寺社関連の豆知識


七福神(毘沙門天)

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七福神(毘沙門天)

 七難を避け、七福を与える北方守護の神仏である毘沙門天は、仏教とそれを信じる人々を守る四天王の一人であり、憤怒の相に唐の武人装束をまとい、左手に宝塔、右手に金剛棒(あるいは三叉戟:先が三つになった槍)を持ち、二体の邪鬼を踏みつけている姿で表わされ、古くから武人たちの厚い信仰を得ている。
北方守護の神
 毘沙門天のルーツは、インドの前期ヴェーダ時代(紀元前1500〜紀元前1000頃)からの古い神で、北の方角を守る神ヴァイシュラヴァナで、これが毘沙門天と訳されており、多聞天と呼ばれる場合もある。また、吉祥天は毘沙門天の妻である。

 インドでは四方を守る神がいて、北を守る毘沙門天のはかに、東のドリタラーシュトラ(持国天)、西のビルーバクシャ(広目天)、南のビルーダカ(増長天)、これらが仏教に取入れられて四天王と呼ばれるようになった。

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仏教での四天王

 仏教の世界観では、世界の中心には須弥山という山があり、そのまわりに九つの山と八つの海があるという。須弥山の頂上にはインドラ(帝釈天)がおり、その配下として、須弥山の中腹で四天王が四方を守るという。そこから、優れた部下四人を四天王と呼ぶようになった。
 四天王の伝来は仏教の伝来とはぼ同時であるが、平安時代になると、平安京を守るため都の北方に建てられた鞍馬寺に毘沙門天が祀られている。また、毘沙門天を本尊とする寺院としては、仏教擁護をめぐって蘇我・物部の争いで、不利に陥った蘇我馬子と聖徳太子が信貴山に登って生身の毘沙門天像に祈願し、勝利を得たあと太子が伽藍を建立し、自作の毘沙門天像を安置したと伝えられる信貴山真言宗の朝護孫子寺が有名である。

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天邪鬼

 毘沙門天をはじめ四天王は邪鬼を踏んでいるが、これを天邪鬼(あまのじゃく)といい、仏教の教えやそれを信じる人々に害をおよぼす邪鬼であるいう。日常生活でもアマノジャクという言葉が使われるが、実はここから出ている。この天邪鬼のモデルは、毘沙門天の鎧の腹部にある鬼面だという。

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武道の神

 毘沙門天の勇壮な姿から、九世紀ごろには、中国で武道の神として崇拝されていたようだ。その姿もインドから中国に渡るにつれ、貴人から武将の姿に変化していったという。日本では戦闘の神として信仰を集めた。
 南北時代の武将楠木正成は、自らを毘沙門天の申し子とし、幼名を多聞天にちなんで多聞丸と称したし、上杉謙信も自分のことを毘沙門天の生まれ変わりだと信じ、丸に毘の字をかたどった戦旗を使用していた。

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福の神

 四方の守護神あるいは戦闘の神である毘沙門天が、なぜ福神になったのかというと、あまりはっきりしたことがわっかていない。
 毘沙門天の「びしゃもん」は、サンスクリット語で「あまねく聞く」という意味で、もともとヒンドゥー教の倶毘羅(クーベラ)という、鰐を神格化した神で、財宝を守る神とされている。このヒンドゥー教で財宝・福徳をつかさどる神クベーラと毘沙門天が同一視されたことによるという説もあるが、室町時代には、すでに福神のイメージができあがっていたらしい。
 たとえば、「蛭子(エビス)毘沙門天」という狂言がある。その内容は、エビスと毘沙門天が美しい娘の花婿に立候補するが、結局かなわず、二人は福を授けて帰っていくというものである。

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毘沙門天とムカデ

 毘沙門天には意外な使者がついている。ムカデである。毘沙門天を祀った鞍馬寺では、昔正月の初寅の縁日に「お福むかで」といって生きたムカデを売った。(といっても漢方薬に使ったらしい)七福神の絵のなかにも、毘沙門天の横にムカデを描いたものもあるが、なぜムカデなのかというと、これも謎である。
 毘沙門天が鉱物を掘る鉱山師や、その鉱物を加工する鍛冶師などにも信仰されていたという形跡がある。そこから推理すると、ムカデは鉱山の神ともされているが、それは細長く連なる鉱脈の形や鉱山の穴がムカデの形に似ているからであろう。そうなると、鉱山の神=ムカデ=毘沙門天という関係がでてくることになる。(小学館「東京近郊・ご利益散歩ガイド」東京散歩倶楽部編著から転載)



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毘沙門天案内

散歩道で紹介している中で毘沙門天様が祀られているのは次の寺社である。

タイトル寺社名等写真備考
寺社巡り深大寺無し釈迦堂の白鳳釈迦如来倚像の脇
井口院無し境内にある七福神堂内