだ。育才中学ではないが、私が勤めていた瀋陽薬科大学の近くに遼寧省でも有名な受験校「二中」があるが、毎日下校時には車の待機で一車線が塞がり、バスやタクシーの運行に影響を与えている。当時は車も一般的なものでなかった時代、公園の北側の壁一杯に車が並んでいる状況は特異なものであったろう。 

正門から正面に向かって 旧教育研修所 瀋陽市文物局の牌

現在の育才中学の正門の向かって右(東)に建っている建物は育才になってから建てられた建物である。正面に旧い3階建ての建物が見える。正面の建物の入り口の右には近年付けられた牌が見られる。黒色の牌地に黄金色で「瀋陽市不可移動文物 原奉天千代田小学校教学楼 瀋陽市文物局立」で書かれている。入り口手前には時計塔があり、そこには日中両文で「祝賀 創立四十五周年」の看板掲げられている。文面の日本文は「祝東北育才学校四十五周年 かつて、1927〜1945、この地に日本人小学校がありました。ここにつどい教へ、学び、遊んだ教員児童たちが、日中友好の心をこめてはるかに日本から東北育才学校の皆さんへ、この太陽電池時計塔を贈ります。1994・5・1奉天千代田小学校同窓会」とある。 これら入り口の瀋陽市文物局の牌や贈られた時計塔の看板から、この建物が千代田小学校の校舎と勘違いしてしまう。私も最初はそのように勘違いしていたのだが、当時のいくつかの地図で確認すると、これは小学校の校舎ではなく、当時の教育研修所、その前身は満洲教育専門学校(1924年、大連に創られた、数年後には現在の育才中学の地に移転してきたもの)だ。当時の地図で見ると、研修所の西隣、忠霊塔側に建てられた鉤型の校舎がその附属小学校として開校、後に千代田小学校と呼ばれた建物であった。運動場側に出っ張った東の部分が講堂である。

B冊子『千代田・最後の生徒たち』から

小学校の18回生の方が、昭和15年(1940年)に入学したと書かれ、19回生の方が16年4月に入学したと書かれているから、単純に差し引き計算すると、1回生が1年生に入学したのは、母体の専門学校ができる前になってしまう。しかし、開校最初の年は一挙に6回生まで生まれたことだろうから、それらを考えると附属小学校として誕生したのが1926年或いは27年でも辻褄が合う。教育専門学校が1931年には廃止が決定し、1933年に最後の卒業生を送り出している。この間、1932年には附属小学校も閉校となり、千代田小学校と名が代わった。

日本と同様に、1941年には国民学校と称されるようになり、奉天市千代田在満国民学校となり、1944年9月には関東軍によって校舎を接取され、富士青年学校・平安小学校・雪見小学校に児童は分かれざるを得なかった。

冊子『千代田・最後の生徒たち 奉天1945年―残像を紡ぐ― 奉天千代田国民学校 終戦時在校生の記録』注Aによると、1945年8月15日後の混乱と恐怖の中、「10月下旬には小中学校全学年の授業が再開され、千代田も学校名を『瀋陽市日本人居留民会立千代田国民学校』と改称した(柴田・同窓会前会長の記録より)。」のだが、校舎とした青年学校は北から逃れ来る日本人の避難民に明け渡し、教室を求めて、「近くの興福寺の本堂や境内、消防署跡、測候所や平和医院などを転々としながら、1946年7月15日に正式に閉校する日まで勉強してきた。この時期のことを、みんな『寺子屋学校』と懐かしくもいとしく思い出している。」のだそうだ。

この『千代田・最後の生徒たち』の冊子は当時の様子を十分に伝えてくれる貴重な記録になっている。写真も豊富だし、時代の大きなうねりの中で、児童が感じそして見た状況がそこには写し取られている。素晴らしい冊子である。それにしても、写真で驚いたのは5年生の段階でも、体操の時間は女子もブルマー(?)一枚の上半身裸の姿であったことだ。 

