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岡田正泰さんを偲んで

     

ヤクルト応援一筋50年、岡田正泰さん(私設応援団岡田ツバメ軍団)が7月30日朝,急性肺炎のため

お亡くなりなりました(享年71歳)ご冥福をお祈りします。

岡田さんは数年前から肺の病気をわずらっていて、風邪を引くと肺炎を引き起こす可能性が高いので
風邪をひかないようにと言われてそうです。神宮の試合でも雨が降ると体のことを考えて
足早に神宮を後にすることも

そんなオヤジも7月の北海道遠征(札幌ドーム)に遠征し、北海道のヤクルトファンのため応援の音頭を
とり元気な姿をみせていたが、帰京後、北海道と東京の温度差に体調を崩し、風邪を引き肺炎に・・・

周囲に気遣って、体調を崩したことや入院のことはごく一部の関係者だけに伝えられていたという


岡田さんといえば、8回裏に出てきて、「オウオウオウ!お前ら!腹に力いれて景気良くやれってんだ!」
岡田オヤジ独特の江戸っ子弁でヤクルトファンに気合いを入れ、応援をもりあげて、楽しませてくれた
ヤクルトファンにとっては神様みたいな人でした。ファンが少ないから多くいるように見せるため、誰でももっている
傘をもって、誰でも一度は聞いたことはある、東京音頭にあわせて得点時の傘応援を考案。

誰でももっている安い傘というのは、かつて岡田さんが、フライパンを太鼓がわりにたたいていたように
”応援にお金をかけない”というのがあり、そんな金があるなら、”明日の観戦チケット代にまわせ”と言う人でした。
(子供達には「神宮の食べ物は高い」からお母さんにお弁当を作ってもらいなさいと子供の財布まで心配していた)

岡田さんのポリシーは「ファンに楽しんでもらうこと」でした。応援の音頭をとっている最中、修学旅行生や子供や
外国人の人に話しかけ、一日応援団長に仕立て上げてみたり、写真を一緒に撮ったりとアットホームな外野席に
していたのも岡田さんでした。自分も中学の頃(88年)岡田さんと握手をしてもらい、そのまま一日応援団長に
仕立て上げられ事は一生の思い出です。(下を向いて顔をあげられなかった)

 


口元に手を当ててファンに檄を飛ばす         岡田さんの登場でヤクルトファンの応援もヒートアップ

ご冥福をお祈りします

 

「ファンに楽しみ、喜んでもらう」ことがオレの応援のポリシーである

●ファン代表 岡田正泰氏(応援団長)

外野席に観客が5人っていう時代もあったよ。こちとら江戸っ子でぇ。「判官びいき」っていうんかな。
弱かったスワローズを応援していたら、当時のサンケイの球団社長から「頑張って応援してくれ」って
いわれてな。17,18歳の頃からだから、応援生活も、かれこれ44,45年になるんだなぁ
 昔の応援っていうのは、もっとキレイだったよ。ヤジとか拍手だけだったけど。痛くなるほど手を叩く。
情がこもっているじゃねえか。別に応援なんて一人だってできるんだよ。大勢いればいいってもんじゃない。
な、そうだろ。「協力したい」っていってくれる若いもんが今は15人ほどいるがな。
 まぁ、オレも仕事(看板塗装業)があるからよ。それが終わってから神宮に駆けつけると、どうしても7回ぐらい
なっているけどな。それでも”ここが大事だ”と思った試合には北海道でもどこでも行っちゃうよ。
年間100試合ぐらいは必ず応援にいっている。
 でも、野球自体はあんまり見れないな。それより気になるのが、”人の流れ”。
「きょう応援してくれるのは、どんな人かな」って。
気になってスタンド中、歩き回っているよ。オレもちっとは顔が知れてるからな。
ヤクルトファンの人に声をかけてもらうし、声をかける。何かアピールするものがなけりゃ、
サッカー人気に追い越されちゃう。
 これまでで印象深いのは、いわずもがな78年の優勝だよ。嬉しかったねえ。「東京音頭」もあの頃からだね。
でも、みんな歌詞を知らなくて、オレは歌詞をコピーして配って回ったよ。
「カサの応援」を始めたのは8年ぐらい前から。
どこの家でも余っているビニールの傘でいいんだよ。金をかけなくても。な、そうだろ。

 たとえ大敗しようとファンに楽しんで球場から帰途についてもらいたい。
”ファンに喜ばれる”というのがオレの応援のポリシーだ。「応援しろ」と強制なんかしねえよ。
応援を楽しむことによりファンがのって、そのファンの応援で選手をのせられれば、最高じゃないか。な、そうだろ。
 今年の優勝はホント、嬉しかったよオレも、もう61歳。親父とお袋が亡くなった時、もうやめようとかとも思ったんだが、
まだ情熱が残っていたんだよ。他人からみれば、かわっていると思われたかもしれないけどな。嬉しいよ。
これからも選手を励ます応援を続けていくよ。

