
序説:
「永遠の命」と「復活」について、イエスは語ってくださいました。
この「永遠の命」と「復活」を、どのように理解したらよいでしょうか。
聖書をまだお読みになったことがない方にも理解できるように、
これから「永遠の命」と「復活」について、記述していくことにいたします。
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本当に心から他人を思いやること、このことは通常、人にとっては難しいことです。
多くの人が自分の利益を尊重し、自分の利益を第一とし、他人に勝つことを求めるからです。
そんな人間でも、自分の子供に対しては、無償とも言えるような愛を注ぐこともできますね。
だとすれば、たとえ難しいことではあっても、他者を自分自身のように思いやることは可能なのではないでしょうか。
自他の区別なく、他者を自分の体の部分のように大切に思うこと。
こうしたことが、わたしたち人間に可能であると、あなたは考えるでしょうか?
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■エペソ人への手紙 5:28 |
聖書には、このように「自分の体のように」愛しなさい、と書かれています。
「自分の体のように」とは、一体、どういうことを意味しているのでしょうか。
人は、各々ひとつづつ、別々の体を与えられています。
だから、他人が苦しんでいようが、飢えていようが、痛みを覚えていようが、無関心でいることができます。
他人の体が怪我をして痛んでいたとしても、怪我をしていない自分の体は痛まないからです。
このように人は、個別の肉体というものをあたえられているので、他者の痛みに無関心でいることや鈍感でいることができます。
ある意味、人がこうした肉体をあたえられたということは、神が非常な試練を人に対してあたえたということなのかもしれません。
わたしたちが現在のような肉体を持っている限り、本当に心から他者を思いやることは難しいからです。
聖書によれば、神は人を造り、人をエデンの園に置かれました。
その時点までの人は、もっと霊的な存在のようでした。
神の足音を聞いたり、神と会話すらできたからです。
アダムが罪を犯した結果、アダムと女はエデンの園を追い出されてしまうことになりますが、
その際に、以下のようなことが起きています。
少し長くなりますが、聖書から引用します。
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■創世記 3:17〜24 アダムは女をエバ(命)と名付けた。 |
アダムと女をエデンの園から追い出す前に、主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた、と書いてあります。
この皮の衣というのは、現在のわたしたちの肉体のことを指していて、未だにわたしたちは、この皮の衣を着たままなのです。
聖書「ローマ人への手紙」の中で、パウロは、このことを非常に嘆いて以下のように書きました。
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■ローマ人への手紙 7:24 |
通常の人間は、この肉体の状態があたり前だと思って生活をしているわけですが、パウロは、なぜこれほどまでに、現在のわたしたちの肉体を嘆いているのでしょうか。
彼は、信仰というもの、愛というもの、それらが現在の肉体を持ったままでは非常に困難であることを身をもって体験していたので、そのことを嘆いていたのです。
先ほどの聖句も含んだ、以下の「ローマ人への手紙」における、パウロの告白をご覧になってください。
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■ローマ人への手紙 7:20〜25 |
さて、「エデンの園」からアダムと女が追放されましたが、「エデンの園」自体がなくなったわけではありませんし、絶対に入れなくなったわけでもないようです。
以下の創世記の記述をご覧ください。
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■創世記 3:24 |
と、書いてありますから、【ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた】というだけのことなのです。
エデンの園には東から入ることが出来るようですし、命の木に至る道についても、【ケルビムと、回る炎のつるぎ】が邪魔をするだけのことなのです。
「ケルビム」というのは、人を判定する上等な天使のことだそうです。
「回る炎のつるぎ」とは、その名のとおり、そこを通る人を、焼いたり切ったりするもののことです。
回っているわけですから、避けることは出来ないのでしょう。
このように、エデンの園の中央にある「命の木」へと続く道を通るには、誰もが「回る炎のつるぎ」によって、焼かれて切られなければならないようです。
単純に言うならば、これは「自分の命を失う」ということを意味するわけです。
「命の木」を得るためには、自分の命を失わなければならない、というパラドックスみたいなことが発生します。
イエスは、自分自身が十字架に架けられて処刑される前に、以下のように群衆と弟子に語っていました。
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■マルコによる福音書 8:34〜35 |
この聖句の中の重要な箇所は以下の部分だと思います。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
混乱してしまうようなイエスの言葉ですので、少し注釈を加えます。
「自分の命」というのは、自分が所有していると思っている命のことを指しています。
かわって、「わたしの命」というのは、神があたえてくださっているはずの命のことを指しています。
このイエスの発言は、人が「命」に対してどのように認識しているか、という生き方の根底を問う事柄であるわけです。
