◆世情エッセイ  けやき並木

言葉は生き物である。されど−
 


−日本語についてのある考察−
 
 欅並木が緑の濃さを増し、その存在を誇る季節になった。樹木は着実に成長しているとは思うが、人の目には毎年同じように映る。四季を感ずるたびにある唐詩を思い出す。劉廷芝の「白頭を悲しむ翁に代る」と題する漢詩で、人の一生を流麗な詩で歌い挙げているようで気に入っていた。高校の頃はただ調子のいい流れに乗せられていたようだが、年とともにその内容に引き込まれる。その一章を下に示す。
 
   
祿    
   
   
 
 
 
 
 
 
 この詩の中程にある2行が好きである。

 「年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず」

 漢字や漢字を並べた語は、情景を映し出す妙味がある。欧米諸国の文字にはない大きな特長である。本場中国ではすでに本来の漢字が失せてしまった。韓国でもハングルにとって代わられた。戦後わが国でも「ローマ字論争」がにぎやかであった。
 今、インターネットの時代を迎え、ふたたびローマ字国語(国字?)論が出たりする。ローマ字に変えても英語に強くなるわけではないのに。
 もちろんこれまでの日本英語とは異なる使える英語教育に注力してほしいが、日本の漢字も大切にしたいものだ。
  かつて日本語の難しさ、文字の種類の多さ、漢字の画数の多さが、コンピュータ技術の進歩(大衆化)を遅らせるという人もいた。しかし、難しいからこそ何とかしなければという意識が、この壁を超えさせたのも事実であろう。(今でも1バイトと2バイトの違いで損はしているが)。お蔭でワープロを駆使する力はついたが、漢字が書けなくなるという高価な代償を払わなければならない羽目に陥ってしまった。

 ワープロの善し悪しは別として、言葉について考えてみたい。
  近年日本語の堕落が著しい。近頃の若い者は云々というのは歳をとった証拠であるが、それにしても凄じい。若い人の力は素晴らしいという気持ちにいささかの揺るぎもないが、その言葉にはしばしば驚かされる。
  短寿命の流行語はハシカみたいなもので、あまり気にならないが、日本語の誤用には心落ち着かない気持ちにさせられる。日本語の堕落はテレビの普及とともに激しくなったように思う。昔のラジオのアナウンサーはきれいな日本語を使っていた。訓練も厳しかったのであろう。テレビのチャネル数が増え、アナウンサーの質も落ちたようだが、タレントとかジャリタレとかいうのが言葉を破壊している。また、一部のCMも然り。
 今、正しく美しい日本語を話すのは、海外で日本語を学んだ外国人が一番であろう。実際に日本に来、変な日本語を聞いて驚いているに違いない。

 タレントはもちろん“talent”からきた言葉で、もともと才能や技量を表す。広辞苑には次のような説明も載っている。「才能のある人の意で、テレビ・ラジオなどの職業的出演者」。日本語として認知されたようだが、海外で自己紹介するときはどう言っているのだろうか。
 つい最近のこと、テレビのニュースステーションを見ていて驚いた。ゲストの発言の中に「もとのもくあみ」というのがあった。当然「元の木阿弥」のことだが、画面には何とご丁寧にも「元の木網」と表示されたのである(木網をかな漢字変換するのは大変だ)

元の木阿弥 (広辞苑)
 旧の木阿弥(モクアミ)(戦国時代、筒井順昭が病死したとき、嗣子順慶がまだ幼かったので、遺言により、声が順昭に似ていた南都の盲人木阿弥をほのぐらい寝所に置いて順昭が病気で寝ているようにみせかけ、順慶が長ずるに及んで初めて順昭の死を世間に知らせ、木阿弥はもとの市人となったという故事から) いったん良くなったものが、再びもとのつまらないさまにかえること。苦心や努力も水泡に帰して、もとの状態にもどってしまうこと。もと‐の‐もくあみ【元の木阿弥】 もと(旧・故)(成句)


