ステファノ・グロンドーナ インタビュー                        リンクフリーです。無断転載禁(引用可)

日時:2008/08/31 pm11-am1 @宝塚


SG:Stefano Grondona、 K:Kenzo Karasaki

目次



ステファノ・グロンドーナの修行時代(私は私が持っていないものを理解していた)


K:たぶんあなたは受講生に、レッスン以外の場所では、音楽それ自体についてあまり深く話されなかったように思います。それをこの場で話すのは面白いのではないかと思いました。先日の夜、ジュリアン・ブリームとのレッスンについて話されましたね。レッスンのとき、ブリームは何も話さないで、ただあなたと一緒に曲を演奏した。そして、それを見てあなたはブリームから「盗んだ」という話でした。

SG:はい、はい。

K:その話は受講生たちにとってとても面白いものだったと思います。なぜなら、それと同じことを受講生があなたに対してしようと思うようになったでしょうから。若いときあなたがどのように育ったのかという話は、受講生にとって刺激的だったと思います。

SG:どう育ったか……それは、私が「こう育ちたい」と決心した、ということではなく、当時から時を隔てた今、当時を観察すると分かることなのです。当時の私の意識は現在とは違いました。当時は自分に関する事柄ばかりに意識が行っていた。でも今では、当時の私が他の同年代の人に比べてどういう人間だったのかを理解しています。

K:あなたは他の人とは違ったということでしょうか。

SG:ええ。でも私は、何かを他の人よりも理解できたという意味で違ったわけではなく、多分、「自分が何を持っていないか」を理解できたという意味で違ったのです。

K:あなたが持っていないものについて、ですか。

SG:ええ。もちろん私は「今自分が何を持っているか」については理解していました。でも同時に、これからどれだけのものを持つことができるかという可能性についても興味があったのです。何を持っていないかということが分かれば、それを持つことがどれだけ重要なことなのかが理解できます。自分がまだ持っていないものが一番重要なのです。当時の私の目的ははっきりしていて、それは私の最初のインプリンティング(刷り込み)であったセゴビアのレコーディングにおける、音の感情的な次元(emotional dimension of the sound)を知覚することでした。だから、そのときの考えは、ギターを演奏するということではありませんでしたし、世界で一番のギタリストになることでもありませんでした。

K:すみません、インプリンティングという言葉について聴いてもいいですか。それは最初の教育のようなものですか。

SG:教育というより自己教育、いやむしろ第一印象というべきかもしれません、印象は教育ではないですから。教育とは、他者が私たちの理解のプロセスを導くことです。

K:その「第一印象」はあなたにとって重要なものだったのですか。

SG:ええ。私はセゴビアのディスクのおかげで、ギタリストであるということの良い理由を与えられたのですから。それは、セゴビアのディスクを聞いているあいだに、その感情的な次元を自分で感じそこへ達することができたからです。

K:あなたはセゴビアのディスクを持っていたけれども、セゴビアが持っているものは持っていない、ということにも気づいていたのですね。

SG:私はなにも持っていなかったですし、そこへ向かっていかなければならないということも分かっていました。

K:そことはセゴビアですか。

SG:セゴビアか、あるいは同じ種類の次元です。私はその感情的な次元がセゴビアだけに所属しているとは言いたくありません。たぶん、そういった抽象的な感情的次元をセゴビアから与えられたのですが、後になって、たとえばベネデッティ・ミケランジェリが演奏するショパンの変ロ短調スケルツォを聴いたとき、セゴビアとは違うやり方で弾かれていた、つまり、幾何学的に完璧に(geometrically very perfect)、構造的に弾く演奏家なのに、感情(emotion)がそこにあったのです。なぜ、多くのギタリストやピアニストはこれと同じ種類の感情を与えることができないのでしょうか。(訳注:「幾何学的」とは、楽譜に忠実に正確に弾くこと、リズム的に正確に弾くこと《つまり揺らさないこと》をマスタークラスでは指していた)

K:「幾何学的に正しい」とは、また、「感情的」とは、どういうことでしょうか。

SG:セゴビアは少し即興的(improvising)なところがあり、聴く人の心に届かせるためには曲のシチュエーションを溶かしてしまいます(melting the situation of the piece)。彼はとてもルバート(訳注:テンポを揺らす)であり、構造が小さかった。またそういう曲をレパートリーとして持っていました。

K:それは良くない、という意味でしょうか。

SG:いえ、いえ、それはそれとしてよいのです(No, no, that was what it was)。それはとてもよかったし、つまり感情的であったですし。

K:でも彼は必ずしも「幾何学的に」正確には弾いていなかったわけですよね。

SG:いえ、彼は本当に幾何学的に正確に弾いていました。非常に正確に(quite correct)。でも私たちは彼が他の種類のエポック(時代)から来た、他の種類の解釈、概念から来た人だということを理解しなければならない。「幾何的」というものが指す意味は少し違ったのです。でも他の音楽家たち、もっと「モダンな」(訳注:指で引用符を作りながら)音楽家たちは、より幾何学的でありかつより面白くないということがあるのです(more geometrical and less interesting)。 でも、面白くかつ感情的かつ幾何的に正しいという彼(訳注:ミケランジェリ)のような人もいる。ただ、指のアクション、腕のアクション、腕と体の落ち方等を考えると、ギターよりもピアノのテクニックのほうが幾何的で、それが音の規則的な発音を助けています。でもそれは最終的には何も意味しません。でも当時私は、感情的な結果がピアノなどの他の楽器から私にむかって来るのを経験していました。ある特定の奏者の手を通じてです。それはそんなにたくさんの人ではありませんでした。それは、セゴビアが与えたのとは違う形や違う音をとりつつも、彼と同じ種類の感情的な環境(emotional circumstance)を与えられる人たちでした。私にとって学ぶということは、〔音楽的〕風景(landscape)を探して、何が私にこんなにも高く深い感情を与えているのか、どのようにそれがなされているのか、それがどんな構造(structure)になっているのか、どのようにそれが働いているのか、等を考えることでした。私自身で何かを得なければなりませんでした。目的はそこだったのです。私は、自分のよいプレイヤーとしての才能をただ受け入れるということはしませんでした。たしかに当時私は非常によいギタリストだったのですが、私は私自身に完全に不満でした。なぜなら私は私が今ある姿よりも上を行こうと望んでいたからです。だから私は、どのようにして「それ」(訳注:高く深い感情を与えられる「何か」)が他の演奏者のなかでそんなにうまく働いているのかについて、理解しなければなりませんでした。そんなにたくさんの人たちではありません。より多くの人の演奏を聴くにつれ、私はより選択的(more selective)になっていきました。問題の魂に行き着くべき場所(somewhere I was going into the soul of the problem)について、選択的になっていったのです。すべては面白くなりうるのです。
 私はまだいろいろなものを持っていなかったけれど、私が持っていないものについてそれを持ったときにそれが役立つかどうかについての直観は持っていました。私は自分が持っていないものについてどんどんこだわることができたのですが、一方で、他の人たちは何年もかかって自然(nature)が自分に与えてくれたもの(訳注:天分、才能)を確かめることばかりしていたのです。それがよいものなのか、十分によいものなのか、ぜんぜんよくないものなのかを問うことをしないままに。彼らはただ人生で、自然が彼らに与えたものについての競争(competition)を行っているだけです。よりよい性質(nature)を求めるために努力するのではなく、原始的な性質(primitive nature)を受け入れ(accept)、守る(defend)ことしか考えていないのです。ここがポイントです。これではまるで動物のコンペティションです。だれが一番大きい耳を持っているとか、誰が一番長い鼻を持っているとか、誰が一番すばやく飛べるかとか、高く飛べるかとか。勝者はよりよいクオリティを持った人です。でも本来の目的は失われています。自発的な音楽性とは、十分に音楽のイメージをキープすることです。しかし、「パターン」はもっとギネスブックのようなもので、サーカスのようです。誰がもっと速く、誰がもっと強いか。ここから本当に何が出てくるというのでしょうか。これと、インタープリテーション(解釈)の歴史からやってくる深いメッセージとを比べてみましょう。深いメッセージは録音されているのです。だから解釈には歴史があるのです。ものごとはもうなされており、保存もされており、それがプロポーズ(積極的に提案)もしてくる。たとえばセゴビアは私に話しかけてきたのですが、それは同時代人として(contemporarily)話しかけてきたのではなく、少なくともそれより20年、25年前のセゴビアなのです。このこともまた理解するのは面白いことだと思います。ディスクの重要性です。それは解釈を与えてくれるのと同時に、可能な未来への投射(potential projection toward the future)も与えるのです。(訳注:現在の私達に解釈を与えてくれるのみならず、潜在的に未来に向かって解釈を投げかけている、の意ともとれる。)

録音とコンサートの違い(本当のミスとは、間違った解釈のことである)


K:では、聴衆を前にして弾くのと、マイクを前にして弾くのでは、態度は少し違う(a bit different)のですか、それとも完全に違う(totally different)のですか。

SG:言うなれば、少しであり完全に違う(a bit totally different)と言えるでしょう。なぜなら、目的と目的の認識が違います。第一に、コンサートではコンサートホールが私たちの弾く場所です。

