従業員に手を出すな

 オレは、傷だらけの零細といえども、とりあえず経営者だから、今まで何百人もの従業員を雇ってきた。その半分以上は女性だ。正社員もいればバイトやパートの人もいる。
 女性には美人もいれば、そうでない人もいる。大学生もいれば、60歳過ぎの人もいる。でも、従業員には絶対手を出さない主義を貫いてきた。第一、結婚している期間は、浮気そのものをしたことがない。
 でも、たった1回、不覚にもアルバイトの女の子に惚れてしまったことがある。もちろん、独身の時だ。最初の女房と別れて2年。さびしくてしょうがないころ。
 彼女は女子大の4年生。就職先はすでに内定していた。生まれも育ちも金沢の人だが、とりたてて加賀美人というタイプではない。化粧気もほとんどない。西荻窪のマンションに妹とふたりで住んでいた。
 大学生のバイトの女性は他に何人も来ていたが、彼女だけが気になってならなかった。みんなとの酒席でいっしょに歌を歌っても、遊びに行っても、何となくフィーリングが合った。
 ある日、思い切ってふたりだけの食事に誘った。彼女は喜んで出てきてくれた。新宿のドイツ料理の店に行った。そのあとパブで酒を飲み、酔い覚ましに夜のビル街をいっしょに歩いた。
 ビルの谷間。人通りもほとんどなく、ビルの壁が人目の死角になった。立ち止まって彼女の肩を引き寄せた。彼女のくちびるに顔を近づけた瞬間、彼女は顔を横に背けた。
 「ごめんなさい。わたし、男の人を知らないんです」
 その言葉に、オレは瞬間的に跳ねのいた。彼女、処女だったんだ。ひたすら謝るしかない。
 「ごめん、ごめん。きみがかわいくて、つい」
 大学4年にもなれば、性体験の一度や二度はあるものと思いこんでいた。キスすらしたことがないとは。
 彼女を家まで送っていくタクシーの中で、ふたりとも黙ったままでいた。その間、オレの握った手を彼女がしっかり握りかえしてくれていたのが救いだった。
 家に帰ってから、すぐ手紙を書いた。今日の行動をわびて、これからも真剣につきあってほしいという内容だ。
 数日後、彼女から「よく考えさせてください」という趣旨の短い返事が来た。
 「だめだ!考えるな!考えることじゃないんだ!」心で叫んだ。
 それからは、彼女に出した手紙に返事が来ることはなかった。
 今のオレなら、相手がたとえ処女でも、うまくアプローチすることができただろう。こっちが未熟だったんだ。真剣な思いが伝わらなかったんだから。
 それと、相手が会社を辞める間際だろうと、しっかり気持ちを整理しないで社員に手を出してはいけないな。恋愛は一期一会で対等な立場での真剣勝負だ。相手の個人情報を握っているというだけでも対等じゃないんだから、上役が部下を遊び半分で口説くなんて、ルール違反だ。
 このエッセーを読んでるシャチョー、お前のことだよ!

経営者たる者、遊び半分で従業員に手を出したら一巻の終わり。