1945年8月6日 広島で何が起こったのか

項目

T−@ 私の倒壊校舎脱出記
T−A  被爆した学友達の記録
T−B 瞬時に崩壊した市民生活
TーC 軍都・広島の壊滅


Tー@ 私の倒壊校舎脱出記

 焼失前の廣島一中校舎全景
写真右側校門を入り本館のみが二階建で
教室棟は全て瓦葺き木造平屋建てでした。
 昭和20年(1945年)8月6日月曜
日の朝は晴れ、私は広島駅から芸備
線で約7` 山間部に入った戸坂村
(現在:広島市東区戸坂町)から汽車と
徒歩で広島県立第一中学校(以下広島
一中と略記)に通っていました。
 比治山国民学校を卒業し広島一中に
入学した頃は、広島市出汐町639番
地に居住していました。その地域は陸
軍兵器支廠と被服廠に囲まれていて、
空襲を受けやすい危険地帯ということ
で、20年6月に、父の職場の知人を頼
って、家族揃って戸坂村数甲部落へ疎
開したところでした。戸坂駅からの通学
は15学級の土井隆義君と一諸でした。
15学級とは1年5組の意味です。

  広島一中は、爆心から約800メートルの雑魚場町(現在の国泰寺町一
丁目)にありました。本校は、明治7年に創立、同十年に広島県中学校と改
称され、原爆が投下された昭和20年の時点で、70余年間にわたって諸先
輩が築かれた、高い伝統のある中学校でした。 
 通常、八月は夏休み中ですが、戦時下の当時に夏休みはなく、朝7時半
から朝礼が始まり、私達1年生6学級全員三百名余は,中庭に整列して点
呼の後、当日の作業要領の訓示を受けました。 11,13,15の奇数学級
の約150人は、すぐ近くの市役所裏へ、建物疎開後の跡片付け作業に向
かいました。建物疎開作業とは、空襲による火災延焼を防ぐために、火路を
絶つ為の建物取り壊し作業の事です。残る3学級は、自分の教室で自習待
機と決まりました。私は第16学級だったので、自習組でした。この振り分け
が運命を分けることになりました。

 この日の朝、7時過ぎ、空襲警戒警報が出ていましたが、それは間もなく
解除されていました。8時10分をを回った頃でしようか、爆撃機B29の爆
音が聞こえはじめました。爆音が次第に大きくなり、教室は騒がしくなって
「あっ落下傘が落ちたぞ!」と中庭に飛び出す生徒もいました。
 私の席は、南側最前列の窓際でした。友の声につられて外に出ようとしま
したが、途中教室中央で雑誌『少年倶楽部』を読んでいる級友達の人垣が
目にとまり、その中に割り込もうとしました。その瞬間、ものすごい光を感じ
ました。それはまるで黄金の火柱が中庭に落下したようでした。

 「ピカッ!!」黄金の火柱を見た瞬間、とっさに机の下に潜り込もうとして
意識を失いました。それからどの位の時間が経過したのか。気が付いたと
きには校舎は完全に崩れ落ち、私は机と椅子のわずかな隙間の中に閉じ
込められていました。土埃と油っぽい粉塵の臭いで、息苦しく2、3度、土の
塊の様な物を吐きました。動く頭を上に向けると、ぼんやりと薄明かりが見
えます。手を伸ばして屋根板をへし折ると、ちょうど人一人が通れる穴が開
きました。慌てて抜け出そうと立ち上がりる際、五寸釘が肩に刺さりました
が、腰を落としてそれを抜き、流れ出る血をそのままに倒壊した校舎の上に
出ました。外界は真っ暗で何も見えません。

 一緒に雑誌を見ていたY君が「おーい」と呼ぶので、彼の首を抑えている
垂木を馬鹿力でへし折り、引っ張り出しました。「一中だけがやられたにして
は変だぞ」−近くにいるY君の顔はぼんやりと識別できるが、辺りは真っ暗
で太陽はおぼろ月のようでした。校門近くに立っているユーカリの樹が幽霊
の様に見えます。その時「廣島一中の校舎がなくなったようだ」と気づかさ
れました。足元の級友の叫び声に応えて、二人で力を合わせて材木を動か
し、竹や板を折って数人の友を引き出しました。

