題名 :『藪の中の黒猫』

登録日時 :05/03/04 10:21
1968年 製作:近代映画協会・日本映画新社 配給:東宝 脚本・監督:新藤兼人 モノクロ 108分

林光の音楽はすごくよくて、打楽器を使った扇情的なオープニングテーマからラブシーンで流れる甘美なメロディまで、非常にシーンによくマッチしている。スクリーンサイズはシネスコだが、こういう濃密な作品にはビスタの方が向いているように思う。



冒頭はシネスコを生かした長回し。左手前に茅葺の民家がある。セミの声がする。右奥のかなり遠くの藪から、わらわらと鎧姿の男たちが20名弱ほど現れる。どうやら戦の帰りらしい。男たちは民家の前の水路の水を飲み、家の中に押し入る。ここで長回し終了。家の中では粗末な身なりの二人の百姓女(乙羽信子、太地喜和子)が食事をしていた。二人とも眉があるのはここが最初で最後。男たちは無言で鍋の中のものや干してあった大根などをがっつくように食い始めた。みな無精ひげに汗まみれで、戦の名残なのかギラついた目をしている。女たちは逃げようとしたが許されず、強引に何度も犯された。スクリーンが再び冒頭と同じ構図になり、今度は男たちが民家からわらわらと出てきて、遠くの藪に向かって遠ざかっていく。またセミの声がする。男たちの姿が見えなくなる頃、民家からモクモクと煙が上がり始める。やがて激しい炎が民家を包む。焼け跡で二人の女は焼死体となっていた。夜になるとそこに一匹の黒猫が現れ、女たちの遺体を舐め始めた。
ここまで台詞なしだが、この演出手法は同監督の『裸の島』を思わせる。

数ヵ月後、強姦殺人強盗放火犯たちのリーダー(戸浦六宏)だった男は戦功を評価され、いっぱしの武将になっていた。夜に馬に乗ったパリッとした格好の武将が羅城門のあたりを通りかかると、美しい女(太地喜和子)が現れ家まで送ってくれという。送っていった武将は藪の中の女の屋敷に案内された。殿上人のような立派な屋敷では、女の母(乙羽信子)が酒を持ってきた。旨い酒に気分よく酔った武将が気がつくと母は姿を消しており、二人きりになった女に誘われて寝所で女と身を重ねた武将は、前戯の最中に女に喉笛を噛み切られ、翌日焼け跡で無残な遺体となっていた。同じような事件が相次ぎ、羅城門には妖怪が出ると、京の噂になった。

侍の頭領・源頼光(佐藤慶)は朝廷に呼び出され、帝の伝言役(観世栄夫)から羅城門の妖怪をなんとかしろと厳しく責められた。だが彼の配下の豪傑・坂田金時も渡辺綱も他国への遠征中で妖怪退治役は誰もいない。そのとき東北の夷敵の首領・クマスネヒコの首を持った若者(中村吉衛門)が泥まみれのホームレスのような格好で帰ってきた。泥地での夜明けから日の入りまでの死闘の末、彼だけが生き残ったという。どうでもいいことだが、吉衛門は乗馬がすばらしく上手い。それから若い頃は今の藤井隆に似ている。頼光は若者の戦果を聞いて「藪の銀時」と名を与え、四天王に加えて五天王とした。

立派な侍姿になった銀時は急いで藪の中の家に帰ったが、そこは焼け跡になっていて母も妻も姿がなかった。三年前ここで畑仕事をしていた銀時は無理やり徴兵され、鍬をもったまま軍に加わったのである。顔見知りの老人(殿山泰司)が言うには、昨年の都の大火事のとき、火の粉が飛んでくるかもしれないと他の村人たちが山に逃げ、帰ってみると銀時の家は消失して母と嫁は行方知らずになっていたという。失意のまま都にもどった銀時は頼光から羅城門の妖怪退治を命じられる。