K:コンサートのほうがより聴衆とのコミュニケーションがあるということですか。

SG:いえ、コミュニケーションの種類が違うのです。レコーディングはある種のホールで行い、CDのようなある種のサポートによって音を固定するわけですが、この音やこの音楽はどこで聴かれるかはわからない。小さい部屋で聴かれるか、とても悪いステレオで聴かれるか、またはすごく大きなホールの中の非常にファンタスティックなステレオで聴かれるか(レコーディングはそれよりも小さなホールで録られたにもかかわらず)。ディスクを再生することは、私が弾いたリアルな場所や状況を再生するわけではありません。一方、コンサートホールはそれだけです。私は座り、私は演奏し、私は私のアイディアを投げかけます(project、訳注:語源どおり「前方へ投げ出す」という意味で使うことが多いようである)。そのアイディアは、また次のような条件にも左右されます。弾く場所の空気、空間、私の耳に帰ってくる音のリターンの仕方などです。非常に現在(present)との関係が強いのです。一方、レコーディングにおいては、演奏行為自体は現在に行われているけれど、その結果はディスクを聴く人の前で何度もリピートされるのです。だから、同じエフェクト(効果)ではないのです。だから、〔録音はコンサートとは〕違うプロダクション(制作)として洗練されうるのです。レコーディングの音はギターから出てくる音のみではなく、再生される可能性のある(potential)ラウドスピーカーから、可能性のある部屋から、出てくる音でもあります。また、可能性のあるパフォーマンス(訳注:再生?)の繰り返しからも。だからたくさんの条件付けがあるわけです。一方、コンサートはコンサートです。もしあなたが理解するなら、それを完全に認知(perfect perception)することができます。もしあなたが集中していたら集中しているし、もしあなたが聞き逃したら聞き逃す。もしあなたがリスナーならですが。プレイヤーとしても、同じことです。それはただひとつの方法しかない経験です。それはたぶん、魂に、感情に、あなたの中心だけに保存される記憶です。一方ディスクでは、20回でもソナタの最初の部分だけ繰り返すことができます。あるいは、違う日に20回聴けるし、同じ日に20回聴くこともできる。もっと繰り返しに対してオープンな体験なのです。ときどき録音は、パブリックなパフォーマンスでは非常に非常に非常に自由に弾かれたフレーズの、冷たいイメージになることもあります(訳注:コンサートでは非常に自由に弾かれていたのに、その演奏を録音して聴いてみると冷たく聴こえるということがある)。ディスクはコンサートホールのオリジナルな空気をありのままに再現するようには機能しません。そのことに気づいているべきです。聴いて、もう一度聴いて、エディティング(編集)することについて。かつて、エディティングが不可能だったころ、レコーディングはライブ・パフォーマンスのピクチャー(写真)のようでした。それはまたナイスであり、うまく働いてもいた(it was working)。たくさんの音の間違いがあり、たくさんの不確かな点もあった。けれど、それは演奏のルールのようなものです。今日ではこのようなことが働いていません(this doesn't work anymore)。なぜなら録音のベーシックなシステムが、リアルな音の知覚(perception)、どこでその音が生まれたかという知覚(それはコンサートホールですが)をすこし限定しているからです。それはまるで、走っている誰かを写真に撮っているようなものです。走っている人のエネルギーは見えるけれど、走っている本当のところは見ることができない。つまり、走っているという現象を完全に見ることはできないのです(You don't see the complete phenomenon)。現象の一部分だけ固定した写真を見ることができるだけです。

K:なぜ録音の歴史は変わったのでしょうか。エディティングのせいですか。

SG:ええ、彼らが録っているサウンドのクオリティの変化です。

K:今や録音で演奏ミス(mistake)が聞かれないということも関係していますか。

SG:いえ、いえ、ミスについて話しているわけではありません。ミスの問題ではないのです。エディティングはその録音の知覚を理想化することを許してしまいます。理想化というのはつまり、ミスをしないと言う意味で完全というということですが、それは難しくないのです。ミスは直すことができますから。そのせいで、本当はうまく弾けない人がディスクを作れてしまうという事態になるわけです。ミスをしないと言う意味では完璧に弾いているように見えるわけですから。でも、もしうまく演奏しないならば、ミスなしでもひどい演奏をすることは可能なのです。分かりますか。つまり、ものごとがうまく働いていないということです。

K:ミスをエディティングによって消すことはよくないことだと多くの人が言っています。それはなにかにせもの(false thing)のようなものだということではないかと思うのですが。

SG:ええ、それはにせものです。でも、それはモラルに関係する事柄です。私は、ミスは人間的なものだと理解しています。今日、ディスクの上でミスを聴くことがないというのが私たちの習慣になっています。だからミスは消すことができます。それはプロダクション(制作/制作物)の意味を変えることはありません。なぜなら、もしあんまり上手くなく弾いている人がいて、ミスもしているのを、あなたが録音して、ミスだけ消したとする。でもそれは彼がしていることの意味を本当に変えることはありません。ポイントは、ミスをするかミスをしないかではありません。本当のミスとは、間違った解釈のことです。間違ったやり方で音楽を作ることです。それがミスです。

K:解釈のミスが本当のミスであって、音のミスではないということですね。

SG:音がどのように一緒になっているかが問題であって(it is the way in which sounds are getting together)、もし音が一緒になっていなければ音で何もできないし、エディティングでも何もできません(if they don't get together, you cannot do anything with sound, with editing)。エディティングで変えられるのは、イントネーションが正しくないところをすこし変えるとか、ある場所のテンポをすこしだけ変えるとかだけで、音楽そのものに入っていくことはエディティングによってはできません。まったくできません。


(SGシャワーに入る)


聴衆とは何か(聴衆は、私と同じ現象としてそこにある)


K:レコーディングと聴衆の前での演奏の違いについて話していたと思うのですが。その両極端として、レコーディングだけに専念したグレン・グールドと、逆に聴衆の前での演奏だけに専念したチェリビダッケがいますね。

SG:はい、たぶんそれは人生でなにができるかについての決断なのでしょう。人生ですべてのことはできません。深いアイディアを持っているときに、何かを追いかけなければならないときに、あるきちんとした結果を得ようとしたときに……こういうことは想像できますか、たとえば指揮者(チェリビダッケのような)を考えたときに、私は、オーケストラの源がすでに聴衆であると理解しています。オーケストラはすでに人間の複数性(plurality of people)によって成り立っているのです。つまり、聴衆の一人一人を取り上げて、「あなたはヴァイオリンを弾いてください」、「あなたはこれを弾いてください」、「あなたは聴いてください」と言うようなもので、他の人たちをコーディネイトしなければなりません。指揮者としてのあなたではない、自然の生物(natural creature)たちを、です。(訳注:自然の生物たちとは、聴衆とプレイヤーたちのこと。)彼らはあなたのディレクションに反応(respond)しなくてはなりません。他の聴衆やプレイヤーがしていることの複合体(complex)を聴くことを通じて、です。一方、もっとも一神教的な(monotheistic)と言ってもいいソリストは、ただ一人の人間=自分の次元だけに依存しているわけです。にもかかわらずその「一人の人間」はたくさんのパーツからなる聴衆のようにならなければならないのです。フーガを弾くとき、2,3,4声とありますが、これらの要素(ingredients)は他のものであって、「あなた(訳注:ソリスト)自身」ではないのです。「別のあなた」(訳注:ソリスト自身の中の別の人格)であり、あなたの他のパーツなのです。つまり、ソリストは聴衆にもなり、現象(phenomenon)の一部分、複数の(plural)現象の一部分になるのです。でも、この場合、ソリストはこういったことを、自身の孤独(solitude)という知覚の中で耕さなくてはなりません(cultivate)。一方、指揮者の場合は、他の人たちと関係を持たなくてはならない。それはただ楽器奏者だけではなくて、一般の人々ともです。いい人、悪い人、興味を持ってくれている人、興味を持っていない人、働いている人(支払われている人、支払われていない人)とか。一時間余分に働くなら、それだけのものを払ってほしい、とか。ただひたすら働くとか。そうして反応を返す。でも、オーケストラでは、たぶんそうではない。どちらにせよ、チェリビダッケがこんなに高い目的になぜ達したのか、つまりライブ・パフォーマンスの意義というところに達したのか、私には分かりません。
 あなたが聴衆のために演奏するというのなら、「聴衆とは何か」という概念を抱いてみるのは面白いことです。聴衆とは、チケットを買ってそこに座っている多数の人々のことではありません。聴衆とは、パフォーマンスへと統合される部分なのです(integrated part to the performance)。ひとつの集合として、ひとつの人々として、同じシステム、同じ感情的な展開(development)のなかに入っていくのです。こうしたことが起こる瞬間にのみ、私はその人々を「聴衆」として認識するのです。こうしたことが起こる瞬間には、聴衆と私のあいだに「違い」はそんなにありません。聴衆は、私と同じ現象としてそこにあります。私はプレイヤーであるけれど、同時に音楽が私と聴衆に与える同じパルス(脈動)を受け取るのです。聴衆とは、音楽の若年期であるような、発展させられるべき、感受性の強い有機体です。その中で私はただのターニングポイントに過ぎません。その瞬間には、この、「聴衆のために演奏する私」対「ソリストを聴く聴衆」という二元的な次元は(dualistic dimension)……聴衆が本当に聴衆になって「チケットを買った人々の寄せ集め」ではなくなったそのリアルな瞬間には、ソリストはイメージとして消去されて(soloists are erased as image)、コンサートホールの空気の中で起こっている事象へと統合される一部分となるのです。これが「ものごとが起こる」ということを意味します。この意味で、音楽を作るとは、音楽を起こさせるということです。部屋の空間、いや、部屋の空気(air)の空間(この空気へと音を投射するのですが)という環境(circumstance)のなかで、音楽を起こさせるのです。明らかに、そこに置かれたマイクロフォンはこれを捉えることはできません。これが、チェリビダッケが録音を好まなかった理由です。これは、〔演奏場所と〕同じシチュエーションや、同じ受け止められた感情を、なぜレコーディングに記録できないのかの説明にもなります。レコーディングはシルエットのようなものです。その場でマイクロフォンがとらえることができるものにすぎない。

K:その意味で、あなたはなぜレコーディングをするのですか。また誰のためですか。未来の世代のためでしょうか。

SG:未来の世代と言ってもいいでしょうし、それは明日の若い人たちも意味するでしょう。つまり明日の人々です。また、数年先の人々かもしれない、20年先かも、永遠に先かもしれない。それは分かりません。レコーディングにはさまざまな感情の構成要素のミックスがあります。私はレコーディングに多くのものを負っています。レコーディングには、家で一人きりで聴けるという特権があります。つまりノイズなしで聴けるのです。コンサートホールではノイズを立てたり咳をしたりする聴衆がいるのですが、彼らも「同じ現象」の一部になってしまうわけです。休符の間に誰も動かないということはなかなかありません。たとえばキャンディーを食べるとか。こういった側面はとても難しい。
 現代における私の好きではないもう一つの側面は、大きなコンサートホールです。近年、コンサートのマーケティングは、3000人の人たちと共に聴くという体験をシェアしなければならないという状況を生み出しています。3000人もいればノイズも生まれます。そこでは沈黙(silence)が守られるという理由はまったくありません。必ずノイズがあります。それが沈黙だという人がいるなら、私は、悪いですけれどそれは違う、と言うでしょう。私にとって、沈黙とは何かもっと深いものであり、受け取ることができるなにか、人々が静か(quiet)であるというだけではないなにかなのです。静かだから沈黙があるのではなく、沈黙があるから沈黙があるのです。

K:4年前あなたが京都のバロックザールで弾いたときには、200人だけの聴衆であり、完璧な状況だったという人がいます。

SG:ええ、でも前日のアルティホールも同じです。もし音響がよいのなら、300人、いや500人といってもいいかな、までなら音が働き出すのに干渉はしないと思います。もっと多くなるとリスクは大きくなります。1000人まで行くと。

K:ギターにとっては1000人は多すぎるかもしれませんが、オーケストラでもそうでしょうか。

SG:私にとっては、よくないですね。理想的な状況を探さなくてはなりません。明らかに、オーケストラでは2000人を超えることもしばしばです。ポイントは、誰もこのことについて考えないということです。500人のホールではオーケストラにとって経済的に成り立たないからでもあるでしょう。

