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   イタリア共産党

 イタリア共産党は、労働者階級の前衛部隊であり、民族の独立、平和、民主主義、社会主義をめざすイタリア人民の闘争の指導勢力である。イタリア共産党は、一九二一年一月二十一日に創立された。リヴォルノにおける社会党の第十七回大会で、さまざまな流派のあいだの尖鋭な闘争ののちに、分裂が生じた。党構成員(五万八七八三名)の三分の一を占めた大会の左翼は、大会から退場して、その日に自派の大会で、共産党の創立を宣言した。党の創立者はA・グラムシとP・トリアッティで、彼らは、一九二〇年につくられた社会党の共産主義分派の中核をなした共産主義グループ「新秩序《オルディネ・ヌオヴォ》」派を指導した。
 ヴェ・イ・レーニンは、イタリアの労働運動に非常に貴重な援助をあたえた。『イタリアにおける帝国主義と社会主義』、『同志セラティとラツァーリへ』、『イタリア、フランス、ドイツの共産主義者へのあいさつ』、その他の著作のなかで、ヴェ・イ・レーニンは、イタリアの労働運動の諸任務に大きな注意をはらった。戦後の恐慌と、とくに大十月社会主義革命によってひきおこされたイタリアにおける革命的高揚の時期に、ヴェ・イ・レーニンは、真の共産党を創立することの必要性を指示し、イタリア社会党内部に生じた状態の深い批判的分析によってこの指示を基礎づけた。ヴェ・イ・レーニンはつぎのように書いた。「現在、イタリア革命を勝利させるうえにもっとも必要な条件、しかも無条件に必要な条件は、十分に共産主義的な党、決定的な瞬間に動揺することのない党が、イタリアにおける革命的プロレタリアートの真の前衛隊となることである。」〔『イタリア社会党内の闘争について。自由についての偽りのことば』、全集第三一巻三五九ページ〕
 イタリア共産党は、一九一九―二○年の革命的高揚におどろいたブルジョアジーがファシズム確立の道にたちあがった兇暴な階級戦の情勢のなかで創立された。党のまえには、国の進歩的勢力を結集し、ファシズムへの道をさえぎるという直接的な戦闘任務があった。しかし、この任務の遂行をさまたげたのは、労働者階級を分裂にみちびいた社会党中間派の降伏主義的政策であり、さらにまた、イタリア共産党指導部の主要な地位が、のちにトロツキー主義に転落したボルディガとその支持者たちの左翼日和見主義者の手中にあったことである。彼らは、民主主義諸勢力の反ファショ統一戦線の樹立における党の指導的役割を否定し、それを大衆から孤立した宗派《セクト》に変える道に追いやった。イタリア共産党第二回大会(一九三二年)で、彼らはボルディガのテーゼをとおすことに成功した。イタリア共産党内部における統一的な政治方針の欠如と党組織の弱体性は、一九二二年に権力をとったファシズムの攻撃にたいする闘争の効力を低下させ、イタリア共産党の陣列に大きな損害をもたらした。
 ヴェ・イ・レーニンはその労作『共産主義における「左翼」小児病』およびコミンテルン第一回大会と第三回大会における演説のなかで、ボルディガの小ブルジョア的宗派《セクト》主義を徹底的にばくろした。トロツキー主義のイタリア的変種としてのボルディガ主義にたいするレーニンの批判をよりどころとして、A・グラムシ、トリアッティ、その他は、ボルディガとその支持者との断固たる闘争をおこなった。週刊紙『スタト・オペライヨ』〔『労働者国家』〕(一九二二年創刊)、のちには週刊紙『ウニタ』〔『統一』〕(一九二四年創刊)紙上で、彼らは、党員のイデオロギー的素養の向上を促進した広範な解説活動を展開した。一九二三年に、A・グラムシとP・トリアッティがイタリア共産党の指導者になった。一九二四年六月に、「第三インタナショナル派」――最高綱領派(中間派)内のコミンテルン支持者――のグループが共産党に合流した。イタリア共産党の勢力と影響力は増大した。イタリア共産党は、労働者階級との結びつきを拡大する活動を展開した。一九二四年の国会選挙で、イタリア共産党は、二六万八一九一票をあつめ、一九の議席を獲得した。
 イタリア共産党第三回大会(一九二六年、リヨン)は、イタリア共産党史における重要な段階を完成した。大会では、ボルディガの反マルクス主義的なイデオロギー的・戦術的指導方針は徹底的に粉砕され、イタリア共産党内では、労働者階級の党にかんするレーニン主義的教義が勝利をえた。第三回大会以後、イタリア共産党は、ソ同盟共産党(ボ)の経験を利用して、新しい型の党に変える道にはいった。
