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   事項訳注



〔1〕 ファシスト陣営内部の武力闘争――たとえばドイツでは、一九三四年六月のレーム、シュライヒャー、シュトラッサーらの粛正、オーストリアでは、一九三三年三月のドルフースのクーデタ、同年六月オーストリア・ナチ党の禁止、一九三四年七月オーストリア・ナチ党の反乱とドルフースの殺害。
〔2〕 バルマット事件――プロイセンにおける疑獄事件。I・クティスカー・バルマット、J・ミヒャエル・バルマットの兄弟が、高官や政治家(中央党および社会民主党)を買収して、ベルリン国立銀行から無担保で三四六〇万マルクの融資をうけ、巨利を占めた事件。一九二四年十一月に発覚し、一九二七年一月から一九二八年三月までおこなわれた裁判で、関係者は軽い刑に処せられた。
 スクラーレック事件――プロイセンの疑獄事件。繊維業者で、レーオ、ヴィリ、マックス・スクラーレックという三人兄弟が官吏を買収して、一九二六年以後ベルリン国立銀行から無担保融資をうけ、不正利益を得た事件。一九二九年九月に発覚し、裁判にかけられた。
〔3〕 スタヴィスキー事件――フランス政財界の大疑獄事件。国際的詐欺師スタヴィスキーが巨額の偽造証券を売りつけていたことが一九三二年末発覚し、これに関係していた閣僚、代議士、財界人、さらに司法機関や警察の腐敗が暴露され、内閣の倒壊にみちびいた。
〔4〕 モラトリアム――「支払猶予」の意。天災地変、戦争その他の非常事態下に、国家が公権力を発動して債権債務の決済を一定期間延期すること。ヒトラーは、自分が政権をにぎれば、国家にたいする農民の負債にたいしモラトリアムを実施すると約束したが、この公約を実行しなかった。
〔5〕 二月闘争――一九三四年二月、オーストリアのファシストの先制攻撃にたいして、リンツ、ヴィーン等でおこなわれた労働者の武力闘争。地下の共産党はゼネストによる大衆的反撃をよびかけたが、社会民主党指導部の日和見主義的態度にわざわいされて、その機を失し、ヴィーンにおける五日間の激闘ののち、多くの犠牲者を出して闘争は敗北におわった。
〔6〕 ヒュッテンベルク協定――一九二二年秋、オーストリアの反動的なキリスト教社会党政府は、大ドイツ人民党と、反動勢力を結集した「反マルクス主義戦線」の政府をつくる協定をむすんだ。
〔7〕 リンツ綱領――一九二六年十一月リンツでひらかれたオーストリア社会民主党の党大会で採択された綱領。同綱領は、労働者階級が議会内で多数を獲得するという手段で国家権力を獲得することについて述べたさい、もしブルジョアジーがこれに抵抗するならば、「独裁の手段によってブルジョアジーの抵抗を粉砕するであろう」と言明していた。
〔8〕 防衛団《シュッツブント》――オーストリア社会民主党の武装自衛組織。一九二四年労働者防衛隊を母体として生まれた。一九三三年四月一日ドルフース政府により解散を命ぜられた。
〔9〕 ブラウン=ゼーヴェリング政府――一九二〇年から三二年までつづいた社会民主党右派のオットー・ブラウン(首相)とカール・ゼーヴェリング(内相)のプロイセン政府。共産党と勤労大衆にたいする圧迫政策をとり、一九二九年五月赤色戦線戦士同盟の大衆組織を禁止した。一九三二年七月プロイセンでファシスト・クーデタをおこなったドイツ首相パーペンに無抵抗で降伏した。
〔10〕 赤色戦線戦士同盟――ドイツ共産党系の反ファシズム防衛組織。一九二四年はじめ、テールマンの指導下に中部ドイツに結成された。一九二九年まで合法的に存在したが、同年禁止された。
〔11〕 ドイツ国旗団《ライヒスバンナー》(ドイツ黒赤金国旗団)――一九二四年ドイツ社会民主党が反動とファシストのテロに対抗して共和国防衛のためにつくった防衛組織。共産党側からの共同闘争の申入れは、日和見主義的指導者によって拒否された。
