宮之浦の名所・旧跡 一覧

*詳細は、名前をクリックしてください。
*位置は、「宮之浦散策絵図(PDFファイル/460KB)宮之浦散策絵図ダウンロードボタン
  をダウンロードしてご確認ください。

(1) 益救神社 (やくじんじゃ)

(2) 仁王像 (におうぞう)

(3) 石敢当 (せっかんとう)

(4) 宮之浦川橋 (みやのうらかわはし)

(5) 屋久島奉行所跡 (やくしまぶぎょうしょあと)

(6) 久本寺 (くほんじ)

(7) 檀那墓 (だんなばか)

(8) 西之河湧水 (にいのこ ゆうすい)

(9) 岩川與助像 (いわがわよすけぞう)

(10) 伊能の碑 (いのうのひ)

(11) 山口神社 (やまぐちじんじゃ)

(12) 牛床詣所 (うしどこもいしょ)

(13) 釈迦堂 (しゃかどう)

(14) 急行「屋久島」の動輪

(15) 川向神社 (かわむかいじんしゃ)

(16) 椋鳩十の文学碑 (むくはとじゅうのぶんがくひ)

(17) 恵比寿 (えびす)

(18) ウィルソン株(実物大模型)

(19) ズーフィコス化石群

(20) 宮之浦城ケ平城跡 (じょうがひらじょうあと)

 

(1) 益救神社

益救神社は、「延喜式神名帳」(927)に記載されている南島唯一の式内社。
十世紀初頭、薩摩藩領内での式内社は、
薩摩二座・大隅五座・日向一座の計八社のみであるから、
益救神社がいかに有力神社として位置づけられていたかが分かる。
祭神は山幸彦(=一品宝珠大権現=天津日高彦火火出見尊)。
奥宮は宮之浦岳であることから、山岳信仰と深いかかわりがある。
別名「須久比ノ宮(救いの宮)」とも言われた。
かつては各集落に摂社があり、屋久島の総守護神であった。
慶応二年(1866)に作られた社殿は、昭和二十年(1945)米軍爆撃機により大破。
現在の社殿は、昭和二十九年(1954)に復興改築されたもの。
例大祭は、かつては四月十日に行われていたが、現在は四月二十九日に挙行。
集落の春祭りとして、歌や踊りが奉納される。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(2) 仁王像

文政年間(1818─)から天保年間(─1843)にかけて、
島では疫病(=疱瘡)が流行したが、
この仁王像はその退散祈願のために寄進されたもの。
宮之浦集落の青年達は、疫病退散祈願のために、
花之江河や尾之間集落の温泉神社など、島の各所に石塔を奉納している。
明治初年(1868)、神仏分離令が出されたのをきっかけに、
各地で仏教排撃(廃仏毀釈)が展開されたが、
屋久島でも明治三年から約六年間吹き荒れ、寺院や仏像の破壊が行われた。
この仁王像は、壊されるのを恐れた村人が穴を掘って埋め、難を逃れた。

■説明板
「この石像は凝灰岩でできており、
左側に口を開けた阿形、右側に口を閉じた吽形の「金剛力士」で対を為す、
上半身裸体のたくましい仁王像です。
石像の背面には
「天保二年辛卯二月吉日、奉寄進 宮之浦住、近藤濱市 右嫡子市助」と刻銘があり、
天保二年(1832)に益救神社に寄進されたものと考えられます。
仁王像は、本来寺門の左右に立ち、仏法や伽藍の守護神ですが、
益救神社に寄進されていることは、
屋久島で神仏混淆の考え方があったことを表しているようです。
かつては島内の各寺社に仁王像がありましたが、
そのほとんどが明治初期の難により損害を受けました。
わずかに牛床詣所の仁王像とこの仁王像が原型を保っています。
若干の損傷があるものの、この仁王像は年代、寄進者名が明らかで、
当時の屋久島を知る貴重な文化財となっています。
  上屋久町指定文化財 平成元年四月一日指定」

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(3) 石敢当

石敢当は、魔除けのための石柱。
かつて、丁字路は縁起が悪いとされ、
魔物や悪い風が道を直進して屋敷に飛び込んでくると考えられた。
それを防ぐために、丁字路の突き当たりに住む人が立てた。
石敢当は、中国に存在した無敵の将軍の名前だという。
屋久島の各所にあるが、宮之浦では三箇所で見られる。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(4) 宮之浦川橋