 一九二六年に実施されたテロ的「例外法」が効力を発生している情勢のなかで、イタリア共産党は、降伏したことのない、組織的に地下にもぐって、国内のファシズムとの英雄的闘争をつづけたただ一つの党であった。共産党員は、大衆との結びつきを保持した。しかし、ファシズムとの闘争の時代に、党は大きな損害をこうむった。一九二六年十二月に、ほとんどすべての国会議員団と、A・グラムシ、M・スコッチマルロ、U・テルラチーニを先頭とする党指導部が逮捕された。ムソリーニのファシスト独裁の時期(一九二二―四三年)に、全政治犯人の九〇%、流刑者の八〇%は共産党員が占めていた。
 一九二九―三〇年に、イタリア共産党は、その後反動の陣営に転落した右翼日和見主義者や降伏主義者(タスカ、シローネ、その他の反党的グループ)を党の陣列から一掃した。イ・ヴェ・スターリンは、右翼的偏向に反対する自分の演説、とくに一九二八年十二月十九日のコミンテルン執行委員会幹部会でおこなったタスカの二心と卑怯な日和見主義の暴露によって、イタリア共産党に大きな援助をあたえた。イタリア共産党第四回大会(一九三一年四月、ケルン)は、右翼日和見主義的偏向を粉砕した。大会は、合法的闘争形態と非合法的闘争形熊を結合したレーニンの原則から出発して、ファシストによって統制、指導されている労働組合その他の大衆組織内の活動にかんする決定を採択した。この戦術は、勤労者大衆との結びつきを強化させた。
 一九二九―三三年の世界経済恐慌とドイツにおけるヒトラー独裁(一九三三年)の確立は、イタリアのファシズムが、公然たる戦争準備に移行するのを促進した。ファシズムと戦争にたいする闘争の広範な、積極的な戦線を結成するために、イタリア共産党は一九三三年に、外国の反ファシスト組織と協定をむすんだ。イタリア共産党は、一九三四年八月十七日に、イタリア社会党と行動統一の協定をむすんだ。一九三五年にファシスト・イタリアが、エチオピア(アビシニア)を攻撃したのち、イタリア共産党は、反ファシスト・イタリア人大会(ブリュッセル)のイニシアティヴをとった。大会で、イタリア・ファシズムは、イタリア人民とエチオピア人民の敵として烙印をおされた。スペインにおけるファシストの暴動とイタリア=ドイツの干渉(一九三六―三九年)の時期に、数千のイタリア共産党員は、銃をとって、共和国を擁護するためにスペイン人民に援助をあたえた。スペインの国際旅団の組織者と指導者のなかには、P・トリアッティ、L・ロンゴ、D・D・ヴィットリオ、その他がいた。一九三七年七月、反ファシズム闘争の統一戦線結成にかんするコミンテルン第七回大会の決定を実行しながら、イタリア共産党は、社会党と行動の統一について新しい協定をむすんだ。
 第二次世界戦争の時期一九三九―四五年に、イタリアがフランスを攻撃したのち、イタリア共産党は、一九四〇年六月のイタリア人民にたいする呼びかけのなかで、はげしく侵略を非難して、侵略戦争とファシズムに反対してたたかうようよびかけた。ドイツ、イタリアおよびその追随者のファシスト軍隊のソ同盟にたいする一九四一年六月二十二日の背信的攻撃にたいする回答として、イタリア共産党は、フフシスト独裁の打倒を準備するために、大衆のなかでの活動をさらに広範に展開した。
 一九四一年九月に、「イタリア人民統一行動委員会」が創立された。一九四二年十―十一月に、トリノ、ミラノ、ローマ、その他の諸都市に、最初の民族戦線委員会が創立された。委員会の構成員には、共産党員や社会党員のほかに、多くの党(キリスト教民主党、「行動党」、その他)の民主的分子が参加した。それと同時に、イタリア共産党は、解説活動から大衆的ストライキの組織と街頭デモンストレーションに移行した。一九四三年の三月と四月に、イタリア共産党は、トリノ、ミラノ、ジェノア、その他の工業都市の主要な勤労者大衆を、ストライキ運動にひきいれた。
