◆文学散策◆

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島 崎 藤 村
 

東北学院大学 下宿跡案内板 「草枕」詩碑 宮 城 野 椰子の実 略 年 譜 仙台文学館

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仙台の藤村
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東北学院大学
 
  島崎藤村は明治29年に英語教師として來仙し、東北学院で教鞭をとった。わずか1年ほどであったが、その間に詠んだ歌を処女詩集「若菜集」としてまとめ上げた。明治30年、春陽堂刊。日本の近代詩の記念碑的作品といわれている。
 東北学院は、1886年(明治19年)「仙台神学校」が押川方義、W・E・ホーイによって木町通りに創設された。1891年(明治24年)南町に新校舎が完成、「東北学院」と改称した。 その土樋キャンパス(仙台市青葉区土樋1-3-1)には、若き島崎藤村が教師をしながら外国書を読みあさった現在の中央図書館がある。定礎1984とあるから藤村が通った図書館を改築したものか。
[東北学院大学・正門]
 
[シュネーダー記念東北学院大学中央図書館]
  
2001年1月19日撮影
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 東北学院大学によると、東北学院最初の図書館が、1891年(明治24年)仙台神学校(東北学院の前身)完成と同時に、アメリカ・リフォームド伝道局財務担当ルドルフ・ケルカーよりの寄贈図書をもって開設され、その功績を讃え 「ケルカー記念図書館」 と称した。岩野泡鳴島崎藤村なども利用した。

1953年(昭28) 「シュネーダー記念東北学院図書館」開館(現在の大学院棟) 
1985年(昭60) 「新シュネーダー記念東北学院大学図書館」開館
1986年(昭61) 東北学院創立百周年 
1988年(昭63) 「シュネーダー記念東北学院大学中央図書館」に名称変更 
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島崎藤村の下宿跡案内板
  仙台での藤村は、仙台駅の東口の近くの「三浦屋」に下宿していた。その「三浦屋」はすでにないが、最近まで仙石線の仙台駅があった近くで、跡地の道路脇に案内板が立っている。すぐ隣にいかにも古びた、小さな塩竃神社がある。「市井にありて」の中で書いている石屋も残っていない。
  その「市井にありて」には仙台での1年間の思いが綴られている。
 
 「仙台へついてからというものは、自分の一生の夜明けがそこではじまって来たような心持を味わいました。実際、仙台での一年は、楽しい時であったと思います。私はそれまでに経験して行った劇しい精神の動揺をも、それを思いおこすこともできるような静かなところへようやくのことで自分の身を置きえたような心持でした。それまでのいろいろの心の煩いからも離れ、古人や先輩の影響からも離れ、自分の青春というものに思いをひそめることができたのも、あの旅でした。東北学院の図書館は、比較的蔵書も多かった方でしたし、それまで心がけていても手に入らなかったもので、あの旅へ行って初めて親しんだ本なぞも多くありました。

  このあとに、案内板(下の写真)にある 「仙台の名掛町というところに三浦屋という古い・・・」という一文が続く。
 

2000年1月撮影
■最近いわゆる仙台の駅裏を歩いてみた。仙石線は地下にもぐり、あの古びた小さな仙台駅はもうない。あたりは整地の真最中である。残念ながら、この歴史的な看板も見当たらない。藤村ファンが何処かに移設しているに違いないので、時間をみて調べ情況をアップする。(03.8.29追記)
 
↓  ***** ありました!!! 移設されていました!!!***** 
■仙台駅の裏側、裏口という言い方が消えつつある。駅東口はこの夏(2004年)整備された。この東口のすぐ近くの広場に新しく「藤村碑」ができ、8月29日にその除幕式が行われたというので行ってみた。碑の場所は、藤村が下宿していた「三浦屋」の跡地とのことなので、その方向に向かって今は整備された道路を歩いて行くと、塩竃神社が目に付いた。何とその横に「懐かしいあの案内板」が立っているではないか。やはり地元の藤村ファンがしっかり立ててくれていたのである。上の写真で分かるように 【名掛丁東名会成年部】 とある。
 上で紹介した文中に「すぐ隣にいかにも古びた、小さな塩竃神社がある」とあるが、今日見た塩竃神社はすっかり
綺麗になっていた。これも建て直したのであろうか。
 