〔12〕 鉄兜団《シュタールヘルム》――また「前線兵士同盟」ともいう。一九一八年マクデブルクで反動将校が結成した反革命団体。大ブルジョアジーに資金をあたえられ、労働運動弾圧につかわれた。ヒトラーの政権掌握後はナチ突撃隊の予備隊とされた。一九五一年以降西ドイツでふたたび活動している。
〔13〕 一九二三年六月九日のクーデタ――ブルガリアのファシスト、ツァンコフ一味が時の政府であった農民同盟のスタンブリスキー政権にたいしてくわだてたクーデタ。このクーデタは成功し、ツァンコフのファシスト政権は一九二六年までつづいた。このときのブルガリア共産党指導部の誤った中立的態度は、ただちにコミンテルンから批判され、是正された。
〔14〕 ピルスツキー・クーデタ――ポーランドでえせ民主主義的スローガンで小ブルジョアジーと労働者のおくれた層をひきつけたピルスツキー一味は、一九二六年五月、イギリス帝国主義の支持をうけて、時の反動的な親仏政府にたいし軍事クーデタを起こし、政権をにぎった。ポーランド共産党指導部は、ピルスツキf一味のファシスト的本性を見ぬくことができず、彼らを小プルジョア民主主義者、その軍隊を革命の味方と見る誤りをおかした。
〔15〕 フィンランドにおけるファシスト・クーデ夕の準備――フィンランドには、一九一八年の革命に血の弾圧をくわえたマンネルヘイム将軍のファシスト的義勇兵団組織があったが、一九二九年ごろから各種ファシスト団体統一の動きがつよまり、一九三〇年三月これらの団体がラプア市で大会をひらき、「フィンランドの城塞」という組織をつくった。ファシスト暴力団は幾千の労働者を投獄し、数百人を殺した。彼らの要求によって非常法が公布され、労働組合は解散された。社会民主党の右翼指導者はなすところもなくこれに降伏し、共産党はファシズムの危険を過小評価して、非合法組織の建設を怠ったため、大衆との結びつきを失ってしまった。
〔16〕 ドイツ共産党の社会的および民族的解放の綱領――一九三〇年八月にテールマンの提唱でドイツ共産党中央委員会が決定した「民族的・社会的解放綱領」のこと。この綱領は、勤労者にドイツおよび外国の帝国主義者の抑圧に反対する闘争をよびかけ、ファシストの社会的および民族的デマゴギーを暴露し、民族闘争と社会闘争の不可分の関連を示していた。それは、ファシズム反対の闘争におけるドイツ共産党の総路線をなすもので、ファシスト独裁を阻止し独占資本家の権力を打破することを目標としていた。
〔17〕 ドイツの一九三四年六月三十日事件――注〔1〕参照。
〔18〕 オーストリアのナチ暴動――注〔1〕参照。
〔19〕 フランスにおける一九三四年二月のファシスト・クーデタの企図――一九二九年の大恐慌以後、フランスの独占ブルジョアジーは国内のファシスト組織を強力に支持し、スタヴィスキー疑獄事件をきりかけとして、一九三四年二月六日「火の十字《クロア・ド・フー》」団や「アクシオン・フランセーズ」(王党派)に暴動を起こさせた。この企ては、フランス労働者階級のみごとな行動の統一によってはばまれた。二月九日には共産党系と社会党系のあらゆる組織をふくむ大デモ、同じく十二日にはファシズム反対の全国的な二四時間ゼネストがおこなわれた。
〔20〕 ドイツ国会議事堂の放火――一九三三年三月五日の総選挙をまえにして、ヒトラー一味は、共産党と労働組合にたいする弾圧の口実をつくるため、国会議事堂に放火し、その罪を共産主義者になすりつけようとした。主謀者として逮捕されたゲ・ディミトロフは、死刑の脅威をも恐れず、法廷でナチがその真犯人であることを暴露し、逆に原告の立場に立ってファシストを糾弾し、ついに無罪釈放をたたかいとった。