K:ミュンヘンのホールはどうでしたか。(注:グロンドーナ氏は若いときチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルのリハーサルをよく見学していた。しかし、彼はこのことによって、自分がたとえば「チェリビダッケ派」のように見なされたくない、と言っている。彼は彼であり、たとえばチェリビダッケのフォロワーと見なされることによって、聴く人にいらない先入観を与えたくない。メッセージは音だけから感じ取ってほしいのであって、私が語る言葉からではない。そうインタビュー前に語っている。その理由から、今回のインタビューについて彼がやや難色を示していたことを明記しておく。)

SG:何人入るホールだったか覚えていないけれど、非常に大きいものでした。でもあのオーケストラはパワーがあったのです。音楽を押し出す大きなパワーです。それはヴォリュームのことを言っているのではありません。音の密度のことを言っているのです。

K:それは特にミュンヘン・フィルがすばらしかったということでしょうか。

SG:特にブルックナーの交響曲にたいしてすばらしく反応していました。でももしモーツァルトを演奏するときには、オーケストラの人数を減らすこともできます。すべてのオーケストラがフル、100人であるべきとは言えないし、〔モーツァルトのような音楽のためには〕ある種のオーケストラを持つべきだというリサーチもあるわけです。ある種の音楽を引き起こすのに最適なオーケストラはどんなものかという探索が行われているのです。ブルックナーの交響曲を演奏するのと同じオーケストラ、有機体でモーツァルトの交響曲を演奏することに意味はありません。上手く演奏するかもしれないけれど、意味をない。音のリサーチはとても重要です。また音とは、音が鳴らされ感受されるホールも意味します。
 たとえばピアノの話をするのですが、ショパンが曲を書いたころ受け取られていたオリジナルの音と、現在聴かれるピアノの音はフィットしません。今では、もっと大きく強いピアノの音を聴くわけです。とくにラの音を442ヘルツでチューニングされたピアノなどです。このチューニングは、たぶんホールの一番後ろの列まで、より大きな注意を惹きイリュージョン(幻想)を持たせることができるようにするために、されていることでしょう。でもあまりにもテンション(張り/緊張)が大きすぎると思います。これは完全な誤解だと思います。

チューニングについて(低めのチューニングはギターにギター以上の魔術を与える)


K:あなたのギターのチューニングは普通よりすこし低いと感じたのですが。440ヘルツではたぶんないですよね。

SG:アルティのコンサートでは438かそれより少し低くチューニングしました。

K:でもチューナーや音叉は使わないのですね。

SG:耳を使います。音がいいときを理解することができるのです。普段、私の耳が、音が正しいときを告げるのです。もしそれを計れば、440より少し低いラになっているのです。でもそれは環境(circumstance)によります。いつも同じではありません。数字や振動数ではないのです。数年来、私は、低めの周波数はギターに、ギターよりもさらに魔術的な側面を与えることを悟ったのです(Lower frequencies than that gives the guitar an aspect that is a little more magic than a guitar)。

K:マジック、ですか。

SG:ええ。440で合わされたギターは私には鼻にかかった(nasal)、高すぎる、張りすぎた、固く乾きすぎた音(too crisp)だと思います。そのギターで高い音を出すときに、固く乾いた音にならずにかつそれだけ高い音であるためには、より多くの努力が必要になります。そしてそのギターで低音(ベース)を弾くと、地面にある、地面に落ちるという感覚を与えるためには、高すぎるのです。ギターとは非常に変わった楽器です。なぜならギターはヴァーチャル(仮想的)で、かつコンプリート(完備した)な楽器だからです。つまり、イメージを与えるために言うと、ギターはまるで第一ヴァイオリンのない弦楽四重奏のようなものです。第二ヴァイオリンが第一ヴァイオリンのエリアかテリトリーを演奏できるというような感じです。そしてヴィオラとチェロがいる。そして彼らはほとんど自立(independent)せず、依存(dependent)しているのです。どういう意味かというと、もしヴァイオリンが高い音を演奏するときには、チェロは演奏を止めなければいけない。数少ない音しか鳴らせないのですから、歴史上の作曲家の考えた音楽的に完全なアーティキュレイションを実現することはできません。

オーケストラと心理的・物理的空間(99%の楽器奏者はその楽器の音のクオリティを楽しんでいるだけだ)


K:すみません、あなたがアーティキュレイトというとき私はいつも「はっきり発音しすぎる」などというようにマスタークラスで訳してきたのですが、違うのですね。

SG:アーティキュレイトとはどれだけたくさんの音を演奏できるかというつながりもまた意味します。ベースの音を弾く事はできるけれども、すべてのベースの音ではない。なぜなら、ベースがあって同時に第一ヴァイオリンも第二ヴァイオリンがとても高いところにある、というようなアーティキュレイションを手で実現することはできないからです。とにかくポイントは、第一ヴァイオリンがいないということです。でもギターは第一ヴァイオリンがあたかも存在する(そして同時にベースも存在している)かのようなイリュージョンを与えることができる素晴らしい楽器なのです。でも、これは領域的な楽器であって、すべてを演奏することはできません。

K:「“椿姫”の主題による幻想曲」のレッスンのときに、たとえにオーケストラの楽器を使われましたね。でも、受講生の疑問として、こんなものがありました。たしかに、この曲はオペラから来ているからオーケストラで例えるのは理解できる。けれども、他の曲でもいつも「これはチェロだ」とか、「これはクラリネットに違いない」とか、「ここは合唱だ」などといった想像をしなければならないのでしょうか。常に他の楽器の音を捜し求めなければならないのでしょうか。それとも、ただこれはギターの音だ、とか言うこともあるのでしょうか。どうやって「正しい」楽器を想像することができるのでしょうか、あるいはそもそもそれに「正しさ」というものはあるのでしょうか。

SG:その点については「正しさ」というものはないと思います。本当に私が伝えたかった、インスパイアしたかったことは、たとえばオペラのような場所における「空間」を感じることだったのです。それは、ステージにいる歌手と伴奏するオーケストラ(オーケストラピットの中にいる)の間にある空間のことです。もしギターをギターの中だけで演奏してしまうと、それはただの表面上への投影に過ぎなくなってしまいます(one single projection on surface)。この音楽(訳注:椿姫の主題による幻想曲)はまさにこういうパースペクティブ(展望/遠近感)から来ているのです。この曲の、レチタティーヴォ(叙唱)の準備のためのオーケストラパートを、ギターで強く弾き過ぎると、〔その序奏が〕劇場のすべての空間を占めてしまい、メインになってしまいます(訳注:序奏のオーケストラが全空間を占めてしまうと、レチタティーヴォで歌手が入ってくる余地がなくなってしまう)。でも、それ(訳注:序奏オーケストラ部)は、二つ目の…二つ目の「順番」(order)の、という意味ではなく…ものごとがなされる二つ目の「エリア」であるべきなのです。それは、なにか囲んでいるものであったり(something surrounding)、遠くから来るものだったり、他の部屋から来るものだったりします。でも、ステージ上にあるものではないのです。もし、演奏されるすべてのものがステージ上にあったとしたら……。(訳注:「二つ目の『順番』の、という意味ではなく」、と言っているのは、順番にすると関係が線形になってしまい、空間としての「広がり」を持たなくなってしまうためである。そのため、二つ目の「エリア」と言い換えている。詳しくはこのインタビューでリニア《線形》について話している部分を参照)
 たとえばフーガを演奏するときに、テーマがあり、アンサー(答え)がある。アンサーはどこにあるのでしょう。テーマがあった場所ではありませんよね。そうでなければ二元性がなくなってしまいます。それでは〔曲は〕働かない。基本的な心理的シチュエーションは、二つのもののあいだのコントラスト(対照)でありコンフリクト(矛盾/不一致)です。あるいはそのコンフリクトの理解です。つまり、ひとつのものがあり、それに対して他のものが答えている、というコンフリクトです。それを理解しなければ、単に音の問題になってしまいます。あなたは音を演奏するだけになってしまいます。ポイントは、音をいかにこの心理的シチュエーションへ変形するか(transform)です。

K:マスタークラス中にあなたは、ポリフォニックとはポリプレイス(poly-place)のことだ、とおっしゃいました(注:多声部音楽を演奏する際には、それぞれの声部が別々の場所で演奏されている/別々の場所から聞こえて来るように演奏するように、ということ)。それはとても新しく面白いと思いました。あなたが演奏する際にも、「この声部はここから聞こえてくる」、「あそこから聞こえてくる」、というような想像をされるのですか。

SG:それはシークレットだったり、テクニックだったりするわけではありません。ただ、それによってちょっとした概念の訂正ができるわけです。つまり、これらの声部はそれぞれ異なったアイデンティティを持つものだという概念です。すべてのアイデンティティは、それ自身の空間(必然的に、感情的な空間なのですが)を、持っています。たとえば、二人の歌手を持ってきて、一人がここにいるならば、もう一人は同じ場所に置くことができないわけです。一人でもって、もう一人を消すことはできません。
 だから、もしギターで第一弦と第二弦を弾くとき、どうすればいいか。音はギターのここから出てくるわけですけれども、どうやってこの二つの音を、異なる二つのものにすることができるか。それには、たとえばオーケストラの中の異なる楽器の音(音質)を考えることです。しかしまた、楽器の置かれている位置の違いを考えることもできます。同じホールの空気のなかにあっても、たとえばクラリネットとフルートを同じ場所に置くことはできない。互いに近くに置くことはできるけれども。演奏する際には違う場所で演奏するのであり、音楽自体もまた、それらを違う場所に置いているのです(They are in different place as the music put them in different places)。だから、空間というのは、心理学的な空間であり、また、物理的な空間でもあるのです。心理的な空間というときには、たとえばこのフレーズはあそこから来る、なぜならもう一つのフレーズがまだ私の集中の中心(center of my concentration)にいるからだ、というようなことです。
 たとえばこうやって手を動かして二つの自立した動きを作ります(訳注:両手を別々に波打つように動かす)。両手のすべての動きが一貫して(coherent)連続的でなければならない(continuous)のだけれど、同じ動きをするのではなく、あくまで独立した動きをしています。これは演奏しているわけじゃなくて手のエクササイズをしているだけですが。インディペンデンス(独立性)がありつつも、コーディネーション(協調性)がありつまりディペンデンス(依存性)もあるわけです。これらはお互いにインディペンデント(独立)であるために、ディペンデント(依存している)なのです(They are dependent each other to be independent)。