  黒い土埃も収まりだした頃、「助けを呼んでくる」と云ってY君はその場を
去りました。独り残された私は、精一杯の力を振り絞り、何人の級友を引き
出したでしょうか。鼓膜が破れたのか、名前を呼んでも無表情の友、肩を脱
臼したのか手をだらりと垂れた友、倒壊した校舎の下をのぞくと、脳天を柱
で割られて黒髪を血糊で固めたまま身動きしない友、首を梁で挟まれ即死
した友。倒壊校舎の底からは声にならない呻き声だけが、助けを呼ぶ声と
して聞こえてきます。その間私も何度も嘔吐を繰り返し、次第に力が尽きて
行くのを感じました。

 やがてぼんやりと辺りの様子が見え出すと、学校の本館や教室棟はおろ
か、広島の街が消えていたのです。近くの中国配電(現・中国電力)ビルだけ
が突っ立っていましたが、窓から一斉に火を噴き出すと間もなくビル全体が
炎に包まれました。遠くにあるはずの福屋百貨店や中国新聞社が近くに見
えて、それらの窓からも炎が吹き出していました。この光景を私は呆然と眺
めていました。間もなく辺りにも煙臭い旋風が起こり、炎の近づくのを感じま
した。

 その頃、校舎の底の方からは重苦しい声で「天皇陛下万歳!」「お母さ
ん!」「広島一中万歳!」と、切迫した声が聞こえて来だしました。やがて苦
しそうに「君が代」を歌い始め、一層低い声で「鯉城の夕べ雨白く・・・」と校
歌の合唱に変っていきました。煙の匂いに、脱出できない事を覚悟した挽
歌は、やがて地の底に消えていきました。

 ふと材木の下を覗くと、席が近くで仲が良かったO君が太い梁に大腿部を
挟まれて助けを求めていました。「この水筒を除けてくれ」太腿と梁の間に
アルミの水筒が挟まっているのです。私は梃子にする棒を探し出し、梁を持
ち上げようとしましたが、びくともしません。数回試みるうちに、棒は折れてし
まいました。O君は無傷で意識もはっきりしていました。「よしっ、助けを呼ん
でくる」と励ましの声をかけて、人影の見えるプールの方へ向かいました。

 プールに辿り着くと、水の中は火傷を負った生徒達でごった返し、水も茶
色になっていました。建物疎開に出た奇数学級の生徒達が、水を求めて戻
ってきていたのです。上着はボロボロに焼けて、ただ一中制服の裾の黒線
が焼け切れている者、顔を真っ赤に火傷して、破れた水道管から吹き出す
水に顔を当てて冷やしている者、ポンプ室の方からは絞り出すような声で、
「軍人勅諭」の朗読を始めている者がいました。それにつられて、火傷を負
って倒れていた生徒達も立ち上がり、直立不動の姿勢で唱和を始めまし
た。こんな負傷者ばかりの姿を見て、倒壊した校舎内の救援を求められる
状態でないことが、やっと分かりました。

 再びO君を助けようと校舎に戻る途中、顔中ガラス片が突き刺さり、血止
めのゲートルを頭に巻いたT君がやって来て、口から血を吹き出しながら
「火が回ってきたぞ。逃げよう」と叫びました。私は学校を離れ、東側の墓地
を抜けて比治山に逃れようと竹屋町まで来ました。大きな通りは炎のトンネ
ルとなり、行く手を阻まれました。火の中を逃げ惑ううちに、南に引き返し大
通りに面した赤十字病院の前に出ました。

資料:「平和記念資料館」からの提供作品
 その辺りは大勢の被災者が列を作り、
ボロ布を纏ったような手を一様に前に垂
らして「うぅーん、うーん」と低いうなり声を
あげながら、血に染められた人間襤褸の
行列は延々と続いています。
 行列は火煙のない南方・御幸橋の方向
へ向かっているようです。
 近くで見るとボロ布と思っていた物は、
焼けただれた皮膚が垂れ下がったもの
でした。飛び出した眼球を、左の掌に載
せたまま、おぼつかない足取りで歩く青
年に出会ました。私もその行列に加わ
り、青年を見守る様について歩きました。