この冊子に目を通しながら、より詳しく知りたい項目を編集者の代表・現同窓会の会長遠藤和子さんや最初に紹介した宮武先生のお嬢さん山根カリミさんにお訊ねしてみた。
 

 私の質問は以下の八点である。

一、各学年のクラス数は基本的に幾つだったのでしょうか。
 冊子を見ているかぎり、3クラス、4クラスなど、回生によって違いがみられるのですが・・・・。

二、2年生か、3年生までは男女混合クラスだったのでしょうか。
 4年生からは男子クラス、女子クラスに完全に分けられたということでしょうか。

三、幼稚園や高等小学校なども併設されていたのでしょうか。
 併設されていたなら、幼稚園や高等小学校の年限は何年だったのでしょうか。

四、4年生からは週に一度、満州語(中国語)を学ぶようになっていたのでしょうか。

以下、建物や敷地などについて、

五、防空壕は戦後造られたものでしょうか。(昭和20年以前にはなかった?)

六、千代田小の場合も、敗戦後、満洲の奥地から避難されてきた人々が亡くなられた後、防空壕或いはグランドに仮埋葬されたのでしょうか。

七、築山の向かいに見える忠霊塔ですが、小学校の正門を出て、道を横切り直ぐに行くことができたのでしょうか。それとも、千代田通りまで行って廻りこんで来なければならなかったのでしょうか。

八、講堂の件での質問です。

@校長先生などが話される演壇はどの方角にあったのでしょうか。教室棟に繋がった方向にあったのでしょうか。

A御真影はどの方向に掛けられてあったのでしょうか。

B宮城遥拝は講堂の中では、どの方角に向かって遥拝したのでしょうか。

メールで御返事を戴いた遠藤さんのものを下敷きに山根さんの説明が詳しい部分いついては付け加える形で紹介させていただくと、次のようになる(後日追加も含め)。

一、クラス数について。基本的には1学年3クラスでした。でも戦争がはげしくなり、千代田が接収されたあと、本土から空襲を逃れて多くの流入した人びとがいましたし、分散したこともあって、4クラスになった学年もあります。終戦直前に青年学校に再結集したときは、逆に6年は2クラスしかできませんでした。でもずっとそれまでは3クラスでした。

二、2年までは男女が一緒のクラスが3クラスあり、3年になると男子組、女子組、男女組の3クラスでした。

《山根カリミさんの御返事》
 1年生は男女混成、2年も同様、この学年に養護学級が加わる。主に虚弱児向け。昔の通信簿には成績欄、操行欄、健康(身体情況?)欄があり、健康欄(可、不可)で不可と評価されると養護学級へ廻された。給食昼寝の時間が有り、尚一般児童でも冬期は紫外線照射の時間があり、肝油も昼食前に飲まされました。3年生から男子・男女(養護学級の名残りか?)・女子の3組編成となり卒業までそのままでした。 

三、私が入学する前は(いつの頃かは知りませんガ)高等科というのがあったように聞いています。これはカリミさんならご存じでしょう。幼稚園は併設されていました。分散したときはどこに行っていたのか、これも下級生だった方に聞いてみないとわかりません。再結集したときには、幼稚園も青年学校に一緒にあったということを聞いています。

《山根カリミさんの御返事》
 幼稚園はS5年からS19年の秋(?)迄併設されていた。高等科は教専附属小学校時代から有ったようです(附属小S2〜8・千代田尋常高等小学校S8〜12・千代田尋常小学校S12〜15・千代田在満国民学校S16〜20年・瀋陽千代田小学校S20〜21・7・15)。高等科は2学年制だったようです。

《後日追加》
 高等科は昭和8年から12年まではあったそうです。なぜなくなったは定かではありませんが、教育専門学校の存在と関係があったのではないかと思われるという先輩たちの話でした。もちろん幼稚園は先日お答えしたように、1クラスがずっと最後まで併設されていました。

四、4年生だったのか、3年生だったのか定かではありませんが、週1時間の満州語の勉強がありました。いくつかのページは覚えています。

来了摩?   ライラ
ツォウラマ  ツォウラ。
……快走クァイツォ ウ  慢走。
……
  シャン ナール チュイ
マイ  トンシー  チュイ
マイ  ションモ  トンシー  チュイ
マイ  ビンゴォ  チュイ
ツァイチェン
ツァイチェン
……