夜、銀時が羅生門のあたりを警戒していると、やはり怪しい女が現れた。しかし、女はいつものように「送ってくれ」とは言わない。銀時は自分から送ってやろうと申し出て、藪の中の屋敷まで女を送っていく。屋敷の前で「中で少し休ませてくれ」と銀時が言うと、少しためらいながら女は中に入れてくれた。すると女の母が酒を持ってきた。灯りの下で見ると二人の女は銀時の母・嫁に瓜二つだった。これは妖怪が自分をたぶらかそうとしているのだと考えた銀時が、刀を抜くと女たちは姿を消してしまった。

翌晩から銀時は羅城門や藪の中の屋敷で妖怪たちを探すが、一向に妖怪たちは姿を現さない。今や妖怪を討つことよりも母や嫁の姿をした者たちに、もう一度会いたいという気持ちが、銀時を支配していた。一方、銀時の姿を陰から見ながら、二人の女はさめざめと泣いていた。特に嫁の嘆きようはひどかった。この世の全ての侍を殺し生き血をすすることを条件に、彼女らは魔神によって蘇った存在であり、侍である銀時を生かしておいては契約違反となり、魔神の罰が与えられてしまうのだ。

しかしついに羅城門で銀時の前に女が現れ、屋敷に案内した。母が無事の祝いに酒を持ってきた。やがて母が姿を消し、女が銀時を床に誘う。ここまではいつもの段取りどおりだ。しかしここからはいつもとは違った。銀時と女は夜明けまで愛し合う。行為の最中に嫁が流す一筋の涙の美しさに、私はちょっともらい泣きしてしまった。頼光に妖怪退治はどうなったと責められながら、銀時は官能の虜になって毎晩女のもとに通いつめた。しかし8日目には女の姿はなかった。母が現れて、女は魔神との約束を破り、7日間だけに命を縮めて銀時と愛し合う道を選んだ、そして喜んで地獄に落ちていったと語る。銀時は号泣し「もう逢えぬのか」と搾り出すように嘆いた。

再び羅城門あたりで、夜な夜な侍が食い殺される事件が連続して発生する。妖怪を討たねばお前を斬ると頼光から叱責され、銀時はいやいやながら夜の羅城門に向かった。はたして現れたのは、やはり母だった。母は、今一度銀時に逢いたかったと言い、あの屋敷でお経を読んでくれと頼む。お経を読んでくれれば自分も嫁のように消えてしまうという。屋敷に向かう藪の中の道で、水溜りに映った母の顔が妖怪変化の姿に変貌しているのを見て、銀時はこれは母の姿をした別の妖怪だと思い、隙をみて切りつけ母の左腕を切断した。妖怪は逃げていったが、バク転するとき両腕があるのがはっきり見えるぞ。残された腕は巨大な黒猫の前脚に変わった。

黒猫の脚を見て、頼光は上機嫌。昔、大江山の鬼を退治して名を上げた源頼光だが、実はそれは鬼ではなく人間の山賊だった。頼光は侍の身分を社会的に高めるため、それを本物の鬼だったということにしてしまったである。それに比べ今回はなにしろ本物の妖怪だ。これは盛大にデモンストレーションをしなくてはならない。そのため京中の噂になるよう、お前は蟄居して7日間の物忌みをしろ。そうすれば一段と侍の身分が上がる。

そういうわけで、銀時は物忌みを始めた。家の門を閉ざし、白装束に身を包んで黒猫の脚を見つめながら銀時は迷う。あれは母なのか、猫なのか、妖怪なのか。妄執の世界に落ちた母を救うすべはないのか。それが母の選んだ道なら仕方ないのか。物忌みの最後の夜、帝の使いという巫女がサポートにやってきた。声はどう聞いても乙羽信子だし、入ってきたらマジックペンで書いたような点々が顔中にあるけれど、やっぱり乙羽信子ではないか。でもそれを母とは気づかず、巫女の前に黒猫の脚を差し出す銀時。ふと巫女の左腕がないのに気づいた銀時が「左腕はどうなされた?」と尋ねると、「取り戻したぞよ」と巫女は猫の脚を口にくわえ、化け猫になって飛び上がった。刀を抜いた銀時が化け猫を追い詰めて、思わず「おかあさーん!」と語りかけると化け猫の目が優しくなり、「妖怪!」と罵ると化け猫は涙を流した。そして天井を破って逃げていった。