宮之浦川橋は、昭和五年十二月、熊本営林局によって架設された。
右岸の欄干に「熊本営林局」のプレートが埋め込まれている。
「屋久島国有林経営の大綱」(通称=「屋久島憲法」)により、
屋久島の沿岸一周道路は熊本営林局が作ることになったからである。
それは、明治政府の官民有地区分政策によって「村持ちの山」までも国有地化され、
裁判闘争の挙句敗北した島民へのせめての代償であった。
今、車両通行不可の古橋は、島民たちの夏の夕涼みの場となっている。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(5) 屋久島奉行所跡

慶長十七年(1612)、屋久島を直轄領とした島津氏は、
寛永十九年(1642)には「屋久島代官」、
元禄八年(1695)にはその代官を廃止して「屋久奉行」を置き、
屋久島の支配体制をより強固にした。
シドッチが屋久島へ上陸した宝永五年(1708)には、
それまでの「屋久島抑」を廃止して「屋久島在番奉行」を設置、
翌年には「屋久奉行」を「屋久島奉行」と呼称替えした。
そして享保十三年(1728)には「屋久島手形所規模帳」が定められ、
屋久島の全ての物産の管理体制を整えた。
その後宝暦七年(1757)には木材の移出禁止令、
寛政元年(1789)には、屋久島の薬草類もすべて宮之浦蔵へ提出することが定められた。
以後、明治二年(1869)に廃止されるまで、
薩摩藩は、屋久島奉行所を中心に屋久島の支配・統治を続けた。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(6) 久本寺

久本寺は、長享二年(1488)日増によって開山された。
京都の本能寺、尼崎の本興寺の末寺。
日増の布教活動により屋久島は全島日蓮宗(法華宗)となる。
江戸時代末期の「三国名勝図会」によると
「島中仏寺は皆日蓮宗のみにて、他宗なし」とまでいわれた。
久本寺の境内には、
法華経三千部供養塔や島津義久第七回忌供養塔など、
貴重な町指定の定文化財もある。

■日増上人顕彰碑「屋久島・口之永良部、開教の祖」。
「日増上人は、嘉吉四年(1442)京都の公家生まれ。
若くして法華宗再興の日隆聖人の門下生となり修行されました。
種子島を法華宗に改修した日良法印と種子島島首の招きにより、
長享元年(1487)四十五歳の時、種子島に来島、
次いで屋久島に渡り布教されました。
当時、轟音を立てて、鳴動震動する九十九嶽が、
日増上人の偉大な法力により鎮まり、
この神通力と法華経の経力に、
島の人々は感動したちまち法華宗に改宗しました。
また同じように鳴動し、火山爆発の危険のある口之永良部島にも渡り、
鳴動を鎮め、島の人々の不安を除きました。
長享三年(1489)京都に帰郷。
明応元年(1492)京都本能寺の貫主、両山七世。
文亀三年(1503)六十三歳で寂。
この顕彰碑は、日増上人の屋久島来島、
法華経布教五百年を記念して建立するものです」。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(7) 檀那墓

薩摩藩は、屋久島統治や屋久杉管理のため、
寛永十九年(1642)、屋久島代官(後の屋久島奉行)を設置。
宮之浦に現地役所を置いた。
藩士が交替で屋久島に派遣されたが、その中には島で亡くなった役人も多くいた。
檀那墓は、檀那衆と呼ばれていた藩士たちの墓石群で、
大正初期には五十基ほどあったが、現在約二十基しか残っていない。

■説明板
「屋久島は、中世以来慶長一七年(1612)まで、
種子島氏に統治されていましたが、その後は島津氏の直轄領となりました。
島津藩は、宮之浦に現地役所を設置し、
「屋久代官」や「屋久島奉行」という名称で統治責任者を置きました。
代官も奉行も鹿児島で執務を行い、屋久島には「抑」を派遣していました。
宝永五年(1708)から、屋久島奉行の一名が、
屋久杉(御用木)の管理統制を含めた統治責任者「屋久島在番奉行」として
派遣されるようになり、
抑や在番奉行とともに多くの島津藩士が下役としてその任に着きました。
その中には在任中に病没する者もあり、藩士の格式に応じて墓石が建てられました。
これらは、久本寺僧侶の墓石も含みますが、
その当時の藩士の墓石群で、住民から「檀那墓」と呼ばれています。
その数は相当数あったと伝えられていますが、現在の数が残るのみになりました。
屋久島の近世藩政期の資料が少ない現在、
檀那墓は島津藩の統治に関する、貴重な文化財といえます」。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(8) 西之河湧水