といったような会話をならっていました。でも、一度も使ったことはありませんでした。使う場面がなかったからです。

《山根カリミさんの御返事》
 中国語は4年生から週1時間(?)有りました。(『早起』『上?児去?』)の二単元を憶えています。

《後日追加》
 中国語の授業は基本的に4年からだということです。ほとんど覚えていないという人もいましたので、クラスによって熱心の度合いが違ったのかもしれません。

五、防空壕は、戦前です。初めはグラウンドのぐるりに掘られていました。まだ分散する前にすでに掘られていたと思います。ですから1944年の初夏ぐらいからでしょうか。いずれにしろ冬は掘ることは不可能ですから、掘ってすぐに分散の憂き目にあい、一度も潜ったことはありません。

六、 初めのうちはソ連軍が校舎を使用していたので、その頃はなかったと思います。ソ連軍が撤退してから防空壕への投げ込みがあったと思います。そして次第に高く積まれていったと。でも、とても仮埋葬などと言えるものではありませんでした。

七、忠霊塔には正門を出て右に行き、千代田通りを左折して忠霊塔の正面から境内に入るのが正規の入り方です。でも、正門を出てそのまま真っ直ぐに入ることができる場所があったような気もします。

《山根カリミさんの御返事》
 正門〜南門(忠霊塔の)〜北門と通り抜けられました。この道を通学路にしていたクラスメートも居りました。

八、講堂について

 演壇は校舎を背にしての正面にあり、臙脂色のビロードの幕がかかっていました。 ・ 御真影の場所は関心がなかったのでよく覚えていませんが、たぶん校長室にあったと 思います。
・ 遥拝は、グランドでは校舎側に立ち台があったので、そのまま斜め右を向いたかな?   講堂のときは回れ右をしたような気がします。

《山根カリミさんの御返事》はFAXだったので、図を描いて説明してくださいました。その図によると、運動場寄りの壁際に演壇その後ろにご真影の奉戴所がある。宮城遥拝については記憶無しとの御返事でした。

《後日追加》
 本物の御真影は校舎の前の小さな池のある庭に、コンクリートづくりの小さな建物?があり、それは百葉箱よりも二周り大きいぐらいで、神社風の屋根がついているものがあり、それが奉安殿と言われて御真影が置かれていたところだったそうです。これは多くの先輩幹事の方々が言っていますので、間違いないと思います

 これらの八つ質問をする以前に、最初に私が質問してお訊ねした事柄がある。

千代田小学校に中国人も在籍していたのかということについてであった。

「忘れられぬカク君殴打事件」18回生・落合広親、「教員となって思い出すカク君のこと」18回生・松村光久の両氏の記事を目にしたからである。どちらも天皇陛下に対する不敬な言動あったとして、教師に殴打されたものだ。前者は天皇陛下も「我々と同じ米を食べているに違いない」と言ったこと、後者は「私たちは天皇陛下の赤子である」をクラスの者が誰一人読めず、みんなで「アカゴです。」と読んで、可笑しくて少し笑ったことによる。みんなの代わりに代表としての生贄になったのだそうだ。松村さんはカク君の家を、「おそらく日本人とはケタ違いの裕福な家だったと思われる」と書いておられる。

この質問に遠藤和子さんは以下のようなエピソードを寄せてくださった(一部私の判断で省略させてもらっている)。

メールにありました中国人が千代田に在籍していたことですが、私のクラスメートに孫春栄さんがいます。彼女の2つか3つ年下の妹も在籍していました。ハルエちゃんと呼んでいますが、彼女は私たちが訪中するたびに行動をともにして、案内やらコーディネイトやら手伝ってくれます。

彼女については私にとっては辛い想い出があります。3年のときに(1942年)リンゴの配給券がクラスで配られ、1枚足りなくなりました。私はそれを迷うことなくハルエちゃんの仕業と断定し、否定する彼女と掴み合いの喧嘩となりました。そして私は嘘つきと怒鳴って彼女をひっぱたいたのです。本田豊子先生(故人)が飛んできて、私を強く叱りました。私は納得できず「だって日本人は泥棒しないんだから」と、ひどい理屈で抗弁し、いっそう強く叱られました。