K:ふーむ。

SG:だから、これが「どこに声部があるか」という場所の違いの問題です。この意味で、心理学的シチュエーションは、私がギターを弾くとき、ただ一つ目の声部をギターで弾く、二つ目の声部をギターで弾く、三つ目の声部をギターで弾く、コードをギターで弾く、というのではないのです。声はただ一つなのです(The voice is one)。(訳注:ギターで別々の要素の寄せ集めを弾いているのではなく、すべての要素はただ一つのものに還元される。その還元された一つのものをギターで弾くのである。)だから、ギターは心理学的に、それぞれの要素の表現よりも、強いのです(The guitar is stronger psychologically than the expression of each element of the music)。だから、ギターに限らず、いろんな楽器は心理的なヴァリエーションがなくてはなりません。とくにギターの場合は、ギターはいつもギターの音であるにもかかわらず、どんなフレーズもそのフレーズの音がなくてはなりません。ギターの音ではなく、です。
 でも、楽器を演奏するとき、99パーセントの楽器奏者はその楽器の音のクオリティを楽しんでいるだけです。彼らは楽器以上の音楽を作ることはありません(They don't make music above instruments)。楽器を越えないのです。彼らはただ楽器を演奏しているだけです。ピアノはピアノのような音で演奏されるのです。この「ピアノの音」から、聴く人のほうから「何か」を聞き取りにいかねばならない。でも、もし弾く人がその「何か」を考え(もしかしたらそれはその楽器そのものの音かもしれないけれど)、そして、その内部にある音が、心理的な次元の違う独立したアスペクト(側面)から来るならば、ヴォイス(声)を通して「音」がその楽器に与えられるでしょう。いいですか、これは、キーボードを叩いて何かが起こるのを待つ、というのとは違うシチュエーションなのです。楽譜で読んだことをただ演奏して、そこからヴォイスが出てくるのを期待したって、ヴォイスは出てはきません。ただ溶けるだけです(They melt)。溶けるのです。だからポイントは、私たちの心理的な存在(being)を違った存在(presence)へと投射する(project)私たちのキャパシティー(能力)なのです。

K:その文脈では、溶ける(melting)というのはよくないことなのですか。

SG:溶けることは、よくありません。なぜなら、それはすべてが「リニア(線形)」であることを意味するからです。つまり、すべての音(note)が一つ前の音(the previous)に続くということを意味してしまうのです。この場合、ポリフォニックは不可能です。でも、あなたが一音(note)を歌い、私が一音を歌えば、すでにおのずからそれはポリフォニックです。なぜなら二つの異なる音が存在し、私たちもまた二人の異なる人だからです。私たちの心理的なシチュエーションは完全に分かれているのです。だから、二つの音が合う(meet)と感じることがあっても、溶けてしまう(melt)とは感じないわけなのです。もし、同じ声の同じ人間だったらこれは不可能です。

K:ときどき、オーケストラの楽器を考えたくないときはないのでしょうか。たとえばラヴェルを例に挙げると、私の場合、彼のピアノ曲は大好きなのですが、彼のオーケストラ曲はそんなに好きではないのです。なぜなら彼のオーケストラ曲はあまりにもカラフル過ぎることが多いように感じる一方で、彼のピアノ曲はオーケストラ曲にはない寂しげな、古い、古代のような響きがします。「ボレロ」や「ラ・ヴァルス」は確かに色彩豊かな曲だけれども…

SG:ええ、これらの曲は微妙にメランコリックだと思います。たぶん単独の楽器の孤独さがそれを助けているのでしょう。複数性を一つの楽器に感じることは、曲をより親密な(intimate)ものにすると思います。とにかく、音楽には、何かに対する何かの付加という、異なるアスペクト(側面)があります。もし、演奏するためだけに演奏してそれを聴くだけであれば…それはたしかに最初のアプローチではあるでしょうけれども…たとえば「クープランの墓」を弾くとしても、明らかに、異なったシチュエーションを発展させなければなりません(develop)。パラレルに。上手く弾きたければ、キーボードの上では弾けません。キーボードを通して何かに入っていかねばなりません。すでに感じディヴェロップ(発展)させたアイディアを持って弾かねばなりません。キーボードに触ることから演奏を始めることはできません。それでは、ただ音を出すために楽器を触っていることになってしまいます。それは、想定どおりの音が出ることを確かめているだけです。それは音のイメージを作り出していませんし、そのプロダクションにも達していない。もし音の中に入っていく準備がなければ、その音は満ち足りたもの(full)にはならないでしょう。

練習のステージ(2番目のステージに立つと、1番目のステージがもはや重要ではないということがわかる)


K:では、もし初めて曲をさらう場合、たとえば録音がない場合ですが、楽譜の音を確かめるためにまずギターを使うのでしょうか、それともギターを使わないでイメージするのでしょうか。

SG:ギターを使って可能なことは何かを探すでしょうね。なぜなら、ギターはたとえばピアノのように本当に1対1の楽器ではないからです。ギターのために書かれた音(notes on the guitar)に存在するミステリーを理解しなければなりません。なぜなら、ギターはある音のミクスチャー(混合)であり、曲を一番よく弾くための方法を選択しなければならないからです。(訳注:音と運指の関係のみを語っているのではないかもしれないが、あえてそのように取ると、たとえばギターでミを出すときに第1弦開放弦・第2弦5フレット・第3弦9フレット・第4弦14フレット・第5弦19フレットが使える、ということが「ギターはある音のミクスチャー」であるという意味にも取れる。どれも同じミであるが、それが与える何かは違う。そのためベストな運指を考える必要がある、という意味か。)たとえば武満の曲なら、どれだけ多くのアスペクトをこの作品にオファー(提供)できるかを考えなければなりません。楽器奏者は、ギターがどのように〔何かを〕与えられるかを理解しなければなりません。一面では彼は楽譜を読もうとします。でも読めるだけでは十分ではない。ギターは、どんな曲にでも、いつも何か発見できるものを付加していくのです。完全にイコール(均質)に働いているものは何一つありません。

K:今の質問をした理由は…あなたは「弾く」前に「感じ」なければならないとおっしゃるわけですが、最初に曲をさらう場合にはまずすべての音を確かめなければならないですよね。しかし、みんなこのやり方(音を確かめるために「感じる」より先に「弾く」慣行)を続けてしまうわけですね。

SG:最後までね。

K:だから多分、すべての音を確かめ曲の全体像をつかんだ後は、態度を変えなければならないんですよね。

SG:ええ、それはなされるべきです。でも、これは長いプロセス、習慣です。何かを吸収するキャパシティー(容量/能力)……まず、最初に学び始めるときには記憶しますよね、記憶をディヴェロップ(発展)させるわけです。「最初」の記憶は、曲によりよく入っていくのに助けになります。それから多分、あなたはその「最初」を…最初のステージ(段階)を消さなければなりません。2番目のステージによって消すわけです。2番目のステージはもっとアウェア(目覚めている/鋭く観察できる)で、もっと意識的で、もっと……たぶん、自由です。

K:1番目のステージはたとえばすべての音符を覚えるというようなことですか。

SG:私にとって1番目のステージは、「覚えられるだけのものを覚える」というステージです(remember what you can remember)。それだけです。それから次に行かなければならない。たぶん1番目のステージは2番目のステージのために役に立つためにあるのです。そして、2番目のステージに立つと、1番目のステージが一体何だったのかを理解できるわけです…それがもはや重要ではないということを。だからすぐに2番目のステージを始めるわけです。そして3番目のステージに入るためには、前のステージを完全に消さなければならない。毎回曲に入っていくたびに、ゼロから、1ステージずつ到達して、入っていくわけです。たぶん、今日は自分が4番目のステージにいるということを発見したりするでしょう。1番目のステージに納得すると、つまり曲にアプローチするために、曲を記憶の中に包んだことを納得すると、1番目のステージを克服したということがわかるわけです。そうすると、それはもう必要ないわけです。

偉大な精神を聴くということ(尊敬すべきアーティストは少数しかおらず、それは個人的な嗜好ではない)


K:今回、何人かの人に、ギター以外の曲を、つまりオーケストラ曲やピアノ曲を聴いて、尊敬する演奏家を見つけたらどうかとアドヴァイスしたのです。なぜギタリスト以外かというと、もし尊敬するギタリストを見つけた場合、注意がそのギタリストの演奏法に過度に向けられてしまう可能性があると思ったからです。他の楽器のほうが音楽のアイディアに直接注意が向くのではないかと。

SG:偉大な精神を聴くということはよいことです。聴く、というのは…たとえば音楽に囲まれているのが好きだ、何か他のことをしているときに聴いているのが好きだ、という聴き方もあります。でも、聴くというのはまた、深い集中の中に自分を置いて聴くという聴き方もあるわけです。そんなにたくさんのことを考えず、しかし他の事をしないで聴くのです。こうすることによって、理解のキャパシティーが創造できるのではないかと思います。音楽のスペース(空間)、またギターのスペースに関する理解のキャパシティーです。これは助けになるのです。たとえば三重奏を聴いたり、四部合唱を聴いたり…こういったことが助けになります。ただ自分の音楽のレパートリーを増やすためだけではありません。自分のマインドとスピリットに、聴くための、また向こうからやって来るものを理解するための、教育を与えるということです。「これがポリフォニックだ」とか、「これが音楽だ」とかいう、言葉による説明なしに、です。そういったデモンストレーションなしに、ただ聴くのです。そして自分のなかに、自分の記憶のなかで、自分が聴いているものがどこに吸収されていくかを見つけるのです。そうやって認識(recognize)するのです。何かがあそこからやって来る、ここからやって来る、というようなことを認識するのです。そうしているうちに、すでにあなたはアドヴァンス(前進/上達)しているのです。多分、どれだけ自分がアドヴァンスしたか気がつかないままに、です。

K:どのようにフレーズを演奏するか、どのように重みをかけるかについて(たとえばフレーズの始まる最初の音などです)気がついていない受講生に対して注意が何度もあったと思います。他の楽器の音楽をたくさん聴くことによって、そういう感覚は養われるのではないかと思うのですが、あまり聴いていない人もいるようです。

SG:たぶん限界はあるでしょうね。

K:こういった状況はヨーロッパ、たとえばヴィチェンツァ(注:グロンドーナ氏の教える音楽院がある町)でも同じですか。

SG:ヴィチェンツァはなんでもない、非常に小さな町ですよ。

K:いえ、あなたの生徒たちという意味です。

SG:わたしの生徒たちについては、いろんな状況があります。幅広く音楽を聴くことの喜びとつながっている人もいるし、そうでない人もいる。無知である、ということは勉強しないということではないのです。彼らは勉強している。でも何をすべきか言われるのを待っているのです。