宮之浦集落の西側に位置するこの地には、
かつて西之河(にいのこ)と呼ばれる川が流れていた。
その西之河に注ぎ込む、ここの湧水はいかなる渇水期にも涸れることがない貴重な水場で、
こんこんと湧き出るその水は、人々の飲料水として、
また炊事、洗濯、あるいは野良仕事帰りに手足を洗ったりと、
古くから人々の暮らしを支えてきた。
またこの遊水地の周辺には、大きな杉の木やアコウの大木が繁り、
その木陰で人々は憩い、談笑し、互いに情報交換をする場所でもあった。
残念ながら、胸高周囲三・八五メートル、高さ約二十メートルもあったその杉の大木は、
平成七年に枯れてしまったが、
その他の大木は、今も青々と緑の葉を茂らせ、この湧水地を守っている。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(9) 岩川與助像

岩川与助は、明治19年(1886年)、宮之浦に生まれた。
苦学して実業家として活躍。
鹿児島商船や大日本炭鉱社長、屋久島電工取締役などを歴任。
昭和3年政界に進出。
同年〜昭和5年、昭和24〜30年まで、衆議院議員として、
航路の改善や河川の架橋等に尽力した。   
この像は、「東洋のロダン」と称された彫刻家、朝倉文夫(1833━1964)の作。
同氏の作品には、代表作「墓守」や早稲田大学の「大隈重信像」などがある。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(10) 伊能の碑

伊能忠敬(1745─1818)は、 江戸後期の地理学者・測量家。
五十六歳のときに第一次測量を開始。
以後十六年間、七十二歳まで、日本全国の測量に従事、
初めて実測による正確な日本地図を作成するという大事業を成し遂げた。
幕府は、忠敬に全国の測量をさせながら、薩摩藩の偵察も行わせていたといわれている。
国家的事業のため、各藩も多大の負担を求められ、
薩摩藩にとっても船八艘の提供や百数十名の測量隊の宿の準備など、たいへんな出費であった。
地元屋久島も、全村をあげて協力。
楠川古文書には、そのときの楠川村の協力ぶりが詳細に記録されていて、
一大事件だったことが分かる。
その時、測量隊の休息や宿泊に備えて準備した「宿表示板」が、資料館に展示されている。

■碑文
「幕府御用で、日本全国を測量した伊能忠敬は、
文化九年(1812)三月二十七日から四月二十五日にかけて屋久島に滞在し測量を行った。
これによって得られた情報を基に、
文政四年(1821)、門人らの手で屋久島の三万六千分の一の地図が完成し幕府へ提出された。
屋久島は、忠敬測量の最南端地点であった。
ここに伊能忠敬測量開始二百年を記念し、伊能の碑を建立するものである。
平成十二年六月吉日 上屋久町 」。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(11) 山口神社

■由緒記
「山口神社は、江戸時代の初期より明治末年まで、
屋久杉を伐採するとき災害がないようにと、
山の神(大山祇尊)を奉祈、入山安全・作業安全等を祈った神社である。
また島民は昔から奥嶽を神々の棲む所として畏敬・崇拝し、
各集落で嶽参り(タケマイリ)の行事が行われたが、
村を代表して入山する青年を村人が見送り、出迎えた所がこの神社であった。
嶽参りの行事が消滅し、荒れていた神社は、
平成十七年二月有志者により、鳥居等が奉納され新しくなった。」

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(12) 牛床詣所

牛床詣所は、里における山岳信仰の遥拝地。
春と秋、年に二回行われてきた「岳参り」の際に、
山に詣でる男たちを送り迎えた場所。
一品法寿大権現や仁王像、祈願のための石塔約六十基が奉納されている。
近世のものが多く、石塔に使用している石は、山川石や加治木石など、内地産。
かつては正・五・九月の二十三夜には、村人がご馳走を作り、
この詣所の「コモリ堂」に通夜籠もりをし、昔話などを語りながら月待ちをしたという。

