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   ドイツ社会統一党〔*〕

 ドイツ労働者階級とドイツのあらゆる勤労者の前衛党であり、党員数がもっとも多く影響力もつよい党である。軍国主義と反動を決定的に根絶し、民主的な基礎のうえに国を統一するためにたたかっているあらゆる民主的・進歩的勢力の先頭にたっている。ドイツ社会統一党はこれまでべつべつに存在してきたドイツ共産党(KPD)とドイツ社会民主党(SDPD)とが、マルクス=レーニン主義の政綱にもとづいて合同した結果としてうまれたものである。ドイツ共産党は、一九一八年十二月三十日「スパルタクス団」を土台としてつくられた。スパルタクス団はロシアの大十月社会主義革命の影響のもとに展開された革命的高揚の条件のもとで、カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグに指導されていた。一九二〇年十二月、ドイツ共産党に「ドイツ独立社会民主党」の党員の大部分がはいってきて、ドイツ共産党は大衆的・革命的労働者党になりはじめた。共産党の指導のもとに一九二一―二三年にドイツ労働者階級の革命的行動がおこった。右翼日和見主義グループ、つぎにトロツキスト・グループがドイツ共産党指導部からしりぞけられたのち、党のボリシェヴィキ化のための闘争を指導してきたエルンスト・テールマンが一九二五年にドイツ共産党の指導者になった。ファシズムの脅威とたたかうためにドイツ労働者階級を結集する目的で、ドイツ共産党はドイツ社会党に労働者の統一戦線をつくることを何度となく提議した。だがこの提議はドイツ社会民主党の日和見主義指導者のあいだでは反響がなかった。ドイツにヒトラー独裁が樹立されてから、ドイツ共産党の活動は禁止され、共産党は地下にはいらなければならぬことになった。その多くの指導者と党員(そのうちにはエルンスト・テールマンもふくんでいる)は逮捕され、監獄と集中収容所に監禁された。ドイツ共産党の指導者と党員の一部分は亡命しなければならなかった。
 ドイツ社会民主党は、ラッサール派とアイゼナッハ派との合同の結果として、一八七五年に創立された。一八七五年のそのゴータ綱領と一八九一年のエルフルト綱領は、重大な日和見主義的誤謬をふくんでいた。ドイツ社会民主党指導者は、階級闘争の放棄と「資本主義の社会主義への平和的転化」理論をとなえ、そうすることによって労働者階級解放の大業をうらぎり、労働者階級の隊列内におけるブルジョアジーの手さきとしての役割をはたした。二〇世紀のはじめ、資本主義の発展が独占の段階にはいるにともない、労働と資本のあいだの矛盾がはげしくなった結果、ドイツ社会民主党内に三つの潮流がはっきりとあちわれた。すなわち、右翼日和見主義と、中間派と左翼とである。第一次世界戦争のはじめから、ドイツ社会民主党の日和見主義指導者は、社会排外主義の立場に立ち、帝国主義ブルジョアジーの政策を擁護した。国会内の社会民主党議員団は、戦費に賛成し、帝国主義戦争支持の投票をした。左翼社会民主党員(カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルグその他)は、国際主義の立場をとり、ドイツ・プロレタリアートの広範な反戦運動を指導し、「スパルタクス団」を創立した。この団は共産党の基礎となった。ロシアの大十月社会主義革命ののち、ドイツ社会民主党の日和見主義指導者は、ドイツ帝国主義の救済者としての役割を公然とはたすようになり、労働運動を残酷に懲らしめた。彼らは十一月ブルジョア革命の過程にうまれたソヴェトを反革命のついたてに変えた。帝国主義叢のために、労働者階級を分裂させる政策を遂行して、社会民主党指導者は、ファシストがいまにも権力を獲得しようとしているのに、共産党との行動の統一をうちたてることを拒否し、ファシズムの権力への道をひらいてやった。彼らは、ヒトラーが第二次世界戦争をひきおこした時期でさえも、ファシズム反対の共同行動をとろうという共産党の何回もの提議をしりぞけた。だが反動的指導者の意志にもかかわらず、地下の反ファシスト行動をとっていた共産党員と先進的社会民主党員は行潮の統一を実現しはじめた。