K:生徒たちに、この録音を聴くといいよとか、この種の音楽を聴くといいよとか(たとえばブルックナーだとか)、薦めることはありますか。

SG:はい、でもそれはプロジェクトのようにするわけではない、つまりみんなこれを聴くべきだとかそういうふうにするわけではありません。自分自身の音楽的経験の中で、〔音楽と〕自身との関係を発見するために何かをしなければならないのです。音楽的経験をエンリッチする(豊かにする)というのは、マスタークラスに出るということではありません。自分自身で自分のリアリティを発見しなければならないのです。あるフレーズの意味は自分で発見するほかないのです。自分で発見し、自分で木を感じ、風があるのを感じ、動いているのを感じ、生き生き茂っているのを感じること。このような類の経験は感受性のある人はだれでも持てるものです。私はこのような体験がみんなにとって同じものだとは言いません。音楽でも同じことです。あなたがしきりに何かを聴きたがっているなら、私は「これを聴くべきだ」とアドヴァイスすることもできます。でも、それはホームワークではないのです。自分で感じ探すこと、これはホームワークとしてなされるべきではありません。自分で何かとても大切なものを探しているという確信のもとでなされるべきなのです。

K:あなたは、自分にとってたとえばチェリビダッケやミケランジェリを有益なものとして発見されたわけですが、これはみんなにとっては、必ずしもそうではないのでしょうか。みんなは一人ひとり、自分の体験の中で自分にとって尊敬できる人を見つけなければならないということでしょうか。

SG:そうですね…自分の体験のなかで見つけなければならないのは確かです。でも「私の尊敬するアーティストはこの人だ」「君の尊敬するアーティストはあの人だ」というのは違います。尊敬すべきアーティストは少数しかいません。これは個人的な嗜好(personal taste)ではありません。

K:個人的な嗜好ではない、ですか。つまりチェリビダッケとか、ミケランジェリとか、セゴビアというのは、嗜好とは関係ない絶対的なものだということですか。

SG:はい、その3人はそうだと思いますし、他にもいます。言っておきたいのは、好き嫌いとかいった個人的なものではないということです。「私はストロベリーが好き」「私はバナナが好き」「私はオレンジが好き」というようなものではないということです。音楽について語るときには、すべてのことは「起こっている」か「起こっていないか」なのです。音楽は民主的ではありません(Music is not democratic)。音楽は、「必ずなされるべき何か」のようなものです。これは音楽から来るものであって、私たちから来るものではないのです。

K:セゴビアやミケランジェリやチェリビダッケ以外のアーティストを挙げていただくことはできますか。

SG:はい、歴史上にはたくさんの素晴らしいアーティストがいます。たとえばヴァイオリンではシェリングが歴史上重要で…あとオイストラフです。あと…たとえばフィッシャー=ディースカウやフリッツ・ヴンダーリヒ…でも今は数人を挙げているに過ぎません…アルフレッド・クラウスも。たくさんの人がいます。でもただ数人を挙げただけです。私のフェイヴァリット(お気に入り)というわけではないのです。私の個人的体験のなかで、選択的体験のなかで、どれだけたくさんどれだけ遠くまでものごとが起こりうるのか、なされうるのかを知ったのです。個人的なものを超えて、です。「この人は私が好きなたぐいのアーティストだ」というのとは違うのです。音楽家としての私には、彼らが他の人たちよりも歴史的にまた音楽的に数ステップ先に行っているということが分かるのです。単純にそれだけのことです。彼らの才能と、音楽への献身と、生きていた歴史的瞬間が、彼らをして1ステップ先へ進ましめたのです。どうやって彼らはそれをしたのか?どうやってそれが起こったのか?それは言うことができません。多分彼ら自身も言えないでしょう。でも彼らは何かをしたのです。これは嗜好に関係ないことです。

K:どうやったら私たちはそういった歴史的に本物の演奏家を見つけることができますか。

SG:歴史……歴史は見つけない、歴史は何も探さない、歴史はただ起こるのです。時の経過を理解するために、異なったステップを理解するために、私たちが歴史を「発明」するのです。でも歴史は存在しない。私たちの発明です。…私にとって、この選択は嗜好から来るのではなく、連続的な注意深さから来るのです。

K:若い学生たちにとって、演奏家やCDは山ほど存在しているわけです。その中から歴史的意味のある本物の演奏家を探すのは…

SG:でもそれについてアドヴァイスできることはないのです。自分自身のやり方で選択し理解しなければならない。探すのを止めないことです。選択をずっと連続して行っていれば、特別のアフェクション(愛情)を見つけることができるでしょう。誰かが「これがベストだ」とか「これを選ぶべきであってあれではない」などと言ったからではなく、です。もし人に従ったなら最初のステップで止まってしまいます。これは続けるべき仕事、リサーチです。これはまた自分自身の感情の中でもっとも純粋なものを探すリサーチです。感受性が強いというだけでは不十分です。重要なのは、感受性を通じて何かを表現することを学ぶことです。でもそれだけではありません。それを発展させなければなりません。…どんな結果もたぶんよりよいものへ発展させられることが可能なのです。だから理解の問題ではなく、動きの問題なのです(It is not problem of understanding, it is problem of moving)。

K:それでは、あなたはレコーディングを選ぶにあたって批評家を信頼はしないのですか。

SG:批評家は一番音楽を作ることから遠い場所にいる人たちです(Critics are the last person that are able to make music)。音楽について語ることはできるのですが。…彼らは社会の一部分なのです。たとえばものごとの重要性を決めたりする。いい批評家はありえます、「感じる」ことができる批評家は面白いことを言いえます。でも基本的に、彼らは彼らが音楽について理解していることを私たちに知らせるために、うまく「語って」みせるのです。彼らはただ語っているだけなのです。何かを本当に批評するのにベストのやり方は、演奏することなのです。何かが気に入らなければよりよく演奏すればいい。言葉で説明しても、何も変わりません。アイディアを示唆することにより熟考をさせることはできるかもしれませんが、音は何も変わりません。社会においても真実性は失われつつあると思います。それを見つけるのは難しい。誰がそれについて信頼できるでしょうか…

音楽において進歩とは何か(99%の音楽家は過去のディスクを知らない)


K:シャワーを浴びられる前に、「エポック」や「モダン」(引用符つき)という言葉を話されましたが、音楽において「前進」や「進歩」とは何なのでしょうか。それは幾何的な正しさを昔よりよりよく守ると言うことを意味するのでしょうか。

SG:いやいやいや…

K:たとえば、ミゲル・リョベートは最近のギタリストとは違って、非常に自由に弾いていますね。この幾何的正しさを守ることが進歩なのでしょうか。

SG:もっと、もっと…いいえ…私は、私たちは(全員にとってではありませんが)基本的に十分発展した正しい場所と思います…。私たちが進歩を続けることができる、ベストなシチュエーションは、新しいフィーリング(感情)を表現することができることです。

K:新しいフィーリング…

SG:ええ、新しい人々のフィーリングです。すべての人がいま生まれ…あなたは感じることができる…音楽の中にあなたはインディヴィジュアリティ(人格/個体性)を置くことができる。音楽は本質的にあなた自身であり、あなたのあり方なのです(Music is essentially who you are, what you are, how you are)。それは、あなたの感受性はオリジナルであることを意味します。もし、いま感受性が働いているなら、それは現在なのです。もし音楽的スピーチ、音楽的ハプニングの中に入っていけるなら、これは非常に本物(genuine)になり得るのです。ポイントは…続けること…(ため息)…こんにち音楽においてなされるべき理想とは何か、について、私は何も言うことができません。ただなされること、フレッシュであること、本当であることです。音楽の中に入っていける人の本当の感情によって、なされることです。ハビット(習慣)として弾いているプレイヤーによってではありません。何が中に入っているかわからないものの表面だけを弾くというハビットで弾いているプレイヤーによってではないのです。
 ポイントは、どうやってものごとを表現できるかということです。だから、幾何的というアイディアはそんなに…そんなに価値があるものではありません。ルバートであることもできるし、ルバートでないこともできる。ポイントは、コンプリート(完結した)なものは、一つのアクションにインテグレート(統合)されるということなのです。ただ一つのシングル・アクションに、です。たとえば、チェリビダッケは言いました。「(曲の)最後と最初はコインシデントである(同時に起こる/一致する)」…これは何を意味するでしょうか。最初がこのテンポであったとして、この時点(time)にあります。最後は他の時点(time)にあります。でもこれらはコインシデントでなければならないという。つまり、それは大きなタイムなのです。そのタイムのなかでインテグリティ(統合性)を持ってものごとはディヴェロップするのです。一つのものにインテグレート(統合)されるのです。最初も最後も、「全て」という一つのものに所属しているのです。それが性質(nature)なのです。フラグメンタル(破片)ではないリアリティ、ということなのです。トータル(全体)なデンシティ(密度)、トータルなプレゼンス(存在)、トータルなライフ(人生)というリアリティです。テクニックとは何でしょうか。それをする方法とは何でしょうか。多かれ少なかれ…ただ「ある」ということです(It is just to be) …今生きているなら、今であり、明日生きているなら、明日です。ゼロから始まるのです。未来に関しても同じです。音楽をつくるというのは、形式的な態度ではなく、音を通して、音楽を通して、音へ投射されたアフェクション(愛情)を通して、あなた自身の存在を生きるという本質的な態度なのです。そのことを信じなければいけません。

K:100年後、音楽における「本当さ」というものは変わっているのでしょうか。

SG:わかりません。わかりません。聴衆について話したときに、ホールについて、楽器について、チューニングについて、(聴衆の)感受性について話したのですが、将来、聴衆というものが存在するかどうかはわかりません。社会は他の面白いものを探し続けています。もしかすると音楽は忘れ去られているかもしれません。それに音楽は受け取られ理解されるのに多くの時間を必要とします。音楽は、経験の中でのメディテーション(瞑想)のようなものです。今日の消費文明社会においては、音楽が必要とするような長い時間はなかなか許されないのです。たぶん、より短い感情、より短い感情の働きが必要とされているのです。だから、最初と最後がコインシデントであるというようなことを聴けないのです。最後まで30分かかるとしたら、あなたはその30分を他の事をしなければならず、あなたのマインド(精神)は遠くへ行ってしまう。そういうわけで、社会が私たちをどこへ連れて行くかについて私は想像することができないのです。

K:あなたは前に、フルトヴェングラーは歴史的であり本物であるとおっしゃいましたが、同時に、たとえばチェリビダッケは彼よりも進歩した、発展したともおっしゃいました。二人の違いは何でしょうか。発展とは何でしょうか。フルトヴェングラーは偉大にもかかわらず、なぜチェリビダッケは変えられたのか。彼のほうが“モダン”だったのでしょうか。彼らがそのために演奏すべき聴衆が変わったのでしょうか。音楽において進歩とは何か、が気になるのです。