銀時は化け猫を追って藪の中の家に行き、刀を振るいながら「おかあさーん!」と絶叫し続けるが、やがて7日間の物忌みで弱っていた体力を使い果たして死ぬ。雪が降ってきて銀時の亡骸を包む中、どこかで猫の声がする。(完)



私は基本的にディテイルが意図的にきちんと作りこまれた映画が好みだ。その点でこの作品は全く申し分ない。美術・衣装による平安朝ムードの演出、モノクロ撮影を熟知した照明と構図の設計、役者の芝居のしっかりした台詞と表情、寄り引き・緩急自在のカメラワーク、そして音楽・音響の非常に効果的な使い方など、どこをとっても見事に作りこまれていて本来なら文句をつけるべき点はまったくない。

しかしこの作品は非凡なディテイルの素晴らしさを持ちながら、逆に大きな部分・全体の統一感にチグハグな感じがあるように思う。例えば台詞の語調に現代語調をたくさん取り入れているが、同じ人がしゃべっているのに、「オラ」が「私」になり、「おらぬか?」が急に「いませんか?」になったり、「おっかあ」が「お母さん」に変わってしまうのは変じゃないか。語調はそれをしゃべる人間の背負うカルチャーを観客に理解させる働きがある。武士が貴族社会の中で台頭する時代、百姓言葉と武士言葉が一人の人間の中で入り混じるのは、リアリズムとしてはおかしいがシンボリックなフィクションの演出としてはよく理解できる。しかし、そこに現代語が混じってしまうと、自分の中にはとても違和感があった。

あるいは物語の構成として、嫁が姿を消した後、母が化け猫姿を息子の前に再び現すのは私にはよく理解できず、銀時と妻の関係が美しく終焉した後なので、ひどく余分に感じられた。『竹山ひとり旅』『北斎漫画』なんかを見ると、「母」は新藤作品のひとつのキーワードだとは思うが、この作品にそれを持ち込んでも、わかりやすく消化されていないように感じる。息子にお経を読んでもらい嫁の後を追うと言った母の言葉は、本心だったのか。息子さえ隙を見て食い殺すつもりではなかったのか。そうではないなら、なぜ腕を取り戻そうとするのか。しかし、復讐の怨念で妖怪と化したあさましい姿を息子にさらしながら、なぜ彼女は涙するのだろうか。あるいは息子に討たれることで手柄をあげさせてやりたいと考えたのだろうか。結局は息子を死に追いやってしまうのだが、そういう結果を彼女は望んでいたのか、いなかったのか。途中までが非常にわかりやすい映画だっただけに、こうした終盤の混乱は、物語を散漫にしてしまったように思う。

「能」も狙った効果がでているかどうか、疑問だ。嫁が侍たちを罠にかけて食い殺すとき、母は常に別の部屋で能を舞っている。能は室町時代に基礎が完成したもので平安時代にはまだこういうレベルではないはずと言いたいわけではないし、観世流本家栄夫の指導によるものだが乙羽信子はあんまり上手くないと言いたいわけでもなくて、これが映画の中でさして効果的に見えずむしろ退屈を煽っているようにしか感じられないということを言いたい。例えば銀時が妖怪たちに斬りかかるとき、刀を抜きながら大きな音をたてて床を踏み鳴らす。これも能や歌舞伎などの古典芸能の演出手法であるが、こちらは一気に場の緊迫感を盛り立てて非常に効果的であった。しかし乙羽信子の能は全くイケてない。嫁が男を今にも食い殺そうかという緊張感が、非常に様式的な能の映像がインサートされることで、ひどく削がれてしまうのである。私はずいぶん昔になるが、他ならぬ観世流の舞台を見たことがあるし、数年前に『能楽師』という素晴らしいドキュメンタリー映画を見ていて、決して能そのものが退屈なものとは思っていないのだが、残念ながらこの映画の中では生きていないと思う。

とはいえ、素直に娯楽作品としてはとても楽しめる。伝統的化け猫映画の語り口と溝口調の様式美演出に従ったふりをしながら、本質は普遍的なヒューマン・ドラマ。見て損はない。
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