 言葉は、確かに生きている。だから時代とともに意味や読み方が変わっていく。ちょっと気がつく言葉の変化を考えてみよう。

漢字の誤読が認知された例

・「独壇場」(どくだんじょう) 正しくは「独場」(どくせんじょう)であったが、の字を「だん」と読み間違えてとした。(どくせんじょう)→どくだんじょう→

当て字から作られた言葉の例

・輿(与論)ろん→論→ろん/ろん

誤解から生まれた言葉

・「カステラ」は何故カステラなのか。オランダ人の持っていたカステラを何という物かと尋ねたところ、カステラと聞こえた。実はカステラの入っていた箱にお城の絵が描いてあり、オランダ人はお城のことを聞かれたと勘違いしてcastleと答えたという。この話は子供の頃に聞いた話であり真偽は不明である。広辞苑には、[カステラCastilla(もとカスティリアで製出したからという。オランダ人が長崎に伝えた) 小麦粉に鶏卵と砂糖・水飴とをまぜて焼いた菓子。カステーラ。]とあるが、私の話の方が面白いと思いませんか。

オーストラリアにもこれと似た話がある。「カンガルー」である。かつてオーストラリアに侵入した入植者(多分英国人)が、あの妙な動物を見て、原住民(アボリジニ:aborigine)に何という名の動物か尋ねた。そのアボリジニは“カンガルー”(アボリジニの言葉で「何を言っているのか分からない」)と答えたが、それを聞いた入植者は、その動物の名が「カンガルー(kangaroo)」だと勘違いし、その名が生まれたという。これはオーストラリアへ行ったときに聞いた話である。

Japanese English

 先ほどタレントの話が出たので、Japanese Englishについて触れてみたい。
 かつて夕方から始まる野球放送でナイターという言葉が盛んに使われていた。英語であるナイトゲーム(Night game)が使われるようになったのは比較的最近のことである。われわれも知らず知らずのうちに沢山の和製英語を使っている。

 昔からのハードソフトは言うに及ばず、身近なところではパソコン/ワープロがある。もちろんPersonal ComputerWord Processorのかたかな表記をつめたもので、欧米では通じない日本語である。テレカ、ハイカ、ドタキャン・・・、日本人は言葉を作るのがうまいと言うべきか。日本でおなじみのバイキングもそうだ。これについては後述する。


 言葉は生き物であり、どんな言葉でも日常的に使われるようになればやがて立派な日本語として独立する。間違った字や読み方が、長い間使われているうちに正しいものとして認知された例をあげよう
 
言葉が音に引きずられて変化したもの

・「さざんか」(山茶花) もともと「さんちゃか、さんさか」と言っていたが、いつのまにか言いやすい「さざんか」として定着した。テレビで幼児達に「とうもろこし」と言わせる実験をしていた。ほとんどの幼児が「ともころし」と言う。かつてわが孫が、「お好み焼き」を「おこみのやき」と言っていたことを思い出す。

・「十手」はどうか。本来「十」に「ジュウ」という音はない。訓読みの「じゅう」に引きずられて「ジュッテ」と言う人が多い。最近では「ジッテ」の方が遥かに少数派になってしまった。NHKのアナウンサーでも、ほとんどの人が「じゅって」派である。「第二十回(だいにじゅっかい)大会」、「巨人がついに十敗(じゅっぱい)した」等々。FTHの社員にも聞いてみたが、「ジッテ」派は数えるほどである。辞書もすでに「じゅって」を認知している。私などモーゼの「十戒」のことを「じゅっかい」と言われると、「述懐」かと思ってしまう。若いアナウンサーが「十階(ジッカイ)の窓から・・」なんて言うのを聞くと、思わず拍手を送りたくなる。

 
本来間違った使い方だが・・・

全然 全然(=まるで)なっていない」というように、その事柄を全面的に否定するときに用いたが、今では「全然きれいだ」なん言う人がいる。否定表現を伴わず、「非常に」の意にも用いられるようになったのである。ここで「全然きれいだ」がWORDのチェックに引っかかった。曰く「くだけた表現とみなされます。」
 
・全く これも「全く違う」というように、元来は否定表現を伴ったが、今では「全く暑い」など「本当に」の意で用いられるようになった。
 
・とても ある本に「とても」は本来否定語を伴った使い方をしていたとあり驚いた。[とてもきれいだ」というように、「非常に、大変」の意で使われるのが普通だろう。確かに「とても(=どうしても)出来ない」もよく使われている。今、耳障りなものに「すっごいきれい」がある。日本語から副詞が無くなるのも時間の問題か。
 