〔21〕 ザールの統一戦線――ザール地域は、第一次世界大戦後、国際連盟の管理下におかれ、一五年後にフランスとドイツのいずれに帰属するかを住民投票によって決定することになっていた。この投票は一九三五年一月におこなわれた。これよりさき、ドイツではナチが政権を掌握し、ザール地域ではげしい反ヴェルサイユ、反仏の排外主義的扇動を展開した。ザール地域の共産党は、ドイツの現状を考慮して、ザールのドイツ編入に反対し、現状維持を主張し、一九三四年七月、同地城の社会民主党と反ファシズムの統一戦線協定をむすんだ。しかし、時すでにおそく、ナチの民族的デマゴギーにまどわされたザールの住民は、人民投票で九〇・八%の多数をもって、ドイツ復帰に賛成した。
〔22〕 一九三五年七月十四日、フランス全国で人民戦線支持者のデモがおこなわれ、合計二〇〇万人以上が参加した。その過程で四八の民主団体が反ファシズム人民戦線を結成した。
〔23〕 「労働管理官」――一九三三年五月、ナチはドイツの労働組合運動に打撃をくわえ、労働総同盟の建物、印刷所等、全財産を没収した。同月十日には指導者《フューラー》原理に立つナチの労働組織「労働戦線」が設立された。同時に、同年五月十九日付の法律で、各企業に国家の任命する労働管理官がおかれ、その企業における労働条件決定の全権をゆだねられた。
〔24〕 「クラフト・ドゥルヒ・フロイデ」――直訳すれば「喜びによる力」。ナチ・ドイツの労働組織である「ドイツ労働戦線」が一九三四年につくった一種のレクリエーション団体。スポーツ、娯楽、休養、旅行のあっせん等をつうじて労働者をナチ体制に手なづけることを目的としたもの。
〔25〕 「ドポ・ラヴォーロ」――直訳すれば「労働のあと」。ムッソリーニ支配下のイタリアで一九二五年五月一日付の法律でつくられた、前注のドイツのそれに類するレクリエーション団体。
〔26〕 「名目的なドル支払」――一九三二年六―七月ローザンヌでひらかれた対独債権国会議が、ドイツにたいする連合国の賠償請求残額を七億一四〇〇万ドルに減額し(一九二一年四月に決められた賠償金総額は三二〇億ドル。その後若干の支払いはおこなわれていた)、同時に連合国の対米戦債七〇億ドルの大幅な削減を要求することを決定し、これをアメリカに申し入れたことをさす。この案は、アメリカが反対したために実現しなかったが、賠償および戦債問題はなしくずし的に棚上げされていったので、事実上ヨーロッパ諸国は「名目的に」少額のドルをアメリカに支払ったにとどまった。
〔27〕 デ・マン計画――ベルギー社会民主党の指導者の一人デ・マンが、一九三三年に党の委任をうけてつくった「社会主義への平和的移行」の計画。この計画は、一九三三年末ベルギー社会民主党の綱領として採択された。
〔28〕 パリの反ファシズム反戦委員会――一九三二年八月二十七―二十九日、アンリ・バルビュッスとロマン・ロランの提唱で、アムステルダムに帝国主義戦争反対国際大会がひらかれた。大会にはヨーロッパ、アメリカ、アジアから二〇〇〇人以上の代表が出席し、すべての戦争反対者の国際的結集をめざして、帝国主義戦争反対国際闘争委員会を選出した。一九三三年六月四―六日、プロフィンテルンその他の招集で、パリのプレエル音楽堂にヨーロッパ反ファシズム労働者大会がひらかれ、三〇〇万人を代表する三五〇〇人の代議員が出席し、ファシズムと資本の攻勢に反対する闘争の問題を討議し、ヨーロッパ反ファシズム労働者連合中央委員会を選出した。大会中、反ファシズム青年会議がひらかれた。九月二十二―二十四日に、世界反戦反ファシズム青年大会がパリでひらかれ、ヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカから一〇〇〇人の代表が出席した。同年八月二十日、アムステルダム、プレエルの両運動は合同して、バルビュッスを先頭とする帝国主義戦争・ファシズム反対闘争世界委員会を結成した。これらの運動は、国際的規模で反ファシズム運動を展開するうえに巨大な役割を演じた。