(スワローズ優勝・ヤクルトスワローズ優勝記念号・週刊ベースボール 1992・10・21 増刊号)

 

 

 

 

当HP掲示板(慎也と燕ボード)より書き込み

ツバメ軍団より 御礼の挨拶
名前:ツバメ軍団    日付:2002/08/05(Mon) 20:24

この度は ツバメ軍団団長 故岡田正泰儀 の通夜・告別式に際し御焼香を賜りました事をこの場をお借りしまして深く御礼申し上げます。
また神宮球場Eブロックで多くの皆様からの献花並びに、掲示板等での御懇篤なる御弔詞、温かいお心遣いを賜りまして誠に有難うございました。

私どもツバメ軍団一同にとりまして、岡田団長は自分達の父親以上の存在 まさに「オヤジ」でありました。
生前オヤジは、よく私達に「ファンに喜ばれるというのが俺の応援のポリシーだ」と語っておりました。
「応援を楽しむことによりファンがのって、そのファンの応援で選手をのせられれば最高じゃないか」と。
そのオヤジの遺志を継いでいくには、単に球場で応援するということではなく、私達自身も一スワローズファンとして
みなさんと一緒になってスワローズを盛り上げていくことであると信じています。
それこそがオヤジの応援におけるポリシーだったのではないでしょうか。
その心を胸に、故岡田正泰の残したスワローズ応援の伝統・遺志を継承していきたいと思っています。

どうか、みなさんも出来ますればスワローズのスタンドを盛り上げてくれた岡田のオヤジのことを忘れないでください。
そしてたまにオヤジの思いで話でもしていただけたらと思います。
最後になりますが ツバメ軍団一同これからもファンの皆さんと共に歩んでいきたいと思っております。
今後ともよろしくお願い申し上げます。この度は誠に有難うございました。

ヤクルトスワローズ私設応援団 ツバメ軍団一同

 

 

     

 

訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

ヤクルトの名物応援団長・岡田正泰さん死去

okada-ni.jpg  ヤクルトファン一筋50年で私設応援団「ツバメ軍団」応援団長、岡田正泰さんが30日、肺炎のため都内の病院で亡くなった。71歳。傘を振りかざしながら東京音頭を歌うユニークな応援スタイルの発案者で、ファンなら知らない人はいない名物おじさん。今季も連覇を祈って応援を続けていた。チームは広島に完敗を喫し6連敗。弔いの白星を届けられなかった。

 突然の訃報(ふほう)だった。関係者によると岡田さんは19日からチームの札幌遠征の応援に駆けつけていたが、帰京後に風邪をひいたという。29日夜に容体が急変し、緊急入院したが30日午前8時に息を引き取った。数年前から肺を患っていたが、今季も神宮球場に姿を見せていた。蒸し暑い東京と涼しい北海道との気温差もあり体調を崩したようだが、3日前にも応援団の知人に電話をしており、そのときは体調面のことは何も話さなかったという。

okada-ni2.jpg  岡田さんはヤクルトが国鉄時代だった1952年(昭和27年)からスワローズ一筋という筋金入りのファンとして有名だった。当時のチームは万年Bクラス。1人フライパンをたたいて応援していたが、その輪が広がるにつれ「どこの家庭にも必ずある」こうもり傘に変更。しかし、観戦の邪魔になることもあり、青、そして近年は緑のビニール傘を採用した。78年チームが初優勝した年に、7回の攻撃前に「だれでも知っている」東京音頭を合唱するパターンを定着させた。ガリ版刷りによる歌詞カードをスタンドで配って歩いたりもした。家業の看板製作のノウハウを生かし、手作りの横断幕で選手を励ました。昨年、チームは4年ぶりの日本一に輝き、テレビに出演するなど元気な姿を見せていた。

 岡田さんが愛し続けたチームは、先週巨人に3タテを食らい、この日は広島黒田を打ち崩せずに完敗。6連敗で自力優勝の可能性も消滅した。岡田さんはチームの連覇への可能性が低くなる中、天国に逝った。

 悲報を聞いた若松監督は試合後、「試合前に聞いた。酒もたばこもやらない人だった。一生懸命応援してくれたので感謝している。だからこそ勝ちたかったんだけど…。これからも天国で見守っていてほしい」と沈痛な表情で死を悼んでいた。

 

(写真・上=92年の日本シリーズ第1戦で応援の音頭をとる岡田正泰さん、下=93年の日本シリーズ第2戦でも傘の花とともに熱烈な応援)

◆岡田正泰(おかだ・まさやす)
 1931年(昭和6年)4月8日、東京生まれ。高校中退後、証券会社に勤務。その後父親のあとを継ぎ、看板製作会社「オカダ工芸」の社長に。20歳のころからヤクルトの前身、国鉄スワローズの私設応援団に入り、神宮の名物おじさんとなった。
葬儀日程
▼通夜 7月31日午後6時から。
▼告別式 8月1日午前11時から。いずれも東京都杉並区荻窪2の25の1「中道寺會堂」にて。喪主は妻千鶴子(ちづこ)さん。