戦後国交が回復し、ハルエちゃんと連絡がついたとき、私は会報の中で私のしたことを公開し、どんなに私が間違っていたか、反省とともにお詫びをしました。ハルエちゃんから家族みんなでその文を読んで、これから中日友好で仲良くしましょう、あのときのことは許しますという返事をもらいました。恥ずかしかったけれど、私は自分の何が間違っていたかをみんなの前にはっきりさせたかったのです。それは小さなことかもしれませんが、私は日本そのものの間違いを私が体現したのだとおもいましたから。

ハルエちゃんたちは、戦後日本に協力した人間ということで批判され、追放されていたそうです。その後名誉回復して、勉強して教師になったそうですが、文革のときに再びそのことが批判の対象になり、下放されて辛いおもいをしたようです。いまは名誉回復して安定しているようですが、それもこれもみんな日本のせいだと思っています。

このエピソードを読んで、私も次のようなメールを出した。

お書きになっておられように、その時代の空気が、遠藤さんにも当時影響を与えていたのですね。「『だって日本人は泥棒しないんだから』と、ひどい理屈」とありましたが、ほんとにひどい理屈ですね、でも当時の日本の空気は純真な児童にそのような考えを植え付けてしまっていたのでしょうね。その後、公開で謝られたと言うのは遠藤さんご自身の人間的に素晴らしいところなのでしょうね。

私は、中国人と友だちになったとき、いつも口にするのが、「中国人にも、日本人にも、悪いやつも居れば、良いやつも居る。中国人だから、日本人だから何々だということはない。」というものです。必ず、中国人の友だちも、「そうだ。その通りだ。」と同意してきます。

とにかく、『千代田・最後の生徒たち』の冊子は貴重な証言集だと思う。この姉妹編とも言うべき『十三歳の証言』も是非読んでみたいものである。

左・旧小学校の講堂
中・現在の教員宿舎
右・旧教育研修所
左・旧小学校
中・現在の教員宿舎
右・旧教育研修所
旧小学校
旧小学校の現在の手摺 旧教育研修所の現在の手摺 旧教育研修所の現在の窓柵

 現育才中学日本語教師の山田高志郎さんに案内してもらったのは、正門正面の3階建ての旧教育研修所と育才中学になってから建てられた右手の校舎だった。右手の校舎の日本人教師控え室には千代田小同窓会から贈られたコピー機が見られた。旧教育研修所の階段の手摺はまだ木製であった。この校舎の外部の窓にはその交差するところに花柄の模様がある金属柵が取り付けてあったが、旧教育研修所のそれではなく育才中学になってから取り付けられたようだ。千代田小の帽章は桜の花に満鉄のMとレールを合わせたものだったそうだから。
 左手奥の西校舎は外観や内部に改修が施されているが、旧千代田小学校の校舎である。西校舎の写真は山田さんにお願いして撮ってもらったものだ。滑り台になっていた木製の手摺も金属製に変り、床もコンクリートから花崗岩に変り、外観も煉瓦色にはなっているものの、骨格は千代田小学校の姿を残している建物である。国民学校の頃一時、木造の臨時教室が3階に建てられ、児童たちが兎小屋と言っていたそうだが、この部分は現在無くなり、原型の2階建てになっている。山田さんの話では、旧講堂であったところは卓球場として現在使用されているとのことだ。築山は運動場の西、忠霊塔側にあった。正門も忠霊塔側についていた。

2、忠霊塔 

満鉄ガイド地図 『千代田・最後の生徒たち』
と『エピローグ』

満鉄の発行していた簡便な一枚の地図兼観光ガイドである『奉天』注Bには、忠霊塔の写真とその解説がある。解説は次のようなものである。

「忠霊塔 千代田通(駅東九町)に在って、壮麗なる六稜ピラミツト型、日露役奉天会戦の戦没将士(西比利亜出兵、鄭家屯事件、寛城子事件の犠牲者も含む)三萬五千三十八名の霊灰を祀り、別に満洲事変戦没将士の分も合祀しつつある。尚附近には小銃弾型「明治三十七八年戦役忠魂碑」があり、毎年春秋二回招魂祭が執行されている。」