 さて、案内板と塩竃神社を写真に撮り、辺りを眺めたらちょっとした広場があった。そこに新しくできた「藤村碑」があった。藤井仙台市長の筆で、「日本近代詩発祥の地」と書かれていた。立派な碑(写真下)ではあるが、あの案内板の方が藤村への愛情がこもっているようで奥床しい。藤村碑を見に来た人は、是非この案内板も見て欲しいと思う。

[碑の裏側]

 
 ( 2004.9.15 追記 )

「草枕」詩碑
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仙台市の青葉城址に「心の宿の宮城野よ」の句を刻んだ藤村「草枕」詩碑が建っている。昭和42年に八木山から移された。藤村自は、昭和12年に八木山に建てられた「草枕]詩碑を訪ねている。
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後略
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色彩なき石も花と見き
-悲しみ深き吾眼には -吹 く 北風 を 琴 と聴 ゝ
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-ひとりさみしき吾耳は -  
荒れたる野こそうれしけれ-
-日影も薄く草枯れて -乱れて熱き吾身には -心の宿の宮城野よ - -宮城野にまで迷ひきぬ -思ひ乱れてみちのくの -われは道なき野を慕ひ -道なき今の身なればか

中略
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さみしきかたに飛べるかな
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-心の羽をうちふりて -われは千鳥にあらねども -夕波くらく啼く千鳥 - --  草 枕
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仙台文学館
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    「仙台文学館」には藤村と仙台の関係を示す資料がたくさんある。明治30年、春陽堂発刊の島崎藤村第一詩集 「若菜集」 には、仙台時代に発表した作品を含む51篇の詩が収められている。日本の近代詩の記念碑的作品といわれている。昭和12年6月30日、『読売新聞』 文芸欄に掲載された 「仙台の二日」 や 『市井にありて』 に収められた随想 「折にふれて」 などは藤村フアンを魅了してやまないであろう。

島崎藤村略年譜(1)
明治 5年
1872年
1歳 3月、筑摩県第八大区五小区馬籠村(現長野県西筑摩郡山口村)に生まれる。
14年
1881年 10歳 兄に連れられて上京。泰明小学校に通う。
19年
1886年
15歳
三田英学校(後の錦城中学)に入る。9月、神田の共立学校(後の開成中学)に転校。
20年 1887年 16歳 9月、明治学院普通学部本科1年に入学。
24年 1891年 20歳 明治学院卒業。
25年 1892年 21歳 明治女学校高等科英文科教師となる。北村透谷、星野天知、平田禿木らを知る。
26年 1893年 22歳 「文学界」創刊。同人として劇詩、随筆などを発表。
28年 1895年 24歳 明治女学校教師を辞す。
29年 1896年 25歳 5月、「文学界」の臨時増刊として「うらわか草」刊行さる。
- - - 9月、東北学院の作文教師として仙台へ赴任。「文学界」に「草影虫語」の詩篇を発表。
30年 1897年 26歳 7月、東北学院を辞して帰京。8月、第一詩集 『若菜集』 を刊行。
31年 1898年 27歳 1月、「文学界」終刊。6月第二詩文集『一葉集』、12月第三詩集『夏草』刊行。
32年 1899年 28歳 4月、小諸義塾の教師として信州小諸町に赴く。函館の秦慶治の次女冬子と結婚。
33年
1900年
29歳
「千曲川のスケッチ」など散文に着手。
34年 1901年 30歳 8月、第四詩文集『落梅集』刊行。
39年 1906年
35歳
3月、『破戒』を「緑蔭叢書」第一篇として自費出版。
43年
1910年
39歳
妻冬子死去。
大正2年
1913年
42歳
渡仏(パリ)。「桜の実の熟する時」に着手。
4年
1915年
44歳
『平和の巴里』、『戦争と巴里』刊行。
5年
1916年
45歳
帰国。早稲田大学講師となりフランス近代文学を講ず。
6年
1917年
46歳
早稲田と並んで、慶応義塾大学講師となりフランス文学を講ず。
昭和2年
1927年
56歳
短編集『嵐』刊行。小諸懐古園城跡に藤村詩碑「小諸なる古城のほとり」が建つ。
3年
1928年
57歳
「夜明け前」準備のため馬籠へ。川越の医師加藤大一郎の妹静子と再婚。
5年
1930年
59歳
感想集『市井にありて』刊行。
7年
1932年
61歳
1月、『夜明け前』第一部刊行。4月、第二部を「中央公論」に発表し始める。
10年
1935年
64歳
10月、日本ペン・クラブ会長。11月、『夜明け前』第二部刊行。
12年
1937年
66歳
5月、仙台八木山に建てられた「草枕」の詩碑を訪れる。
15年
1940年
69歳
帝国芸術院会員。
18年
1943年
72歳
1月より「東方の門」を「中央公論」に発表し始める。8月21日執筆中に倒れ、22日死去。