 


 ◆池山、悲報に絶句  チーム現役最年長で19年目のベテラン池山が、岡田さんの悲報に絶句した。しばらく立ちつくしたまま微動だにしなかった。「エッ、ホント? いつ? だって去年パーティーで会ったときに、すごい元気だったのに」。今年3月には応援団を通してTシャツをプレゼントしたという。「安らかに眠ってください」と故人のめい福を祈っていた。

 ヤクルト真中選手会長「試合前に聞かされた。外野でいつも応援してくれていたのに…。」

 


荒木大輔「感謝の気持ちでいっぱい」

 僕が入団した82年ごろは毎年5、6位争いというのがヤクルトでした。最初の5年間で4度、最下位ですから。92年に14年ぶりに優勝。その時に岡田さんがこう答えていたのを今でも覚えています。ヤクルトをずっと応援してきた理由を聞かれ「たまにしか勝たないからこそ応援できるんだよ。この喜びはほかの人には分からないと思うよ。1勝の重みがほかのチームでは味わえないから」。この言葉を耳にして「僕らも頑張らなきゃ」と思ったものです。

 中学時代から「ヤクルトには名物応援団長がいる」というのは知ってました。プロ入り後も激励会などで顔を合わせて、いつも励ましてもらいました。応援スタイルが違うんですよね。相手をヤジり倒すような感じでなく、チームや選手をひたすら応援する。それが岡田さんのスタイルでした。選手にすればありがたい。神宮で必死に投げている時、熱い応援で後押しされてるようですからね。

 ヤクルトは優勝すると必ず、右翼スタンドに走っていってフェンスによじ登りますよね。岡田さんら応援団に支えられて、そのお礼を込めた行動なんです。

 ヤクルトという球団、選手を育てていただいた岡田さんに、感謝の気持ちでいっぱいです。(元ヤクルト投手、日刊スポーツ評論家)

 


ヤクルト応援団長 岡田 正泰 外野席の顔 東京音頭と共に(朝日新聞・夕刊9月9日)

外野席のエンターテイナーだった。今やヤクルト応援の名物になった東京音頭に合わせた
傘踊りを発案したのがこの人。家業の看板屋の腕を生かし、「神様 勝たしてください」などと書いた
手作りののぼりも観客を楽しませた。応援を始めたのは50年前。当時の国鉄スワローズの試合を見て、
あまりの応援の少なさに助太刀を買って出た。夢が実ったのは78年。初優勝したその時のエース松岡弘さんは
「『松、がんばれよ』という大声がマウンドまで聞こえてきて、ずいぶん励まされました。強くて、人気のある
今のヤクルトをつくった、縁の下の力持ちですよ」。
 25年以上一緒に応援を続けてきた小菅暢孝さん(47)は「どの球場に行っても、いつの間にか人気者になって
しまう。最初は変なおじさんと思われるけど、最後は『また、来てくれよ』と握手攻めにあう。不思議な魅力を
もった人でした」と振り返る。 40年以上連れ添った千鶴子さんを、「ちづさん」と呼んだ。数年前から肺を患い、
7月下旬、札幌に応援に行った後に体調を崩した。29日夜、トイレに起きて「ちづさん、水をください」と言い、
座ってコップの水を一気に飲み干した。苦労をかけたこれまでの日々を謝るかのように上半身を折り、
そのまま倒れた。「本当にわがままでせっかちで、逝くときも自分勝手に逝ってしまった。でもあんなに夢中になれる
ことがあったのですから幸せですよね」

葬儀には一般のファンも多数参列した。東京音頭に送られて出棺。お寺が神宮のライトスタンドに変わった。

おかだ・まさやす  7月30日死去(肺炎)71歳 8月1日葬儀

 

スポーツないしょ話(ニッカンスポーツ)

ヤクルトの名物応援団長・岡田正泰さんが7月30日、亡くなられた。あのビニール傘応援の生みの親である。
最初は、たった1枚のフライパンを叩いて声をからした。仲間が出来ると「どこの家にもある」こうもり傘を引っぱり出し、
応援歌が必要になれば「誰でも知っている」東京音頭を肩を組み、歌った。「どこでも」、「だれでも」が岡田さんの応援信条だった。

いい人生だったな、と思う。以前、読んだ本の一節を思い出した。

『わたしは無駄にこの世に生まれてきたのではない また人間として生まれてきたからには無駄にこの世を過ごしたくない
私がこの世に生まれてきたのは私でなければ出来ない仕事が何か一つこの世にあるからだ
それが社会的に高いか低いかそんなことは問題ではない
その仕事が何であるかを見つけそのために精一杯の魂を打ち込んで行くところに人間として生きてきた意義と生きていくよろこびがあるのだ』

相田みつを

生前の写真が7月31日付、日刊スポーツの3面に載った。「ソレーッ」と声をあげ、右手を上方に高くかかげている。
その腕の先の指が中空にスラリと伸びている。

こんな人生を、私も生きてみたかった。

 

 

 

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