・「馬から落ちて落馬した」 昭和43年に大型コンピュータFACOM230−60 を納入した京大センターの先生が、しばしば「1泊どまり」と言う。これがおかしくて、よくからかったものだ。ところが、京都出身の家内も、どこがおかしいのかと怪訝な顔をする。京都特有の「方言」かと思っていたら、最近仙台で耳にしてびっくりした。京都にはもう一つ「便利がいい」という変な言い方がある。「便利」とは便がいいことではないか。スポーツニュースには、「最後のラストスパート」とか、「一番ベスト」いうのが出てくる。かつて富士通のシステム統括部長会議に、「システムサポート支援」と書かれた報告書が出て、大いに盛り上がった。
 もう一つ、すかっり定着した観のある「今の現状は・・」も気になりますね。
 
低燃費 最近目に付く言葉に「低燃費車」がある。これ以上地球を汚すなということで、燃費率のいい車に人気があるが、それなら「高燃費車」であろう。燃費はリッター当りの走行距離で表され、高いほど経済的である。
 コンピュータの性能のよさを表現するのに、“コストパフォーマンス”がある。かつて電電公社に勤める友人から質問を受けた。「コストの割に性能がよいのは、コストパフォーマンスが高いというのか、低いというのいか、どっちか」。これも燃費と似ている。「コスト/パフォーマンス」なら小さい方がいいし、「パフォーマンス/コスト」なら高い方がいい。「コスト・パフォーマンス」がよいとか、「パフォーマンス・コスト」がいい、といっておけば無難である。
 

作られる言葉――創作

成果物
 まだ富士通の電算機技術部にいた頃の話である。川崎工場東3番館の池田敏雄さん(故人・元専務・ミスターコンピュータと言われている)の部屋でいつものように侃々諤々やっていた。そのときソフトウエア担当の岡本彬さんが、「せいかぶつ」を連発した。一瞬誰もが「青果物」を連想した。ソフトウエアと青果物とどう結びつくのか。岡本さんはハードウエア担当の黒崎房之助さん(個人・元専務)に、お前さんはいつから八百屋になったのかと揶揄されて目を白黒。やっと完成したプログラムのことであることが分り大笑い。もともと「成果」とは、なし得た結果、出来ばえのことであり、ハードウエアの成果は目で確かめられるが、プログラムは目に見えない。紙に印刷されたを見て、はじめてこれが成果かと納得する。そこで完成した物であることを強調するあまり「成果物」と言いたくなったものと思われる。その後この「成果物」は一人歩きを始め、やがて通産省の公式文書にまで登場するようになったのである。FTHも「成果物」を連発する人がいるのが面白い。
 しかし、最早「成果物」は富士通関係者の特異語ではなくなった。この仙台でコンピュータの仕事をされている多くのSE(この言い方もそろそろ寿命かもしれない)さんが口にしている。この原稿をMSのWORDで書いているが、「せいかぶつ」と入力して変換すると「青果物」となる。「成果物」は固有の辞書にはない。
 

券売機
 もうずいぶん昔のことだが、国鉄に乗車券を発売する自動機がお目見えした。何とそ名が「券売機」。これを聞いたとき大変な違和感を覚えた。何故か。日本語のルールを無視しているからである。ご承知のように日本語の原点は漢語にある。原則は目的語の前に動詞を置く。駅で眺めてみればよく分かる。改札口、乗車券、発車停車駐車禁止などいくつも見つかる。それなのに、どうして「売券機」でなく「券売機」なのか。国鉄(JR)関係者の見解を聞ききたいものだ。

 最近この種の造語が多いようだ。「無洗米」というのが出ているが、どんなお米だと思いますか?
 