〔29〕 ブラジル民族解放連盟――一九三五年はじめにブラジルで、共産党を先頭とする進歩的諸政党や諸団体によって創立された広範な反ファシズム組織。一九三五年十二月に、反動派との武装闘争で敗れた。
〔30〕 一九二三年のザクセンとチューリンゲンの「労働者政府」――一九二三年初頭のフランスおよびベルギーによるルールの軍事占領をきっかけにドイツに革命的情勢が発展し、同年十月十一日と十六日にザクセン州とチューリンゲン州で社会民主党左派と共産党員の連立になる労働者政府がつくられた。しかしこの政府は、労働者の武装をおこなわず、反革命勢力と徹底してたたかうことをしなかった。社会民主党左派指導者の動揺と共産党内のブランドラ=タールハイマー・グループの日和見主義的態度がその原因であった。労働者政府は、ドイツ国防軍の攻撃をうけて、ザクセンでは十月三十日、チューリンゲンでは十一月八日に、成立後一ヵ月たらずで崩壊した。
〔31〕 ラズノチーネツ――十九世紀中葉のロシアにおける聖職者、官吏、町人もしくは農民等の雑多な階層出身の、平民のインテリゲンツィア。
〔32〕 アストゥリアスにおける一九三四年十月のたたかい――一九三三年十二月スペインで権力をにぎったA・レルスの反動政府は、親ファシスト分子が政府内の重要な部署にはいりこむ道をひらき、勤労者にたいする弾圧をはじめた。各地で労働者の抵抗がはげしくなり、十月四日には一〇〇万の労働者のゼネストが起こり、ストライキは、スペイン西北部のアストゥリアス地方では、武装蜂起に移行した。労働者は中心地オビエドを占領し、よくたたかったが、軍隊に鎮圧され、三〇〇〇人以上の死者、七〇〇〇人以上の負傷者、三万人以上の逮捕者を出した。
〔33〕 ドイツの同志たちの自己批判――ドイツ共産党の代議員W・フローリンは、この大会でつぎのように自己批判した。「ヒトラー独裁が樹立されたのち、われわれがおかしたセクト的な誤りは、新しい条件のもとで社会民主党が非合法下にはいり、その党員や役員のあいだに決定的な転換が起こったし、なおも起こっている今日の状況にたいして、社会民主党が国家機関にむすびついていたヴァイマル時代には正しかった同党にたいするわれわれの評価を、われわれがある程度しきうつしにしたことによるものであった。その結果は、同一のセクト主義が二つの面であらわれたことであった。すなわち、一面、われわれは社会民主党の隊列中の、とくに役員のうちでの、真の左翼的発展を過小評価した。これは、広範な、組織された統一戦線はつくりえないという意見を生んだ。他面、この急進化の過程を誇張し、そこからわれわれの革命的原則の宣伝に集中するという誤った戦術を引き出した。」
〔34〕 ヴァイマル共和国――第一次世界大戦で帝政ドイツが敗北した結果生まれたドイツ共和国。中部ドイツの古都ヴァイマルで共和国憲法が制定された(一九一九年八月十一日)ので、一九三三年ヒトラーの政権掌握によりこの憲法が事実上廃止される(形式的には存続した)までのドイツをヴァイマル共和国と称する。右翼日和見主義者に指導される社会民主党と民主党および中央党との「ヴァイマル連合」によってつくられたヴァイマル憲法は、帝政時代に比しはるかに拡大された各種の人権にかんする規定をふくんではいたが、大統領の首相任免権や非常大権などの非民主主義的規定をもふくみ、またすべてのブルジョア憲法と同様、形式的で、物質的保障に裏づけられないものであった。この憲法のもとでドイツ帝国主義はしだいに復活し、それはまた、ナチの進出に道をひらいた。