 ソ同盟によってヒトラー・ドイツが壊滅されてから、共産党員と労働者の社会民主党員のなかに、労働者階級の分裂を克服しようというかたい努力がみえてきた。一九四五年十二月二十―二十一日に、ドイツ共産党中央委員会とドイツ社会民主党中央指導部の合同会議がおこなわれ、これに土地の団体の代表者も参加した。この会議は、できるだけ近いうちにドイツ共産党とドイツ社会民主党が合同することを主な任務とすると宣言した。一九四六年四月一九―二十日にベルリンで、ドイツ共産党第十五回大会と、ドイツ社会民主党第四十回大会がひらかれ、一九四六年四月二十一―二十二日に両党の合同大会を召集するという決議をした。この大会は、新しいドイツ社会統一党の創立大会であり、合同のときに一二九万八〇〇〇人の党員があった。
 ドイツ社会統一党第一回(創立)大会は「ドイツ社会統一党基本原則および目標」という綱領的文書を採択し、党規約をきめ、ドイツ国民にたいする宣言書を採択し、党中央指導部を選出した。中央指導部の議長にえらばれたのはW・ピークとO・グローテヴォールである。
 大会で採択された綱領的文書はつぎの三つの基本任務を党に課した。(一)労働運動の統一のための闘争、(二)国を分断する企図に反対しドイツを統一するための闘争、(三)国の政治的・経済的生活全体の民主化のための闘争がそれである。さらにすすんだ目標については、第一回大会で採択された決定のうちで、つぎのようにしめされている。「ドイツ社会統一党の目標は、搾取と抑圧、経済恐慌、貧困、失業および帝国主義戦争の脅威を一掃すること。この目標は、わが国民にとって切実重大な民族的・社会的問題の解決であり、それは社会主義を樹立することによってはじめて達成される。」
 西ドイツでは共産党員とドイツ社会統一党内の社会民主主義者との合同は、ドイツのあらゆる反動勢力と、アメリカ=イギリス=フランス占領者の抵抗にぶつかった。占領者たちは合同をば彼らの帝国主義的計画にたいするゆゆしい脅威とみてとったのである。西ドイツ地域にドイツ社会統一党を設け、それが活動することを禁止したアメリカ合衆国、イギリス、フランスの占領当局の支持のもとに、社会民主党右翼指導者、シューマッハー派は、西ドイツにおいて共産主義者と社会民主主義者の合同をぶちこわした。
 ドイツ社会統一党は、反ファショ=民主主義ブロックのその他の政党および団体と緊密に提携して、ソヴェト占領地域の政治生活、経済生活の民主化のために大活動をおこなった。ドイツ社会統一党が実現しつつある政策はドイツ国民の根本的利益に合致し、大衆のあいだにおける党の権威と影響力をつよめている。
 一九四七年九月二十―二十四日、ドイツ社会統一党第二回大会がひらかれた。大会は、ドイツ社会統一党の隊列の強化、ドイツの労働者階級およびすべての民主勢力の統一、国の民主化と統一のための闘争、アメリカ=イギリス帝国主義者とドイツ反動派によるドイツの民族的統一にたいする脅威反対のための闘争というスローガンのもとでおこなわれた。大会にさいしてドイツ社会統一党はすでに一八〇万名の党員をもっていた。ドイツ社会統一党の主唱により、またその指導のもとで、ドイツには国の統一と公正な講和をめざすドイツ国民大会の全人民的運動がおこった。ドイツ社会統一党の指導のもとで、ソヴェト地域の平和経済の再建と発展をはかる二ヵ年計画(一九四九―五〇年)が作成され採択された。
