京丹後市の昭和の遺産 峯山海軍飛行場跡のページ。

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宮本作成資料 2 駆逐艦初霜および練習機赤トンボ 
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 このページは、京丹後市峰山町 宮本氏の調査により作成された

   「峯山海軍航空隊(跡地)」の紹介冊子(宮本氏作成)のうち

   「駆逐艦初霜および練習機赤トンボ」冊子

の内容をご本人の許可を受けて掲載するものです。




はじめに


                      39期 松永賢次郎氏(峯空会員)

 我々は、昭和20年4月6〜7日の「大和沖縄特攻作戦」(菊水作戦)があったことや、そこで『大和』が沈められたことや、10隻行って4隻しか帰って来ず、その中の1隻が『初霜』だつたことなど、何にも知らずに降爆訓練をやっていた訳です。

 戦後になって、戦記物を読むことにより、やっと知り得ました。
 永年“当時『初霜』の乗組員はどのような気持ちで、我々の訓練を見ていたのか”という点が気にかかっておりました。

 今回の総会(昭和61年)は東京でもありますし、横浜にお住まいの酒勾艦長を呼びする絶好のチャンスと思い、御出願った次第です。
 艦長は気さくな方で、ユーモアたっぷりにお話しくださり、本当に嬉しく思いました。本当にありがとうごぎいました


・若い人たちを死なせちゃいかん。


                         『初霜』艦長 酒勾雅三氏

 私にとって中島峯山海軍航空隊初代飛行長(海軍兵学校68期)は孫になる訳です。 つまり私の仕込んだ子(63〜65期)になる訳です。
 私は海軍で最も悪いと云われたクラス・つまり62期で、いま72才です。(昭和61年現在)

 さて、『初霜』についてですが、私が艦長に就任したのは30才の時でした。もう後継ぎがいなくなったので、私がやることになった訳です。それから一年間務 めました。

 『初霜』には多くの少年電探兵が乗っておりました。しかし、沖縄に突っ込む時は「その若い連中を殺しちやいかん」ということで一部降ろしたんですが、皆訓練 しているプロぱかりですから降ろす訳にはいかないし‥‥。結局一緒に行きました。

 話が前後しますが、「レイテ沖海戦」と「フィリピン争奪戦」の後、僚艦の『若葉』『初春』は沈みましたが、『初霜』は残りました。また「沖縄」でも『冬月』『雪風』『初霜』といった”寒い名前”のものだけが生き残ったんです。そうなってくると、やっぱり運命を感じますよ。

 まして、「沖縄作戦」で爆弾があんなにたくさん落ちてきたのに『初霜』からは一人の死者も出ないなんて……。 私共の艦は健在でした。そこで皆を救って佐世保に帰りました。司令官(二水戦司令官・古林啓蔵少将)も救助して『初霜』が一時的に最高指揮艦になる訳ですよネ。正に少将旗を掲げて。

 味方の艦よりも、武器よりも、人命の方が大切なので、皆救えるだけ救いました。『初霜』には当時430名乗っていましたが、救助したので2800名位になったでしょうか。 私共が救助していると、敵側でも搭乗員を救いに来ていました。しかし、砲術長には「あれを追っ払え」と命じ、「あれを落とせ」とは一切言いませんでした。

 この時同乗しておりましたのは、現役のバリバリでした。下士官の方が多く、水兵は少なかったようです。第二艦隊は、前衛で、その駆逐艦は前衛の前衛だから相当優秀な人間が揃っていた訳ですネ。私が30才そこそこの若輩でありながら艦長という重責を務めてこられたのも、これら優秀な人々のお蔭だと思います。

 その後、航行不能になった味方の艦を砲撃と魚雷でもって沈めるんですが、これ程悲しいことはないと思いました。 思うに『大和』が無かったら、この作戦は無かったでしょう。沖縄の姿を見て止むに止まれずに『大和』を突っ込ませたんでしょうネ。

 さて、佐世保に帰ってきたら、B−29が来襲するもんだから 「艦隊が違う奴は出て行け」という。そこで舞鶴へ行ったんですが、同じことで「舞鶴から出て行け」という。結局「天の橋立」へ行った訳です。

 連日、訓練のため多くの降爆が来飛しました。”もう戦争は終わった”という者と、”今から訓練して行こう”という者との感覚のズレを感じていました。私は”あんな若い人たちを死なせては絶対にいかん”と思っておりました。

 『雪風』は港のそばにいたので空からは見えなかったかも知れませんが、実際7月30日には『初霜』『雪風』の二隻が湾内に碇泊していたのです。 敵機は40機、その位なら二隻あれば怖くない。「フィリピン」「沖縄」でも200〜300位相手にしてきているから、30〜40機ってきてもどうということはなかったのです。それだけ武装しておりますし、もし突っ込んできたら火の中に突っ込んでくることになります。そこで爆弾を早々落として行っちやう。あとは
掃射の戦いになるんですよネ、お互いに。私も13発破片を受けましたよ。この身体にネ。

 触雷した『初霜』は獅子ケ崎(宮津湾)に突っ込ませました。それによって人を死なせないようにした訳です。その後、『初霜』は舞鶴に曳航され、解体されました。

同じ写真、毎日新聞記事から(ページ作成者が掲載)


(−記事紹介ページに移行ー)
初霜写真
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旧日本海軍・艦艇写真のデジタル着彩サイトよりこのページ作成者がお借りしました