〔35〕 セロールとバルベ――フランス共産党の中央部に食いこんだ警察の手先。彼らのグループは、一九三二年三月のフランス共産党第七回大会で暴露され、党から追放された。
〔36〕 ルーマニアの鉄道従業員裁判――一九三三年二月、ルーマニアのブクレシコティの鉄道従業員、ブロエシュテイの石油労働者を中心とする七万の労働者が、貸金引上げ、首切り反対、工場委員会の承認等を要求して、労働者の統一戦線機関である行動委員会の指導のもとにストライキをおこなった。政府と企業家は、ゼネストへの拡大を恐れて、いったんは労働者の要求をいれたが、ついで戒厳令をしいて、軍隊と警察との手でこれを弾圧し、労働組合や工場委員会を解散したため、ストライキ闘争は武装市街戦に発展した。軍隊は大砲を用いてこれを鎮圧し、労働者側は数十名が死傷し、二〇〇〇名が逮捕された。ゲオルギウ・デージをふくむ闘争の指導者は、軍事裁判によって長期の懲役に処せられた。
〔37〕 フィーテ・シュルツェの裁判――一九三二年七月十七日ハンブルクのアルトナ地区で、ファシストの挑発によって重武装のナチ突撃隊と武器をもたぬ労働者の衝突事件が起こり、一四名の労働者が殺され、二名のヒトラー派が仲間の弾丸にあたって死んだ。港湾労働者出身の共産党員フィーテ・シュルツェは、一九三三年四月裏切りによってこの事件の責任者として逮捕され、裁判にかけられた。被告シュルツェは、ファシストの拷問にも屈せず、法廷では、ディミトロフの先例にならい、逆に原告の立場からファシストを糾弾し、階級裁判における共産主義者の模範を示した。彼は三つの死刑と二六〇年の懲役刑との判決をうけ、一九三五年六月六日処刑された。
〔38〕 ブルガリアの革命的兵士の裁判――一九三四年五月に政権を奪取したブルガリアのファシスト政府は、全国にテロの波をくりひろげた。一九三五年三月までに一四〇〇人が革命的宣伝の理由で逮捕され、一〇〇人近くのものが死刑の判決をうけた。一九三四年十二月中旬に、ハスコヴォ市で八〇〇名が逮捕されたが、そのうち一七〇名は兵士であった。数人の兵士は即決裁判によって処刑された。
〔39〕  日本共産党の現中央委員会議長で、第七回大会以後コミンテルンの執行委員会幹部会員であった野坂参三氏は、その著書『亡命十六年』のなかで、コミンテルンの解散にたいする日本共産党の立場についてつぎのように述べている。
 「一九四三年(昭和一八年)五月末、コミンテルン解散のニュースをうけた。私は、余り意外には感じなかった。というのはコミンテルンと日本共産党との関係は、最初から密接ではなく、とくに満洲事変が起ってからはほとんど断絶してしまっていたからである。私は中国共産党の指導者とも、この問題について協議したが、彼らも同様にこの解散に賛意を表した。解散の理由は、
 第一に、日本や中国と同様に、世界各国の共産党とコミンテルンとの連絡は、戦争の結果、非常に困難となり、それがためコミンテルンが、もはや各国の事情にうとくなり、各国の共産党にたいして従来のように適切に援助を与えることができなくなったこと。
 第二には、各国の共産党自体が、すでに成長して大人となり、自国の問題の処理は、コミンテルンの援助なしに自分で立派にやってゆけるようになったこと。
 第三には、以上のように、コミンテルンは、じっさいにおいて、なにも仕事ができなかったし、また活動してもいないのに、コミンテルンの存在を利用して、各国反動分子は、各国の共産党を誹謗し、またソ連と米英民主主義諸国との反ファシズム国際民主戦線結成を妨害したこと。
 これがコミンテルン解散の理由であった。
 私は、日本共産党もこの解散に賛成する意味のことを、延安の新聞に発表した。」

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