宮 城 野
宮城野”は古くから歌に詠まれてきた。また、「枕草子」にも出ている。芭蕉も訪れている代表的な歌枕である。

-藤村も「草枕」に詠みこんでいる。
-その藤村は今にいたるまで、宮城野に住む人たちに愛され続けてきたようだ。宮城野原総合運動場(公園)の周りには、藤村の詩を書いた案内板が所々に見受けられる。(写真上)

運動場の入口を入って右手には、宮城野を紹介したパネルが立てられている。筆者も所属していた

「仙台東ロータリークラブ」
が寄贈したものである。(写真右)


写真をClickすると拡大されます。

椰子の実
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-藤村は明治32年、小諸義塾の教師として信州小諸町に赴任した。それから7年間を小諸で過ごした藤村は、「雲」、「干曲川のスケッチ」、「落梅集」、「旧主人」などの作品を生み出した。また、39年には社会問題として大きく取り上げられた「破戒」を自費出版している。

-昭和2年、小諸懐古園城跡に藤村詩碑「小諸なる古城のほとり」が建てられた。ここには藤村の小諸時代を中心とした作品・資料・遺品が、多数展示されている。



-藤村というと「椰子の実」を忘れるわけにはいかない。多くの人が子供の頃に歌った覚えがあるだろう。明治34年に出版された詩集「落梅集」に出てくるが、海辺に流れ着いた椰子の実に我が身を託したのであろうか。小諸での作品である。

- いづれの日にか国に帰らん 思ひ や る 八 重 の潮 々 - 激り落つ異郷の涙 海の日の沈むを見れば - 新なり流離の憂 実をとりて胸にあつれば - 弧身の浮寝の旅ぞ われもまた渚を枕 - 枝はなほ影をやなせる 旧の樹は生ひや茂れる - 汝はそも波に幾月 故郷の岸を離れて - 流れ寄る椰子の実一つ 名も知らぬ遠き島より - -
椰子の実
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- そもそも詩人、歌人あるいはいわゆる芸術家という人たちは、実際に行ったことも見たこともない場所の情景や経験したこともないことを詩歌や絵画、音楽で表現することが得意のようである。
 この「椰子の実」も藤村の想像から生まれた作品である。友人の柳田国男から椰子の実が伊良湖岬に流れ着くという話を聞いた藤村が、その話を自分にくれと頼んだという。
-仙台時代の下宿「三浦屋」の裏二階へは、遠く荒浜の方から海の鳴る音がよく聞えてきたようだ。「市井にありて」で、『若菜集』にある数々の旅情の詩は、あの海の音を聞きながら書いたものです、と書いている(1)。藤村と海から「椰子の実」を思い出し、仙台での藤村の揺れる心を想像した。

 
[参考文献]
 
(1) 「日本の詩歌」1 「島崎藤村」
    中公文庫 1974年7月10日初版 1993年2月25日8版発行
(2) 佐々  久
吉岡一男 監修
「仙台の散策」
歴史と文学をたずねて
    昭和49年8月1日第1刷発行 平成11年4月30日改訂版発行
(3) 仙台文学館 「ガイドブック」


初 版 : 2000.04.11 改 版 :  2003.08.30 文 責 : 三 輪  修
改 版 :
 2004.09.15 藤村碑追記