 夾竹桃の日陰では、泣きじゃくる赤ん坊をシッカリと抱きかかえるようにし
ながら頭を血糊で固めた母親は息絶えているようです。倒れたレンガ塀に
腰から下を挟まれ、助けを求めている婦人が私の脚を掴もうとする時、私
はとっさに手を振り払ってしまいました。その瞬間の懇願する目つきを忘れ
ることが出来ません。負傷をした市民に混じって歩く兵隊たちは、そうした被
災者を助ける事もなく、隊列を組む気力も失せたのか、黒く焼け焦げた軍
服を纏い、天皇陛下から授かった何より大切なはずの銃を杖代わりにして
足を引きずりながら歩く”烏合の衆”を見て「日本は負けた」と思いました。

 市の南端にある御幸橋辺りで被災者の長い行列は散らばっていきまし
た。 火傷を負った人達は、水を求めて川に飛び込もうとする。その人々を
必死で制止しようとする血染めの手袋をした警官。力尽きて丸太ん棒のよう
に炎天下の路上に並べられた半死体。やがてトラックがきて国民服を着た
数人が、無造作にまるで丸太ん棒でも積むように黒い死体を積み始めまし
た。橋のたもとに設けられた救護所はどこも人だかりがして、火傷に塗る油
の匂いに混じって死臭さえ漂い始めました。

  昼天に差し掛かった真夏の太陽は容赦なく照りつけ、のどはカラカラに
乾いていました。倒れた橋の欄干に腰掛けて、何度も気が遠くなりそうにな
りながら、ぼんやりと川面を流れていく幾つもの黒い死体を、無感情のまま
眺めていました。あとは自分との闘いです。気力を振り絞って夢遊病者のよ
うな足取りでやっと御幸橋を渡りきりました。対岸までは猛火と煙は追って
きませんでした。

 全半壊した迷路のような街を抜けると宇品線の丹那駅が見えてきました。
附近に拡がる蓮田は、少年時代のトンボ釣りの遊び場です。気も弛んだの
か道ばたに倒れ込み、気を失ってしまいました。炎天下の道端に行き倒れ
があちこち見られる中で駅近くの民家の人が私を家に担ぎ込んでくれてい
ました。「気が付かれましたか?一中の生徒さんですね!」民家の人は汚
れた顔を冷たい井戸水で拭いてくれました。聞けばその老婦人は「私の親
戚にも一中の三年生が居るんですが、どうしましたかいの」と云いながらい
つまでも休んでいけという。冷たい井戸水は最高のご馳走でした。

 これが地獄に佛というものか。もしあのまま倒れていたら、脱水症状で命
はなかったかも知れない。気力も回復した夕方になって、母親の待つ戸坂
村へ帰ろうとしました。老婦人が持ってきてくれた情報を頼りに汽車の通じ
ている宇品線で大洲駅まで行き、そこからは徒歩で矢賀駅まで意外と元気
に歩けました。矢賀駅に着いた頃は、夏の陽もとっぷりと暮れていました。 
 矢賀駅のプラットホームは、負傷した被災者であふれかえり、外見は何も
傷を負っていない私は気恥ずかしい思いをしたことが印象に残っています。
平山郁夫画伯の「廣島生変図:原爆記念資料館提供
 矢賀駅から負傷者ばかり積んだ列車が
動き出した頃は、深夜近くになっていたで
しようか。中山トンネルを抜けて、次の
駅・戸坂駅に降りたって恐るおそる廣島
の方を見ました。
 広島市街を取り巻く山々の稜線は、赤
黒い色に染められ、炎はオレンジ色に輝
いて、黄金の火の粉を巻き上げながら天
空にまで達していました。
 脱出した廣島一中の校舎の方に向かっ
て手を合わせしばらくの間佇んでいまし
た。救出できなかった多くの友・分けても
O君に「すまぬ!許してくれ」と合掌し続
けて、涙が止めどなく流れました。


TーA 被爆した学友達の記録 に続く

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