■説明板
「屋久島は、宮之浦岳を始めとする険しい山々が多いため、
古くから「山岳信仰の島」でした。
ここは、山岳信仰の重要な行事である「岳参り」の折りに、
家族が山に詣でた男たちを出迎えた場所です。
女人禁制のため、岳参りに参加出来ない婦人や子どもたちは、
日ごろここで遥か山奥の御岳を拝みました。
詣所は、いわば里における山岳信仰の聖地であり、
詣所内には、疫病退散や大漁祈願、安全祈願などさまざまな石塔が、
六十数基奉納されています。
中央にある石塔は、信仰の神である「彦火々火出見尊(山幸彦)」を表し、
一般的に「一品宝珠大権現」と示すものが、「一品法寿大権現」と刻まれています。
このことは、法華宗(日蓮宗)の屋久島布教により、
古来の山岳信仰から神仏混淆へ移り変わったためと考えられます。
石塔の銘文によると、幕末の天保・嘉永年間に島で疱瘡が流行したが、
宮之浦村から患う者を出さなかったということに感謝し、
建立されたことが読み取れます。
牛床詣所は、屋久島における山岳信仰の実態と、
石塔の銘文や形状から各時代の社会状況を示すものとして、
民俗的・宗教的に貴重な史跡となっています。 
      上屋久町指定文化財 平成四年四月一日指定 」。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(13) 釈迦堂

釈迦堂は、元禄元年(1688)に、当時の屋久島の宰領であった町田孫七によって建立された。
貞享三年(1686)に楠川の海岸に流れ着いた仏像を安置するために建立したといわれるが、
釈迦堂の敷地内には、
町の文化財に指定されている慶長元年(1596)の供養塔「道本銘供養塔」も存在している。
町田孫七は、貞享元年(1684)屋久島抑として着任。
信心深い人だったようで、翌年には、荒廃していた益救神社の社殿を現在の社地に造営し、
復興させたといわれている。

■説明板
「釈迦堂は、島津藩から派遣された屋久島抑、町田孫七により、
元禄元年(1688)に建てられたとされています。
貞享三年(1686)の春、楠川に釈迦如来像が漂着し、それを機に孫七は釈迦堂を建て
、全島の僧侶を集めて供養したということです。
その頃中国で、揚子江の金山寺が洪水で流され、
この釈迦像はその寺の仏像が流れ着いたものといわれ、
海とともに生活があった島の特色を、よく表す伝説となっています」。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(14) 急行「屋久島」の動輪

急行「屋久島」は、昭和45年(1970年)10月1日から昭和50年(1975年)3月10日まで、
大阪〜西鹿児島間で運行された国鉄の急行列車。
急行「櫻島」を改称したものだが、
国鉄の列車に初めて「屋久島」の名前が登場し、 注目された。
この動輪は、その屋久島号のもの。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(15) 川向神社

明治四年(1871)、それまで益救神社に祀っていた火須世理尊(海幸彦)を対岸に遷座し、
川向神社とした。
そのとき、益救神社に祀っていた恵美須ノ神も、河口の祠へと遷座しているが、
その理由は不明。
川向神社は、かつては森の中に鎮座していたが、宮浦中学校の校舎建築で現在地に移転した。
神話でよく知られた山幸彦と海幸彦の兄弟が、
川の左岸と右岸に対峙して祀られているのは、珍しい。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(16) 椋鳩十の文学碑

椋鳩十(1905―1987)は、長野県出身の児童文学作家。
本名は久保田彦穂(くぼた ひこほ)。
鹿児島には、代用教員として赴任。1947年には鹿児島県立図書館長を務め、
図書館の独立を守りながらも図書館の再建に努め、「鹿児島方式」を確立。
後の図書館ネットワークの構築に大きな影響を与えた。
1960年には、「母と子の20分間読書」運動を推進。
内の小中学校・高校の校歌にも詩を提供。
1952年、文部大臣奨励賞を受賞した「片耳の大鹿」など、
屋久島を舞台にした作品も多数ある。