SG:進歩とは、なされたことの、より多くのエレメント(要素)が、理解のためにインテグレートされているということです。

K:つまりフルトヴェングラーは十分にはインテグレートしていなかったということですか。

SG:彼は彼ができるベストを尽くしました。たぶん、他の誰かがもう一ステップ先に進めるのですが、でもそれはフルトヴェングラーのおかげでもあるわけです。だからこれは、突然誰か才能のある人が生まれ、何かをするというような、即興的なプロセスではありません。深い発展(evolution)と反映(reflection)のプロセスなのです。また、今日ではディスクのおかげもあり、過去に対するヴュー(眺め)を得ることができます。
 しかし、99パーセントの音楽家は過去のディスクを知りません。それらに注意を払わず、ただ自分の演奏やキャリアにばかり気をとられているのです。もし自分がそれで幸せなら、そのプロダクション(CD等の制作や演奏行為)が本当に本物なのかどうか(really genuine)を自分自身に問うことをしないのです。そのプロダクションと全く同じことを、20000回ぐらい過去の誰かがやっているということがありえるのに、それを自身に問わないのです。

K:では、たぶん、他の指揮者がチェリビダッケよりも前に進むということがありうるわけですね。つまり、更なるインテグリティが獲得されるということを意味すると思うのですが。

SG:はい、可能だと思います。可能性は開かれています。そうなりたければ、道を見つけなければならない。すでにレファレンス(参照、訳注:ディスク)を持ってスタートできるのです。何をすべきか、どこへ行くべきか、どんなレパートリーか、どんなオーケストラか、どんなスタディか、それを感じることがポイントです。感じることが、あり方の意義を与えてくれるでしょう。なぜなら、もはやそこには何も、どんなディスクも存在していないからです。私たちは未来を必要としています。私たちの知りえない未来、このことが私たちを連れて行く場所である未来を、です。

作曲家と演奏家(解釈者)は別人(彼らは走りすぎる)


K:私はいつも、作曲家リョベート自身が録音を残しているにも関わらず、なぜあなたがリョベートを録音するのかについて不思議に思っていました。あなたはリョベート本人よりも更なるインテグリティを目指しているということですか。

SG:そうです。たぶん、そうです。第一に、リョベートはそんなに多くの録音を残しておらず、彼のレパートリー(全作品)はコンプリート(全部演奏)されていません。それから、あなたが尋ねたこの問題を開けるなら…コンポーザー(作曲家)としてのリョベート、またプレイヤー(演奏家)としてのリョベートは、別のエポック(時代)から来ている人だと言えます。たぶん、コンポーザーとしてはある一つのパーソナリティ(人格)であるけれども、自分の作品を演奏するプレイヤーだからと言ってそれは同じ人格だとは限らないのです。コンポーザーとプレイヤーが一致するとは限らないのです。作曲という行為は、あるリズムやある直観を伴う、ある一つのものであるけれども、彼の中にいるプレイヤーがコンポーザーと同じ権利を持っているわけではないのです。
 インタープリター(解釈者)は何を作っているのか。(訳注:演奏家のこと。演奏家を「解釈する人」という視点から見て言い換えているものと思われる。)もしインタープリターがいなければ、たとえばドビュッシーの音楽は現在のようにファンタスティックではなかったでしょう(もしドビュッシーのみがインタープリターであったとすれば)。つまり、コンポーザーが何かをする場合、彼らのリズムや彼らのパーセプション(知覚/理解)は自身の作曲態度に条件付けられてしまうのです。ドビュッシーも、ラヴェルも、です。

K:すみません、なぜドビュッシーとラヴェルを挙げられているのか、ちょっと私は付いていけていないのですが。

SG:なぜなら彼らが録音を残しているからです。

K:ああ、あのロールみたいなマシーンですね(注:ピアノロール)。

SG:ええ、たとえばそうです。それを聴くと、何かが変だ(strange)と理解できます。

K:なぜ変なのでしょう。私も確かに何か変なものを感じましたが。

SG:彼らは走りすぎます…彼らはとても……。楽譜を読めば、そこにはたくさんの要素のコレクション(集まり)があります。その要素の間にハーモニー(調和)を与えることができたなら、あなたはいい結果(result)に達することができるわけです。ここで私はハーモニーという言葉を、音楽学におけるハーモニー(和声)という意味だけではなく、一つの要素ともう一つの要素をフィットさせるディヴェロップメントとしてのハーモニーという意味で使っています。それはプロジェクトのようなものです。プロジェクトはプロジェクトであり、ファクト(事実)やリアリティ(現実)ではありません。
 あなたがこれをどのように演奏できるかについてイマジネーションが持ったとき、あなたは誰かがその曲を、非常に近いけれども惜しい(very approximate)演奏をしているのを聴き、そしてそれが作曲者本人だと発見するとします。あなたは少し変だなと感じ、驚くでしょう。でもあなたがそう感じるのは罪ではないのです、なぜなら彼らはインタープリターではないのですから。彼らは、音楽がまだ存在しないときに音楽について考える人たちなのです。一方、スコアが完成して音楽が存在する瞬間は、それとは違う種類の心理的状態なのです。だから、作曲者はたぶんそれを演奏もできるでしょうけれど、それはもはや作曲家と同じ人ではないのです。

テンポについて(ポリフォニーがディヴェロップするためには、メロディーだけの場合よりもう少し遅く弾かれる必要がある)


K:では、テンポについて考えたとき、それはインタープリターに属するのか、作曲家に属するのか、どちらだと思いますか。

SG:それは作曲家がどのように言及し、どのように理解しているかによります。

K:たとえば武満徹は「すべては薄明のなかで」で、演奏時間を何分と指定しています。

SG:これは非常に個人的な判断なのですが、作曲行為というものはたくさんの直観のコレクション(集合)だと思います。どうやってこの、曲に関するたくさんのアスペクトに関する直観が、お互いに無矛盾でいられるでしょうか。これは作曲家の問題だと思います。スコアを読むと、作曲家がいろんなメッセージを書いている場合があります。たとえば「これをしなさい」「これを」「これを」「これを」「これを」「これを」「これを」とたくさん書いてあるわけです。あなたはそれらすべてに注意を払いそれらを実現しようとする。でもまたここで、作曲家がテンポも与えていることがあります。でも、そのテンポでは書かれたすべてのことはできないと気づいたりするわけです。一つの情報と他の情報の間に不一致があるわけです。これは、作曲家が才能、つまり何が可能かということに関するトータルな直観、を持っているかどうかという問題です。アイディアや直観に関するトータルな把握力の問題であり、またどのようにそれを書いて弾く可能性のある演奏家に伝えるかの問題です。もし、このステージのコレクションがあまり一貫していないやり方で来るならば、たとえば彼が4声のポリフォニックな曲を書いているのに、ソプラノの情報しか与えられないようなテンポを与えているならば、4声のコンプレックス(複合)ではなく1声のシンプルなアイディアになってしまいます。これはテンポの理解のミスです。もし作曲家がそれを書いているのなら、それは矛盾することを書いているのです。

K:馬鹿な質問かもしれませんが、この4声を感じるためにはより遅いテンポが必要になるということですか。

SG:ええ。作曲家がよくこの間違いをするのは、テンポを作曲が終わったときに指定するためです。自分が書いたコンプレックス(複合体)への直観、書いたものの密度(density)への直観が、マインドの中で、もはや保たれず薄れてきているときにテンポを指定するのです。彼らは、書いたものの記憶(memory)に合わせてテンポを指定するのですが、その記憶とは単旋律であり、曲のフレーバー(風味)なのです。一つだけの旋律を歌うときには、より走りやすくなります。でも、垂直方向の(vertical)密度、たとえば4声の垂直の密度を持った曲に入っていかねばならないときには、一番高い声部だけを考える場合よりも、遅い必要があります。一般にメロディーはメロディーであり、メロディーはとてもフルーエント(流動的;流暢)でありえます。でもメロディーに対する密度、垂直なハーモニーを演奏しようとすると、ものごとは変わってくるのです。

K:「すべては薄明のなかで」を演奏する際に、書かれたテンポを守られたのですか。

SG:守れる限り守ろうと努力しています。私は、作曲家は私が可能なことよりもずっと利口だと考えています。もし私が何か理解できなかったらそれはたぶん私の過失だと考えるのです。「書かれていることが間違っている」という確信に至らない場合には、です。だからできるだけ作曲家と一緒に行こうと努力するのです。いや、これは間違いだと思っても、1回目の疑いでは足を止めはしません。でも非常に熱心に勉強した後であれば……作曲家も人間ですから、間違うこともあるわけです。曲に関する情報はたくさんありますから、この種のつじつまの合わなさが起こるということはありえるのです。書かれている全ての情報を使うことによって曲の中へよりよく入っていけるような、完全に一貫している作曲を見つけるというのはなかなか難しいのです。あなたが先ほど尋ねたテンポについての質問に対する答えは大体このようなものになります。作曲家によってテンポ指定された作品はたくさんあります。

K:リョベートの場合はどうですか。リョベートは自分の作品のレコードを残しているわけですが、彼の弾いているテンポを尊重するわけですか。

SG:リョベートのレコーディングは…テクニカルに言うと、とてもとても速いです。

K:リョベートは速いのですか。

SG:リョベートは速いです。たとえばリョベートが「エル・メストレ」を演奏しているときには、彼は非常にうまく歌を演奏しているのですが、メロディックなパート、つまり高声部が彼のインタープリターとしての感受性を支配してしまっているのです。でも、4つのポリフォニックな声部、ハーモニーは、ディヴェロップするためにはもう少し遅く弾くことを必要とするのです。彼は〔彼が弾いているような〕理想的な第一声部を導くためには、和声の点で重過ぎる曲を書いているのです。このとき彼はインタープリターです。なぜならインタープリターとしてのメッセージを私たちは受け取っているからです。でも、作曲の際には、彼はいかに細部にまで気を配って記号(たとえば全てのポルタメントです)を書き込んでいることでしょうか。作曲しているときの彼は非常にクレヴァー(賢い)でインテンシヴ(集中的/徹底的)なのです。

K:細部にまで気を配る、とはどういうことでしょうか。

SG:たとえば、フィンガリングのコントロールや、一つの音から他の音へどうフレージングするかなどについて、非常に注意深く書かれているということです。それらは、曲の隅々にわたる、彼のトータルな感受性の投射なのです。彼がプレイヤーとして演奏するとき、彼は少しだけ、作曲家としてよりも軽くなる(lighter)のです。

K:より軽い、ですか。

SG:つまり、彼はもっと…近似的(approximate)になってしまいます。たしかに各声部は働いているのだけれども…

K:彼は高声部に集中している?