 ドイツおよびイタリアのファシスト侵略者にたいするソヴェト軍の決定的打撃と、それにともなって強化された大衆運動の高揚は、イタリア・ファシズムの崩壊(一九四三年七月二十五日)をよびおこした。地下から出たイタリア共産党は、自己の陣列を強化した。一九四三年九月に、北部および中部イタリアがヒトラー軍隊に占領されたのち、イタリア共産党のすべての活動は、ヒトラー占領者とイタリア人の手さきにたいする人民の武装闘争を組織することにむけられた。イタリア共産党は、一九四三年に民族戦線委員会の基礎のうえに組織された民族解放委員会結成の主導者であった。ファシスト侵略者にたいするソヴェト国民の英雄的闘争の経験をひろく一般化して、イタリア共産党は、北部および中部イタリアに展開された大衆的パルチザン運動とストライキ運動の先頭に立った。もっとも戦闘力があり、もっとも人数の多かったパルチザン部隊は、共産党員の指揮下にあったガリバルディ班(一〇〇班以上)であった。戦後に登録された三五万四二五名の旧パルチザンのうち、二一万名以上が共産党員であった。イタリア共産党は、敗北主義と、抵抗運動の諸組織内のキリスト教民主党員や右翼社会主義者の代表によって支持された待期戦術にたいして断固としてたたかい、一九四三年七月にイタリアに進駐した米・英軍指令部のパルチザン闘争を失敗させようとする試みに反対してたたかった。民族解放戦争は、イタリア共産党に大きな犠牲をはらわせた。戦死した六万九五二〇名のパルチザンのうち、四万一三二名は共産党員であった。
 一九四四年三月に、P・トリアッティは亡命からイタリアにかえってきた。イタリア共産党は、民主的基礎のうえに、共産党代表の参加した連合政府をつくり、人民大衆をさらにいっそうひきつけて広範に解放戦争にひきつけるための闘争をおこなった。三月一―八日に、イタリア共産党の指導のもとに、ヒトラー軍に占領されたほとんどすべての都市をまぎこんだゼネラル・ストライキがおこなわれた。
 一九四五年四月、ソヴェト軍のベルリンにたいする決定的な攻撃にともなって、イタリア共産党は、全人民的蜂起の準備を開始した。一九四五年四月十日、党指導部は、全党組織に蜂起指令第十六号を発した。この指令には、イタリアでも、ファシズム打倒のときがきたことがしめされた。この歴史的指令を遂行しながら、北部イタリアの共産党員は、四月武装蜂起の先頭に立って、それを勝利にみちびいた。四月二十五日から二十八日までに、全人民の解放のための蜂起の結果、ボローニァ、ジェノア、トリノ、ヴェネツィア、その他をふくむ二〇〇以上のイタリアの諸都市が、ドイツ占領者とその援助者から解放された。その英雄的な闘争によって、勤労者とパルチザンは、航空機および繊維企業の八〇%、発電所の九〇%、冶金および化学工場の七〇%をヒトラー軍の破壊からすくうことができた。解放戦争にたいする共産党員の顕著な貢献は、政府当局によってみとめられた。三二〇名の共産党員が金メダルを授与され、五六〇名に銀メダル、一万一〇二八名に青銅メダルが授与された。一九四三―四五年の民族解放戦争の過程で、共産党の権威と影響力は増大した。イタリア共産党は、イタリアにおける大衆的な、もっとも大きな政党に変った。一九四五年には、党の陣列に一七七万八九六名の党員がいた。このような強力な党が政治舞台にあらわれたことは、戦後のイタリアの生活におけるもっとも重要な政治的要因であった。
 戦後イタリア共産党は、イタリアの民主的改革のための闘争を展開した。イタリア共産党第五回大会(一九四五年十二月二十九日―一九四六年一月六日)は、民主主義共和国を樹立し工業および農業における根本的な改革をおこなうという緊急な任務を国に提起した。第五回大会で採択されたイタリア共産党の規約は、党の組織的強化の途上における前進のあらたな第一歩であった。一九四六年六月二日の国民投票で共和制に賛成投票するよう国民大衆によびかけたイタリア共産党の断固たる、精力的な活動は、君主制の敗北を保障した。六月十八日に、イタリアは共和制を布告した。
 一九四四年四月から一九四七年五月まで共産党員は政府内にあって社会党員と協力して、英・米占領当局の援助を得て大臣の椅子の多くを占めていたキリスト教民主党の反動的行為を制約した。共産党員は、民主的労働組合の援助を得て、労働者と勤務員の多くの要求を満足させることができた。すなわち、貸金のスライド制の実施、主要部門の最低賃金の制定、新しい条件での分益農民の契約の締結、転貸の禁止、地主の未耕地を土地のない農民にわけあたえる指令の採択などがそれである。いくつかの省(農業、大蔵、その他)が先頭に立った共産党員の実践活潮と勤労者の利益を表現した共産党員の提案は、大衆のなかでの共産党の権威の増大を促進した。