・バイキング
 わが国のホテルなどで見られる、自分で好きな料理を好きなだけ運んで食べる、あのセルフサービス型のバイキングのことである。広辞苑では次のように解説する
 
バイキングViking】 八世紀後半から一一世紀前半にかけて、スカンディナヴィアおよびデンマークから海洋を渡ってヨーロッパ各地に侵寇した北ゲルマン族。→ノルマン人。バイキング料理の略。
バイキング料理 各種の料理を並べ、客が好みによって自由に取り分けて食べる形式の食事。バイキングの祝宴、あるいは北欧の前菜料理の形式をまねてわが国で名付けた。
 
 東京帝国ホテルの1階に「EUREKA」というレストランがある。聞き覚えで確認はしていないが、昔は「VIKING」という名であったという。その「VIKING」で、お客が好きな料理を自分でテーブルに運んで食べる形式を取り入れたことがある[(アメリカ式のカフェテリア(cafeteria)である]。これを契機に、カフェテリア式料理をバイキングと呼ぶようになったという。最近ではビュッフェ[(buffet)フランス]というところもある。
 
「日経新聞 2000.8.28 20世紀 日本の経済人 犬丸徹三」 に下記の記事があった。
 
(前略)大衆化の看板は、料理だった。「料理のまずいホテルはだめ」と督励した。五八年、新館に開業したレストランの料理が一世を風靡する。食べ放題のバイキング料理だ。千二百円と宿泊並みの高さだが、予約満杯が続いた。
 犬丸が導入を決め、パリで修行中だった村上信夫(のち料理長、現料理顧問)に習得を指示。もとは北欧の伝統料理だが、親しみやすいように海賊バイキングから名前をつけた。全国に広がり、同種のメニューの俗称として定着する。(後略) 
 

 言葉について語り始めると実にきりがない。日本には美しい四季があり、美しい日本語がある。言葉は生き物であり、成長、退化することは避けられないが、美しいものを美しいままに保ち、またより美しくする努力も必要ではないか。
  
 今危機状態にあるのが「ら抜き」言葉である。いわゆる有識者のなかにさえ「ら抜き」言葉を盛んに使う人がいる。テレビで連発されると、それを見聞きしている若い人が使うのも無理はないと思ってしまう。「筑紫哲也NEWS23」をよく見るが、そのアンカーマン筑紫氏も「見れる」派であるのにはびっくりする。試しに「見れる」と入力したら、<ら抜き表現>と注意された。が、これも風前の灯火であろう。

 物理的な国境が意味をなさないインターネットの時代である。英語を駆使できる力を養うことが肝要だが、言葉にも注意が必要である。とくにローマ字で書く名前に気をつけよう。初めてアメリカに出張したとき、先輩から「FACOMの発音に気をつけろと言われた。今の日本ではこの発音から連想されるスラングがまかり通っているが、当時はアメリカでさえあまり口にできる言葉ではなかった。一所懸命「フェイコム」と言ったものだ。そうそうこの「一所懸命」も転じて「一生懸命」になった。
 また、あの有名なカルピスCALPIS)も大変だ。アメリカ人には「カゥピス」と聞こえてしまう。これが Cow piss に通じることを知れば、その悲劇は明白である。 
 
 

「産経抄」(2000.5.14産経新聞)にいい話しが出ていた。一部を引用させていただいて結びとする。
 
 作家の井伏鱒二氏が『お袋』という随筆で書いているお母さんとの会話が何とも楽しい。母子といっても、母ミヤさんは八十六歳、井伏氏も六十二歳で芸術院会員になったころの話である。▼「お前、東京で小説を書いとるそうなが、何を見て書いとるんか」。故郷の広島弁で母親から突っ込まれた井伏氏は、しどろもどろに答える。「いろんな景色や川や山を見て、それから、歴史の本で見た話や、人に聞いた話や・・・、そんなの書いとるんですがな」▼ミヤさんは納得せず、何を手本にしているかさらに追求する。そして、数年後には文化勲章を受けることになる息子にこう言ってさとすのだった。「字引も引かねばならんの。字を間違わんように書かんといけんが。字を間違ったら、さっぱりじゃの」
(後略)

[参考書・参考文献]
(1) 吉川幸次郎
三好達治 著
新唐詩選
岩波新書     昭和29年6月10日 第14刷発行 岩波書店
参考:「FTHニュース」2000年8月号   三輪 修 著


初 版 : 2000.5.22 改 版 :  2003.09.03 文 責 : 三 輪  修