溝咋神社
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歴史・社宝

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当社は、二千年以上も昔からあって千二百年ほど前に延喜式内社に指定された官社で、茨木では最も古い神社である。

 日本書紀神武天皇の本分には、五十鈴媛命は、わが国初代の神武天皇の皇后になられたと記されている。 天皇即位の前に皇后をたてんとし、広く豪族より良縁を求められたとき事代主命と三島溝咋玉櫛媛命の子である五十鈴媛こそ才色兼備であるとすすめられ、天皇はよろこんで正妃とされた。

 また玉櫛媛の父は三島溝咋耳命であって、古代において広くこの地を統制しておられた方である。 元来、溝(みぞ)というのは水が生命で農業にとって欠くことできないものである。その溝を構成する杭(くい)も大切である。耳とは古代では長(おさ)をあらわす。したがって溝咋耳は農業神を意味した。
 溝咋耳神がこの地方においていかに信仰されたかは、今日立派な松並木をもった馬場先が残っていることからも察せられる。

左系図:●印は溝咋神社の本殿に祀っているご祭神です。
 
 


社 殿

■ 当社は第10代崇神(すじん)天皇のころ(紀元前とされる)、御祭神のゆかり深き当神社の地に創建されたと伝えられている。

■ 文明年間(西暦1469年~1486年)源氏の子孫である領主溝咋兵庫介質信(ただのぶ)が再建

■ 文禄年間(西暦1558年~1569年)領主長谷川式部少輔(しきぶしょうしょう)(織田信 長の家臣、後豊臣秀吉につかえ一万石を領有した、子孫は徳川氏につかえ二千石の旗本として当地を領有する。)が再建した。
武将等の信仰厚く、祭日には武士をつかわし警護をする。

■ 現在の社殿は寛保二年(西暦1742年)に大阪の豪商殿村平右衛門と石崎喜兵衛(沢ノ鶴酒造の祖)の寄進によるもので、江戸中期主人の殿村平右衛門が禁制の外国貿易を行い罪に問われたが、石崎喜兵衛が当神社に祈願し罪を許されたことにより、両氏によって再建されたものである。

■ その後昭和61年に「溝咋神社奉賛会」(現溝咋神社氏子会)氏子会員らの寄進によって修復される。

溝咋村の民話・伝説 
            わが町茨木 民話・伝説編  茨木市教育委員会監修より)

溝咋村とは:現在の五十鈴町(旧馬場)、星見町(旧二階堂)、平田、玉島(旧十一村)、目垣の旧五村のことである。

暁の鏡(あかつきのかがみ) 《民話・伝説を読む》←クリック

馬駈(うまかけ)の神事  《民話・伝説を読む》←クリック

(おきな)祭り  《民話・伝説を読む》←クリック

大和と出雲を結びつけた媛蹈鞴五十鈴媛命《民話・伝説を読む》←クリック
社 宝


  
■暁の鏡 (中国の漢の時代につくられたもの)

第五十一代平城天皇の皇子阿保親王の位田が当地方にあり、第五十三代淳和天皇の天長元年(西暦824年)の夏、ひどいひでりにあい人々が苦しんだ。親王が天皇にお願いして鏡をたまわり当神社の神前にて祈れば大雨が降り人々が大いに喜んだ。親王はこのことを天皇に申し上げたところ、天皇はその鏡に溝咋大神と書かれ当神社に与えられたと伝えられている。
なおこの鏡は中国の漢の時代につくられたもので青銅製二神二獣鏡、漢の騶(すう)氏が五穀がみのるのを祈ってつくったものである。、


八坂神社山鉾絵金屏風

●後西天皇第百十代(西暦1682年)の書による掛け軸
「おこなうや こころはさこそ 住居さえ 塵なきてらの 杉のした道」

●土佐光起筆天満宮像

●狩野元信筆天満宮像

●三条小鍛治宗近作の剣

●暁の鏡 (写真左上)

●八坂神社山鉾絵金屏風 (写真左中)

●森祖仙筆絵馬 (写真左下)

●狩野派の法眼春ト筆の額


森祖仙筆絵馬

暁の鏡(あかつきのかがみ)