なぜ「わたし」ということが「神」のことを指すのかについては、以下の聖句でご確認いただきたいと思います。
神ご自身が、モーセから名前を問われたときに、お答になった言葉です。
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■出エジプト 3:14 |
神は、「わたし」という事柄が存在することが、ご自身の名前であると言われました。
「わたし」という意識は、人も神と同様に持っていますから、この意味において人は神と似ているわけです。
すべての人が、「わたし」という意識の元に考え、行動しています。
だから、誰もが「神の御名」によって生きている、ということなのです。
では、「神の御名」を汚す、とはどういうことでしょうか。
「神の御名を汚す」とは、他者を低くみたり、虐げたり、迫害したりすることを指すのです。
なぜなら、誰でも「わたし」という意識を持つ人の子であるからです。
この「わたし」を踏みにじることは、神を踏みにじることに等しいことになります。
わたしたちは皆、自分以外の人を「他人」だと認識しています。
ところが、本当は、誰もが「わたし」なのです。
誰もが「わたし」として生きているのですから、「わたし」でない人などどこにもいないのです。
いったいどこに、「どうでもいい他人」という人が存在するのでしょうか。
否、実際にはどこにもそのような人は存在しません。
わたしの隣にも、「わたし」という意識で生きている人がいるということ。
これが、人が持つべき本当の世界観であり、認識なのです。
さて、エデンの園の中央にある「命の木」に至る道には「回る炎のつるぎ」があって、
これに焼かれ切られしなければ「命の木」にたどりつけないことはご説明したとおりです。
旧約聖書において、神への献げ物は、常に焼かれたり切られたりして献げられています。
これは、神に対する尊い犠牲の証であって、この犠牲の生贄は、わたしたちが神に対して行うべきことのかたどりです。
自分の体を、この「回る炎のつるぎ」によって、焼き、切り、神への清い献げ物として差し出すことのかたどりです。
これは、神から自分に貸与されている肉体を、自分の好みや自分の思いによって好き勝手に使用するのではなく、
神に献げられた清いものとして、自分の意思によって、自ら進んで、自分の所有権を放棄することを意味します。
わたしたちは、「命」を、いずれ死んでしまうものだと思いこんでいます。
しかし、「命」というのは生きていることを指すのであって、「命」が死ぬことはないのです。
「命」というのは、神の別名と言ってもよいかもしれません。
わざわざ「永遠の命」と言わなくとも、「命」とは「生きている」ということを指すのです。
では、なぜ私たちの生活している世の中には、生と死とが共存しているのでしょう。
この世界において、すべての事柄は「生」と「死」とのせめぎ合いにより成り立っています。体の新陳代謝というものも、これと同じことです。
仏教的に言うならば、これらのことは「無常」ということになります。
この世界において、「命」だけではなく「死」というものも存在しているのは明らかです。
ところが驚くべきことに、聖書には「死を滅ぼす」という、神の壮大なご計画があらかじめ記されているのです。
これは、現在の世界がずっと続くと、何となく考えている人間にとっては驚くべきことではないでしょうか。
聖書には、「死を滅ぼす」という事柄が、恥ずかしげもなくあからさまに、当然のように書かれているのです。
さて、この世界に「命」と「死」との両方が関与していることが、以下のように聖書の冒頭に書かれています。
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■創世記 1:1〜2 |
闇というのは「悪魔」とか「死」とか呼ばれるもののことですが、
神が天地を創造された時点で、既に闇は「深い淵の顔」として存在しています。
神が天地を創造する以前から、この闇が存在していたことをユダヤ文献では認めているようです。
ですから、神が創造した天地というのは、「闇」とか「死」とか呼ばれるものの存在を認めたうえで作成されたことになります。
神の遠大なご計画として、最終的に「死を滅ぼす」ということがあるわけです。
天地創造というのは、そのための舞台作りのようなものです。
したがって、この世界には「光と闇」「命と死」のような相反する事柄が混沌として存在しています。
すべての物は、「命」と「死」との両者から関与を受けて存在しています。
否、はっきりと「存在している」と言える状態ではない状態で存在しているのです。
物質には、瞬間瞬間に、「命」と「死」とが交互に関与していますから、
物質は「在る」とも言えるし、「無い」とも言えるわけです。
もし物質が、本当の「存在」であったなら、風化ということもないし、減ることもなければ増えることもないのです。
この世界のすべての物が「命」と「死」、いいかえれば「存在」と「無」により成り立っています。
コンピュータの仮想現実の世界は、1(存在)と0(無)との数限りない組み合わせによって、あらゆる物を表現します。
これは、実際の世界の成り立ちに、とても近い表現方法だと言えると思います。
物質、つまり今、わたしたちの目の前に見えている物はすべて、常に風化し、常に変化しているのです。
その変化が微量でスピードが速いために、わたしたちにはそのことが感じられずに、物が固定的に存在しているように思えるのですが、
物は瞬間瞬間に存在したり、消えたりしている、というのが本当のことなのです。
これは蛍光灯の光に例えると分かり易いかもしれません。
蛍光灯の光は速いサイクルで、点いたり消えたりを繰り返しており、それが人の目には、ずっと点灯しているように見えるのです。
次に、時間というものについて考えてみることにしましょう。
時間とは、一体、何でしょう。
時間というのは、「生」と「死」とが共存しなければならない、この世界において生み出されるものです。