 奉天に住んで居られた或る御老人から、毎年3月10日の陸軍記念日にはこの30メートルもの高さがある塔にお参りしたとのお話をお聞きしたこともある。

『千代田・最後の生徒たち』の冊子に何枚も収められた入学式の集合写真は忠霊塔の前での写真である。保護者と共に写っている写真からは忠霊塔の大きさが実感できる。19回生の大岩叶子さんは「入学の時は忠霊塔の杏の花が美しく咲き、そのあとのライラックの花の香る季節・・・・。」と花が美しく咲き香っていた忠霊塔附近の様子を語られている。

忠霊塔の前での入学記念写真撮影は他の小学校でもやられていたようで、いつも資料を戴いている栗原節也(平安小入学、二中のときに瀋陽から引揚げられた方)からも、次のようなコメントを戴いている。

千代田通(現・中華路)から見た忠霊塔の絵葉書

 小学校入学当日、忠霊塔参拝した後、学年単位で記念写真撮影(在満時代の写真は、敗戦後すぐに焼却したため1枚も持ち帰っていませんが、敗戦前帰国していた叔母が、忠霊塔での記念写真をもち帰っていました。 人によっては、風景の入っていない写真は持ち帰っています)。忠霊塔で記憶にあるのは、杏の樹、境内にあった二三の展示物(鉄の舟艇、米軍B29 のエンジン部残骸)程度です。 奉天神社と同様に、春・秋の大祭があったと思いますが、記憶に残っていません。(小学1年の時の同期の作文がありましたので、ご参考までに別途郵送します)」

以下は同期の方の作文。

「私は、先生に忠霊塔に連れて行ってもらいました。
あの大きな鳥居をくぐるとき、みんなは帽子を脱いで、静かになりました。
いつも騒いでいる人までが、きちんと四列に並んで、みんなで一緒に最敬礼をしました。私は、最敬礼をするとき、『兵隊さんありがとう』と、心の中でお礼言いました。  忠霊塔の中には、日露戦争の時や、満州事変の時、戦争に行って戦死した兵隊さん達のお骨が一杯祭られてあるそうです。お国のためにつくされた兵隊さんです。私は「兵隊さんは、本当にえらい」と思いました。
 私達がこうして心配なくお勉強が出来るのも、兵隊さんのおかげです。『私が男の子なら、大きくなったら兵隊さんになってお国のためにつくすのだがな―』と思いました。 忠霊塔を参拝してから、お庭を廻りました。お庭は、忠魂碑がありました。『ずっと前は小さな忠霊塔だったそうですが、戦死された兵隊さんをよくお祀りするため、今の立派な忠霊塔を建てたのだ』と先生が教えて下さいました。
 ロシアから分捕った大砲や、給水槽、ロシア兵が運河で使っていたお舟等がありました。帰るとき、先生が『忠霊塔はいつもきれいにしておかなければいけません』とおっしゃいました。そして、『その辺に散らかっている木の葉を拾いなさい』とおっしゃいましたので、私は帽子に入れて運びました。
 さようならの最敬礼をするとき、私はもう一度『兵隊さんありがとう』とお礼を言いました。」

上記文中の風景の入っていない写真については、『千代田・最後の生徒たち』の冊子を編集した方が、冊子の中で「それは引き上げるときに背景のある写真の持ち出しを禁じられたからだ。」と書かれている。米軍B29のエンジン部残骸についても、冊子の中で紹介されている。19回生の曽根満州男さんの記事には「満州国空軍の『蘭花特別攻撃隊』が体当たりして一機を撃墜したのも見たが、のちにB29の残骸が忠霊塔の境内に展示されたとき、その大きさとともに機内に日本や中国の紙幣や硬貨が用意されていたことにも驚かされた。」とある。

 児童の作文は当時の軍事色の強い教育の状況を語ってくれているように私には思える。

忠霊塔の全景を描いた絵葉書と
その敷地に現在建つ聯営と遼寧中華劇場、奥には給水塔

この忠霊塔の敷地は千代田通(現中華路)から南一條通(現南一馬路)の萩町(現南京南街)の東側にあった。塔の建っていた辺りには遼寧中華劇場、忠霊塔の正門の有った千代田通に面した辺りには大きなデパートのような瀋陽聨営公司の高層ビルが現在は建っている。

