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御祭神
八幡大神 誉田別尊(ほんだわけのみこと)
〔応神天皇〕
 (ひめおおかみ)
比売大神
多紀理姫命(たきりひめのみこと)
多岐都姫命
(たきつひめのみこと)
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
(おきながたらひめみこと)
 気長足姫尊
神功皇后(じんぐうこうごう)

 御祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと)は、十五代応神天皇のことである。気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)は、九代開化天皇の曽曽孫で、 十四代仲哀天皇の皇后となり、神宮皇后(じんぐうこうごう)とよばれる。 時に筑紫国熊襲の反乱を 鎮めるため天皇と共に九州に渡られたが、 背後にある朝鮮半島の新羅国を打つことの必要を感じられ、天皇の喪を秘して海に渡り、新羅を打たれた。
 帰国後に誉田別王子を出産、幼帝を擁立(ようりつ)して摂政の位につかれ、政務を執られた。比売大神(ひめのおおかみ)【多伎都姫命、市柿島姫命、多紀理姫】は天照大神のお子たちで、神功皇后が三韓への出陣に際し、この三神に戦勝祈願したといわれる。



 当宮八幡大神は五十二代嵯峨天皇の御宇、弘仁七年丙申年(816年)の草創で宇佐神宮より勧請されたと伝えられている。「文徳照臨の尊神として武運監護の霊祠なり」と古から言われ尊崇祭祀された。その頃の神領は、宮山のした、宮の前一帯に四十数町歩を領し、宮殿八宇山囲んで壮厳をきわめた。(北は白倉山から東の峰沿いに岩室山へ、西は峰沿いに市原へ。南は糸我、雲雀山から星尾まで)と言い伝えられている。

その後争乱の世を経て、1284年(鎌倉時代)に、由良の興国寺開山法燈国師が再開眼の供養をしたといわれている。

 旧名『八幡宮』と称し、紀州藩主・徳川頼宣公(1619年)以来代々崇敬厚く、熊野参詣の折道中の安全祈願等、御参拝されたと言い伝えられている。
1677年、若狭守源令綱(藩主徳川頼宣、光貞に仕える)より、三十六歌仙扁額が奉納されている。


 境内に祀られている摂社・水主神社は、天保4年・紀伊国名所絵図より、紀伊國神名帳・在田郡・正五位下水主名神とつたえられている。また、社伝によれば、地主神で、八幡宮が勧請された以前より祀られていたとされる(年代不詳)
 境内地の両脇から流れる水が一本の川になる合流点に影向岩(神を向かえる岩)が立ち(現在不明)、この川を小瀬の浦と称し、御手洗池(江戸時代に消失)に注いだ。

明治時代(1868年)神仏分離政策等により、『宮原神社』と改め、社格は村社となる。


※天正十三年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めによって、縁起巻物や神領証文など多数没収されたため、現在宮原神社については、ほとんど不詳であるが、宮原神社所蔵・由緒書等また社家・藤原姓宮本氏所蔵の写書き等を参考に記載する。
    

歴史
西暦 宮原神社の歴史 日本の動き
 816年
(平安初期)
八幡宮として、草創する。 空海が高野山に金剛峰寺を開くことを奏する。
1284年
(鎌倉中期)
由良の興国寺開山法燈国師が祭開眼の供養をする。 北条貞時が第9代執権に就任する。
1441年
(室町中期)
室町時代に源常久、社殿の修理及び寄進される。 嘉吉の土一揆(山城・近江の土一揆)
1516年
(室町後期)
源順家、 社殿の修理及び寄進される。
1546年
(戦国時代)
萬徳丸・ 源某(それがし)ら、この地方の豪族達が社殿の修理・寄 進された。
1585年
(安土桃山)
豊臣秀吉の紀州攻めにより、 縁起巻物や神領証文などが多数没収され荒廃する。 羽柴秀吉が正二位内大臣になる。
1608年
(江戸初期)
江戸時代の棟札により再興された事がうかがわれる。
1622年
(江戸初期)
御殿葦替えが行われる。
1674年
(江戸前期)
拝殿、鐘楼が再建される。
1976年
(昭和)
氏子崇敬者の寄進により社務所・参集所が再建される。
2002年
(平成)
氏子崇敬者の寄進により拝殿の立て替えが行われる。

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