現われては消え、現われては消え、ということが繰り返されることが、「時間」というものを作り出しているのです。
では、「永遠」とはどのようなことでしょうか。
「永遠」というのは、「存在」が「存在」そのもの、「死」が「死」そのものに成った状態を言うのです。
つまり、現在の世界のように、「命」と「死」の両者が関与するような異常事態が終焉し、
「命」と「死」とが完全に切り離される、ということです。
このことが起こるやいなや、「永遠」が訪れます。
「永遠の命」と、「永遠の死」とに、切り離されたなら、
もはやそこに時間は存在しません。
「永遠」とは、終わりなき時間の流れのことではなく、そもそも時間というものが消滅した状態のことなのです。
現在の物質とは、「存在」と「無」とが交互に干渉している状態のものだということはご説明いたしました。
では、「存在」と「無」とが完全に分離して、「永遠」というものが現れたときには、現在の物質はどうなってしまうでしょう。
そのときには、物質の構造自体が根底から変革されてしまっているはずです。
少なくとも、分子構造において変革されているはずです。
人の体も変化しているでしょうし、もちろんすべての万物が変化してしまうのです。
このことについて証している聖書の記述は沢山あるのですが、そのうちのいくつかを以下に記しておきます。
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■マタイ福音書 24:35 |
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■ペテロ第一の手紙 4:7 |
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■ローマ人への手紙 8:21〜23 |
わたしたちは、体という物質に魂が閉じ込められているような存在です。
たとえば、東京に住んでいる人が、今すぐ大阪の御堂筋を歩きたい、と思っても、それは不可能ですね。
心は、すでに御堂筋に飛んでいても、体はついていくことが出来ません。
あまりわかりやすい例えではないかもしれませんが、このように人の体は物質的な制約の下にいるわけです。
では、イエスの復活後の体は、どのようなものだったでしょうか。
次の聖句は、復活直後のイエスに、誰よりも先に遭遇したマグダラのマリアの状況が書かれた箇所です。
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■ヨハネ福音書 20:11〜18 |
この部分を読むと、復活後のイエスを見ていながら、マグダラのマリアは、最初はイエスを園丁だと思ったのです。ここに注目してください。
なぜ、マリアはイエスに会っていながら気がつかない、というようなことが起こったのか。
イエスの容姿は、復活後には別人のようであった、ということなのです。
しかし、マグダラのマリアは、イエスの話し方で、その人がイエスであることをすぐに悟った様子が記されています。
また別の箇所では、エルサレムからエマオという村へ向かって歩いていた二人の弟子にイエスが現れ、聖書全体について、御自分について書かれていることを説明されたのですが、二人の弟子は、後に宿で一緒に食事をするときまで、この人がイエスだと気づかなかったのです。その様子は、聖書のルカ福音書に記されています。
つまり、この時のイエスも生前のような風貌ではなかったことがわかります。
そして、イエスはこの食事のとき、突然、二人の弟子の前から姿を消しました。
また、別の場面では、部屋の中で話し合っていた弟子たちの真ん中に、いきなり現れたことが記されています。
このようなことから、復活後のイエスの肉体について、以下のような結論が導き出せるのです。
1.復活後のイエスの肉体は、生前の肉体とは変化してしまっていた。
2.復活後には、風貌や容姿が生前とは異なる姿で現れることが可能であった。
3.復活後には、離れた場所へ即座に移動したり、壁を通り抜けることが出来た。
このような肉体に変化することを復活というのです。
聖書を読んだことがない方は、「復活」という事柄をよく知らないために、「一度仮死状態になった人が、生き返ること」だと思っているのではないかと推測しますが、聖書に書かれたイエスの復活は、そういうこととは異なるものです。
イエスは、一度完全に死んだのです。時間が経って三日目に復活したのですから、仮死状態だったわけでもないのです。
イエスは死んだ後には、墓に葬られていました。
さて、聖書に書かれている「復活後の肉体」については、どのようなものであるのか理解していただけたものと思います。
ところで、わたしたちは復活するのでしょうか?
聖書には、どのように書かれているでしょうか?
復活は、誰もがすることになっているようです。
以下の聖書の記述をご覧ください。
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■ヨハネ福音書 5:28〜29 |
現在の天地、すなわち神が創造された、この現在の天地は消え去り、新しい天地が作られます。
このことは、聖書の黙示録に詳しく記載されています。
黙示録は、最終戦争などの悲惨な情景が描かれているため、そちらの方ばかりに人々の興味が集まってしまう傾向がある書物ですが、
新しい天地が現れた後の素晴しい世界についても書かれている書物なのです。
この新しい天地が現れる美しい情景を描いた黙示録の箇所を以下に記載して、
今回の「永遠の命と復活について」の最後としたいと思います。
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■黙示録 21:1〜8 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、 |
『永遠の命と復活について』 この文章を書いた人:ダニエル |
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