 イタリアの内政にたいするアメリカ帝国主義とヴァティカンの干渉、彼らによってしめされたイタリアの反動にたいする支持は、民主主義のいっそうの強化と発展にブレーキをかけた。それと同時に、若干の党組織は、議会主義の幻想にとりつかれた。それらの党組織は、反動的なキリスト教民主党の指導者であり首相であるD・ガスペリが、一九四七年五月に、アメリカ帝国主義者の要求に応じて、政府の危機を煽動し、共産党員と社会党員を政府から追放したときに、反動の攻撃に反対する断固たる闘争に勤労者を動員しなかった。見のがされた誤りは、共産党員のイデオロギー的準備が、国内における党の勢力の増大と、変化した情勢のもとで党にあたえられた諸任務からたちおくれていたことの結果である。これらの誤りは訂正された。イタリア共産党は、党の要員《カードル》と、キリスト教民主党の反民族的・反人民的政策にたいする闘争の組織とをイデオロギー的・政治的に強化する全面的な大衆活動を展開した。
 イタリア共産党は一九四七年九月に、共産党労働者党情報局の設置に参加した。イタリア共産党第六回大会(一九四八年一月四―十日)は、政府構成員から共産党員が追放されたのち、共産党が反政府党の立場へ移行したことにともなって、新しい任務を決定した。大会は、民族的統一を確保し、イタリアの平和と自由と独立を擁護することのできる人民民主主義戦線の樹立の必要なことを指示した。大会は、社会党との協力を強化するイタリア共産党の決意を確認した。
 一九四八年四月十八日の議会選挙で、人民民主主義戦線は八〇〇万以上の票を獲得した。イタリア共産党は、下院では一三一、上院では六七の議席を得、前回の選挙に比較して数的に増加した国会議員団を強化した。
 四月十八日の選挙ののち、アメリカ合衆国の反動グループとヴァティカンに支持されている政権についたキリスト教民主党は、国内にファシスト型の教会制度を確立することをのぞんで、共産党員にたいする圧迫と挑発の運動をゆるそうとした。弾圧と警察のテロルが強化された結果、数十人の民主的組織の活動家がころされ、数百名が負傷し、P・トリアッティの暗殺が組織された(一九四八年七月十四日)。
 イ・ヴェ・スターリンは、イタリア共産党中央委員会にたいするソ同盟共産党中央委員会の電報のなかでつぎのように書いた。「ソ同盟共産党(ボ)中央委員会は、イタリアの労働者階級と全勤労者の指導者――われわれの愛する同志トリアッティ――の生命をねらう人非人の非道な企てにたいして憤慨している。ソ同盟共産党(ボ)中央委員会は、同志トリアッティの友が、卑劣な攻撃からひそかに彼をまもることのできなかったことを悲しむ。」『プラウダ』一九四八年七月十五日、第二九七号一ページ〕
 イタリアの勤労者は、反動の攻撃にたいして断固たる抵抗をしめした。P・トリアッティにたいする非道な暗殺の企てにたいする抗議のしるしとして計画された一九四八年七月十四―十六日のゼネラル・ストライキは、七〇〇万の人々をとらえ三日間にわたって全国を麻痺状態におとしいれた。
 反動の攻撃とアメリカ資本による国の奴隷化政策にたいして、イタリア共産党は、イタリア憲法擁護のための積極的な活動を対置し、平和と民族の独立と民主主義的目的のための人民大衆の闘争の先頭に立った。共産党員は、一九四八年には、イタリアが「マーシャル計画」の奴隷的体制に加入することに反対し、一九四九年には、「マーシャル計画」を侵略的な北大西洋条約に結合させることに反対した。イタリア人民の意志を表明して、P・トリアッティはつぎのように述べた。「イタリア人民は、侵略的なアメリカ帝国主義のソ同盟と人民民主主義国にたいする戦争、進歩に反対する戦争でともにたたかうことを拒否するであろう!」(『イタリア共産党』モスクワ、本文原版『イタリア共産党史』一七九ページ〕イタリア共産党は、ソ同盟、中華人民共和国、人民民主主義諸国とイタリアの友好関係の樹立のために一貫した行動をとっている。イタリア共産党は、ソ同盟の平和愛好的志向を支持しながら、まず第一に、平利のためにたたかっているイタリアの全勤労者と農民を支持している。
 イタリア共産党は、アメリカ合衆国帝国主義者の侵略政策へのイタリアの隷属に反対し、国の軍国主義化と国の領土をアメリカの軍事基地に提供することに反対し、アメリカ独占体による民族産業の破産に反対するイタリア人民大衆の闘争を組織している。
 イタリア共産党は、イタリア労働者階級の統一を分裂させようとする右翼社会主義者その他のアメリカ合衆国帝国主義者の手さきの企てに反対してたたかっている。