SG:ええ、基本的にそういうことです。基本的に彼はメロディックです。作曲家としての彼は、非常にクリエイティブかつクレヴァーかつファンタスティックです。演奏家としてもファンタスティックな演奏家なのですが、でも同じ人間ではないのです。

K:たとえば「トリステ」は、和声的に非常に巧妙に、色彩が変化していきますね。だから、その微妙な変化を味わうにはそれなりにゆっくり弾かれることが必要なのでしょうね。(注:「トリステ」はリョベートの未出版曲。グロンドーナ氏が美山ギター音楽祭の6ヶ月ほど前にマリア・ルイサ・アニードの遺品から発見した曲。インタビュー直前の宝塚のコンサートで世界初演された、非常に美しい曲である)

SG:「トリステ」はメロディーだけ取れば非常に単純な曲です。メロディーは非常に流れやすい。でもメロディーの上に置かれているハーモニーは、その流れやすさを網のようにとどめようとしています。異なるポリフォニックな次元です。全てのイングリーディエンツ(構成要素;料理の材料)が一貫してうまく働く方法を見つけなければなりません。こういった意味で幾何的に、コンプリートなフィギュア(形;姿)に到達しなければなりません。他にどうありうるというのでしょうか。少なくとも最初から最後に向かって、曲を「閉じる」(closing)という感じを与えなければなりません。円環を閉じるように、です。だから、一つのフレーズにはナイスでも全体(そしてその包含《implication》)にとってナイスではない、というような速すぎるテンポを選んではならないのです。

テンポが遅すぎるということはあるのか(それはメインポイントではない)


K:「速すぎる」ということについては理解できたように思います。逆に「遅すぎる」とはどういうことでしょうか。演奏が遅すぎる、ということはありえるのでしょうか。

SG:ええ、遅すぎるということはありえるでしょう。

K:そのとき何が問題なのですか。

SG:ものごとがお互いにフィットしないということです。認識(perception)が存在しないということです。遅すぎるというのは、垂直に落ちていってしまうからなのです。

K:流れないということですね。

SG:ポイントは、遅すぎるときに、その解決策は「より速く弾く」ということではない、ということです。

K:なぜですか。

SG:なぜなら…ポイントは、一つのものが働いているときには、テンポはそこに(内部に)あるということです。でもものごとが働いていないときには、働かないのです。

K:テンポが存在しないわけですね。

SG:テンポが存在しないわけです。「ものごとがここにある」「あそこにある」というふうに分かれて(divided)存在しているせいでものごとがちゃんと働いていないときには、あなたは空っぽに感じる(you feel empty)ということがポイントなのです。そういうとき、あなたはすべてについて、あるものを他のものの近くへ置こうと考えるかもしれない。つまり、より速く弾くということです。でも、重要なのは、どんな一つの要素も必ず次の要素へと投射(project)されなければならないということです。次の直観へと、です。この意味で、曲を、最初から最後まで、一つのパルスとして、一つの長い息として、「感じ」なければいけないのです。曲の自発的な息を、ディヴェロップさせなければならない。一つの点から一つの点へと入っていく自発的な接続をディヴェロップさせなければならない。だからあなたの質問への答えは、遅すぎる演奏はありえる。ありえるのですが、それはメイン・ポイント(主要な問題)ではないのです。

K:だから、問題は「速度」ではないということですね。

SG:はい。

K:同じ速度でも、遅すぎたり、遅すぎなかったりするわけですね。

SG:ええ、同じ速度でも……同じ点に音を置いたとしても、もし音がよければ〔音楽は〕進むのです。言い換えれば、タクト(拍子)は同じでも、それが働いたり、働かなかったりするわけです。でも働かないからといって、それは速度が非常に遅いからだとは限らないのです。一つの曲と次の曲のあいだには、いかなる心理的存在もないのに、内部にたくさんの空気(air)があります。大切なのは、エンプティ(中身のない)なパートを消去することではありません。なぜなら曲間における場合、シチュエーションは完全にエンプティだからです。…そういうわけで、これがテンポに関する問題です。どのようにすべてのものが一緒に働いているか、という直観が重要なのです。「まずテンポを選択して、そのテンポのなかにすべての要素を放り込む」というのでは決してないのです。そうではなく、各要素が受け取られるべきリズムを感じることです。

メトロノームの効用(メトロノームはそれに合わせて曲を痩せ細らせるためにあるのではない)


K:あなたは基本的にメトロノームを使われないですよね。でもメトロノームはいつも持っていらっしゃる。なぜですか。

SG:自分のマインド(精神)を目覚めさせておくために、メトロノームと一緒に勉強しますよ。でもメトロノームと一緒には行かない、メトロノームに合わせて弾きません。メトロノームに合わせて弾いてしまうと、それはあなたから知性(intelligence)を取り上げてしまいます。メトロノームと一緒に練習していて、面白いと思うのは一つの拍と次の拍の間にあるスペースを感じられることです。一つの拍と次の拍の間に起こっていることが重要なのです。メトロノーム自体は何も起こらない。でもあなたのマインドの中ではたくさんのことが起こっているのです。メトロノームは間(between)を考えるために役に立ちます。メトロノームの拍の上で考えるのではありません。どれだけたくさんのこと、どれだけたくさんのヴァリエーション(変化;差異)が拍の間のスペースに存在しているかをよりよく理解することができるようになるために使うのです。

K:基本的に練習するときにはメトロノームを鳴らすけれども、メトロノームに合わせることはない、ということですね。

SG:ええ、まさにそこがポイントです。ときどき私はメトロノームのリズムを保つこともあります、それはたぶん自分に伴奏してくれるタクトが必要なときです。自分自身に注意を向けすぎないようにするためです。また、リズムから距離をとるためにも使います。タクトに合わせて弾いて、それから次に、いかに曲がメトロノームから外れていくか(how the piece goes out of the metronome)を追いかけるのです。メトロノームは網(net)のようなものです。

K:網ですか。

SG:リズミカルな網です。あなたの注意をパーフェクトなリズムに対してキープするための網です。パーフェクトにイコール(均等)なリズムです。パーフェクトなんてものはどこにもありませんが。少なくともテクニカルな意味で一貫してイコールという意味です。だから、メトロノームは多分、あなたが一つのタクトから次のタクトへの投射を感じることを助けるのです。この二つの拍の間で、ものごとがどのようにカーブを描きながら動くかを感じるのを助けるのです。それだけです。だから、メトロノームは、曲をそれに合わせてリデュース(痩せ細らせる)させるためにあるのではありません。メトロノームの間のスペースをアンプリファイ(拡張)させるためにあるのです。

K:うーむ…

SG:…メトロノームはいい発明です。意識を目覚めさせておくためには。でもリピートするためにではありません。それではメトロノームに合わせたテクニカルな練習になってしまいます。私にはそう思えます。ポイントはテンポをサーチ(探す)することです。テンポとは連続的(continuous)であることであって、タクトに合わせることではありません。テンポとはタクトの間に存在するのです。明らかにタクトは存在し、それはすこし人工的でもあり得ます。しかし、タクトの間には何があるのでしょうか。その間にあるものが、タクトをプレゼント(存在している)で、クレヴァーで、アンダスタンダブル(理解可能)なものにしているのです。

K:ピアノを弾く学生たちはみんなハノンを弾かされるわけですが、ハノンでは最初ゆっくりのメトロノームに合わせ、だんだん速くして最後にはとても速いメトロノームに合わせるように、と書いてあります。似たようなことをあなたは学生時代なさったわけですか。とても速いパッセージを弾くために。

SG:ときどきそういうことも起こります…ときどき起こります、でも私はこの種のテクニックを使うことは好きではありません。メトロノームとともにステップバイステップ、というやり方は。手は動くようになりパッセージも弾けるようになりますが、意識が離れている。これはトレーニングです。トレーニングはできますが、意識を見失っているならば、これはちょっと問題です。小さな車輪付きの練習用自転車を知っているでしょう、あのようなものです。1時間止まらないで練習するのに、これは何らかの助けにはなります。でも心の大きすぎる部分をここに置く必要はないです。心の一部分はメトロノームに導かれ、残りの部分は手の動かし方に集中をしている。これはただ、精神のシチュエーションです。これを頼りにすることはできません。「さあもう準備できた」とは言えないのです。なぜならメトロノームがあろうがなかろうが私たちはテンポを自分自身でキープしなければならないからです。だから、曲のテンポをキープしつつ、パラレル(平行な)で、ポシブル(可能性のある)なメトロノームを持つことができればナイスです。

K:私たちの内側にあるポシブルなメトロノームですか。

SG:そうです。私が薦めるのは、機械式のメトロノームです。なぜなら本当に重要なのはこのリズムの間のつながりであり、それはこの物理的なムーヴメント(動き)のなかにあるからです。

K:デジタルのメトロノームではなく、ということですね。

SG:ええ、私は全面的にデジタルのメトロノームには否定的です。デジタルはただパルス(拍)、パルス、パルスであって、物理的にその間にあるものを感じることはできません。ムーヴメントがありません。どうやってムーヴメント(動き)を置けるのでしょう。自分のムーヴメントを感じなければならないのです。だから、ただ拍を感じるだけだったらそれは空っぽ(empty)です。本当に空っぽです。でも少なくとも機械式のメトロノームにムーヴメントがあります、動いているアーム(腕)があるのです……

体の動きと音楽の一致、あるいは不一致(楽器を弾く姿勢ではダウンビートを理解することは難しい)


K:もうそろそろ眠いころですね。すみません、あと10分だけお願いします。マスタークラスでおっしゃった「動きと音楽の一致」というアイディアはとても面白いです。マスタークラスで音楽のアイディアを説明するとき、あなたはとても豊かなジェスチャーでそれを伝えられました。音楽がアップ(上)に行くときのジェスチャーや、ダウン(下)へ行くときのジェスチャーなどです。どのようにしてそのような動きと音楽の一致を学ばれたのでしょうか。どなたかから学ばれたということがありますか。

SG:見て学んだことです。小さいときに、誰かから立ち上がるのを学び、歩くことを学びましたか。それは、私たちの感受性の一部なのです。この感受性をディヴェロップさせることは簡単ではないし、自然に起こることでもありません。でもアップやダウンといったアイディアは、グラヴィティ(重力)と関係があります。そしてグラヴィティは私たちがよく知っているところのものです。どうして、プレイヤーが最初にすることは、指板の上で演奏すること、キーボードの上で演奏すること、楽器の上で演奏すること、座って演奏することなのでしょうか、そうしたら、何がダウンで何がアップに行くのかわからないのです。とても重要なポイントなのは、音が重力の中でどちらに行きたがっているかということについて意識をディヴェロップさせることです。音の動きはその重力に対して反応しているのです。感情的なバランスをどのように感じたいか。その中でどのように音を演奏するか。それは、いかに音をあなたの存在へとトランスレイト(翻訳する;言い換える)するかということなのです。だからそれは、あなたの音の中における在り方なのです。あなたはダイナミック(動的)かもしれないし、あなたは音の中にステイ(とどまる)しているのかもしれない。ステイとはステイであって、音の中にレスト(休む)するのではありません。でもこのことはなかなかすぐには理解してもらえません。

K:あなたが音楽の動く方向を感じるとき、ジェスチャーや顔の表情を使って説明しておられましたね。一人で勉強するとき、注意力を目覚めさせておくために、そのように体を使ったりすることはありますか。