 一九四九年一月二十五―二十八日に、ドイツ社会統一党の第一回会議がひらかれた。全ソ同盟共産党(ボ)中央委員会のあいさつにはつぎのように述べられている。「ドイツ社会統一党は、ドイツ・ファシズムが壊滅したのちにひらかれた新しい、平和な、民主的な発展の道へドイツを歴史的に転換させるための闘争に、ドイツ国民の民主勢力を結集させようとして、大きな活動をおこなった。」『プラウダ』一九四七年一月二十七日、第二七号四面〕会議は第一義的任務として、ドイツの統一のため、平和のための闘争、戦争放火者反対の闘争へとドイツ国民の民主的大衆をおしだし、ドイツ国民がこの闘争で反帝国主義的・民主主義的陣営を、その指導力としてのソ同盟をよりどころとしていることを指摘した。会議はまた、党をイデオロギー的・組織的にいっそうつよめ、ドイツ社会統一党をマルクス=レーニン主義党に、新しい型の党に変えることをめざしたいくつかの決定をも採択した。ドイツ社会統一党中央委員会政治局創設にかんする中央部総会決定が確認され、入党者の候補期間がさめられ、党員がマルクス=レーニン主義理論をふかく研究できるように保障する具体的措置がとられた。
 ドイツ社会統一党はドイツを終局的に分裂させ奴隷化することをめざしたアメリカ=イギリス=フランス帝国主義の措置〔いわゆるルール条項(一九四八年十二月)および占領条項(一九四九年四月)の採択、西ドイツ国家の創設(一九四九年九月)その他〕に反対した。ドイツ社会統一党は、政治的見解や階級的所属や宗教的信念のいかんにかかわらず、平和愛好、単一、独立のドイツをのぞんで立っているすべてのドイツ愛国者に、国の統一と独立の闘争のために、民主ドイツ国民戦線に団結せよとよびかけている。全ソ同盟共産党(ボ)中央委員会がドイツ社会統一党第一回会議の席上のあいさつで「ドイツ・プロレタリアートの最善の革命的・国際主義的伝統を体現し、単一の民主的ドイツのための闘争におけるドイツ国民の民族的利益の表現者である」〔前掲紙〕と述べたドイツ社会統一党は、平和と国の独立のための全人民的運動の先頭に立った。一九四九年十月四日、ドイツ社会統一党中央部は「民主ドイツ国民戦線とドイツ社会統一党」という決議を採択した。この決議は国民戦線綱領の基礎であった。
 政府の設置にあたりドイツ民主共和国大統領にW・ピーク、首相にO・グローテヴォールがえらばれた。
 一九五〇年七月二十―二十四日に、ベルリンでドイツ社会統一党第三回大会がひらかれた。大会は「現情勢とドイツ社会統一党」という決議を採択した。この決議で主要な任務としてあげられたのは、平和のための闘争、新戦争の放火者と西ドイツ再軍備に反対する闘争、国の統一と民主ドイツ国民戦線を強化する闘争、ドイツ社会統一党を新しい型の戦闘的マルクス=レーニン主義党に変えるための闘争であった。一九五一―五五年度の五ヵ年計画にかんする決定で、大会はドイツ経済の発展の展望をあたえた。ドイツ社会統一党第三回大会は新しい規約をきめ、正員五一名と候補三〇名からなる中央委員会を選出した。大会でドイツ社会統一党中央委員会議長にはW・ピークとO・グローテヴォールがえらばれた。ドイツ社会統一党書話長には、中央委員会第一回会議で、ドイツ民主共和国の著名な国家的・政治的活動家W・ウルブリヒトがえらばれた。
 一九五一年現在でドイツ社会統一党員は一二二万五〇〇〇名、候補党員一一万六〇〇〇名である。ドイツ社会統一党中央機関紙は『ノイエス・ドイチュランド』〔『新しいドイツ』〕、理論機関誌は『アインハイト』〔『統一』〕である。

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