 イタリア共産党第七回大会(一九五一年四月三―八日)は、国内に平和政府を樹立するための闘争のスローガンを提起した。イタリアでは、イタリア共産党が活動的に参加して、二万以上の平和擁護委員会が結成された。共産党員は、原子兵器禁止にかんするストックホルム・アピールと五大国平和協定締結にかんする世界平和評議会の呼びかけにたいする署名獲得に積極的に参加した。
 イタリア共産党は、勤労者の重大な利益を擁護する闘争との直接的なつながりをもって平和擁護闘争をおこなっている。支配グループによって遂行されている国の軍国主義化と国民経済の崩壊政策をむこうにまわして、イタリア共産党は、工業の平和部門の発展を計画したイタリア総同盟の「労働計画」を国に提案した。農村では、イタリア共産党は、土地改革をおこなうための農業労働者、分益農民、土地のすくない農民の闘争を指導し、不在地主の土地没収のための農民大衆の運動の先頭に立っている。イタリア共産党は、国会の内外で、デ・ガスペリ政府(一九四五―五三年)の反党的諸法案――労働組合の自由の制限にかんする法案、ストライキ禁止法案、労働者の企業占拠、農民の土地占拠にたいする弾圧を強化する法案、その他――に反対して一貫した闘争をおこなった。一九五三年のはじめに、全国をとらえた大衆的ストライキによって、勤労者は、国会における共産党と社会党の代表の数を削減することを予定した政府の選挙法「改正」に反対するイタリア共産党の闘争を支持した。一九五三年六月の国会選挙では、一九五三年の反動的な選挙「改正」は失敗した。進歩的勢力は、正確な資料によれば、九五〇万票(一九四八年の三〇・七%にたいして三六・五%)をあつめて大勝を博した。イタリア共産党は、一九四八年よりも多くの議席(下院一四三名、上院五七名)を得た。
 一九五三年九月に、イタリア共産党員は二一二万二〇八人をかぞえた。そのほかに、四三万七二四〇人が共産主義青年同盟にくわわった。
 大衆的・民主的諸組織は、国内におけるイタリア共産党の勢力の拡大を促進した。それらの組織のなかに共産党は、信頼できる支持と無尽蔵の予備軍とをもっている。イタリア共産党は、イタリア労働総同盟(組合員五〇〇万)、協同組合全国連盟(組合員三〇〇万)、パルチザン全国同盟(会員二八万)、その他いくたの大衆的・民主的諸組織のなかで圧倒的な勢力をもっている(一九五二年の資料による)。
 イタリア共産党は、民主主義的中失集権主義のうえに建設されている。第五四大会で採択された党規約によれば、党組織の第一の環は細胞である。そのつぎの環は、いくつかの細胞の活動を指導する地区である。地区連合が一つの地区のイタリア共産党員を統合している。地区連合の指導のために州委員会が組織されている。党の先頭に立っているのは中央委員会である。二年に一度召集される大会が中央委員会を選出する。大会はまた中央統制委員会を選出する。中央委員総会は、一八名の政治局員と四名の候補から成る指導部(政治局)および一名の書記長、二名の書記長代理、二名の書記から成る党書記局を選出する。一九五一年に、イタリア共産党書記長にはパルミロ・トリアッティ、書記長代理にはルイジ・ロンゴが再選された。
 イタリア共産党の行動は、マルクス=レーニン主義理論、国際共産党と労働運動の経験、ソ同盟共産党の経験によって指導されている。イタリア共産党は、プロレタリア国際主義の精神で労働者階級を指導している。
 イタリア共産党の中央機関紙は、四つの版(ローマ、ミラノ、ジェノア、トリノ)を発行している日刊紙『ウニタ』である。各版は、一般的な問題や事件のほかに、その地方に展開されている生活についても報道している。理論機関誌は、P・トリアッティの編集で発行されている月刊誌『リナーシタ』である。イタリア共産党はまた、住民のさまざまな層を対象とした大衆学習雑誌や週刊紙を発行している。そのほかに、四八の地区連合は、それぞれの週刊紙を発行している。毎年「共産党月間」のために盛大な人民祭がおこなわれている。
 イタリア共産党の『エディツィオニ・リナーシタ』および『エディツィオニ・デ・クルトゥラ・ソツィアーレ』発行所は、マルクス=レーニン主義の古典作品、国際・国内政策の現実問題にかんする書物、進歩的文学作品を発行している。

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