SG:はい。

K:たとえば音楽を聴くときに体を動かすとか、そういうことです。

SG:その必要はありません。もちろんそれをすることはできます。でも、それは感じることができるのです、なぜなら、それは音楽それ自体の中にあるのですから。私の体の反応は…いや、体ではなく、私の意識の反応というべきですね、それはただ理解するためなのです。でも実際には、ふだん私はそれを理解していないのです。私はそれについて学生に言うのは、学生が間違った場所でものごとを弾いているからです。なぜ、ものごとがそれ自身の場所でディヴェロップするのか、それ自身のテンデンシー(性質)に従ってディヴェロップするのか。たとえば…もしフレーズがある場所へ向かっているのなら、それは、そこへハーモニーも向かっているからです。解決(solution)はダウンビート(強拍)です。もし解決がアップビート(弱拍)に置かれていれば、あなたは解決をダウンビートだと感じるけれども、それはアップビートの場所に置かれているからそこにコントラスト、コントラディクション(矛盾)が生じます。こうやって、(曲を)続ける理由が生まれるわけです。このコントラディクションがどこへ消えて一貫性が生み出されるのか。こういったことを追いかけるのです。でもポイントは、こういったことをクリエイト(創造)するということは、音を、音としてではなく、感情的な意識の振る舞いとして作るということを意味するということです。だからもしダウンビートならダウンビートを演奏すべきであり、ダウンビートであるべきなのです。ダウンビートとは何かという理論を作ることはできないのです。ダウンビートであることの意味は「感じ」なければならないのです。だから、あなた自身がダウンビートでなければならないということです。あなた自身が、です。つまり、あなたが重力そのものにならなければなりません。体や魂の、重力の中における、機構(setup)でなければなりません。それがダウンビートです。ダウンビートにステイしているというエヴォルーション(発展)を感じることです。単純に。そうでなければあなたはただ音を弾いているだけです。

K:受講生でこういう疑問を持ったひとがいます。ダウンビートは下へ、アップビートは上へという動きなのですが、同時に上昇音階は前へどこかへ向かって行き、下降音階は後ろへ下がっていくということだったと思います。でももしたとえば、この二つの動き(ビートとフレーズ)が矛盾した場合はどうしたらよいのでしょうか。上手く言えないのですが。

SG:基本的に、このことについてはたくさんの無理解があります。理論的にも、です。とにかくこのことを言葉に翻訳するのはとても難しいのです。学校のシステムに翻訳するのも難しいです。ダウンビートは、体育のように体に関係した何かを通じて理解されることだからです。これは、自分の体の全体の動きを感じることを通じてのみ理解されるのです。体を椅子というものに縛り付けて楽器を弾くという姿勢を通じてでは、これを理解をするのは難しいのです。そういう意味で、楽器を弾くというのは難しい。まずあなたが第一に取るべきリスクは、楽器を弾いているときには、自分がどこにいるのか(訳注:椅子に縛り付けられて弾いている姿)を忘れなければならないということです。「どこにいるのか」というのはつまり、主和音を弾いているときに、あなた自身は主和音の位置にはいない、という意味です(訳注:マスタークラス中での説明では、主和音は地面(ground)に存在する。しかしそのとき「あなた」(奏者)は楽器を弾くための姿をしており、主和音を弾くときに地面に座り込むわけではない)。あなたは座っていなくて、緊張のもとにいるのです(訳注:「あなた」は地面に座っているのではなく、楽器を弾くという緊張した姿勢であるということ)。だから、あなたは無意識のままに、〔演奏姿勢をとっている自分の体やその周りの環境に対して〕反応的(reactive)な意識、反応的な存在をディヴェロップさせてしまっているのです。でも、本来あるべき姿は、〔弾いているときの周りの状況に〕「反応」することではなく、ただダウン〔ビート〕だということです。つまり、最初にするべきことは何かというと、「何を弾くか」(訳注:音楽そのもの)と「どう弾くか」(訳注:楽器を演奏するための姿)の間にある不一致(discrepancy between what you do and how you do)について意識的になることです。

音楽の抽象性について(あなたが主和音を感じるとき私も「私の主和音」を感じる)


 それから次のポイントは、演奏はハビット(習慣)にもなりえるということです。それはただ習ったことです。間違った音とは、自分のセキュリティー(安全を保障された状態)の中で弾いた音をあなたがアクセプト(受け入れる)してしまったときに、やって来るのです。音が何にどのようにありえるか(what and how it can be)という理解のないままに弾いたときに、です。これはあなたにとってだけの問題でも、私にとってだけの問題でもない。サブジェクティブ(主観的)な問題ではないのです。サブジェクティブとは、あなたが弾くときにあなたはただ弾き、私はただあなたが弾いているものを聴く、というような意味です。でも、ポイントは、もしあなたが上手く主和音を弾いたなら、あなたは主和音を感じ、同時に私もまた私の中で「私の主和音」を感じるということなのです。この意味で、音楽とか、この主和音というものは、あなたにとっても私にとっても「抽象的(abstract)」なのです。それは、あなたにとっても私にとっても「同じもの」であって、かつそれぞれの感受性にフィットするものなのです。

K:それが、音楽のジェネラル(一般的)なルールなのでしょうか。

SG:それはジェネラルです。そしてそれが、音楽はデモクラティック(一人一人に基づく;個人的な)ではないという理由なのです。また、それは次のことの理由にもなります。もし音楽が解決(solution)へ至ろうとするとき、それが上手いやり方で解決へ導かれるならば、その解決は予測不可能(not predictable)であるにもかかわらず、解決を直観することは可能だ、ということです。そのときあなたは、そのやり方だけがあなたに解決を与えるのだと、つまり論理的かつ自発的かつ必然的な結論を与えることができるのだと感じるのです(訳注:つまり「解決の方法はそれしかない」と感じるということ)。それを感じることはプレイヤーにとっても聴衆にとっても同じなのです。これが、ものごとが働いたり働かなかったりする理由です。それはパーソナル(個人的)なものではないのです。

和声的なダウンビートと拍的なダウンビートの矛盾とコントラスト(あなたは次に何がどう起こるだろうかと耳をそばだてる)


K:解決においてはリラックスを感じる、あるいは家に帰ると感じるとマスタークラスでおっしゃっていました。しかし、解決が拍の上においてアップビートに存在するとき、ビートと解決の間に矛盾が生じませんか。

SG:それは非常に単純なことです。明らかに、解決は和声的にはダウンビートなのですから。これ(訳注:アップビートにおける和声的ダウンビート)はコントラストであり、未来における次の点、次のステップに対する投射(projection)なのです。曲はそこで終わりたがっているのですが、でも曲は違うところで終わっていたりするわけです。たとえばフランスの音楽であるクーラントを例に取ると、3拍子の中の2拍子目で終わることもできるのです。この解決は何でしょうか。ヘミオラの創造です。それは次のことを意味します。あなたは未来を見ている、なぜならあなたはコインシデンス(同時発生性/一致)を感じるからです。あなたは3拍子の2小節が、大きな1つの小節の中での3つに分けられるのを見ているわけです。これは単純に言うと投射です。(訳注:ヘミオラは音楽用語。グロンドーナ氏の説明にもあるとおり、3拍子の曲において終わりに近い部分で、2小節分(6拍分)をまとめ、それを2拍ずつ3つにわけ、大きな3拍子のようにすること。)
 もしテンポ的にダウンビートのときに〔音楽的〕ダウンビートに達しない場合、あなたは次のステップを探しているのです。もしかしたら、あなたは、解決を持った次のステップを見つけることができないかもしれない。その場合、曲は続いていかなくてはならないのです。そしてあなたは未来へ向かっていくわけです。これが、解決の確信を与えないままに解決のフレーバー(風味;味わい)だけを与えることの理由です。また、ダウンビートのときに不完全な和音による解決を持ってくることもできます。第一転回形であるとかですね(訳注:不完全終止)。だからベースが三度で終わってしまうわけです。キー(調)は確かに和音どおりなのだけれど、ベースが主音になっていない。だからこの意味で、私たちはグラウンド(地面)を見失うわけです。さあどうしましょう? 私たちは未来を望むのです。曲は次のステップへ続くだろうということです。あなたは、次に何がどのように起こるだろうかと耳をそばだてるわけです。

K:ごめんなさい、三度のところで付いていけていません。

SG:EマイナーでベースがGだということです。

K:わかりました。

SG:そこではすべては存在しているけれども、地面がない。ハーモニックな地面がありません。Eを感じはするけれども、それはダウンビート、つまりリズム的な地面(rhythmical ground)ではありません。だからあなたは次を必要とするのです。

K:その場合、それはアップビートのようなものなのですか。

SG:それはアップビートではありません。それはダウンビートなのですが、不完全な解決という感覚を持つダウンビートなのです。だからもう少し次が必要なのです。

チェリビダッケとセゴビアの動きについて(誰かが弾いているのを見て学べることは多い)


K:ところで、ライヴ・パフォーマンスにおけるチェリビダッケのジェスチャーから何か学ばれることはありましたか。

SG:そうですね、はい、多くを。何を本当に学んだのかはわかりません。けれど、たくさんのことを学んだのだと思います。

K:ジェスチャーにおいて表現豊かな人でしたか。

SG:ええ…でもあまり自分をデモンストレート(誇示)することは好む人ではありませんでした。動きはエッセンシャル(本質的)なものに限られました。とくに晩年はそうです。

K:晩年には彼の動きはシンプルだったのですね。

SG:シンプルであり、コンプリート(完全)でした。無駄なものを見せないので、一見シンプルに見えました。クリアで理解しやすいものでした。

K:彼を見れば彼のアイディアが、音楽の動きや方向性がわかったということですか。

SG:ええ、そのようなものを得ることができました。でも、彼を見たからといっていい指揮者になれるかどうかはわかりません。でも、私は誰かが弾いているのを見て学べることは多いと思います。あなたが聴いているものと、聴いているものを引き起こしている(provoke)ものとの関係性を、あなたはいつでも学ぶことができる。どのように動くか…ときどき、あなたが聴きながら想像する「どのようにそれをしているか」に関する想像は、間違っていることもありえます。だから唯一のことは、見ること、ハプニング(起こっていること)を見ることです。

K:ではセゴビアの動きとはどのようなものでしたか。特に彼の右手について聴きたいのですが。

SG:非常に注意が払われ(attentive)、非常にコントロールされていました。そんなに大きくは動きませんでした。とにかく彼のダウンビートは吸収されるようなものであり(absorbed)…彼のダウンビートはとてもパワフルでした。パワフル、というのは、基本的な幾何的ストラクチャー(構造)が彼の中にあったという意味においてです。

K:用意した質問は以上です。ありがとうございました。