ウイキペディアー駆逐艦初霜、 初霜説明サイト

ウイキペディアー駆逐艦雪風【雪と風の物語 〜駆逐艦雪風〜】

華々しい戦歴のかげに特攻訓練練中に尊い犠牲者があった。
    在天戦友の三十三回忌に当たり

                              東京 奥谷徳二郎氏

 峯空の特攻訓練は激しかった。僅かな期間ではあったが、連夜の攻撃訓練の中で、次々と生命が闇に消えていった。ある者は竣険の山中に、漆黒の洋上に。

 もう三十三回忌(昭和52年)を迎える。哀心よりご冥福を祈るとともにご遺族のお幸せを祈ってやみません。

 峯空では、昭和十九年暮れに訓練中、森、湯川両君が殉職。二十年に入って青年山の落盤事故で一名殉職。特攻訓練で、五月から七月にかけて、増田、曽根、鐘築、重村、西屋、野村、寺井の八君が何れも夜間殉職、さらに出撃展開後、艦載機の空襲で二名戦死された。

 又、峯空を巣立って行った三十七期訓練生の中から、沖縄特攻はじめ、二十五名もの戦死者が出た。転出して行った教官教員ら六名の戦死も伝えられた。

 別に四十一期練習生が割腹死するという悲しい事故もあった。

 生き残った我々とても、それは紙一重であり、まさに奇遇とも云える。それだけに三十二年を経た今日、なお痛恨の惜ひとしおなものがある。

 終戦前頃は、激しい訓練のあと二百五十キロの爆弾を抱いて出撃の命を待つ毎日だった。岩国での原爆の体験など緊張の連続でもあった。一億総特攻のかけごえで、飛行科はもちろん各科の士官も下士官兵も決死の覚悟はしていた。

 空襲の時、同じ防空壕の中で敵機の機銃掃射を聞いた。各基地に転出して行った練習生の諸君も命を捨てる覚悟の毎日であったろう。 峯空会は、同じカマの飯を食ったということに加えて、そういう決死の連帯感に支えられていると思う。

 他の隊に見られない立派な足跡を残しつつある峯空会の実行委員各位の御努力に御礼申し上げると同時に、みんなで今後も協力し盛り上げて行きたいものだ。峯空での体験と、峰山盆地の人情の暖かさを心の糧として今後も生きていきましょう。

             (元峯山海軍航空隊飛行科・教官・飛行予備学生13期)

 殉    職

                        東京 高木兼ニ氏

 その日私達は、急降下攻撃訓練を標的艦上から観測するため、小関司令、荻野飛行長、永野中尉等と宮津湾に停泊中の駆逐艦{初霜」に行った。

 艦橋後部の狭い甲板に照準器、眼鏡、オルジス、搭乗割等を準備して待っていた。

 まだ明るい薄暮から訓練が始まり、やがてあたりは真暗となった。月灯りはあったが、灯火管制中の「初霜」、上空からは視認しにくいことであったろう。しかし下からは爆音と眼鏡により、目標上空で降下姿勢に入る機影は、よく視認できた。

 何回目かの降下機であったか、60度の降下に入り、次第に増速してきたが、降下軸線がはずれて浮いたかに見えた。軸線がはずれたのは、それが初めてではなかったが、その機は引き起こし時間がおそく、さらに実っこんできた。今に引き起こすかとみるまもなく、爆音が高くなり、なおも突っ込んでくる。おこせないのか、実際に突っ込むつもりか? 引き起こせ起こせ、と思わず皆の声になった。

 異様な音がかぶさり、檻橋に突っ込んだと首がちぢまったとたん、「初霜」の左舷わずか数メートルの海面に、ズザッとしぶきが上がり、飛散した。一瞬のできごとであった。「初霜」から数条の探照灯が、真黒な海面に集まった。そこには一面白い泡立ちがあり、その周囲から、あぎやかな緑色へ変わっていった。

 歳月は過去の苦しみや悲しみまで洗い流してしまうのであろうか。野村、浅谷機そして峯山の追想は、現在を生活している私には、なつかしくも、美しいものに感 じられてならない。

            (元峯山海軍航空隊飛行科・教官・飛行予備学生13期)



九三式陸上中間練習機

・九三式中練の開発について

 昭和五年、実用機の性能が飛躍的に向上する情勢に鑑み、海軍は100馬力級の初歩練習機から、500馬力級実用機への橋渡し的な中間練習機として、300馬力級練習機を計画し、佐波次郎機関少佐、鈴木為文技師の設計で、昭和六年(紀元二五九ニ年)四月 「天風」付練習機を試作して実験機に指定され、のちに九一式中間練習機と名付けられた。

 中間練習機として設計した最初の機体で、いわゆる「赤トンボ」の元祖といえる。各種の特殊飛行と、現用偵察機なみの速力をもち、練習機としては高性能に過ぎて、安定性が不足であったため、試作機だけ(製作機二機)で中止となった。 本機は各部に改造が加えられ九三式中間練習機となった。

 九一式中練に対する主な改造点は、主翼の形状が変わり、上翼真の位置がわずかに低くなって、上反角がつき、下翼にも補助翼がとりつけられ、尾翼の形状も変わり、特に垂直尾翼が変形された。また脚も流線型覆いつきの分割式から、覆いなしの一対支柱一本車軸の実用的なものに変わった。

 昭和七年十一月に、その増加試作が川西に発注され、同機は空技廠との協力により昭和八年(紀元二五九三年)十二月に完成、好成積を示して、翌九年一月に正式採用となり、陸上機は九三式陸上中間練習機(K5Y1)、水上機は九三式水上中間練習機(K5Y1)となった。

 同機の製作工場は全国的に散在しており、約十一年余にわたって愛知を除く海軍機製作会社のほとんど全部である八社により一貫した量産が行なわれ、総計5、591機という国産練習機としては空前絶後の生産高になったのである。





裏表紙

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峯山海軍飛行場の残存建築物は京丹後市の歴史建造物  保存運動を!

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平成18年6月28日作成