■石碑
「道は雑草の中にあり」。
「道は雑草の中にも存す。どんな雑草の生えた荒地にも道が出来るように、
わが人生も開こうとすればどこからでも開かれる──椋鳩十」

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(17) 恵比寿

恵比寿は、人々の生業を守護し、福利をもたらすと信じられている民間神。
七福神のひとつ。
もともと漁業の神であったが、後に商業の神にもなった。
宮之浦には三箇所あり、いずれも漁民の漁業の神。
現在、名残の松原にある恵比寿は、
かつて宮之浦川左岸に祀っていた恵比寿が引っ越したもの。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(18) ウィルソン株(実物大模型)

■碑文
「大正三年(1914年)二月十七日、
アメリカの植物学者でハーバード大学付属のアーノルド植物園長であった
アーネスト・ヘンリー・ウィルソン博士は、
日本の針葉樹とサクラツツジ調査のため来日し、その第一歩を屋久島に印した。
当時の感想を
「私にとって日本中で最も興味深い森林は、隠花植物の自生地、南の屋久島である」
と述べている。
案内人と共に山中深く分け入った博士は、
小杉谷の奥で豪雨にあい、雨宿りした洞穴が巨大な杉の切株であったことから、
その切株を博士の名にちなんでウィルソン株と呼ぶようになり、広く世に紹介された。
この大株は、
天正十四年(1584年)京都方広寺の建築用材として、
豊臣秀吉の命により島津家久が、
楠川の牧五郎七ほか七名の木挽に伐採させたもので、
その切株がウィルソン株である。切株の大きさは次の通りで正に驚異的である。
根回り=32・5m 胸高=18m 切り口=14・41m ・高さ=4m
伐採前の樹高さ推定=50m 樹齢推定=3000年
洞底面積=31・4平方メートル(約19・5畳)
切株の中は空洞で、底から清水が湧き出で、空洞の中に木魂神社が祀られている。
ウィルソン株は博士の名と共に、屋久島のシンボルとして親しまれ、
観光・学術的にも大きな役割を果たしている。
ここにウィルソン博士の徳をたたえ、切株との因縁を永く伝えるため、
実物大模型の顕彰之碑を建立し、敬意と親愛をこめてその名の由来を刻し記念とする。
 昭和五十六年七月 上屋久町・上屋久町観光協会    」。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(19) ズーフィコス化石群

ズーフィコス化石は、太古の海底にいた生物の生活痕が化石となったもの。
水深三千メートルもの深海に棲んでいた、ユムシ類のものとみなされている。
日向層群(熊毛層群)と呼ばれている、約四千万年前の地層から見つかった。
ズーフィコス化石は、摂食と排泄を繰り返した結果、
こうもり傘のような層が何段も重なる立体的構造が特徴。
同化石群には約三十個のズーフィコス化石があり、最大のものは直径百五センチ。
国内最大級の完全形で、らせん状の構造も見事で、貴重な化石である。

●名所・旧跡の一覧へもどる

 

(20) 宮之浦城ケ平城跡

城ケ平城は、鉈折岳の丘陵に作られた中世の山城。
天文十二年(1543)、屋久島を領有した禰寝氏が、駐留軍居城のために築城したといわれる。
築城途中の翌十三年(1544)、種子島勢が楠川より侵攻すると敢え無く敗走し、
永田にて降伏。屋久島は再び、種子島氏の領有するところとなる。
この時の戦さで、前年ポルトガル人から伝えられた鉄砲が、
初めて使用されたと伝えられている。

■説明板
「室町時代後期、全国が戦国動乱期に入ると、
屋久島においても、領主種子島氏と大隅半島南部の禰寝氏との間で、
屋久島をめぐる合戦が行われています。
屋久島は大陸への海上交通南島の拠点として、大きな役割を持っていました。
天文十二年(1542)禰寝氏は、種子島十三代恵時の悪政を正すとの名目で、
直接種子島に来襲し、その戦いで種子島氏を敗り、屋久島を奪いました。
城ヶ平城は、屋久島を手に入れた禰寝氏が、種子島氏の攻撃に備えて築城途中の山城でした。
しかし翌年屋久島奪還を企てた種子島氏から攻撃を受けると、
禰寝氏はたちまち城ヶ平城から敗走しました。
現在の城ヶ平城跡は、曲輪、空堀、土塁などが残る中世戦国時代の貴重な史跡です。
上屋久町指定文化財 昭和六十三年四月二十六日指定 」。

●名所・旧跡の一覧へもどる