最後に、『千代田・最後の生徒たち』の冊子に纏められた「忠霊塔について」を御紹介しておこう。

「忠霊塔は、千代田小学校の西北隣に位置し、母校とほぼ同程度の敷地に、日露戦争以降の戦没者三万七千柱の遺骨が収められていた。 生徒たちは毎月八日の開戦日に境内を掃除し、前を通るときは頭を垂れた。杏の花の美しい遊び場でもあった。毎年の入学式の写真はそういう場所で写していたのだ。(編集部注)」

3、満鉄図書館

旧満鉄図書館(昨年6月まで瀋鉄図書館として活用されていた)
図書館の入り口と取壊し移転するとの通知 図書館内部

このシリーズ「加藤正宏の中国史跡探訪」HPの「瀋陽史跡、8満鉄附属地」で既に一度取り上げた場所だ。去年まで瀋鉄図書館として活用されていた。今回はその現状を報告しておきたい。南一條通(現南一馬路)の萩町(現南京南街)の交差する西北の角にある。遼寧中華劇場の南京南街挟んだ対面にある。旧千代田小学校同様に「瀋陽市不可移動文物」に指定されているのだが・・・・・。

2006年6月2日に、2ヶ月を期限に取り壊しを始め、移転するとのビラが扉に張り出された。2007年8月上旬に帰国する時も、周りを工事の塀で囲ってはいたものの、まだ建物は存在していた。そこで、中国の友人にメールを出し、12月現在の状況を訊いてみた。

 友人のメールによると、この土地の使用権を香港の長江実業の経営者である李嘉誠という人物が6億元で購入し、この地に商業ビルを建てることになっているとのことで、建物は瀋陽政府の判断で別なところに原型のまま建てなおす計画になっているのだそうだ。でも、その場所は未だ確定していないとのこと。はてさてどうなることだろう。

4、教育研修所の東、測候所

 教育研修所の門は千代田小学校の門とは反対の方向、東向きで旧常盤町に面してあった。ここにも日本人民家があり、3年前に私がここを訪れた時は、南1馬路(旧南一條通)に面したところは取り壊されておらず、その近くに住んでいる中国人から、これらは全て日本人の建物だったと聞かされた。この一角の旧竹園町には昔、須永模型飛行機店があり、2、忠霊塔で紹介した栗原節也さんも何回か行かれたとのことである。彼曰く「こじんまりした店で、かなり年配の方が店主だったと思います。戦時中は模型飛行機作りが盛んだったので、奉天駅前の千代田通にあった『平和洋行』(こちらは大きな店舗で、店の奥が工場になっており、店の天井は高く、飛行機の完成品がぶら下げてあった。この店の息子さんから聞いた話では、当時は珍しかったエンジン付き飛行機も置いていたそうです。」と。

旧研修所西の旧民家 遼寧省気象

 更に東に行くと、測候所があった。当時の地図などによると、観測所と書いてあるものもある。建物そのものは変ってしまっているが、今も気象観測所である。その名は遼寧省気象局である。更に行くと雪見町、いわゆる国際道路、現在の和平南街に到る。

 それにしても、中国では満洲時代の建物が或いは敷地がその当時と同じ職種で使われていることが多い。学校、図書館、気象台、病院、銀行、警察など・・・・。当時の建物、或いはその敷地が当を得たものだった証左であろうか。但し、神道、神社関係は取り壊されていることが多い。それでも、いくらかは残されている(参照、「加藤正宏の中国史跡探訪」HPの「瀋陽史跡、18文官屯に残る鳥居、19、「瀋陽曾有『靖国神社』」の記事が新聞に)。中国人の感覚はやはり大陸的なのであろうか。

  

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注@『没後一〇年安部公房展』世田谷文学館編集・発行、2003年9月27日発行

注A『千代田・最後の生徒たち』編集委員会発行、晶文社、2005年11月1日発行

注B『奉天』南満洲鉄道株式会社 満鉄鉄道部旅客課 昭和11年5月発行

 

参考地図

     「大奉天(HOTEN)案内地図」山本良輝、昭和9年9月発行

     「実測最新奉天市街附近地図」1934年

     「大日本職業別明細図 奉天市街図」東京交通社、昭和11年9月発行

     「奉天市街全図」濱井松之助、昭和7年発行

     「大奉天区劃明細新地図」満洲帝国協和会奉天市公署分署 康徳6年2月発行

 

 

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